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ふたりめ
第4回
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4(柏木)
本当は、小説を書くためだけだった。
三十代を超えたサラリーマンがある日、少女と出会い、恋に落ちていく様を物語たかった。
そのためだけに、俺は彼女と毎度約束をして、一緒に映画を観に来ているだけだったのだ。
それなのに、俺は、あろうことか、今から書こうとしている小説の主人公と同じように、偶然出会っただけの少女に、恋心を抱いてしまったのである。
これから先、この少女とどうなりたいのか、俺の中には確かなビジョンなどありはしなかった。俺には妻も娘もいる。だから、こんな感情は間違っているのだ。そう自分に言い聞かせながら俺は視線をそらし、胸に手を当て心を落ち着かせようと試みた。いまだ心臓は激しく高鳴り、彼女の姿を眼に焼き付けておきたいという衝動にかられながら、ゆっくりと瞼を閉じる。それから「ひとつ、ふたつ、みっつ――」と小さく呟いたところで、
「――柏木さん、どうしたんですか? 胸でも苦しいんですか?」
はっと我に返り顔を向ければ、沙也加ちゃんが俺の顔を見えげるようにすぐ目の前に立っていた。その手には先ほどまで見入っていた写真集がまだ握られており、ページとページの間にその細い指を差し込んでいた。
「な、何でもない。それより、探したよ。本を買って戻ってみたら、新刊コーナーに居なかったから」
「ごめんなさい」と沙也加ちゃんは小さく頭を下げ、「でも、本屋さんって不思議な魔力を秘めていると思いませんか? 沢山の本が並んでいて、その一つ一つにそれぞれの世界が収められていて。私、その世界を眺めているうちに、どんどん我を忘れていっちゃうんです。次から次に本を開いては、その沢山ある世界を渡り歩く人になったような、そんな気持ちになるんです。今も気づいたら写真集をめくっていて、誰か横に立ってるなって思ったら、柏木さんがそこに居ました」
そう言って、沙也加ちゃんは恥ずかしそうに、その奇麗な髪を右手で漉いた。
「うん、わかるよ」と俺は頷き、本棚に顔を向ける。「ここには、数えきれないほどの世界がごまんと収められている。いや、ここだけじゃない。図書館もそうだけれど、世界にはもっともっとたくさんの本があって、その本の数だけ現実にはない世界が広がっているんだ。沙也加ちゃんと同じように、俺も本の世界を渡り歩く人だから、その気持ちはよくわかる」
沙也加ちゃんはふふっと笑うと、
「良かった、解ってくれる人がいて。うちのお母さんもお姉ちゃんも、本なんて全然読まない人だから、私の気持ちを全く理解してくれないんです。そんなに本ばかり読んで何が楽しいのかわからない。そんなだから友達も少なくて、いつもひとりぼっちなんだって。ひどいと思いませんか? 本は心を豊かにしてくれます。今、自分が認識している世界以外にも、色々な世界が世の中にはあるんだってことを気付かせてくれます。私は、そんな世界を生み出している人たちを、心から尊敬しているんです」
店内の本棚を見渡すように言う沙也加ちゃんに、俺は心の底から共感していた。
俺の妻も、そこまで本を読む人間ではない。全く読まないわけではないのだけれど、基本的には漫画ばかり読んでいて、小説などはほとんど読まない。この小説が面白かったから読んでみて、と勧めても、読んでくれないことの方が多かった。しかしそれは妻に限ったことではない。会社の上司や同僚、後輩にも、俺や彼女ほど本を読むような奴は皆無に等しかった。共感できる、或いは共感してくれる仲間が居ないというのは、寂しいものである。
だから、彼女の言葉は、痛いほどに胸に刺さった。
そしてそれと同時に、私の彼女に対する想いは、より一層大きくなっていったのだった。
それからも俺は、彼女と何度も約束をして、映画を観に出掛けた。さすがにこれだけ連続して映画を観に行けば、妻も俺のことを不審に思うようになっていったが、そのたびに「今年は良作の当たり年なんだ」「上映前に観る予告編が気になって前売り券を買ってしまったんだ」などと答えて、妻の質問を回避していった。
どこまで妻がそれを信じたかは解らないし、けれど全くの嘘というわけでもないので、俺はそこまでの罪悪感を覚えることもなかった。
