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第2部 序章・奈央
第21回
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***
静かな夜だった。しんと静まり返った住宅街からは、どんな些細な音すらも聞こえてはこなかった。まるで夜の闇にすべての音が吸い込まれてしまったかのような、そんなイメージだ。湿度は高く、じめじめとした空気が部屋の中まで充満しているような気がして、奈央は何度も寝返りを繰り返した。
梅雨に入ってから、ずっとこんな夜が続いている。何とも寝辛い夜だ。エアコンを除湿にしてつけても良かったのだけれど、居候の身である為、あまり家計に負担を掛けたくないという思いがどこかにあった(そもそも父親と暮らしていた時から奈央は家計を気にしがちだった)。
今も薄い半袖Tシャツにショートパンツといったいで立ちで、蒸し暑さに耐えていた。まだ夏前だというのに今日の気温はやけに高く、加えて湿った空気が重く奈央の体にのしかかってなかなか寝付けなかった。
そうこうしているうちに次第に喉の渇きを覚えた奈央は、ゆっくりとベッドから起き上がった。何となく気持ち的にも重たいまま、自室のドアを開ける。その途端、階下から小さな音が聞こえてきた。これはたぶん、テレビの音だ。誰かが――恐らく響紀が――仕事から帰ってテレビを観ているのだろう。それはいつもの事だった。
一階に降り、台所へ向かうと開け放たれた襖の向こう側に寝転がってテレビをぼんやり眺めている響紀の姿があった。特に観たいテレビ番組があるわけでもないのだろう、音を小さくして、ただザッピングしているばかりだった。
「――おかえり」
奈央は一声かけたけれど、その声は変に掠れて音になっていなかった。どうやら響紀にも聞こえていなかったのだろう、返答はない。もう一度声をかけてみようと思ったけれど、喉の渇きを癒す方を優先させることにした。声が掠れてしまったのも、喉が渇いている所為に違いない。
奈央は食器棚から自分のコップを取り出すとそれに麦茶を注ぎ、ごくごくと喉を鳴らして仰ぎ飲む。その時だった。
「――なあ、奈央。ちょっと聞きたい事があるんだけど」
突然響紀の方から声を掛けられ、奈央は一瞬驚き咽そうになった。振り向けば胡坐を掻いた響紀がこちらを見ている。奈央は咽た喉に思わず眉間に皺を寄せつつ、「……なに?」と返事する。意図せず不機嫌な声が出てしまったが、それは仕方がない。
「峠の途中に廃墟みたいな家があるの、知ってるか?」
「……知ってるけど」
「そこに、髪の長い色白の女が住んでることは?」
「……それがどうかしたの?」
それなら奈央も知っている。そればかりか、今でもたまに登下校時に峠ですれ違うこともあるぐらいだ。一年前、隣のクラスに居た石上麻衣からも聞いた、あの喪服の女の子の事だろう。
「……確か、幼くして両親を亡くした女の子が一人で住んでるんでしょ? 私もたまに峠ですれ違うから知ってる。いつも喪服着てる女の子。凄いよね、私と同い年なのに」
そう口にした途端、響紀の表情が変わった。ぽかんと口を開け、埴輪みたいな顔で奈央をまじまじと見つめてくる。
――なに? 私、何か変なこと言った? なんでそんな顔されなきゃならないわけ?
