風の街エレジー

新開 水留

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41 「滅正」

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「あんまりお近づきにはなりとうないかも」
 と、響子が言った。
 響子の視線を追って男の横顔を見た千代乃は、その男に対し、「禍々しい」という表現を使った。
 だが一見して男に不審な要素などなかった。
 紺色のスーツにグレイのシルクハットを被り、黒塗りの車の傍らで煙草を吸っている。ただそれだけである。
 ハットを目深に被り顔を伏せている為表情までは読めないが、別段怪しい動きも見られない。
 しかし場所が場所だけに、一般人でない事は間違いない。
 遠巻きに男を見つめ、眉間を曇らせ首を捻る響子の傍らで、じっと男を睨んでいた千代乃の顔が、はっと驚く表情に変わった。
 東京のアパートにて春雄からの電話を受けた響子は、その後居ても立ってもいられず赤江に行くと言い出した。もちろん千代乃と円加は止めたが、二人はこの部屋で大人しくしていて欲しいと響子に言われ、悪気のない彼女の真っすぐな言葉と瞳に、怒った。
 大人しくなんかしていられない。あなたが行くなら、私達も行きます。
 東京から赤江へ向かう新幹線には、偶然にも待ち時間を浪費せず飛び乗る事が出来た。当時東京から新大阪までの所要時間は「ひかり」に乗って三時間程である。赤江に戻った春雄が藤堂との接見を早々に打ち切られ、『正午前』に響子へ電話を入れた直後に部屋を出た彼女達であったが、都会から赤江地区のある地方へ近づくにつれて、公共交通機関の運行本数は激減していく。この時代であれば丸一日近くを移動に費やす可能性もあったが、これまた運良く、『夕方前』には赤江に到着する事が出来た。



 ここで一旦、時系列を整理しておきたい。
 東京での邂逅を経て赤江へと戻った一行ではあったが、各自が請け負った使命とは別の、個人的な所用を理由に、銀一達が東京を出発した時間にはバラつきがあった。
 一番最初に、新幹線の始発に乗って東京を出たのは神波春雄である。春雄は特に東京での用事がなかった為、藤堂義右への接見を果たすべく、当時赤江のすぐ側にあったという拘置所へと単身訪れた。接見はごくわずかな時間で打ち切られ、正午前には東京にある酒和会事務所の電話番号を確認するべく、響子の待つ自宅へと電話を掛けている。そこから酒和会・花原茂美との長話を経て、やがて再び立ち上がるまでにかなりの時間を要した事は、先にも述べた通りである
 一方、東京にいる成瀬秀人の元を訪れた池脇竜雄は、秀人の和歌山出張に同行する形で東京を離れた為、その段階ではそもそも赤江を目指してはいない。
 そして伊澄銀一、善明和明、藤代友穂の三名は、友穂が勤務する病院を訪れた後の出立となり、一行の中では最も遅い後発組となった。理由としては、二年間世話になった職場への挨拶がまず初めにあり、引継ぎやもろもろ求められる事後処理を終えた後、退職したいという意志を報告する為でもあった。友穂はこの時既に、赤江に戻る決心を固めていたのだ。単なる帰省としてではなく、生活の場を故郷へ戻すという意味である。
 銀一達三人が赤江の隣町にある繁華街で、馴染みとして利用している『雷留』を訪れたのは夕方前である。
 店の準備中であった留吉を呼び出して食事を作らせ、そして『死体置き場』にて西荻幸助に襲われたのは、その直後だ。
 実を言えば、面々の中で最も早くに赤江に帰って来ていたのは、昼前に春雄から電話を受けて部屋を飛び出した、志摩響子、天童千代乃、能登円加の三名であった。


