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第2部 第3章・闇の抱擁
第12回
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ザァザァと降りつける雨の中、響紀は目の前の門の向こう側を睨みつけた。
散り散りになって逃げ惑う赤黒いナメクジのようなそれらは、地面に染み込むようにその姿を溶かしたり、或いは下水溝の穴にぽちゃんとその身を沈めたり、そうでなければ、まるで死んでしまったかのように(事実、もう死んでいるのだが)ぴくりとも動かなくなり、どろどろとスライムのようにその身を地面に広げていった。
それらはすでに人としての形を完全に失っており、元が何だったのか想像することすら不可能な、小さくて弱々しい異形となっていた。四散していく残りの赤黒いナメクジを、響紀はもはや追うことすら諦め、大きくため息を吐く。
あれだけバラバラになってしまえば、しばらくは戻って来られないに違いない。この先アイツらがどんな手を使ってくるのか解らないけれど、とりあえず今のところは大丈夫なはずだ。
もちろん、その考えに絶対に大丈夫だという保証はどこにもなかった。
楽観的過ぎると言っても良いかもしれない。
何故ならあの女は――ユキは、その身体が朽ちていくことに焦りを覚えているのだから。
しかし、だからと言ってバラバラに逃げてしまった小さな異形どもを追うことなどできるはずもない。或いは自分の身体も奴らのように、例えば分身させることが可能なんだろうか、と思ったけれど、響紀にはその術すら解らなかった。
そもそも、あの異形は複数の人物を団子のように練り合わせたような姿をしていた、まさに肉の塊だった。恐らく、逃げていった小さな異形それぞれが元々の個々だったのだろう。となれば響紀にそれらを地の果てまで追いかける、なんてことは到底無理だった。と言ってこのままあのふたり、奈央と木村を置いていくのも不安が残る。
逡巡する響紀だったが、不意に目の前からやってくる人影に思わず目を見張った。
そこには自分の父親の姿があって、恐らく仕事を終えて帰宅してきたのだろう、今となっては酷く懐かしく感じるスーツ姿に身を包んでいた。
こんなに白髪の多い、皴だらけの顔だっただろうか。
響紀は思わず涙を流しそうになった。社会人として働くようになって、ほぼすれ違うような生活をしていた。父親の顔をまともに見る機会なんてほとんどなくなって、今こうしてみれば、自分の記憶にある父の顔はまだまだ若くて、壮健で。
あぁ、歳を取ったな、親父……
そう思った時だった。
響紀はハッと家のすぐそばに止められた黒い自動車の存在を思い出した。
見れば、そこには先ほどと同じように奈央の母親と見知らぬ男の姿があって、彼らも響紀の父親の帰宅に気づいたのだろう、顔を見合わせ小さく何かを会話すると、間もなく車を発進させ、まるで何事もなかったかのように、峠の方へと走り去っていったのだった。
そうとも知らず父親はその車を横目で見送り、こちらに向かってスタスタと歩いてくる。
響紀は思わず父親の方へ数歩歩み寄ったが、けれど当然のように、響紀の姿は父親に認識されることはなかったのだった。ただの一度も視線は交わることもなく、父親は響紀の脇を抜けて門を開け、その先の玄関へと歩いていった。
響紀はそれを見て、思わず逃げ出すように走り出した。
この自分の感情をどう表現すればいいのかまるで解らず、とにかく一刻も早くこの場から逃げ出したくてたまらなかったのだ。
今の俺はかつての俺ではなく、これから先も今までの俺に戻ることなんてできない。俺は死者だ。生者じゃない。もう母とも父とも、そして奈央とも一緒に暮らすことはできないのだ。俺の人生はもうすでに終わってしまった。今ここにいるのは俺という存在の残りカス、魂だけだ。あの世に行くこともできず、ただこの世をさまよっているだけの――
そこで響紀は立ち止まった。峠へと続く上り坂に出たところで、もう一度我が家の方へと身体を向けた。
いや、違う。ただこの世をさまよっているわけじゃない。俺には、やらなければならないことがあるんだ。
あの喪服の女、ユキから俺の家族を守るという役目。
そして、もしも可能ならば、あのユキという女を、井戸の底から現れた、タマが言うところのどこぞの神から助け出す役目。
それらが俺の死に対して与えられた役目であると認識して良いのであれば、俺は必ず、その役目を果たさなければならないのだ。
そうでなければ、俺はただ無駄にあの女に殺された、それだけになってしまうじゃないか。
それだけは、絶対に嫌だった。
俺には、俺にしかできないことがあるはずだ。
響紀は思いながら、香澄から与えられた右腕のブレスレットにそっと左手を触れてみた。わずかな温かみがそこにはあって、かつての友人や異形を退けた時とは違う、優しくて淡い光を発してくれた。
俺は全てを守り、助ける。俺は、俺の死を絶対に無駄にはしない。自分の家族だけじゃない。実の両親や見知らぬ男たちから度重なる虐待を受けていたユキ――喪服の少女――女。アイツの事も、俺は何としてでも助け出すんだ。
あの真っ暗な井戸の底に引きずり込まれた女の子を、必ず。
響紀はぐっと拳を握り締めた。
