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第2部 序章・奈央
第22回
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***
翌日、奈央はいつものように自転車で登校し、駐輪場で一緒になった木村と僅かばかりの会話をした後、自身の教室に入るとこれもまたいつものように机に突っ伏した。これを一年間も続けていれば立派な生活サイクルの一工程だと言えるのかもしれないが、要は相も変わらずクラスに親しい友人が一人も居ないままであるということでしかなかった。
しかしそれも当たり前のことだ、と奈央は半分諦めていた。そもそも自分から誰かに話しかけるなんてこともしなければ、クラスメイトに話しかけられてもおざなりな返答をするばかりで、まともに会話をしようとしてこなかったのだから自業自得というものだろう。必要最小限の会話しかしない時点で友達作りなんてする気がないのと同じだ。寂しくないと言えば嘘になるが、それも最早今更な気がしてならなかった。
そんな奈央を見て人によっては「クールだ」「かっこいい」なんてぼそぼそ会話し合っているのを見かけることもあったけれど、奈央本人からすれば単に人と関わるのが苦手というだけでしかなく、あまり嬉しいようなことではなかった。
この一年、何の進歩もなかったなぁ、と改めて思っていると、前の席に人が座る気配がして、奈央はちらりと視線をやった。宮野首玲奈――確かそんな名前だったはずだ。彼女には中学の頃からの親しい友人が居て、その名前は矢野桜――彼女もまた奈央と同じクラスだった。
二人は登校してくるなり何やら他愛もない世間話をし始めた。前の席ということもあって二人の会話はよく耳に入ってくる。それは都市伝説だったり怪談話だったり、近所のどこそこに何とかいう化け物が出たらしいとか、そんな話が多かった。怖い話が好きなんだなぁ、とぼんやり考えながら、奈央は顔を伏せたままいつも二人の話に耳を傾けていた。
怖い話と言えば昨年のあの不審者の一件だが、奈央はなるべくあの一件は思い出さないようにしていた。小父や小母、響紀もあの一件に関してはこの一年、一切口にしていない。まるで最初から何もなかったように生活している。そのお陰だろうか、あの一件の後こそ何度か夢に見てうなされたこともあったが、今や記憶の片隅といった感じだ。ふとした瞬間に思い出すことはあっても、日常生活には殆ど差し支えなかった。
そう言えば、あの時――睡眠不足と貧血に倒れた時にお世話になった女の人は、今頃どこで何をしているのだろうか。てっきり保健室の先生だと思っていたが、後日改めてお礼を言いに保健室に向かうと、そこに居たのは中年の小太りの女性だった。あの若い女性について訊ねると、たまたま学校を訪れていた卒業生だったらしいと教えてくれた。もう一度会いたかったけれど、結局奈央はその人の名前も連絡先も聞けなかった。聞く勇気がなかったというべきだろうか、先生から「また来たら教えてあげる」と言われたことに何故か安心してしまい、気付くと一年が経過していたのだ。
せめて名前くらいは聞いておけばよかった。こういうところでも能動的に動こうとしない自分が本当に嫌になる。結局全てに於いて「そのうち、そのうち」と思っているうちに時は流れてこのざまだ。
もう少し能動的に動ける人間だったら、或いは今頃この二人のように仲のいい友達ができていたんだろうか、と奈央は小さく溜息を吐いた。
その日の帰り道、奈央は橙色の光が辺りを美しく照らし出すなか自転車を漕いでいた。梅雨に入ってから久し振りに奇麗な夕日だ。鬱々とした天気が続くと、こういう時清々しい気分になる。
何となく鼻歌を歌いながら少しばかり遠回りして峠道に向かおうしたところで、
「あれ、この車……」
コインパーキングの前で見覚えのある社名の書かれたライトバンを見つけて、奈央はふと自転車を止めた。確か、響紀の勤めている会社の名前だ。もしかして響紀だろうか。思いながら道路を挟んだ向かい側の須山庭園と書かれた看板のかかった小さな会社に目を向けてみれば、
「――あっ」
まさにそこに、響紀が居た。あの鋭い目つきが、奈央をじっと睨むように見つめている。
どうしよう、目が合った。何か声を掛けるべきだろうか。でも、なんて声を掛ければいい? こういう時、どういう言葉を口にすればいいの?
