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第2部 序章・奈央
第6回
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6
放課後。奈央はいつものように一人、帰宅の途に就いていた。空は再びどんよりと重く町の上にのしかかり、今にも雨が降り出しそうな様相を呈している。このまま昨日のようにまた雨には打たれたくはない。なるべく雨が降り始める前に家に帰りつかなければ。そう思うと自然ペダルを漕ぐ足が速まった。歩行者の間を縫うように駆け抜け、点滅する信号の横断歩道を全力疾走する。駅前を通過し、やがて奈央は件の峠道に差し掛かった。
ふと脳裏をよぎる喪服の少女の姿、そして、石上の語った彼女の話。
両親を亡くし、一人廃屋に暮らすという女の子。
昨日の雨の中で見た少女の微笑みがよみがえり、どうしてあの時、あの子は私に微笑んだのだろうと思いを巡らせた。あの微笑みは何だったのか、どういう意味がそこにはあったのか。或いは実は微笑んでいるように見えただけで、ただの私の勘違いだっただけなんじゃ……
そんな取り留めもないことを考えていた、その時だった。
不意にすぐ脇に立つアパートの一室から一人の男が出てきたかと思うと、左右も確認することなく奈央の自転車の前に足を踏み出してきたのである。
「――きゃぁっ!」
奈央は叫び、慌ててブレーキをかけた。
相手の男も驚いたのだろう、目を真丸くして奈央の方に顔を向け立ち止まる。
このままでは確実に接触してしまう。そう思った奈央は、反射的にハンドルを左に切っていた。その途端、自転車は一気にバランスを崩し、ガシャンっと大きな音を立てて転倒、奈央は受け身をとる間もなく歩道の上に投げ出された。車道に体がはみ出さなかったのは奇跡的だったというべきだろう。倒れ伏した奈央の髪が走り抜けていった大型トラックの風に煽られ、ぶわっと激しく宙を舞った。
「――大丈夫?」
その男――二十代前半くらいだろうか――は奈央に声をかけながら右手を差し出してきた。髪は染めているのだろう明るいブラウン。身体は細身だが、半袖のシャツから覗く二の腕はその割にはとても太く逞しく見えた。心配そうな表情、ではなく、微笑みを湛えたその顔に若干の違和感を覚えるのは何故だろうか。
「だ、大丈夫です……」
奈央はそんな男の手を掴むことなく、よろよろと自力で立ち上がると倒れた自転車を起こした。ずきずき痛む脚に目を向ければ、擦りむいた膝頭が赤く染まっている。
「あぁ、擦りむいちゃってるね。ごめんね、ちゃんと確認せずに飛び出しちゃったから――」
取ってつけたような(少なくとも奈央にはそう見えた)申し訳なさげな表情を浮かべて男は言った。均整の取れた顔立ち。眉は細く整えられており、僅かながら香水のような匂いがする。
男は「あぁ、そうだ」と笑顔を浮かべると、
「うちにおいでよ、手当てしてあげる。消毒と絆創膏くらいならあるからさ」
言って背後のアパートを指し示し、奈央の腕を取ろうと手を伸ばしてきた。
奈央はそんな男を警戒し、咄嗟に腕を引っ込めてそれを躱すと首を横に振る。
「だ、大丈夫です。これくらい、平気ですから」
そう言って再び自転車に跨った奈央に、男はなおも追い縋るように口を開いた。
「本当に? でも、このままじゃぁ、俺の気持ちが収まらない」
その瞬間、奈央の背にぞわりと悪寒が走った。ニヤリと怪しげな笑みを浮かべる男の腕が動くのを感じ取り、奈央は痛む膝頭の事も忘れ、寸でのところでペダルを漕いで一気に峠を駆け上る。
後ろに、何とも言えない、重たい視線を感じながら。
全力で峠を駆け上り、やがて頂上付近の廃屋の前を通り過ぎたところで奈央はようやく自転車を止めた。激しく上下する胸を抑えながら、ぜぇぜぇひゅうひゅう鳴る息を整える。後ろを振り向き、先ほどの男が追いかけて来てはいないことを確認してから、大きな安堵の溜息を吐いた。
逃げるようにしてここまで一気に駆け上がってきたけれど、本当に良かったんだろうか。確証もないまま人を疑ってしまったことに僅かばかり後ろめたさを感じながら、しかしあの後ろ暗い影を背負う笑みを思い浮かべるだけで戦慄が走った。用心するに越したことはない、奈央はそう自分に言い聞かせる。
やがて呼吸が落ち着いたところで、身体が膝頭の痛みを思い出した。ズキズキする傷口には茶色い土埃。せめて汚れだけでも拭いておこうとポケットに手を入れたところで、
「――あれ?」
奈央はハンカチがないことに気が付いた。そんなはずはない。朝、家を出るときに確かに入れたし、何より学校を出る前に入ったトイレで使ったのだから、少なくともその時点まではあったはずだ。なら、いったいどこで落としてしまったのだろうか。
奈央は焦りを覚えた。何故ならばそのハンカチは、奈央が高校に入学した際に父親からプレゼントされた祝いの品だったからだ。隅に薄紅色の朝顔の花が一輪刺繍された、真っ白なハンカチ。どことなく年寄り臭さを感じさせたが、父親が迷いに迷って普段使いできるようにと選んだであろう、今となっては唯一父親との繋がりと思っていたあのハンカチを落としてしまったことに、奈央の顔は青ざめた。
まさか、あの時? 自転車が倒れてこけた時に落とした? 解らない。そう簡単に落ちるとは思えないけれど、その可能性が全く無いわけじゃない。もし学校で落としたのであれば、もしかしたら職員室に誰かが届けてくれているかもしれない。そうであってくれたなら、どれだけいいだろう。でも、もしそうじゃなかったら? さっきこけた時にポケットから落ちたのだとしたら? そのうえで、あの男に拾われていたりでもしたら――
どうしよう、引き返そうか。引き返して、さっきの場所に落ちていないか確かめようか。
けど――怖い。
もしあの怪しげな男が拾っていたりしたら。そしてそれを返してほしいと頼んだ時に、何かを要求されでもしたら。いや、それは疑い過ぎというものだろう。きっと「よかった、どうやってこれを返そうか悩んでいたんだ」と笑顔で返してくれるはずだ。
――本当に?
