闇に蠢く・完全版

ノムラユーリ

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第2部 第4章・イド

第9回

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 がらりと開けた玄関の扉には鍵などかかっておらず、むわっとした甘ったるい匂いが重く充満していた。

 天井からはいつか見たドライフラワーがいくつもぶら下がっており、あの喪服の女がまとっていた香りをこれでもかというくらい強く放っている。あの時この匂いに至高を感じた響紀だったが、今となっては反吐が出てくるほど忌々しい、汚れた香りでしかなかった。その臭いに響紀は眉間にしわを寄せ、なるべく息をせず、身体の中に取り込まないように上がり框に足をかけた。当然のように息をしていなくても苦しくなることもなく、響紀は思わず自嘲する。ここまで来てまだ生を意識している俺が居るのか、と。

 玄関を抜けると廊下は一度左に折れ、便所の前で再び右に折れる。

 と、そこで聞き覚えのある声に響紀は一度足を止めた。

 誰の声だろう、と思いながら一旦響紀は廊下の角まで戻って身を隠し、じっと聞き耳を立てる。

「まだ、ダメよ」
「でも」
 言い淀む何者かの声。しばらくして、
「まだ彼女は私たちを受け入れていないの。だから、もう少し待ってあげて。この娘はきっと、私たちを受け入れてくれるはずだから。それまでは、ね? 私が貴方を愛してあげる……」

 待つ? 何を? この娘、というのは恐らく奈央のことだろう。やはりここに居たんだ。でも、この声はいったい誰だ? あの喪服の女の声じゃない。どこかで聞き覚えのある女の声だ。あれは確か、幼いころ、突然やってきた――奈央の母親。

 まさか、と響紀は眉間にしわを寄せる。確かにあいつは、昨日の夜もうちの家の前で怪しげな男と車の中にいたはずだ。あの化け物をぶちのめしたあと、逃げるようにどこかへ行ってしまったが、まさか、喪服の女と繋がっていた……?

 どういうことだ? と響紀は狼狽える。最初から、あの母親は奈央を女に売り渡すつもりだったのか? もしかして、奈央をここへ連れてきたのも母親だったのか? 木村はどうした? あの野郎、奈央をこんなところへ連れていかれて、いったいどこへ行きやがった。しっかり守ってやれよ、彼氏じゃないのかよ!

 ぐっと拳を握り締めて、響紀は声のする部屋――庭を見渡せる廊下の、右側の部屋をじっと睨む。

「ここではダメ。続きはあっちの部屋で、ね?」

 母親の優しげな声が聞こえる。

 かたり、と襖が開け放されて、響紀は咄嗟に身を隠した。

「――絶対に、覗いちゃダメよ?」

 言い含めるような声に続いて、ぱたりと襖が閉じる音。そうして母親のものと思われる足音が廊下の向こう側へ消えていくのを確かめてから、響紀は奈央を助け出すなら今がチャンスだと確信した。幸いなことに、あの女に付き従う男たちの気配は感じられない。あの母親がどこへ行ってしまったのか知らないが、今のうちに――

「――っ!」

 再び庭に面した廊下に顔を戻した時、響紀はあまりの驚愕に目を疑った。

「……どこへ行く気だ?」

 何故ならば、すぐ目の前に、自分と同じ姿をした男が一人、立ちふさがっていたからである。

 何だ、何なんだこいつは。どうしてこいつは俺と同じ姿をしているんだ。こいつはいったい何者なんだ。俺は確かにここに居る。なら、目の前のこいつは誰だって言うんだ?

 まるで鏡を相手にしているかのようなその姿に、響紀は微動だにできなかった。身体が強張り、どう対処して良いかわからないまま立ち竦んでいると、目の前の男は急に両腕を伸ばしてきて、響紀はあっと思った時にはブレスレットを巻いた右腕を強く掴まれ、自由を奪われていた。

「は、離せ……!」

 響紀はその腕を振り払おうとしたが、しかし体勢を崩してしまい、ガタリとそのまま仰向けに倒れてしまった。大した衝撃はなかった。痛みもなかった。けれど、倒れた拍子に自分によく似た姿の男に覆いかぶさられ、逃げるに逃げられず、その顔面を殴り飛ばそうにもただ身体を激しく揺することしかできなかった。

