羽を脱いでも

菊山宰

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村中優麻

#1

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 私以外に誰もお客さんがいないこのアパレル店でひとり、試着室で淡いデニムのジーンズを足首まで下ろした。鏡に映る下半身は純白の生地に薄い桃色のレースが施されたショーツだけの無防備な姿。
 股間に膨れて見えるそれは紛れもなく男性の象徴であることを表していて、私にとってそれは不愉快で仕方がない。もしも痛覚がないのなら今すぐにでも自ら切り落としたいほどに。
 足首に縺れるジーンズをお行儀悪く足だけで脱ぎ隅においやると、両手で持っているブラウンのプリーツスカートに脚を通した。ゆらゆら揺れる裾が膝や腿をくすぐって気持ちがいい。
 私は女の子。
 誰に後ろ指を指されるかもわからない外より、誰にも見られていない空間で好き放題自分になれる瞬間が一番生きた心地がする。
 公共のトイレも女性トイレを使わせてくれない。温泉に入りに行こうとしても同じ。先日お洋服を買いに出かけた時なんて、
「メンズはあちらです」
 なんて失礼なことを言われた。わかってます、と言い返したら苦笑い。その後は崩れた洋服を直しながら私の服装を横目に襟から靴までバレバレな見て見ぬふり。
 今年で二十八歳を迎えた優麻は所謂トランスジェンダーと呼ばれて、時には自称して生きている。
 試着室という夢のカーテンを開けてお気に入りのローファーを履くと、レジに立っていた店員さんは無表情のまま私を見て、目が合えばすぐ仕事に戻ったようだった。
 二十八年間も村中優麻として生きてきた自分をそういう目で見てきた人はいくらでもいた。もう慣れてしまった。というか慣れるしかなかったというのが正しい。今だからこそ言えるけれど、学生時代など、ほんとうに慣れるしかなかった。
 子供の群れというのは特に歪を攻撃したがる。私もできる限りの苦痛は耐えた。体育のある日は嫌々ボクサーパンツを履いたり、男子トイレで立って用を足したり、群れに紛れるための努力はしたつもりだったが、普段の仕草や髪の長さは隠せなかった。髪に関しては男子でその長さは校則違反だと言われたが、母が「性同一性障害なので」と職員に申し訳なさそうに言ってから何も言われなくなった。けれど他の男子が校則に反すると「あいつも男子やのに校則違反してるじゃんね」と私を睨みつけて文句を言っていた。担任の先生は私の方をわざと見ないようにしてその生徒を説得していたのを知っている。
 私は異様なのだと毎日思った。神様が作り方を間違えた人間なのだと、自虐して親に八つ当たりした日には私を怒りもせずに静かに涙を流して背中を向けた。その涙の意味を知りたいような知りたくないような、複雑な気持ちになり部屋に籠った日を未だに忘れられないでいる。
 試しに履いてみたプリーツスカートは気に入ったけれど買うつもりはなく、丁寧に畳んで元に戻して店を出た。
 金銭的に厳しいわけでもなかったし、手持ちの現金でも買える値段だったけれど、私は試着室で着るだけでほとんど満足してしまう。
 未だに忘れられない。親の目を盗んではじめてスカートに脚を通した時の嬉しさを。あの感動をこの身体はいつまでも覚えている。だから私にとって試着室のカーテンは夢のカーテンなのだ。
 彼氏の宮本海翔にも、このお一人様の時間は打ち明けたことがない。
 土曜のお昼前、海翔との待ち合わせ時間までかなり余裕をもってデパートに入ったのはこれが理由。彼との約束の時間までに気分を上げて、店を出た後はお手洗いに入ってお化粧直し。彼が先月プレゼントしてくれた薄いピンクのリップを最後に塗り直して、鏡に映る自分にぷるっと唇を弾いてみせた。
「おまたせ、結構待った?」
 先に待ち合わせ場所でスマホ画面と睨めっこしていた私のもとへ駆け足で寄ってそう言った。
「ううん、さっき着いたとこ」
 そっか、と爽やかな表情で言う海翔に私は頷いた。
 一緒に見たいと言っていた映画のチケットを先に買い、上映時間までのあと一時間ちょっとの時間をぶらぶらウィンドウショッピングをして過ごすことにした。
 隣を歩く彼から、爽やかな顔とは似つかない甘い香水の香りが漂っている。
 付き合い始めた頃から変わらず、小指だけを絡ませて手を繋いで歩く。恋愛経験の少ない当時、恥ずかしがっていた私に合わせてそうしてくれた。
「この歳になってイオンモールでデートって高校生みたいだら」
「俺らが付き合い始めた時には学生も終わっとったんやし、逆にいいじゃんねぇ」
 こんなことを言いながら、お洒落なディナーや綺麗な夜景スポットみたいな大人なデートは苦手なタイプなので、むしろこういう場所の方が気疲れしなくて済む。フードコートで純粋に美味しいと笑い合える仲が最高だ。
 もちろんそこでランチを終えて、二階の書店に立ち寄った。彼は読書が苦手で、私が書店に入ると一緒に来てはくれるけれど、いつも退屈そうに隣をついてくる。
「これこれ、欲しかった小説」
 私が手に取った文庫本の帯に『性愛』と書かれているのを見た海翔は悪戯っ子のような幼げな声で、
「へー、エロい小説?」
 と聞いてきた。
「お下品な言い方やめりんね」
 思わず呆れた口調で言い放ってしまったけれど、海翔は私がちょっと嫌がることをしたがる。特にいやらしいことを。
「これを読んだシトの感想を見て思わず欲しくなったじゃんねぇ。あ、もちろんネタバレなしのよ?なんか口で言うのやらしいけど、真の愛のもとでは性欲は芸術になるって書いとるシトがいて」
 照れ隠しのせいで早歩きになってしまって海翔の顔を見ずにレジに向かった。ただ興味なさそうな相槌だけは聞き逃さなかった。
 映画館に入りポップコーンと飲み物を買ってくれている間に私はお手洗いへ行った。男性トイレの青いマークの方へ入る寸前で、知らない声が私の足を止めた。
「きみ、女の人は向こうだら」
 他の人に聞こえないようにと配慮のつもりか、知らない中年男性は小声でそう言って、赤いマークを指さした。それが裏目に出て低い小声が恐怖心を煽った。
「私は、男性です…」
 恐る恐る小声で言い返し、早歩きで入ってしまおうと踏み出した瞬間、腕を掴まれた。
「嘘こけ、胸見りゃわかるわ」
 鋭い目つきが学生時代のトラウマをフラッシュバックさせ、視界が歪みふらついた。脚に力が入らず抵抗できないままその場でしゃがみ込んだ。

