風の街エレジー

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45 「破風」

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「お前、どないした、その格好」
 銀一が喉を詰まらせながらそう言った途端、肩で息をする友穂の身体からカーディガンが滑り落ちた。
 煽情的とは言い難い血塗れの下着が露わになり、銀一が駆け寄る。
 志摩は無意識に視線を外して、無言を通した。
「何があった」
 と銀一が問う。
「銀一の家に幸助さんが現れた。和明と翔吉さんが迎え撃ってくれたけど、逃げられた。和明が、また、刺されたんや」
 友穂の答えに、
「間に合わんかったか」
 と銀一は奥歯を噛んだ。銀一には何となく予想が付いていたのだ。その為に翔吉を家に戻らせたのだが、襲いかかる幸助の速度がそれを上回ったのだろう。
「和明は大丈夫や。春雄も戻ってきたよ」
「ほんまか!」
「それより、…太一郎さんか?」
 銀一と話す間も友穂の目がチラチラと志摩を意識している事は、銀一にも分かっていた。
 志摩は自分の名を呼んだ友穂の声が聞こえた様子で、片手を上げ、
「よう。目のやり場に困る格好でご登場やな」
 と、冗談と分からせる声色でそう言った。
 友穂は響子から借りたカーディガンを拾い上げて体の前を隠しながら、
「お久しぶりです」
 と声を低くして答え、
「…なんでここに?」
 と続けた。
「それは、俺が聞きたいな」
 と志摩は言った。
「銀一、お前、ここに来る事誰ぞに言うたか?」
 銀一は頭を振って、友穂を見た。
「…なんとなくです」
 友穂が答え、志摩は首を傾げた。
「なんとなくで、お前がここに来る事なんぞありえるのか?」
 志摩の言葉に、銀一と友穂が青ざめた顔を見合わせる。
 友穂の両肩を掴む銀一の手に力がこもり、友穂が顔をしかめた。
「お前ェ…」
 野獣のような目と鼻息で、銀一は志摩を振り返った。志摩が友穂の過去を知っているかもしれない事は、想像の範囲内だった。しかし改めてそれが現実と分かるや否や、銀一の腸が一瞬で煮えくり返った。それでも志摩には、銀一を恐れる様子は微塵にもない。
 志摩は友穂に視線をやり、
「…頭のええ女やな。銀一、友穂はお前の心を読んだのよ」
 と言った。その目には、儚さを憂うような優しさすら浮かんでいた。
「どういう意味じゃ。俺の心てなんや、お前に対する殺意か?」
「ふざける場面と違うぞ、銀一」
 そう言った志摩はやがて首を傾げ、眉を曇らせた。そして、
「…お前、ひょっとして、聞いてないんか?」
 志摩がそう言った瞬間、
「太一郎さん、やめて!」
 と友穂が声を荒げた。
 銀一は思わず友穂の肩から両手を離し、後退した。友穂の顔を覗き込むように怪訝な視線を向け、友穂はそんな銀一の目から逃れるように俯いた。
「なんや、友穂。…なんや?」
 銀一の声は静かで優しかったが、友穂にはそれが怖かった。
「銀一。こっち向け」
 と志摩が言う。
「お前は黙ってェ! 友穂、なんじゃ! この男に言えて俺に言えん事があるんか!」
「みっともない真似するな!」
 志摩の叫び声を合図に、銀一が志摩に向かって突進した。
「銀一やめて!」
 友穂が叫び、反射的に怯んだ銀一の身体を志摩が両手を前に突き出して止めた。
 銀一の両肩に手を乗せて、志摩は静かに言った。
「さっきの話の続きや、銀一。六年前、この場所で藤代友穂をめちゃくちゃにしたんは、…難波や」