 
 響子達がまず向かった先は、神波春雄の実家である。
 響子は先頭に立って春雄の両親に頭を下げ、天童千代乃と能登円加を紹介した。
 春雄の父母、成吾と素子は喜んで将来の嫁を家に上げようとしたが、響子は苦笑いでこれを辞退し、やんわりと春雄の行方を尋ねた。心配性のきらいがあるこの両親に向かって尋ね事をするのは、響子としては気が引けた。やはり勘の良い両親は、途端に顔を曇らせてお互いを見合った。
「厄介ごとか?」
 と成吾は響子に向かって言い、
「いえいえ、ちょっと時間を間違えて到着しまして。用事があるとかなんとか言うてらしたもんで、もう戻ってはるのかなあ、と」
 眼前で手をパタパタと振って答える響子に、成吾は腕組みをして、
「用事て、何や」
 と鋭い指摘を入れた。
「ははあ、春雄さんから聞いていらっしゃらないなら、私の口からは、何とも」
 追い込まれる響子を見やりながら、千代乃と円加は内心穏やかでいられなかった。
 本音で言えば、この場に春雄がいないのであればすぐさま別の家に向かいたいのだ。初めて会う春雄の両親と押し問答をしている時間が惜しい。嫌われるのを覚悟で、強引な態度に出られない響子の代わりにと、千代乃が口を開く。
「すみません、個人的な事で恐縮ですが、急ぎの用が控えております。本来ならば私達二人が、自らの言葉で私共の素性を語らねばならない事を重々承知の上で、大変失礼とは存じますが、ここは一旦失礼させていただきたく思います。響子さん、お願いします」
 頭を下げて神波家の玄関から出ようとした一行に、千代乃の口上に一旦は気圧された成吾が、
「バンが気にしよる事と関係あるんか」
 と、気を取り直して声を掛けた。
 三人は立ち止まり、響子がゆっくりと振り返った。
「バンさんて…友穂姉さんの、お父様の?」
 藤代友穂の父親は、名を伴(ばん)といった。
 成吾は頷き、
「こっちの山側やのうて、川を挟んだ向こう、丁度伴の家がある辺りをよう分からん連中がうろちょろしよる言うて、ずっと気にしよった。ちょっと見に行った感じでは四ツ谷組にも思えたが、どうもヤクザだけやない気もする。それか」
 それか、と言われても響子には何の事だか検討もつかない。兄・太一郎が関係しているようにも思えたが、ヤクザだけではないと言われては、もはや想像力が及ばない。
「なんで春雄は帰ってきとる。仕事はどないした」
「いや、あのー」
 成吾から視線を外してしどろもどろになる響子を見兼ねて、千代乃が言った。
「お父様、それは、どの辺りですか!?」
 成吾は目を白黒させて千代乃を見、
「どの辺り、て」
 と、初めて会う、若く美しい女性にまたもや怯んだ。
 妻・素子の肘打ちを浴びて我に返り、成吾が教えてくれたのは他でもない、伊澄銀一が刺されたという、例の廃倉庫を中心とした一画であった。
 早くに捨てたとは言え、響子にとっては故郷である。場所を聞いてぴんと来た。たしかにあの辺りは人通りも少なく、よからぬ事を画策する輩が額を突き合わせるにはもって来いである。ましてや殺人事件が起きた、惨劇の曰く付きと来た。
 ただ、そこに春雄がいるとは考えられなかった。藤代伴が懸念する通り、四ツ谷組か、あるいは全く所縁の無い余所者が入り込んで悪事を働こうとしているのだとして、その事と今響子達が春雄を追いかけて帰郷して来た事とは結び付きがないのだ。
「じき日が暮れる。行こうなんて考えるなよ」
 そう語気を強めて釘を刺す成吾に、
「まさか」
 と円加が大袈裟に手と首を振って笑った。
 家を出た所で、千代乃は神波家を離れる理由を無理やり作る為に、成吾の発言に対して興味がある振りをしたのだと語った。しかし、「なるほどー」と感心する響子と円加をよそに、
「ただでも、行ってみる価値はあるのかも」
 と思い始めていた。