 男はぐいっと更に力を込め、響紀の身体を廊下に押さえつけながら、「邪魔はさせない」と眼を見張って呟いた。
「ユキは俺が守る。絶対にお前らに邪魔はさせない」

「ユキ? お前、いったい――」

 それでもなお抵抗する響紀は足をばたつかせて廊下を蹴り、勢いをつけて男の身体を横に投げた。ゴロン、と互いに半身を捩るだけだったが、それでも何とか左腕の自由を手に入れた響紀は、力いっぱい男の顔面を殴りつける。

「ぐぅっ!」

 響紀の拳は男の顔面に陥没し、ぐにゃりと粘土のようにその頭が変形する。けれど手応えらしい手応えはまるでなく、とにかく響紀は何度も何度もその顔を全力で殴り続けた。

 しかし、男の方もただやられているばかりではなかった。響紀の顔面に右手を伸ばすと、その頭を廊下に向かって思いっきり打ち付けてきたのだ。ずんっ、と鈍い感覚が後頭部に走ったが、けれど響紀はそんなことに構わず、男の眼と鼻の付け根に力いっぱい拳を埋め込んだ。

 ぐちゃり、とハンバーグの種をこねるような感覚がして、男は響紀から手を離した。顔面を両手で覆いながら、バタバタと右に左に転げ回る。

 響紀は肩で息をしながら、その様子を窺っていた。

 やがて男はゆっくりと上半身を起こし、その顔を改めて響紀に向けてきて。

「……えっ」
 響紀は再び目を丸くする。

 今までそこにあったはずの自分とよく似た顔が、今ではまるで別人の、気弱そうな青年のものに変わっていたのである。いや、恐らくこれがこの男の本当の顔なのだ。擬態、とでも呼べば良いのだろうか。

 そして響紀には、この青年の顔に見覚えがあった。あれはそう、結奈に踏みつけられた際に見た夢の中で。喪服の少女――ユキと一緒に見た、あの過去の映像。

 その映像の中で、この男は優しそうに、ユキに文字と言葉、そして好きと嫌いを教えていたのだ。ユキも彼のことが好きだったと言っていた。しかし、彼もまた他の男たちと同様、ユキの体を犯し、蹂躙し、意のままにして……

「お前――」

 思わず響紀は口にして、けれどそれに被せるように男は、

「俺はユキを守るんだ。俺はユキを守るんだ。俺はユキを守るんだ。俺はユキを守るんだ。俺はユキを守るんだ。俺はユキを守るんだ。俺はユキを守るんだ。俺はユキを守るんだ。オレはユキをマモルんだオレハユキヲマモルンダおれはゆきをまもるんだおれはおれはおれはおれはれおあ!」

 次の瞬間、男は鬼のような形相で響紀に襲い掛かってきた。

 その時、ガシャン、パリン! と何かが砕ける甲高い音が聞こえ、同時に響紀の身体に男が覆いかぶさってくる。

 響紀は右腕を強く握りしめた。ブレスレットが光と熱を帯び、響紀はその若い男の頭に向かって、力いっぱい拳を振り下ろす。

 それはほんの一瞬に過ぎなかった。

 パンッ! とまるで水風船のように、若い男の頭は破裂した。赤黒い液体が辺りに飛び散り染みを作った。響紀は残された男の身体を軽々と脇にどける。そしてその脇にどけた身体もまた、徐々に徐々に廊下に溶けて――跡形もなく消えてしまったのだった。

 ふう、と響紀は深いため息をひとつ吐いた。けれどそれも束の間のことだった。

「奈央……!」

 響紀は再び立ち上がり、そしてだっと駆け出した。

 廊下を右へ折れたところで、庭に向かって倒れたガラス戸が目に入った。粉々に砕けたガラスの破片が庭に散り、赤黒いシミが、廊下から庭に向かって広がっている。それはまるでどす黒い血のようで、他にも嘔吐したのであろう汚物らしきものも縁の下に見える。

 なんだ、いったい何があったんだ?