どうしてそんなことが言いきれる? あの怪しげな笑いを見たでしょう? 本当にあの人が善人だって言える? もし家の中に無理やり引きずり込まれて、犯されたりでもしたら? そんな目に合わないっていう保証でもあるの? もしそうなってしまったら、私には到底太刀打ちできない。だって、あの腕を見たでしょう? 体は細身だったけれど、あの腕の太さはそれなりに鍛えられたもののはずだ。あの腕で羽交い絞めにでもされたら、私には何もできない。あの手で口を押えられたら、首を絞められたら、私なんて叫び声を上げることすらできないだろう。そしてそのまま押し倒されて、身包みを剥がされて――その先は、ただ想像するだけでもとても恐ろしかった。
奈央は頭を振ると、深い溜息を一つ吐いた。
明日の朝、職員室に行ってみよう。もしそれであのハンカチが見つからなければ、諦めよう。わざわざ危険を冒してでも取り戻したいほどのものでもないし、そんなことで父親との繋がりが絶たれるわけじゃない。
でも、と奈央は名残惜しそうにもう一度来た道を振り向き再び深い溜息を一つ吐くと、ペダルを強く踏み込んだ。
放課後。奈央はいつものように一人、帰宅の途に就いていた。空は再びどんよりと重く町の上にのしかかり、今にも雨が降り出しそうな様相を呈している。このまま昨日のようにまた雨には打たれたくはない。なるべく雨が降り始める前に家に帰りつかなければ。そう思うと自然ペダルを漕ぐ足が速まった。歩行者の間を縫うように駆け抜け、点滅する信号の横断歩道を全力疾走する。駅前を通過し、やがて奈央は件の峠道に差し掛かった。
ふと脳裏をよぎる喪服の少女の姿、そして、石上の語った彼女の話。
両親を亡くし、一人廃屋に暮らすという女の子。
昨日の雨の中で見た少女の微笑みがよみがえり、どうしてあの時、あの子は私に微笑んだのだろうと思いを巡らせた。あの微笑みは何だったのか、どういう意味がそこにはあったのか。或いは実は微笑んでいるように見えただけで、ただの私の勘違いだっただけなんじゃ……
そんな取り留めもないことを考えていた、その時だった。
不意にすぐ脇に立つアパートの一室から一人の男が出てきたかと思うと、左右も確認することなく奈央の自転車の前に足を踏み出してきたのである。
「――きゃぁっ!」
奈央は叫び、慌ててブレーキをかけた。
相手の男も驚いたのだろう、目を真丸くして奈央の方に顔を向け立ち止まる。
このままでは確実に接触してしまう。そう思った奈央は、反射的にハンドルを左に切っていた。その途端、自転車は一気にバランスを崩し、ガシャンっと大きな音を立てて転倒、奈央は受け身をとる間もなく歩道の上に投げ出された。車道に体がはみ出さなかったのは奇跡的だったというべきだろう。倒れ伏した奈央の髪が走り抜けていった大型トラックの風に煽られ、ぶわっと激しく宙を舞った。
「――大丈夫?」
その男――二十代前半くらいだろうか――は奈央に声をかけながら右手を差し出してきた。髪は染めているのだろう明るいブラウン。身体は細身だが、半袖のシャツから覗く二の腕はその割にはとても太く逞しく見えた。心配そうな表情、ではなく、微笑みを湛えたその顔に若干の違和感を覚えるのは何故だろうか。
「だ、大丈夫です……」
奈央はそんな男の手を掴むことなく、よろよろと自力で立ち上がると倒れた自転車を起こした。ずきずき痛む脚に目を向ければ、擦りむいた膝頭が赤く染まっている。
「あぁ、擦りむいちゃってるね。ごめんね、ちゃんと確認せずに飛び出しちゃったから――」
取ってつけたような(少なくとも奈央にはそう見えた)申し訳なさげな表情を浮かべて男は言った。均整の取れた顔立ち。眉は細く整えられており、僅かながら香水のような匂いがする。
男は「あぁ、そうだ」と笑顔を浮かべると、
「うちにおいでよ、手当てしてあげる。消毒と絆創膏くらいならあるからさ」
言って背後のアパートを指し示し、奈央の腕を取ろうと手を伸ばしてきた。
奈央はそんな男を警戒し、咄嗟に腕を引っ込めてそれを躱すと首を横に振る。