 この時既に、千代乃と池脇竜雄の両親は何度も顔を合わせている。神波の家を後にして、次に向かうのはその池脇家だと決めていた。しかしその道中、千代乃は振り返って響子と円加を見据えた。
「響子さん。春雄さんは、時和会ではなくて、東京にある暴力団事務所の連絡先を聞いて来られたのよね?」
「はい、酒和会言うて、系列としては時和の団体です」
「こっちで和明さんと四ツ谷組が揉めた一件もありますし、新幹線で聞かせてもらった兄の事もあります。響子さんのお兄様にも深い事情がおありのようですし、今度の一連の事件はやっぱり、暴力団と切り離して考える事は出来ません。もし、春雄さんのお父様が仰った場所に今も不振な輩がうろついているとして、その中には、響子さんや円加さんが見知った顔がいてるやもしれませんよね。それって、何か重要なヒントにならないでしょうか?」
「え、見に行くって事ですか?」
 円加は恐怖を浮かばせた顔で、驚きの声を上げた。円加はつい先日、勤め先のキャバレーで四ツ谷組に軟禁されたばかりである。そのような反応になるのも無理はなかった。
「もし無理なら、ちょっと私だけでも、見に行ってみようかと」
 千代乃は若干後悔を滲ませバツが悪そうな顔で、円加に対してそう答えた。
 円加に無理を強いる気などない。しかし千代乃には、気持ちが逸るだけの理由があったのだ。
 東京から飛び乗った新幹線の車内で、到着を待つ間の三時間で彼女たちはたくさんの話をした。
 響子は主に黛ケンジ、千代乃の兄であるという天童権児についての思い出話を彼女にして聞かせた。傍で静かにしていた円加も、和明の口からケンジとユウジの話を聞いた事があり、常に二人揃って聞く名前であっただけに、千代乃の話したケンジとの兄妹関係には驚きを隠せなかった。
 響子の知るケンジは、春雄達四人の幼馴染にとって「喧嘩友達」のような存在だった。
 同じ街に生き、年齢もひとつ程しか違わず、言ってしまえば全員が幼馴染なのだ。しかし子供の頃からいつもケンジとユウジは二人きりでいたし、名コンビでもあった。
 春雄達とは、顔を合わせれば何故かいつもいがみ合い、取っ組み合いの喧嘩が始まった。理由がなんだったのか、それは当人同士にしか分からないし、もしかしたら子供特有の理由なき不安定さが原因だったのかもしれない。
 裕福な街ではなかったし、ケンジ達自身が己の出自を「橋の下で拾われた」「天涯孤独」とうそぶいていた事もあり、誰もが自分の置かれた環境や世界そのものにイラつき、常に怒りを抱えているのが当たり前の光景だった。それは何も、彼らに限った話ではないのだ。
 やがて年齢を重ね成長した後も、からかいの言葉を駆使してお互いを挑発し、危険なまでの流血騒ぎを繰り広げては、それでいてどこか楽しそうだったという。
 ケンジもユウジも何故か決まって「銀一くん」「春雄くん」と呼び、時に挑発的に響いたその呼び方が、彼らが暴力団の準構成員となって名を馳せた後も変わらなかった事を見ると、ケンジ達なりの親愛の印にも思えるのだ。
 そんな、響子の語ったケンジの在りし日の姿を、千代乃は涙を浮かべて聞いていた。そして、彼がユウジとともに殺されてしまった事を知ると、全身を悲痛なまでに震わせて泣いた。
「兄とは、ほとんど、兄妹らしい時間を過ごした事がありません」
 やがて、千代乃がそう切り出した。
「ユウジさんの事は、もちろん私も知っています。兄同様、親しく接した時間は多くありませんが、無口で静かな男の子だったのは覚えています」
「ずっと、生き別れのような状態やったの?」
 響子が聞くと、千代乃は涙を拭って頷いた。
「前にも申し上げましたが、私達は例外なく、ある選別を受けた後、適性があるとされる施設へ送られます。私は理由あって本体のある東京に残されましたが、兄とユウジさんは物心がついた頃には赤江に送られたと聞いています。兄は私と同じく天童ですから、育成や教育などの目的ではなく仕事のためにあの街での生活を余儀なくされたのだと、認識しています」