やがて冬になり、沙也加ちゃんとの映画鑑賞会のあとは、必ず本屋に立ち寄るようになった。互いに気になった本を購入し、次に会った時にその本を貸し合うようになった。俺の部屋の蔵書は増え、観た映画の本数も相当数になっていった。
そしてそれにも増して、沙也加ちゃんは魅力的な女性になっていったのだった。
俺はそんな彼女から、眼を逸らすことができなかった。何をしていても、彼女の事を恋しいと思ってしまうのだ。しかしその反面、不思議なことに、妻や娘のことも同じくらい愛おしく思うようになっていった。沙也加ちゃんに対する恋心と、妻や娘に対する愛情は、見事に比例するように増していったのだ。
やがて冬が終わり、春が来て、執筆していた小説も順調に書き終わり、やがて沙也加ちゃんとの関係を参考にした恋愛ものを書き始めたところで、
「妻に、何か隠し事があるんじゃないか、と問い詰められたんだ」
俺は茜さんから視線を逸らし、ため息交じりにそう言った。
茜さんは何とも表現し難い顔をしながら、
「それは、まぁ、そうでしょう……」
と小さく口にする。
俺は首を横に振りながら、
「確かに、俺は沙也加ちゃんに恋をした。けれど、別に付き合っていたとかそういう訳じゃない。好きだと告白したわけでもない。ただ同じ趣味を持つ者同士、仲良くやっていただけなんだ。それのどこに問題があるというんだ?」
茜さんは口元に指先を当てながら、
「――それで、そのことを、奥さんに正直に話したんですか?」
「まさか」と俺は吐き捨てるように、「そんなことを口にしたら、ますます疑われるだけじゃないか。冗談じゃない。俺は妻も娘も愛しているんだ。離婚沙汰は御免だ」
「じゃぁ、いったい、なんて答えたんですか?」
「……会社の後輩に俺と同じ映画好きがいて、たまにそいつと一緒に映画を観に行っている。そう答えただけだ」
「それを、奥さんは信じてくれたんですか?」
「……さぁな」と俺は溜息を吐き、「ふうん、とそれだけだ。だけど、その表情がどうしても気になってな。これ以上、変に疑われるのも、たまったもんじゃない。だから、今日はこうして、真帆さんとやらに相談しに来たわけだ」
茜さんは俺の言葉に僅かに首を傾げて、
「柏木さんのご依頼は、どのような魔法なんですか?」
俺は一拍置き、彼女の眼を見ながら口を開いた。
「――妻の疑念を晴らす、そんな魔法はないだろうか」
本当は、小説を書くためだけだった。
三十代を超えたサラリーマンがある日、少女と出会い、恋に落ちていく様を物語たかった。
そのためだけに、俺は彼女と毎度約束をして、一緒に映画を観に来ているだけだったのだ。
それなのに、俺は、あろうことか、今から書こうとしている小説の主人公と同じように、偶然出会っただけの少女に、恋心を抱いてしまったのである。
これから先、この少女とどうなりたいのか、俺の中には確かなビジョンなどありはしなかった。俺には妻も娘もいる。だから、こんな感情は間違っているのだ。そう自分に言い聞かせながら俺は視線をそらし、胸に手を当て心を落ち着かせようと試みた。いまだ心臓は激しく高鳴り、彼女の姿を眼に焼き付けておきたいという衝動にかられながら、ゆっくりと瞼を閉じる。それから「ひとつ、ふたつ、みっつ――」と小さく呟いたところで、
「――柏木さん、どうしたんですか? 胸でも苦しいんですか?」
はっと我に返り顔を向ければ、沙也加ちゃんが俺の顔を見えげるようにすぐ目の前に立っていた。その手には先ほどまで見入っていた写真集がまだ握られており、ページとページの間にその細い指を差し込んでいた。
「な、何でもない。それより、探したよ。本を買って戻ってみたら、新刊コーナーに居なかったから」
「ごめんなさい」と沙也加ちゃんは小さく頭を下げ、「でも、本屋さんって不思議な魔力を秘めていると思いませんか? 沢山の本が並んでいて、その一つ一つにそれぞれの世界が収められていて。私、その世界を眺めているうちに、どんどん我を忘れていっちゃうんです。次から次に本を開いては、その沢山ある世界を渡り歩く人になったような、そんな気持ちになるんです。今も気づいたら写真集をめくっていて、誰か横に立ってるなって思ったら、柏木さんがそこに居ました」
そう言って、沙也加ちゃんは恥ずかしそうに、その奇麗な髪を右手で漉いた。
「うん、わかるよ」と俺は頷き、本棚に顔を向ける。「ここには、数えきれないほどの世界がごまんと収められている。いや、ここだけじゃない。図書館もそうだけれど、世界にはもっともっとたくさんの本があって、その本の数だけ現実にはない世界が広がっているんだ。沙也加ちゃんと同じように、俺も本の世界を渡り歩く人だから、その気持ちはよくわかる」