 銀一は、何もされていないにも関わらず殴り飛ばされたような勢いで志摩から離れた。
 なんだこいつは。一体、なにを言い出すんだ。
 銀一は声を発する事も出来ずにふらふらとよろめき、志摩からも友穂からも離れるように後退る。
「しっかりせえ銀一。お前がそんなんでどうする」
 そう叱咤する志摩に向かって、
「なんで言うた!言うなって約束したやろ!」
 と友穂が牙を剥いた。だがそれはとうに折れて、とても小さくなった牙だった。
「何年前の話じゃ。そんなもん、もうとっくに言うて聞かせた思うがな。それを知ってるからこそ銀一は俺がここにおると踏んだのと違うのか。だからお前は、ここへ銀一を追ってきたのと違うのか」
 志摩が言い返すも友穂は何も言えず、カーディガンで顔を覆って泣いた。
「なんやそれ!なんで俺だけ我慢せなならんのや!」
 吐き捨てるように言う志摩の声が聞こえないのか、
「…難波?」
 と、銀一は茫然としたまま呟いた。
「逃げるな銀一。想像せえ」
「やめてよ!」
 友穂が叫ぶ。
「お前の大事な女を殴って組み伏し!デカい図体で押さえつけ!子宮が破裂するまで犯し続けたのはお前が笑顔で挨拶交わしよったあの難波やぞ!腹の底から憎め!何も知らんまま笑うな!殺したいほど憎め!」
 唾を飛ばして叫ぶ志摩は、本気で怒っていた。この六年間隠し続けた、ドロドロに熱された憤怒のマグマが一気に放出されたようだった。
 銀一が両膝から崩れ落ちた。
 友穂は銀一に駆け寄りたかった。だが、出来なかった。
 銀一は自分の両手を使い、万力で締め付けるように、こめかみを挟み込んだ。
 容赦なく志摩が続ける。
「お前、あの日この場所へ向かう直前に男と擦れ違ってるな。あの男は難波に頼まれて友穂をここへ連れて来た。あいつももともとは性犯罪者や。だが現場を目撃したあいつは、これまで自分が犯して来た罪の重さを初めて思い知った。あいつの目の前で繰り広げられたのは、自責の念に圧し潰されて自ら命を絶つ程鬼畜で凄惨な犯罪やった!目を閉じんな、銀一!」
「もうやめてよ!」
「銀一! 気付いてなかったんなら今教えたる!俺がお前の代わりに殺したんじゃ! 難波を! 錆ついたノコギリを使って! 腹を掻っ捌いて内蔵飛び散らかしたったわ! 屠場で仕事しよる、いかにも伊澄銀一でございって感じがするやろ!? ありがとう言え!」
「お願いやから、もうやめて。…それ以上銀一を傷つけんとって。響子のお兄さんを、憎みとうはない」
 友穂の言葉に、志摩は頬を張られたような顔になって、口を噤んだ。
「銀一、何も言わんでええから聞いて。お願いやし聞いて」
 銀一の目は空中に彷徨ったまま視点が定まらず、友穂の声にも反応しなかった。
「太一郎さんが私の事を知ったのは、もっと後。銀一に助けてもらった後よ。たまたま、何度目かの通院を見られて、私の様子のおかしさに直接病院の先生問い詰めたんや。太一郎さんは病院で大暴れしたと、後になって聞かされた。誰にも言わんといてくれ、私は頭下げてこの人に頼んだ。もしも知ってしまったら、間違いなく銀一はあの畜生を殺してしまう。あんな事の為に、…あんな事故の為に銀一を人殺しになんかさせてたまるか。私が隠してたのは、ほんまにそれだけや」



「…なんじゃぁ、その話」



 聞こえた声に、友穂と志摩が驚いて視線を向けた。
 そこには傷ついた和明と、彼に肩を貸したままなんとかここまで辿り着いた、春雄の姿があった。
 さしもの志摩も、和明と春雄に聞かせる事は想定外だったのだろう。後悔の滲んだ顔に手を当てて背を向けた。