そんなことを思っていると、
「……いやいや、違うだろ。何言ってんだ」と響紀は首を横に振った。「あそこに住んでんのは喪服の大人の女だ。子供じゃない」
子供じゃない? 奈央は訝しむように、
「そっちこそ何言ってんの? 私と同い年の子でしょ? 子供なんかじゃない」
「はぁ?」
「なに?」
微妙に話が噛み合っていない違和感に、奈央は眉間に皺を寄せた。響紀が何を言おうとしているのか図り兼ね、思わず響紀の顔をまじまじと見つめる。
確かに、響紀からすれば奈央など子供かも知れない。社会人と学生の間には歴然とした違いがある。けれど、逆に奈央からしてみれば十七歳はもう子供と呼べる歳でもなかった。肉体的には大人と変わりないと思っているし、実際同い年で既に独り暮らしや働いている子も多くいるのだ。そんな歳の子を指して『子供』はないだろう。少なくとも、奈央は自分の事を響紀の言う『子供』とは思っていなかった。
しかし、今話題にしているのはそんな話ではない。あの喪服の女の子が私と同い年か、それとも響紀が言うように『大人』の女性か否かだ。
いずれにしても下らない話題だ、と奈央は思った。正直なところ、そんなのはどっちでも構わない。こんなことで変に言い争いたくもなかった。ただでさえ会話も少なく、どうかすれば険悪なムードすら流れがちな二人の関係において、こんな話題は避けるべきだろうと奈央は思った。二人で話をするのであれば、せめて喧嘩の要因にならなさそうな話題が良かった。
奈央は深い溜息を一つ吐くと、
「……なら、きっとその女の人は結婚してて、私が見たのはその娘か何かじゃない?」
何の根拠もない思い付きを口にする。
「そう……なのか?」
と首を傾げる響紀に、奈央は「そうそう」と頷くと、
「じゃないと、話が合わないでしょ? じゃあ、私はもう寝るから。おやすみ」
これ以上話を続けたくなくて、奈央は逃げるように台所を後にした。
「あ、ああ……おやすみ」
そんな奈央の背中に納得いかなそうに返事する響紀を置いて、奈央は駆け足で階段を上がり、自室へと戻る。
とはいえ、響紀の話が全く気にならなかったわけではなかった。響紀と奈央の喪服の女の子に対する年齢的認識の違いというものはあるだろうけれど、そもそもいったい何のつもりで、どうしてあの女の子の話を急に響紀が振ってきたのか、それが気になって仕方がなかった。
それと同時に思い出す、石上麻衣の姿――
彼女は今、どこで何をしているのだろう。あれ以来一度も会っていない。進級したとき、どこのクラスになったのかもわからないままだった。何度か姿を探してみたけれど、ついぞ見かけたことはない。
まぁいい、と奈央はベッドに横たわり、瞼を閉じる。右腕で眼を覆い、小さく溜息を一つ吐いた。
あとは、また、明日考えよう――
そうしていつしか、静かな寝息を立てるのだった。
静かな夜だった。しんと静まり返った住宅街からは、どんな些細な音すらも聞こえてはこなかった。まるで夜の闇にすべての音が吸い込まれてしまったかのような、そんなイメージだ。湿度は高く、じめじめとした空気が部屋の中まで充満しているような気がして、奈央は何度も寝返りを繰り返した。
梅雨に入ってから、ずっとこんな夜が続いている。何とも寝辛い夜だ。エアコンを除湿にしてつけても良かったのだけれど、居候の身である為、あまり家計に負担を掛けたくないという思いがどこかにあった(そもそも父親と暮らしていた時から奈央は家計を気にしがちだった)。
今も薄い半袖Tシャツにショートパンツといったいで立ちで、蒸し暑さに耐えていた。まだ夏前だというのに今日の気温はやけに高く、加えて湿った空気が重く奈央の体にのしかかってなかなか寝付けなかった。
そうこうしているうちに次第に喉の渇きを覚えた奈央は、ゆっくりとベッドから起き上がった。何となく気持ち的にも重たいまま、自室のドアを開ける。その途端、階下から小さな音が聞こえてきた。これはたぶん、テレビの音だ。誰かが――恐らく響紀が――仕事から帰ってテレビを観ているのだろう。それはいつもの事だった。
一階に降り、台所へ向かうと開け放たれた襖の向こう側に寝転がってテレビをぼんやり眺めている響紀の姿があった。特に観たいテレビ番組があるわけでもないのだろう、音を小さくして、ただザッピングしているばかりだった。
「――おかえり」