「お前は女なんだら、ほんだら男もんの制服はいらんじゃんね。明日からこっちのスカート履いて登校しんね。その方がお前も嬉しいだら?なぁ」
 中学時代、母が私のことを「性同一性障害なので」と言った日から教師の対応が変わり、過ごしやすくなった半面、居心地が悪さが悪化したことも多かった。私一人だけ他の男子と対応が違うことを不満に思った男子生徒たちが何人も大谷先生という体育教師に文句を言っていた。それから私を厳しく見始めた大谷先生は、女子と同じ班にすることを他の大勢の生徒の前で強調して大声で言ったり、時には私を無視した。そうして誰ともペアを組めずに一人ぼっちで佇む私を見ては鼻で笑うようなやつだった。
 ある日私は耐えきれずに大谷に怒りをぶつけて筆箱を地面に叩きつけた事があった。その日の放課後から、すべてが一変した。
「私は女です。ですけど、身体は…身体は男です。その制服を…返してください」
 ズボンを脱がされ新品のスカートを投げつけられた私は必死でその言葉を振り絞った。このクソ教師、と暴言が胸の裡で爆発するよりも、私は自分の身体を呪った。怒りよりも、悲しさで涙が止まらなったのを覚えている。指先まで全身が震えながら、ひたすら「ごめんなさい」しか言えずに、地獄が終わるのを待つしかなかった。
 …ま。
 誰かに呼ばれている。真っ白の何もない空間で膝を抱える私を。
 …うま。
 何も思考できない。したくない。頬が一筋、また一筋と濡れていく感触は気持ち悪い。拭った指についた涙の跡も、全部、ぜんぶ。
 …ゆ…ま。
 私って誰だっけ。形は、温度は、いや、人間か。目は、口は、爪は、足は。
 何者だ。

「優麻!」

 視界に色と匂いがすべて巻き戻った。いつもと違う海翔の力強い瞳に焦点が合う。乱れた呼吸の感覚が戻り、辺りを見渡すと知らない人たちが私を見ている。この視線、多くの人間が私を化け物みたいに見るこの視線、知ってる。人の声や店内の音が雑音になり鼓膜をやすりで擦られてるみたいに五月蠅い。
 あ、だめだ、また。

「大丈夫、大丈夫」
 海翔の匂いが全身を包んだ。ゆっくり頭を撫でながら抱きしめられ、破裂しそうだった心臓は平穏を取り戻していく。スタッフが心配の声をかけてくれたのも聞こえたが、私は反応できず、海翔がすべて対応してくれた。
 映画を諦め、私を抱えて海翔の車へ移動してくれた。車内に入り、数分ひとりで呼吸を整えているとドアが開き、もう一度海翔が運転席に座った。
「大丈夫かやぁ?」
 自販機で水を買ってきてキャップを開けて渡してくれた。
「…うん、ごめん」
「あのおっさんに何されたん?」
 どうやらあの中年男性は海翔がどうにかしてくれたらしい。意識が飛んで気が付いたころにはその人はいなくなっていた。
「いやちょっと、びっくりして…何も危害は加えられてないから。だもんでそんなに心配せんでええから」
「心配せんでって、さすがに無理だら…」
 あんな姿を見せておいて放っておけと言う方がおかしな話だ。ごもっとも。
 海翔と恋人になって三ヵ月。
 私が勤めているアパレル店の常連客だった海翔が、声をかけてきてくれたことが始まりだった。
 付き合う前からお互い休日を合わせてよく会っていた。その頃にトランスジェンダーだということは打ち明けていたけれど、過去のことや細かい悩みなんかはまだ話したことがない。海翔は信頼できない人間なわけではないけれど、自分の弱みを吐き出すことに抵抗があった。それは生きてきた環境がそうさせたのか、自分がただ臆病なだけかはわからない。同様に、海翔のことも詳しく知らない。
「落ち着いたら、話したい時に話すで、それまでほっといてほしいじゃんね」
 彼の手に自分の手を重ねてそう言った。
 こういう時、男の人の手だなと思う。当たり前だけれど、自分の手も男なんだなと再認識してしまう。彼に自分の全てをさらけ出そうと思えないのはこういうとこかもしれない。私が悪いのだ。
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