しばらく逡巡して、奈央は響紀から視線を逸らすとペダルに力を込めた。何となく気まずくなって、思わず逃げるようにして峠道へ向かう。もしかしたら響紀が追いかけてくるかもと思い、横断歩道を渡ると中学生がよく使う裏道に逸れて峠を駆け上がった。
こういうところだぞ、私。どうしていつもいつも自分から動けないんだろう、声一つ掛けられないんだろう。
奈央は深い深い溜息を漏らすと、後々響紀に問われた時どう答えよう、とそんな自分に辟易してしまうのだった。
夜。あまりの寝苦しさに目を覚ました奈央は、むっくりと起き上がった。寝汗を掻いて気持ちが悪い。じめじめとした暑さに、奈央はさすがにこれ以上耐え切れそうになかった。深い溜息を一つ吐き、エアコンに目を向ける。少しだけ、少しだけつけて寝よう。ごめんなさい、小父さん、小母さん。そう思いながら奈央はエアコンを除湿で動かすと、のどの渇きを癒すために自室をあとにした。
廊下に出て階下に降りると、昨日と同じように響紀が居間で胡坐を組んでテレビを見ていた。奈央は台所からそんな響紀の様子を窺う。
……いや、違う。その顔はテレビになど向いていない。先ほどからずっと座卓の上を見つめている。いったい何をぼうっとしているんだろう。もしかして、居眠りでもしているんじゃないだろうか。
奈央は響紀の方に足を向けると、
「……まだ起きてるの?」
何気なく声をかけた。
一瞬響紀の肩がびくりと跳ね、慌てた様子でこちらに顔を向ける。その双眸が奈央の姿を捉え、
「……何だよ、いいだろ、別に」
眉間に皺を寄せながら、響紀はそう言った。
その顔はどこか疲れ切った様子で、目の焦点も微妙にあっていないように見える。明らかに様子がおかしい。本当に大丈夫なんだろうか。
奈央は居間に入ると響紀の前に立ち、
「――明日も仕事でしょ? 早く寝ないと寝坊するよ」
父親にもそうしたことがあるように、声をかけた。
けれど響紀はそんな奈央に対して気だるげに手を振り、
「いちいち煩い奴だな。お前こそさっさと寝ろよ。今何時だと思ってんだ。お子様は寝んねの時間だろうが」
その一言が気に入らなくて、奈央は思わず眉間に皺を寄せながら、
「……私はもう、子供じゃないわ」
じっと響紀を見つめる。
そんな奈央に、響紀は「いいや、子供だね。クソ餓鬼だ」と吐き捨てるように言って、鼻でせせら笑った。
「どんなに発育が良かろうが、餓鬼は餓鬼だ。早く寝ろ」
その言い方にカチンときた奈央は拳を握りしめた。
……まただ、と奈央は大きく溜息を吐いた。これじゃぁ、いつもと同じだ。また口喧嘩になりかけている。そんなつもりじゃないのに、響紀は素直じゃない。それを言えば自分も同じかもしれないけれど、こちらが心配して声をかけているのだから、少しは――
と、そこで奈央は座卓の上に置かれたハンカチに気が付き、思わず目を見張った。見覚えのあるデザインのハンカチだ。薄紅色の朝顔が一輪刺繍された、白いハンカチ。それは一年前に失くした、父親から貰ったハンカチと同じデザインだった。いや、事実同じ商品なのだろう。どうして響紀がこれを持っているのだろうか。
「……何だよ、言いたいことあんなら早く言え」
響紀に声を掛けられ、奈央ははっと我に返った。そのハンカチを指差しながら、
「そのハンカチ……」
と恐る恐る口にする。
「ハンカチ? これが何だよ」
「……私が持ってたハンカチと同じやつだったから、ちょっと気になっただけ」
「はぁ?」と響紀は鼻で笑った。「そりゃぁ残念だったな。これはな、例の喪服の女性から直接手渡されたハンカチだ。お前のなんかじゃない」
「……あの子に会ったの?」