 その理由を、千代乃は『密偵』であると断言した。
 千代乃は言う。
「響子さん達にどこまで打ち明けてええものか分かりませんが、もし嫌ならすぐに忘れてください。今から向かう赤江には、私達『裏神天正堂』ですらその正体を掴む事の出来ない者達が、大昔から息づいています」
 円加が、不安げな顔で響子を見た。
 千代乃がそうと知らずか自らを裏神と名乗った事に一抹の不安を感じながらも、響子はそこを拾わず別の質問を口にした。
「春雄さん達が言うてる、『黒』ですか?」
 千代乃は唇の前に人さし指を立てて頷いた。
「彼らの実態に探りを入れるべく、兄たちは送り込まれたと聞いています。ただ…」
 やがて成長したケンジ達が、見知らぬ土地で春雄達と血塗れの乱闘を繰り返し、それでもどこか楽しそうだったのだと語った響子の言葉に、
「それはそれで、もの凄く、私は嬉しく思います」
 と千代乃は言い、大粒の涙を零した。
 実際、春雄達の知らぬ場面でケンジとユウジがどのような動きを見せていたのか、どのような思いを抱えて日々を生き抜いていたのかは、誰にも分からないのだ。
 藤堂義右の下で、時和会の準構成員として日本中に名を轟かせる悪党であった、その事に間違いはない。警察の手に捕まれば、重い実刑を免れない犯罪者である。
 しかし、四ツ谷組の看板ヤクザ・バリマツこと松田三郎が黒の団であった事とは違い、ケンジとユウジの正体が大謁教信者であり裏神天正堂の人間であったとしても、それ自体は彼らが負うべき犯罪者としての刑罰とは別で考えるべきであり、その点については他人に何かを言える事ではないのかもしれない。
 幸か不幸かで言えば、生まれ持った宿命だけを見れば不幸であろう。しかし、信じられない思いでケンジの話を聞いていた響子は、千代乃の零す涙を前にして、「そんなはずはない!私の知っているケンジさんは、裏神などではない!」とは、言えなくなっていた。例えどういう出自であれ、自分の目に映る確かなその者の生き様で、自分なりの判断を下す事にこそ意味があり、その他は全て無意味な思い込みに過ぎないなのだ。そういう意味では、響子にとってケンジとユウジは、やはり憎めない悪タレ小僧であり、同じ街で生きた幼馴染なのだ。
 決して仲が良かったわけではない。親しく話をした記憶もない。
 しかし響子は知っている。十四歳で春雄の元へ逃げた時、追手として差し向けられたケンジとユウジが、自分の境遇を哀れみ志摩の家から守ってくれた事を、知っているのだ。彼らが例え何であれ、どういう人間であったとて、その事は決して揺るぎようのない恩義として響子の胸に刻み付けられている。
 兄の死を初めて聞かされたこの時の千代乃には、春雄を追って部屋を飛び出した響子の付き添い以上の明確な理由が、衝動として湧き上がっていた。
『兄を殺したのが黒の団であるならば、私は…』
 千代乃が思いを口にする事はなかったが、響子と円加に悟られぬよう伏せたその目には冷徹な光が灯っていた。
 神波の家を後にした三人は、結局は揃って廃倉庫へと向かった。隣街出身とはいえ勝手の分からない円加を一人で残す事も躊躇われたし、何より円加自身が腹を括ってついて行く決心を口にした。
 ところがである。
 廃倉庫についてすぐ、千代乃は響子と円加を誘った事を悔いた。
 春雄の実家がある山側の区画から、街の真ん中を流れる川を越えて廃倉庫のある区画へと歩いて訪れる頃には、どっぷりと日が暮れてしまった。そんな夜の帳が降りきった、虫の音もしない暗澹たる場所に年頃の女がたった三人で訪れているのである。平気でいられる筈がなかった。
 廃倉庫は一年前に起きた殺人事件、及び殺人未遂事件の発生に伴い封鎖されたが、捜査が暗礁に乗り上げると、やがては存在自体が忘れ去られた。このような事件と事件現場が、実は赤江には数多く存在していた。