沙也加ちゃんはふふっと笑うと、
「良かった、解ってくれる人がいて。うちのお母さんもお姉ちゃんも、本なんて全然読まない人だから、私の気持ちを全く理解してくれないんです。そんなに本ばかり読んで何が楽しいのかわからない。そんなだから友達も少なくて、いつもひとりぼっちなんだって。ひどいと思いませんか? 本は心を豊かにしてくれます。今、自分が認識している世界以外にも、色々な世界が世の中にはあるんだってことを気付かせてくれます。私は、そんな世界を生み出している人たちを、心から尊敬しているんです」
店内の本棚を見渡すように言う沙也加ちゃんに、俺は心の底から共感していた。
俺の妻も、そこまで本を読む人間ではない。全く読まないわけではないのだけれど、基本的には漫画ばかり読んでいて、小説などはほとんど読まない。この小説が面白かったから読んでみて、と勧めても、読んでくれないことの方が多かった。しかしそれは妻に限ったことではない。会社の上司や同僚、後輩にも、俺や彼女ほど本を読むような奴は皆無に等しかった。共感できる、或いは共感してくれる仲間が居ないというのは、寂しいものである。
だから、彼女の言葉は、痛いほどに胸に刺さった。
そしてそれと同時に、私の彼女に対する想いは、より一層大きくなっていったのだった。
それからも俺は、彼女と何度も約束をして、映画を観に出掛けた。さすがにこれだけ連続して映画を観に行けば、妻も俺のことを不審に思うようになっていったが、そのたびに「今年は良作の当たり年なんだ」「上映前に観る予告編が気になって前売り券を買ってしまったんだ」などと答えて、妻の質問を回避していった。
どこまで妻がそれを信じたかは解らないし、けれど全くの嘘というわけでもないので、俺はそこまでの罪悪感を覚えることもなかった。
やがて冬になり、沙也加ちゃんとの映画鑑賞会のあとは、必ず本屋に立ち寄るようになった。互いに気になった本を購入し、次に会った時にその本を貸し合うようになった。俺の部屋の蔵書は増え、観た映画の本数も相当数になっていった。
そしてそれにも増して、沙也加ちゃんは魅力的な女性になっていったのだった。
俺はそんな彼女から、眼を逸らすことができなかった。何をしていても、彼女の事を恋しいと思ってしまうのだ。しかしその反面、不思議なことに、妻や娘のことも同じくらい愛おしく思うようになっていった。沙也加ちゃんに対する恋心と、妻や娘に対する愛情は、見事に比例するように増していったのだ。
やがて冬が終わり、春が来て、執筆していた小説も順調に書き終わり、やがて沙也加ちゃんとの関係を参考にした恋愛ものを書き始めたところで、
「妻に、何か隠し事があるんじゃないか、と問い詰められたんだ」
俺は茜さんから視線を逸らし、ため息交じりにそう言った。
茜さんは何とも表現し難い顔をしながら、
「それは、まぁ、そうでしょう……」
と小さく口にする。
俺は首を横に振りながら、
「確かに、俺は沙也加ちゃんに恋をした。けれど、別に付き合っていたとかそういう訳じゃない。好きだと告白したわけでもない。ただ同じ趣味を持つ者同士、仲良くやっていただけなんだ。それのどこに問題があるというんだ?」
茜さんは口元に指先を当てながら、
「――それで、そのことを、奥さんに正直に話したんですか?」
「まさか」と俺は吐き捨てるように、「そんなことを口にしたら、ますます疑われるだけじゃないか。冗談じゃない。俺は妻も娘も愛しているんだ。離婚沙汰は御免だ」
「じゃぁ、いったい、なんて答えたんですか?」
「……会社の後輩に俺と同じ映画好きがいて、たまにそいつと一緒に映画を観に行っている。そう答えただけだ」
「それを、奥さんは信じてくれたんですか?」
「……さぁな」と俺は溜息を吐き、「ふうん、とそれだけだ。だけど、その表情がどうしても気になってな。これ以上、変に疑われるのも、たまったもんじゃない。だから、今日はこうして、真帆さんとやらに相談しに来たわけだ」
茜さんは俺の言葉に僅かに首を傾げて、
「柏木さんのご依頼は、どのような魔法なんですか?」
俺は一拍置き、彼女の眼を見ながら口を開いた。
「――妻の疑念を晴らす、そんな魔法はないだろうか」
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