奈央は驚き、目を見張った。響紀の顔をまじまじと見つめながら、もしかしてあの喪服の少女が拾っていたのだろうか、とその可能性を考える。響紀は否定しているけれど、その可能性が無いわけではない。彼女もまた例の不審者と同じあの峠道に住んでいるのだ。奈央が落としたハンカチを拾っていたとしても、何も不思議はない。或いは響紀の言う通り、本当に奈央のものではなく、たまたま同じデザインのハンカチを彼女が所有していただけなのかも……
少なくとも、奈央が持っているよりも彼女が持っている方が自然な気がした。果たして実際はどうなんだろう――そう思っていると、
「――しつっこいんだよ、お前は!」
突然、響紀が声を荒らげて叫び、奈央は驚きのあまり一歩あと退った。
目を白黒させる奈央に、響紀は続ける。
「いちいち突っかかってきやがって! そうかと思えば昼間みたいに俺と目が合った癖に無視しやがってよ! 生意気なんだよ、お前は! 餓鬼の癖に大人ぶってんじゃねぇよ! 子供は子供らしく大人の言うこと聞いて大人しくしてりゃいいんだよ!」
息を荒らげる響紀に、奈央は目を丸くした。どうしてこんなことで怒り狂っているのか理解できず、同時に下校時の一件を引き合いに出されて次第にこちらも怒りが込み上げてくるのを感じた。
確かにあの時、私は響紀に声を掛けなかった。そもそも響紀は仕事中だったし、私にはどう話しかければいいかわからなかった。けど、どうしてそんなことで生意気だなんだと言われなきゃならないわけ? 響紀だって私に話しかけてこようとしなかったじゃない。それってお互い様だったってことじゃないの? 違う? 私だって響紀の方から声を掛けてくれたらどんなに話しかけやすかったことか! 今みたいな人を睨みつけるような眼で見られたら、それこそ声を掛けようなんて思えるはずがないでしょ! 私だって声を掛けようとした。でも響紀のあの眼がそれをさせなかった。それなのに、全部私が悪いっていうわけ? そんなに言うなら響紀ももっと優しい目で私を見てよ! そうじゃないと、怖くて声もかけられないじゃない! どうしてそれが解らないわけ?
奈央は喉元まで込み上げてきたその言葉を、けれど寸でのところで引っ込めた。
――駄目だ。そんなことをしたら、本当に喧嘩になる。小母さんや小父さんに迷惑を掛けることになる。それだけは、絶対に嫌だった。
「……そう。悪かったわね」言って奈央は深い溜息を一つ吐くと、長い髪を靡かせながら響紀に背を向けた。「――仕事中みたいだったから敢えて声を掛けなかったんだけど、今度から挨拶くらいするわ。じゃあね、おやすみ」
そう言い残して、奈央は居間を出ると結局お茶を飲むことなく階段を駆け上がり、自室に戻った。バンッと強く自室の扉を閉め、ベッドに飛び込むようにして寝転がる。
腹立たしくて仕方がなかった。込み上げてきた怒りを枕に向けて、何度も何度も拳で殴りつけた。目に涙が浮かんできたが、しかしその涙を流すことは結局なかった。泣いたら負けだ、と何故かそう思った。
しばらく枕を殴り続けて、奈央はようやく心が落ち着いてきた。深い溜息を吐き、枕に顔をうずめる。
いったい、何が悪かったんだろう。どこが悪かったんだろう。どうしてこんなことになってしまったんだろう。どうすればよかったんだろう。
わからない、わからない、わからない。
「ホント、サイアク……」
その言葉が誰に、或いは何に向けられたものなのか、奈央自身にも判らなかった。
翌日、奈央はいつものように自転車で登校し、駐輪場で一緒になった木村と僅かばかりの会話をした後、自身の教室に入るとこれもまたいつものように机に突っ伏した。これを一年間も続けていれば立派な生活サイクルの一工程だと言えるのかもしれないが、要は相も変わらずクラスに親しい友人が一人も居ないままであるということでしかなかった。