 周囲を見回しても、神波成吾が語ったような怪しげな人影などは見当たらなかい。ただし、黒塗りの高級車が一台、倉庫の大きな鉄製扉の前に停車しており、その傍らで静かに煙を吐く男が立っていた。
 三人は土地勘のある響子を先頭にこの場所を訪れてすぐ、スーツ姿の男の影を見かけるや息を潜めて移動した。男のいる廃倉庫に隣接する別会社の廃工場二階部分へと侵入すると、ガラスの割れた窓際に立って不審な車をそっと見下ろした。
 男との距離を開けてすぐ、円加が気になっていた事を口にした。
「あの倉庫、もう使われていないのよね? 何故横の街灯がついていたのかしら」
 それは円加だけでなく、響子も千代乃も疑問に思っていた。それと同時に、使われていない筈の廃倉庫に、本来灯るべきでない街路灯の明かりが灯っていたおかげで、不審な車と男の存在に気が付く事が出来たという事も理解していた。
 響子は頷き、
「分からんけど、けど多分、ああいう手合いが裏で工作して、不正な電気をどこかから引っ張ってきてるのと違うやろか。昔からそういう場所はちらほらあるんです。ここへ来るまでに走り抜けたあの空き家街も、薄ぼんやりと街灯がついてたでしょ」
 と言った。
 この時の響子の言葉には憶測が入り込んでいる。あえて詳細は省くが、街の防犯灯、街路灯は地域の自治体規模で設置・管理されている事例がほとんであり、シャッター街と化したアーケードや人の行き来が極端に少ない往来においても、防犯や交通安全の面から街路灯を設置する事はごく一般的とされていた。
 ただし廃業した会社の敷地内に立つ街路灯となれば、話は別である。
「と言う事はやはり、春雄さんのお父様が言わはった通り、二度三度、あの倉庫は使われてる、いう事ですね?」
 円加が確認すると、響子と千代乃は頷いた。
「でも何で一人なんやろう。誰か他に、ここへやって来るのやろうか。それを、待っているのやろうか」
 と、円加が小声で尋ねるように呟いた。
「おそろくは。でも、なんやろ、この感じ。あの男、どこかで見た事があるような気が、せんでもないです」
 響子が首を傾げてそう言うと、
「お知り合い?」
 と円加が隣の響子を見やる。
「んー。いや、お近づきにはなりとうないかも」
「あの男は、遠目に見ても怖いです。なんというか、禍々しいんです」
 千代乃が言うと、響子も同意するように頷いた。
「こんなん言うたらあれやけど、遠目でも、響子さんのお兄さんじゃないことは、分かります?」
 円加が言うと、
「服装の好みは似てるような気がしますけど、でも違います」
 と響子は答えた。
「兄さんよりはきっと、大分年上と違うかなぁ」
 響子の言い分に、円加は片眉を下げた。
「ええ? でもあの人結構若いことないです? 私こう見えて色々な殿方見て来ましたけど、あの男は大分と…いや。あれ、あれれ、そう言うたら確かに…なんとも言えん貫禄が…」
 角度と、時間帯の問題もあった。
 響子達が息を潜める、現場からは少し離れた廃工場の二階部分からでは、月明かりと不正な街灯の光はあるものの、ただでさえ俯き加減に煙草をくゆらせる男の人相が、今ひとつ判然としないのだ。紺色の上下スーツを身にまとう体躯は、それほど上背があるようには見えないながらもスマートな印象のおかげで、目深に被ったグレーのシルクハットと相まって、見た目に若く思えるのは当然と言えた。
 だが何よりも、夜の闇が、使われていない廃倉庫と廃工場の一体を覆い隠している。
 ほとんど動きもない男の年齢など、正確に見定められるわけがなかったのだ。
「…あ、あれ。あれ見て下さい」
 と、不意に千代乃が口を開いて、指を差した。
 響子と円加が目をこらす。
「あの車、トランクが、ホラ、…ホラ!」
「…動いてる? もしかして」
「人が、閉じ込められてる…?」
 響子は口を押え、円加は蒼褪めた顔でトランクを見つめた。