 響紀は焦りながら、庭の方に目を向ける。

「――なっ」

 その光景を目にした時、響紀は大きく目を見開き、立ち竦んだ。

 そこには地に尻をつけて怯える奈央の姿があって、そんな奈央の目の前には、およそ人とは思えない醜い顔をした喪服の女が、今まさに奈央に襲い掛かろうと、その手を奈央の顔に向かって伸ばしていたのである。

 女の身体からは赤黒い蛭のような何かがボトボトと地に落ち、あの白かった肌は見る影もなかった。目は大きく見開かれ、ギョロリとした目玉が奈央の身体を見据えている。耳まで裂けているかのようなその口からは長い舌が伸び、うねうねと蠢きながら奈央の顔に向かって近づいていた。生臭いにおいが響紀のところまで漂ってきて、あまりの穢れに響紀は眉間にしわを寄せる。

 このままでは奈央が危ない、そう思った時には、すでに響紀の身体は動いていた。

「……奈央!」

 叫び、瞬く間に響紀の身体は奈央と喪服の女の間に割って入る。そのドロドロに半壊した喪服の女を見据えながら、響紀はがっと女の身体を掴み、力いっぱい押しやった。その背後には、響紀が突き落とされたあの井戸があって、その下には井戸の蓋らしきトタン板が転がっている。このままこいつをあの井戸まで押しやって、俺の身体もろとも井戸の中へ――

「……あっ」

 その時、後ろから奈央の驚く声が聞こえてきた。ちらりと視線を後ろにやれば、奈央がこちらを見て目を丸くしている。恐らくこちらの姿が見えているのだろう。

 けれど、響紀は再び喪服の女に視線を戻すと、それに構わずじりじりとその身体を井戸に向かって押しやり続けた。

「は……な、せ……わた……しの………から……だあぁっ!」

 女が叫び、響紀はそんな女の身体を抱きしめるようにしながらさらにまた数歩分、女の身体を井戸へ押す。女の身体はだらだらと崩れ続けており、もはや人としての原形を留めておくのもやっとなのだろう、響紀は今一度奈央の方に顔を向け、そして叫んだ。

「奈央! 俺がこいつを井戸の中に引きずり下ろす! お前はすぐに蓋を閉じろ!」

「――えっ」

 奈央は戸惑いの表情を隠さず、辺りをきょろきょろと見回している。

 その姿に、響紀は苛立ちを覚えながら、
「井戸の下だ! そこに見えるだろうが!」

 顎で井戸の下を指し示せば、奈央はようやくそれに気づいたらしく、コクコクと何度かうなずいた。

 それを確かめてから、響紀は一つうなずいて、再び喪服の女に顔を戻した。そしてなおも必死の形相で抗う女に、響紀は小さくため息交じりに、

「――帰ろう、一緒に」

 その瞬間、女の視線が響紀に向いた。女は一瞬、きょとんとした表情で抵抗する力をわずかに緩める。その隙を響紀は逃さなかった。一気に腕に力を込めて、ずるずると女の身体を井戸へと押しやる。

 その瞬間、女ははっと我に返ったように目を見張った。

「あぁぁ――あぁあ! ああああぁぁぁぁああぁぁああぁぁ――――――――!」

 耳をつんざくような叫び声をあげて暴れだしたが、けれどその時にはすでに女のすぐ後ろに井戸は迫っていた。

「俺の家族に、手を出すなぁああぁ―――!」

 響紀はこれが最後とばかりに大きく叫んだ。

 ぐらり、と女の身体が井戸へと落ち、響紀はそんな女の身体をぎゅっと抱きしめながら、自らも井戸の中へと飛び込んだ。

 女は叫んでいた。響紀はその叫びを耳にしながら、絶対に離すまいと女の身体を抱きしめ続けた。

 ふたりの身体は見えない底へ向かって落下し続ける。

「放せ放せはなせハナセ離せ放せ離せ放せえぇぇぇ――――――――! ああああぁぁぁぁああぁぁああぁぁ――――――――」

 その瞬間、女の身体からばっと何か黒い影が抜け出していった。響紀の頭をわずかにかすめて、その黒い影は遥か上空、ぽっかり開いた井戸の口へと昇っていく。

 しまった、と響紀は一瞬、女の身体を放してしまったのだと思ったが、確かに腕の中にはまだ女の身体の感触があって、

「――あっ」

 ドロドロに溶けてしまっていたはずの喪服の女の身体は、あの白く美しい姿に戻っていた。その瞼は力なく閉じられ、小さく開いた口も可愛らしくそこにはあった。長い髪を乱れさせながら、響紀と共に、井戸の底へと落下し続ける。