しかしそれも当たり前のことだ、と奈央は半分諦めていた。そもそも自分から誰かに話しかけるなんてこともしなければ、クラスメイトに話しかけられてもおざなりな返答をするばかりで、まともに会話をしようとしてこなかったのだから自業自得というものだろう。必要最小限の会話しかしない時点で友達作りなんてする気がないのと同じだ。寂しくないと言えば嘘になるが、それも最早今更な気がしてならなかった。
そんな奈央を見て人によっては「クールだ」「かっこいい」なんてぼそぼそ会話し合っているのを見かけることもあったけれど、奈央本人からすれば単に人と関わるのが苦手というだけでしかなく、あまり嬉しいようなことではなかった。
この一年、何の進歩もなかったなぁ、と改めて思っていると、前の席に人が座る気配がして、奈央はちらりと視線をやった。宮野首玲奈――確かそんな名前だったはずだ。彼女には中学の頃からの親しい友人が居て、その名前は矢野桜――彼女もまた奈央と同じクラスだった。
二人は登校してくるなり何やら他愛もない世間話をし始めた。前の席ということもあって二人の会話はよく耳に入ってくる。それは都市伝説だったり怪談話だったり、近所のどこそこに何とかいう化け物が出たらしいとか、そんな話が多かった。怖い話が好きなんだなぁ、とぼんやり考えながら、奈央は顔を伏せたままいつも二人の話に耳を傾けていた。
怖い話と言えば昨年のあの不審者の一件だが、奈央はなるべくあの一件は思い出さないようにしていた。小父や小母、響紀もあの一件に関してはこの一年、一切口にしていない。まるで最初から何もなかったように生活している。そのお陰だろうか、あの一件の後こそ何度か夢に見てうなされたこともあったが、今や記憶の片隅といった感じだ。ふとした瞬間に思い出すことはあっても、日常生活には殆ど差し支えなかった。
そう言えば、あの時――睡眠不足と貧血に倒れた時にお世話になった女の人は、今頃どこで何をしているのだろうか。てっきり保健室の先生だと思っていたが、後日改めてお礼を言いに保健室に向かうと、そこに居たのは中年の小太りの女性だった。あの若い女性について訊ねると、たまたま学校を訪れていた卒業生だったらしいと教えてくれた。もう一度会いたかったけれど、結局奈央はその人の名前も連絡先も聞けなかった。聞く勇気がなかったというべきだろうか、先生から「また来たら教えてあげる」と言われたことに何故か安心してしまい、気付くと一年が経過していたのだ。
せめて名前くらいは聞いておけばよかった。こういうところでも能動的に動こうとしない自分が本当に嫌になる。結局全てに於いて「そのうち、そのうち」と思っているうちに時は流れてこのざまだ。
もう少し能動的に動ける人間だったら、或いは今頃この二人のように仲のいい友達ができていたんだろうか、と奈央は小さく溜息を吐いた。
その日の帰り道、奈央は橙色の光が辺りを美しく照らし出すなか自転車を漕いでいた。梅雨に入ってから久し振りに奇麗な夕日だ。鬱々とした天気が続くと、こういう時清々しい気分になる。
何となく鼻歌を歌いながら少しばかり遠回りして峠道に向かおうしたところで、
「あれ、この車……」
コインパーキングの前で見覚えのある社名の書かれたライトバンを見つけて、奈央はふと自転車を止めた。確か、響紀の勤めている会社の名前だ。もしかして響紀だろうか。思いながら道路を挟んだ向かい側の須山庭園と書かれた看板のかかった小さな会社に目を向けてみれば、
「――あっ」
まさにそこに、響紀が居た。あの鋭い目つきが、奈央をじっと睨むように見つめている。
どうしよう、目が合った。何か声を掛けるべきだろうか。でも、なんて声を掛ければいい? こういう時、どういう言葉を口にすればいいの?