 この音は…まさか。
 …鈴の音が聞こえる。
 余韻を引かない、低めの音色だ。
 どこから聞こえてくるのかは、分からない。
 そう言えば、結局その鈴を見たことは一度もなかった。
 しかしその鈴の音色を、春雄はしっかりと覚えている。
 照りつける太陽とセミの鳴き声を背景にしても、吹雪く雪嵐に視界を奪われた時でも、赤江に古くから奉られる神社で、あの鈴の音は聞こえていたように思う。
 だが、もう聞こえる筈はないのだ。
 あの鈴の持ち主であるケンジは、死んだのだから。
 夢なのか、目覚めているのか、視界の暗さだけでは分からなかった。
 突然春雄の目の前に、ケンジが現れた。
 中学生ぐらいの背格好をしている。
『お前、…人殺したんけ』
 ケンジはそう言って、春雄を真っすぐに見つめた。
 鈴の音が鳴った。
 春雄が答えずにいると、ケンジは笑って、小学生になった。
『ワシ、お前ら嫌いじゃ』
 声変わり前の高い声を出して、無遠慮にそう言う。
『お前らには、ないもんがないもんな』
『ユウジとワシには、ないもんしかないわ』
『せやし、ワシ、お前ら嫌いじゃ」
 鈴の音が聞こえる。
 ケンジの身体が中学生に戻った。
『お前、人殺したんけ』
 ケンジはそう言って、握った拳を突き出した。
『この鈴やるわ』
 目の前で、何度も聞いた鈴が、とても大きな音で鳴った。
 しかし春雄は受け取らず、走って逃げた。
 あの時の鈴は、今はどこにあるんやろう。
 何故俺は、あの鈴を受け取らなかったんやろう。
 ケンジが頬を膨らませて、また小学生になった。
『ワシ、橋の下で生まれてん。そいで拾われた時によ、迷子にならんように、鈴もろうたらしいんやけど、そもそもワシに帰る場所なんてないから、迷子になんかならんのよ』
 鈴の音が聞こえる。
 ウソつけや、お前は…。
 口を開きかけた春雄の目の前で、突然ケンジの身体が伸びた。
 大人になったケンジの横にはユウジがいて、体を半分だけこちらに向けて微笑んでいる。
『ワシらこれから極道の世界拳一つで生きていかにゃならんもの』
 と、ドスの効いた声でケンジが言った。
『今ここで狂犬相手にしよるのは賢こないわ。ただ今回だけよ。ユウジの面倒見てくれた恩を今ここで返す』
 …あああ、待ってくれや。
 ケンジ、待ってくれぇ。
『神波春雄には手を出すな、そう言うといたるわ』
 ユウジは最後ににっこりと笑うと、
『なーんもしんはい、すんは』
 そう言った。
 待ってくれお前ら。
 すまんかった。
 俺ももう、そっちへ行くわ。
 だから待ってくれ。
 行かんといてくれ。
 響子。
 響子がいっつもお前らに…。
『やっはえよ』
 と、ユウジが言った。
 なんて? 
 ユウジ、なんて?
 もういっぺん言うてくれ、ユウジ。
『見直したで春雄くん。ワシらにはとうてい真似でけん発想よ。さすが狂犬いうところやわ。な、ユウジよ』
『ばーーん、いったええ』
 なんて? 
 なあ、お前夢ん中でも何言うてるか分からんで。