じっと峠の上、坂道の向こう側。喪服少女の住まう廃屋を睨みつけながら、響紀はもう二度と揺るぐことはないと、己の魂に誓ったのだった。
ザァザァと降りつける雨の中、響紀は目の前の門の向こう側を睨みつけた。
散り散りになって逃げ惑う赤黒いナメクジのようなそれらは、地面に染み込むようにその姿を溶かしたり、或いは下水溝の穴にぽちゃんとその身を沈めたり、そうでなければ、まるで死んでしまったかのように(事実、もう死んでいるのだが)ぴくりとも動かなくなり、どろどろとスライムのようにその身を地面に広げていった。
それらはすでに人としての形を完全に失っており、元が何だったのか想像することすら不可能な、小さくて弱々しい異形となっていた。四散していく残りの赤黒いナメクジを、響紀はもはや追うことすら諦め、大きくため息を吐く。
あれだけバラバラになってしまえば、しばらくは戻って来られないに違いない。この先アイツらがどんな手を使ってくるのか解らないけれど、とりあえず今のところは大丈夫なはずだ。
もちろん、その考えに絶対に大丈夫だという保証はどこにもなかった。
楽観的過ぎると言っても良いかもしれない。
何故ならあの女は――ユキは、その身体が朽ちていくことに焦りを覚えているのだから。
しかし、だからと言ってバラバラに逃げてしまった小さな異形どもを追うことなどできるはずもない。或いは自分の身体も奴らのように、例えば分身させることが可能なんだろうか、と思ったけれど、響紀にはその術すら解らなかった。
そもそも、あの異形は複数の人物を団子のように練り合わせたような姿をしていた、まさに肉の塊だった。恐らく、逃げていった小さな異形それぞれが元々の個々だったのだろう。となれば響紀にそれらを地の果てまで追いかける、なんてことは到底無理だった。と言ってこのままあのふたり、奈央と木村を置いていくのも不安が残る。
逡巡する響紀だったが、不意に目の前からやってくる人影に思わず目を見張った。
そこには自分の父親の姿があって、恐らく仕事を終えて帰宅してきたのだろう、今となっては酷く懐かしく感じるスーツ姿に身を包んでいた。
こんなに白髪の多い、皴だらけの顔だっただろうか。
響紀は思わず涙を流しそうになった。社会人として働くようになって、ほぼすれ違うような生活をしていた。父親の顔をまともに見る機会なんてほとんどなくなって、今こうしてみれば、自分の記憶にある父の顔はまだまだ若くて、壮健で。
あぁ、歳を取ったな、親父……
そう思った時だった。
響紀はハッと家のすぐそばに止められた黒い自動車の存在を思い出した。
見れば、そこには先ほどと同じように奈央の母親と見知らぬ男の姿があって、彼らも響紀の父親の帰宅に気づいたのだろう、顔を見合わせ小さく何かを会話すると、間もなく車を発進させ、まるで何事もなかったかのように、峠の方へと走り去っていったのだった。
そうとも知らず父親はその車を横目で見送り、こちらに向かってスタスタと歩いてくる。
響紀は思わず父親の方へ数歩歩み寄ったが、けれど当然のように、響紀の姿は父親に認識されることはなかったのだった。ただの一度も視線は交わることもなく、父親は響紀の脇を抜けて門を開け、その先の玄関へと歩いていった。
響紀はそれを見て、思わず逃げ出すように走り出した。
この自分の感情をどう表現すればいいのかまるで解らず、とにかく一刻も早くこの場から逃げ出したくてたまらなかったのだ。
今の俺はかつての俺ではなく、これから先も今までの俺に戻ることなんてできない。俺は死者だ。生者じゃない。もう母とも父とも、そして奈央とも一緒に暮らすことはできないのだ。俺の人生はもうすでに終わってしまった。今ここにいるのは俺という存在の残りカス、魂だけだ。あの世に行くこともできず、ただこの世をさまよっているだけの――
そこで響紀は立ち止まった。峠へと続く上り坂に出たところで、もう一度我が家の方へと身体を向けた。
いや、違う。ただこの世をさまよっているわけじゃない。俺には、やらなければならないことがあるんだ。
あの喪服の女、ユキから俺の家族を守るという役目。
そして、もしも可能ならば、あのユキという女を、井戸の底から現れた、タマが言うところのどこぞの神から助け出す役目。
それらが俺の死に対して与えられた役目であると認識して良いのであれば、俺は必ず、その役目を果たさなければならないのだ。
そうでなければ、俺はただ無駄にあの女に殺された、それだけになってしまうじゃないか。
それだけは、絶対に嫌だった。
俺には、俺にしかできないことがあるはずだ。
響紀は思いながら、香澄から与えられた右腕のブレスレットにそっと左手を触れてみた。わずかな温かみがそこにはあって、かつての友人や異形を退けた時とは違う、優しくて淡い光を発してくれた。
俺は全てを守り、助ける。俺は、俺の死を絶対に無駄にはしない。自分の家族だけじゃない。実の両親や見知らぬ男たちから度重なる虐待を受けていたユキ――喪服の少女――女。アイツの事も、俺は何としてでも助け出すんだ。
あの真っ暗な井戸の底に引きずり込まれた女の子を、必ず。
響紀はぐっと拳を握り締めた。
じっと峠の上、坂道の向こう側。喪服少女の住まう廃屋を睨みつけながら、響紀はもう二度と揺るぐことはないと、己の魂に誓ったのだった。
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