しばらく逡巡して、奈央は響紀から視線を逸らすとペダルに力を込めた。何となく気まずくなって、思わず逃げるようにして峠道へ向かう。もしかしたら響紀が追いかけてくるかもと思い、横断歩道を渡ると中学生がよく使う裏道に逸れて峠を駆け上がった。
こういうところだぞ、私。どうしていつもいつも自分から動けないんだろう、声一つ掛けられないんだろう。
奈央は深い深い溜息を漏らすと、後々響紀に問われた時どう答えよう、とそんな自分に辟易してしまうのだった。
夜。あまりの寝苦しさに目を覚ました奈央は、むっくりと起き上がった。寝汗を掻いて気持ちが悪い。じめじめとした暑さに、奈央はさすがにこれ以上耐え切れそうになかった。深い溜息を一つ吐き、エアコンに目を向ける。少しだけ、少しだけつけて寝よう。ごめんなさい、小父さん、小母さん。そう思いながら奈央はエアコンを除湿で動かすと、のどの渇きを癒すために自室をあとにした。
廊下に出て階下に降りると、昨日と同じように響紀が居間で胡坐を組んでテレビを見ていた。奈央は台所からそんな響紀の様子を窺う。
……いや、違う。その顔はテレビになど向いていない。先ほどからずっと座卓の上を見つめている。いったい何をぼうっとしているんだろう。もしかして、居眠りでもしているんじゃないだろうか。
奈央は響紀の方に足を向けると、
「……まだ起きてるの?」
何気なく声をかけた。
一瞬響紀の肩がびくりと跳ね、慌てた様子でこちらに顔を向ける。その双眸が奈央の姿を捉え、
「……何だよ、いいだろ、別に」
眉間に皺を寄せながら、響紀はそう言った。
その顔はどこか疲れ切った様子で、目の焦点も微妙にあっていないように見える。明らかに様子がおかしい。本当に大丈夫なんだろうか。
奈央は居間に入ると響紀の前に立ち、
「――明日も仕事でしょ? 早く寝ないと寝坊するよ」
父親にもそうしたことがあるように、声をかけた。
けれど響紀はそんな奈央に対して気だるげに手を振り、
「いちいち煩い奴だな。お前こそさっさと寝ろよ。今何時だと思ってんだ。お子様は寝んねの時間だろうが」
その一言が気に入らなくて、奈央は思わず眉間に皺を寄せながら、
「……私はもう、子供じゃないわ」
じっと響紀を見つめる。
そんな奈央に、響紀は「いいや、子供だね。クソ餓鬼だ」と吐き捨てるように言って、鼻でせせら笑った。
「どんなに発育が良かろうが、餓鬼は餓鬼だ。早く寝ろ」
その言い方にカチンときた奈央は拳を握りしめた。
……まただ、と奈央は大きく溜息を吐いた。これじゃぁ、いつもと同じだ。また口喧嘩になりかけている。そんなつもりじゃないのに、響紀は素直じゃない。それを言えば自分も同じかもしれないけれど、こちらが心配して声をかけているのだから、少しは――
と、そこで奈央は座卓の上に置かれたハンカチに気が付き、思わず目を見張った。見覚えのあるデザインのハンカチだ。薄紅色の朝顔が一輪刺繍された、白いハンカチ。それは一年前に失くした、父親から貰ったハンカチと同じデザインだった。いや、事実同じ商品なのだろう。どうして響紀がこれを持っているのだろうか。
「……何だよ、言いたいことあんなら早く言え」
響紀に声を掛けられ、奈央ははっと我に返った。そのハンカチを指差しながら、
「そのハンカチ……」
と恐る恐る口にする。
「ハンカチ? これが何だよ」
「……私が持ってたハンカチと同じやつだったから、ちょっと気になっただけ」
「はぁ?」と響紀は鼻で笑った。「そりゃぁ残念だったな。これはな、例の喪服の女性から直接手渡されたハンカチだ。お前のなんかじゃない」