 鈴の音が鳴った。
 ケンジとユウジの姿が見えない。



 あれ…。
 お前らどこや?
 あれ? ここ、どこや。



『春雄くん…』
 ケンジの声が聞こえた。
 そして鈴の音が、聞こ…



「やったれやぁ、春雄くん」
 
 

 響子のいるその場所まで、春雄の絶叫は届いたという。
 まるで断末魔のような尾を引く長い長い絶叫は、確かに車のトランクの中から響いていた。
 だがそれは決して悲鳴などではなかった。
 ボコン、と音がして、トランクの中央部が盛り上がる。
 傍らに立つ男が驚いて振り向き、新たな煙草を取り落とした。
 響子は両手で口を押え、溢れ出る涙を堪えて踵を返すと、何も言わずに走りだした。
「響子さん!?」
 千代乃と円加が後を追った。
 トランクに投げ入れられ横たわっていた春雄に唯一利点があったとすれば、車に二度も跳ね飛ばされたが故、相手にも油断があったということだ。何も拘束されぬままの状態でトランクに横たわっていたのだが、それにしても狭い荷物入れで、どれほどの身動きが可能だったというのだろう。
 しかし響子は確かに自分の目で、トランクの蓋が内側から盛り上がるのを見たし、叫んでいるのは神波春雄に間違いなかった。
 若さと、怒りと、造船業で鍛え上げた肉体が引き起こした奇蹟と言ってもいい。
 春雄は体を起こし、自分の右腕と右肩を鉄板に押し当てた。頭は横に倒したままで、四つん這いに近い状態だったそうだ。そこから強引に片膝を立て、まるでジャッキのように全力でトランクの蓋を押し上げたという。
 もちろんトランクは開かない。しかし恐ろしいまでの圧力を内側から受けて、変形する。
 トランクの蓋は車本体と回転式のロックで噛み合っている為、基本的に『力』でこじ開ける事は出来ない。だがこの時の春雄には、そんな常識は通用しなかった。
 善明和明の握力は、左右共に百十キロあったと言われている。証明できる数字が書類で残されているわけではないし、これは現代の記録と比較しても到底信じがたい値である。しかし、酒の席で酔っぱらった若者達の悪ノリに怒った彼が、偶然テーブルにあった若者達のトランプを全て重ねて両手で引きちぎってバラバラにした、という話は複数人が証言したため本当のようである。実際の数字がどうであれ、和明の握力が恐ろしく強かったのは疑いようがない。
 そして神波春雄には、こんな逸話がある。単純な力比べでは、何を隠そう四人の中で最も怪力とされていたのがこの男だというのだ。春雄が強いとされた理由は所謂腕力でも握力でもなく、仕事で鍛えた背筋力である。こちらも和明同様実際の数字を証明できるものは何もないが、春雄は停車している自動車の前輪側バンパーの下に両手を差し込み、そのまま一人で持ち上げる事が出来たそうだ。もちろんバンパーは変形して外れかかったが、車体は銀一達の目の前で確かに浮いたそうである。仮に軽自動車であっても、例えエンジンを積んでいない後輪側であろうと、計算上は百五十から二百キロ程の重さである。
 そんな化け物じみた神波春雄の逸話で最も熱く語り継がれているのが、閉じられた車のトランクの鍵を内側から破壊した、というもだった。
 回転式ロックの機構部分なのか、シリンダーを引っ張るケーブルが切れたのか、詳しい事は最早知る意味がない。傍らに立つ紺色のスーツを着た男の目の前で、実際にトランクの鍵は変形して破壊され、そして蓋は開いたのだ。
 
 


 
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