 落下するごとに、女の姿は徐々に徐々に小さくなっていった。いつの間にかあの黒い喪服も消え去って、ボロボロに汚れたトレーナー一枚を羽織っただけの、小さな少女へと姿を変えていた。

 やがてふわり、と身体が浮くような感覚があって、響紀は驚きの声を上げた。

 何が起きたんだろう、底へ達したのだろうか、と思っていると、いつの間にか響紀と少女の身体は、もとの庭に佇んでいた。

「――えっ」

 響紀は目を見張り、辺りを見回す。けれど、そこにはどこにも奈央の姿は見当たらなくて、例の廃屋の方に目を向けてみれば、どこにも蔦は這っておらず、薄汚くはあるけれども、生活感のある、ごく普通の家があるだけだった。ふと脇を見てみれば、枯れていたはずの池にも水が張っている。

「ここは、いったい……」

 その時、「んっ」と抱きしめていた少女が目を覚ました。

 少女はうっすらと瞼を開くと、響紀の方へと顔を見上げる。とろんとした眼はやがて大きく見開かれ、驚いたような表情を浮かべながら、
「……誰?」
 と訝しむように響紀に訊ねた。

 その表情に響紀は一瞬面食らったが、けれどなるべく怯えさせないように、
「俺は、響紀だ」

「ひび、き……?」

「あぁ」
 と響紀はうなずき、
「君は?」

 すると少女は少しだけ考えるような仕草を見せてから、
「……たぶん、ユキ」
 自分自身で確かめるように、小首を傾げながらそう答えた。

 どういうわけか、ユキは響紀のことなど覚えていなかった。まるで今まであったことを全て忘れてしまったかのように、不思議そうに響紀を見ている。あるいは本当に、過去に戻ってきたのかもしれなかった。この家の様を見ていると、なんとなくそんな気がしてならなかった。ここはたぶん、俺の知っている時間や場所じゃない。だから、もしかしたら――

 その時だった。

「おらぁ! クソガキ! どこ行ったぁ!」

 家の中から、男の野太い声が聞こえてきた。瞬間、ユキの身体がピクリと震え、怯えたように目の色が変わった。

 そんなユキに、響紀は手を差し伸べた。

「――行こう、ユキ」
「……行く? どこへ?」
「どこでもいい」

 響紀はユキに視線を合わせ、その頭を優しく撫でる。

 そのどことなく幼い頃の奈央と重なる不安そうな表情に、響紀は言った。

「俺がお前を守ってやる」
「……あなたが? 私を?」

 本当は奈央にそうしてやるべきだった。あんなつっけんどんな態度を取って、喧嘩ばかりして、そんな関係であるべきではなかった。奈央のことを守りたかった。あのどうしようもない奈央の母親や、父親と離れて暮らし、独りぼっちだというその思いから奈央を解放してやるべきだった。頼れる兄として振舞ってやるべきだったのだ。死んでしまった俺にはもう、それはできない。けど、今の奈央には俺の母がいる。父がいる。恋人である木村だっているのだ。

 なら、俺は俺ができることをやればいい。奈央にしてやれなかったことを、代わりにユキにしてやるのだ。自己満足かもしれない。今までできなかったことへの未練やその埋め合わせを、ユキに求めるのも変な話かもしれない。けれど、俺はユキの過去を覗いている。この子が今どんな状況にあるのか、これからどんなことが彼女の身に訪れるのか、全部俺は知っている。だからこそ、俺がそんな悲劇から守ってやるのだ。

「クソガキが! どこへ行きやがった! またお仕置きされたいのか!」

 家の中を探し回るその音に、ユキは怯える。

「大丈夫。俺を信じろ」
「……」

 ユキはじっと響紀の眼を見つめてきた。
 響紀も、じっとユキの眼を強く見つめる。

 やがてユキは小さくうなずくと、

「――行く」

 その一言に、響紀はユキの手を取ると、足音を立てないように庭を抜けて、ふたり並んで白く輝く外の世界へと駆けて行った。

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