「……あの子に会ったの?」
奈央は驚き、目を見張った。響紀の顔をまじまじと見つめながら、もしかしてあの喪服の少女が拾っていたのだろうか、とその可能性を考える。響紀は否定しているけれど、その可能性が無いわけではない。彼女もまた例の不審者と同じあの峠道に住んでいるのだ。奈央が落としたハンカチを拾っていたとしても、何も不思議はない。或いは響紀の言う通り、本当に奈央のものではなく、たまたま同じデザインのハンカチを彼女が所有していただけなのかも……
少なくとも、奈央が持っているよりも彼女が持っている方が自然な気がした。果たして実際はどうなんだろう――そう思っていると、
「――しつっこいんだよ、お前は!」
突然、響紀が声を荒らげて叫び、奈央は驚きのあまり一歩あと退った。
目を白黒させる奈央に、響紀は続ける。
「いちいち突っかかってきやがって! そうかと思えば昼間みたいに俺と目が合った癖に無視しやがってよ! 生意気なんだよ、お前は! 餓鬼の癖に大人ぶってんじゃねぇよ! 子供は子供らしく大人の言うこと聞いて大人しくしてりゃいいんだよ!」
息を荒らげる響紀に、奈央は目を丸くした。どうしてこんなことで怒り狂っているのか理解できず、同時に下校時の一件を引き合いに出されて次第にこちらも怒りが込み上げてくるのを感じた。
確かにあの時、私は響紀に声を掛けなかった。そもそも響紀は仕事中だったし、私にはどう話しかければいいかわからなかった。けど、どうしてそんなことで生意気だなんだと言われなきゃならないわけ? 響紀だって私に話しかけてこようとしなかったじゃない。それってお互い様だったってことじゃないの? 違う? 私だって響紀の方から声を掛けてくれたらどんなに話しかけやすかったことか! 今みたいな人を睨みつけるような眼で見られたら、それこそ声を掛けようなんて思えるはずがないでしょ! 私だって声を掛けようとした。でも響紀のあの眼がそれをさせなかった。それなのに、全部私が悪いっていうわけ? そんなに言うなら響紀ももっと優しい目で私を見てよ! そうじゃないと、怖くて声もかけられないじゃない! どうしてそれが解らないわけ?
奈央は喉元まで込み上げてきたその言葉を、けれど寸でのところで引っ込めた。
――駄目だ。そんなことをしたら、本当に喧嘩になる。小母さんや小父さんに迷惑を掛けることになる。それだけは、絶対に嫌だった。
「……そう。悪かったわね」言って奈央は深い溜息を一つ吐くと、長い髪を靡かせながら響紀に背を向けた。「――仕事中みたいだったから敢えて声を掛けなかったんだけど、今度から挨拶くらいするわ。じゃあね、おやすみ」
そう言い残して、奈央は居間を出ると結局お茶を飲むことなく階段を駆け上がり、自室に戻った。バンッと強く自室の扉を閉め、ベッドに飛び込むようにして寝転がる。
腹立たしくて仕方がなかった。込み上げてきた怒りを枕に向けて、何度も何度も拳で殴りつけた。目に涙が浮かんできたが、しかしその涙を流すことは結局なかった。泣いたら負けだ、と何故かそう思った。
しばらく枕を殴り続けて、奈央はようやく心が落ち着いてきた。深い溜息を吐き、枕に顔をうずめる。
いったい、何が悪かったんだろう。どこが悪かったんだろう。どうしてこんなことになってしまったんだろう。どうすればよかったんだろう。
わからない、わからない、わからない。
「ホント、サイアク……」
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