「だ、大丈夫です。これくらい、平気ですから」
そう言って再び自転車に跨った奈央に、男はなおも追い縋るように口を開いた。
「本当に? でも、このままじゃぁ、俺の気持ちが収まらない」
その瞬間、奈央の背にぞわりと悪寒が走った。ニヤリと怪しげな笑みを浮かべる男の腕が動くのを感じ取り、奈央は痛む膝頭の事も忘れ、寸でのところでペダルを漕いで一気に峠を駆け上る。
後ろに、何とも言えない、重たい視線を感じながら。
全力で峠を駆け上り、やがて頂上付近の廃屋の前を通り過ぎたところで奈央はようやく自転車を止めた。激しく上下する胸を抑えながら、ぜぇぜぇひゅうひゅう鳴る息を整える。後ろを振り向き、先ほどの男が追いかけて来てはいないことを確認してから、大きな安堵の溜息を吐いた。
逃げるようにしてここまで一気に駆け上がってきたけれど、本当に良かったんだろうか。確証もないまま人を疑ってしまったことに僅かばかり後ろめたさを感じながら、しかしあの後ろ暗い影を背負う笑みを思い浮かべるだけで戦慄が走った。用心するに越したことはない、奈央はそう自分に言い聞かせる。
やがて呼吸が落ち着いたところで、身体が膝頭の痛みを思い出した。ズキズキする傷口には茶色い土埃。せめて汚れだけでも拭いておこうとポケットに手を入れたところで、
「――あれ?」
奈央はハンカチがないことに気が付いた。そんなはずはない。朝、家を出るときに確かに入れたし、何より学校を出る前に入ったトイレで使ったのだから、少なくともその時点まではあったはずだ。なら、いったいどこで落としてしまったのだろうか。
奈央は焦りを覚えた。何故ならばそのハンカチは、奈央が高校に入学した際に父親からプレゼントされた祝いの品だったからだ。隅に薄紅色の朝顔の花が一輪刺繍された、真っ白なハンカチ。どことなく年寄り臭さを感じさせたが、父親が迷いに迷って普段使いできるようにと選んだであろう、今となっては唯一父親との繋がりと思っていたあのハンカチを落としてしまったことに、奈央の顔は青ざめた。
まさか、あの時? 自転車が倒れてこけた時に落とした? 解らない。そう簡単に落ちるとは思えないけれど、その可能性が全く無いわけじゃない。もし学校で落としたのであれば、もしかしたら職員室に誰かが届けてくれているかもしれない。そうであってくれたなら、どれだけいいだろう。でも、もしそうじゃなかったら? さっきこけた時にポケットから落ちたのだとしたら? そのうえで、あの男に拾われていたりでもしたら――
どうしよう、引き返そうか。引き返して、さっきの場所に落ちていないか確かめようか。
けど――怖い。
もしあの怪しげな男が拾っていたりしたら。そしてそれを返してほしいと頼んだ時に、何かを要求されでもしたら。いや、それは疑い過ぎというものだろう。きっと「よかった、どうやってこれを返そうか悩んでいたんだ」と笑顔で返してくれるはずだ。
――本当に?
どうしてそんなことが言いきれる? あの怪しげな笑いを見たでしょう? 本当にあの人が善人だって言える? もし家の中に無理やり引きずり込まれて、犯されたりでもしたら? そんな目に合わないっていう保証でもあるの? もしそうなってしまったら、私には到底太刀打ちできない。だって、あの腕を見たでしょう? 体は細身だったけれど、あの腕の太さはそれなりに鍛えられたもののはずだ。あの腕で羽交い絞めにでもされたら、私には何もできない。あの手で口を押えられたら、首を絞められたら、私なんて叫び声を上げることすらできないだろう。そしてそのまま押し倒されて、身包みを剥がされて――その先は、ただ想像するだけでもとても恐ろしかった。
奈央は頭を振ると、深い溜息を一つ吐いた。
明日の朝、職員室に行ってみよう。もしそれであのハンカチが見つからなければ、諦めよう。わざわざ危険を冒してでも取り戻したいほどのものでもないし、そんなことで父親との繋がりが絶たれるわけじゃない。
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