奈央は一声かけたけれど、その声は変に掠れて音になっていなかった。どうやら響紀にも聞こえていなかったのだろう、返答はない。もう一度声をかけてみようと思ったけれど、喉の渇きを癒す方を優先させることにした。声が掠れてしまったのも、喉が渇いている所為に違いない。
奈央は食器棚から自分のコップを取り出すとそれに麦茶を注ぎ、ごくごくと喉を鳴らして仰ぎ飲む。その時だった。
「――なあ、奈央。ちょっと聞きたい事があるんだけど」
突然響紀の方から声を掛けられ、奈央は一瞬驚き咽そうになった。振り向けば胡坐を掻いた響紀がこちらを見ている。奈央は咽た喉に思わず眉間に皺を寄せつつ、「……なに?」と返事する。意図せず不機嫌な声が出てしまったが、それは仕方がない。
「峠の途中に廃墟みたいな家があるの、知ってるか?」
「……知ってるけど」
「そこに、髪の長い色白の女が住んでることは?」
「……それがどうかしたの?」
それなら奈央も知っている。そればかりか、今でもたまに登下校時に峠ですれ違うこともあるぐらいだ。一年前、隣のクラスに居た石上麻衣からも聞いた、あの喪服の女の子の事だろう。
「……確か、幼くして両親を亡くした女の子が一人で住んでるんでしょ? 私もたまに峠ですれ違うから知ってる。いつも喪服着てる女の子。凄いよね、私と同い年なのに」
そう口にした途端、響紀の表情が変わった。ぽかんと口を開け、埴輪みたいな顔で奈央をまじまじと見つめてくる。
――なに? 私、何か変なこと言った? なんでそんな顔されなきゃならないわけ?
そんなことを思っていると、
「……いやいや、違うだろ。何言ってんだ」と響紀は首を横に振った。「あそこに住んでんのは喪服の大人の女だ。子供じゃない」
子供じゃない? 奈央は訝しむように、
「そっちこそ何言ってんの? 私と同い年の子でしょ? 子供なんかじゃない」
「はぁ?」
「なに?」
微妙に話が噛み合っていない違和感に、奈央は眉間に皺を寄せた。響紀が何を言おうとしているのか図り兼ね、思わず響紀の顔をまじまじと見つめる。
確かに、響紀からすれば奈央など子供かも知れない。社会人と学生の間には歴然とした違いがある。けれど、逆に奈央からしてみれば十七歳はもう子供と呼べる歳でもなかった。肉体的には大人と変わりないと思っているし、実際同い年で既に独り暮らしや働いている子も多くいるのだ。そんな歳の子を指して『子供』はないだろう。少なくとも、奈央は自分の事を響紀の言う『子供』とは思っていなかった。
しかし、今話題にしているのはそんな話ではない。あの喪服の女の子が私と同い年か、それとも響紀が言うように『大人』の女性か否かだ。
いずれにしても下らない話題だ、と奈央は思った。正直なところ、そんなのはどっちでも構わない。こんなことで変に言い争いたくもなかった。ただでさえ会話も少なく、どうかすれば険悪なムードすら流れがちな二人の関係において、こんな話題は避けるべきだろうと奈央は思った。二人で話をするのであれば、せめて喧嘩の要因にならなさそうな話題が良かった。
奈央は深い溜息を一つ吐くと、
「……なら、きっとその女の人は結婚してて、私が見たのはその娘か何かじゃない?」
何の根拠もない思い付きを口にする。
「そう……なのか?」
と首を傾げる響紀に、奈央は「そうそう」と頷くと、
「じゃないと、話が合わないでしょ? じゃあ、私はもう寝るから。おやすみ」
これ以上話を続けたくなくて、奈央は逃げるように台所を後にした。
「あ、ああ……おやすみ」
そんな奈央の背中に納得いかなそうに返事する響紀を置いて、奈央は駆け足で階段を上がり、自室へと戻る。
とはいえ、響紀の話が全く気にならなかったわけではなかった。響紀と奈央の喪服の女の子に対する年齢的認識の違いというものはあるだろうけれど、そもそもいったい何のつもりで、どうしてあの女の子の話を急に響紀が振ってきたのか、それが気になって仕方がなかった。
それと同時に思い出す、石上麻衣の姿――
彼女は今、どこで何をしているのだろう。あれ以来一度も会っていない。進級したとき、どこのクラスになったのかもわからないままだった。何度か姿を探してみたけれど、ついぞ見かけたことはない。
まぁいい、と奈央はベッドに横たわり、瞼を閉じる。右腕で眼を覆い、小さく溜息を一つ吐いた。
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