 和明を支えていた春雄は無意識のままその手を離し、和明は両手両膝を地面について、四つん這いに倒れ込んだ。
 銀一を含め、あの日この三人は難波の死に直面している。
 壮絶な死に様であった。
 飛び出た内臓をかき集めて体内に押し戻した銀一は、激痛に痙攣する巨体の上で、遠い目をした難波の命が消えゆく様を凝視した。
 難波は最後に、二本の指を持ち上げて、何かを見たと伝えようとした。
『みあ。みあお。み、あ。うう、い…あ』
 難波の死に顔は、険の取れた安らかな表情に、銀一達には思えた。
 難波と西荻家の裏山ではぐれる直前、銀一と難波はこんなやりとりをしている。と場でノッキングハンマーを振る銀一の真似をして見せ、難波は明日も銀一が仕事かどうかを確認した。そうだと答えた銀一の身体を突き放し、帰れと難波は促した。彼なりの優しさに対し、責任感の強い銀一は鼻で笑って頭を振った。銀一の意識が途切れたのはその直後であり、次に難波を見たのは彼が死ぬ間際だった。
 あの時銀一の意識を飛ばした謎の犯人は、今ここにいる志摩太一郎だったのである。だがその驚きよりも、この瞬間まで難波の事を年の離れた友人のように思っていた、その事が銀一にとっては衝撃だった。
 それほど親しくはなかった筈の彼を、たった一晩山で共に過ごしただけの彼を、壮絶な散り際に立ち会った故なのか、情に厚く心根の優しい、友人の一人だと認識していたのだ。
『みあ。みあお。み、あ。うう、い…あ』
「…は。…あ」
 言葉にならぬ声が、銀一の喉から漏れ出た。
『見た。見たぞ。見、た。うう、志…摩』
 友穂が、銀一の名を呼ぼうと口を開いた瞬間だった。
 銀一の放った絶叫が、その場に居合わせた男達の細胞を揺さぶった。
 それは悲鳴だった。
 叫びでも、咆哮でも、怒声でもない。
 それはやはり、悲しみに膨れ上がる、崩れ行く魂の泣き声であった。
 志摩が被っていたシルクハットを脱いで胸に充て、夜空を仰いだ。そして膝立ちのまま同じく天を仰ぐ銀一に視線を送る。
「そうや銀一、そうやろ? 俺の抱いた怒りが、お前にも分かるやろ」
 志摩が言った刹那、
「ええ加減にしてや」
 と友穂が言い放った。鋭く、太い芯のある強い声だった。もはや懇願する理由などない。明らかにそんな、志摩に対する敵意すら感じる声だった。
「あんた、女をナメすぎや」
 友穂はそう言った。
「何度言わせたら気が済むんや。あんなものは事故や。私の人生はあんな事で潰れたりなんかせんし、女はそんなに弱い生き物と違う。知った風に、見て来た風なウソを偉そうに言わんとって。私は身も心も何一つ壊れてなんかないよ。私が黙ってて欲しいと太一郎さんにお願いしたのは、恥ずかしいからでも辛いからもでない。一時の気の迷いで後ろに手が回るような真似を、絶対にこの人にさせるわけにはいかんと考えたからや。事実を知ったこの人が余計な事考えんで済むようにや。これもとっくの昔に言うた筈や。なんでその気持ちが分からん。なんでそれを守ってくれんのや。…あんたもあの鬼畜と一緒よ。女を軽く扱う証拠。女をナメすぎよ」
「いやいや、俺はただ!」
 言い訳しかけた志摩を、今度は銀一のしゃがれた声が遮った。
「俺は自分が憎いよ」
 様々な感情を燃料にして燃え上がったその場の熱が、一瞬で冷えるような声だった。
「なーんにも知らんと、あいつの事、気持ちのええ男やと思うとった。あいつの死に様に、なんなら感動すら覚えたかもしれん。笑かすなあ、あいつが、…ええ? あの難波が、…友穂を」
「銀一!」
 悲痛な声を発する友穂に対し、
「分かってる」
 と銀一は答える。
「…分かってる。お前のそういう優しさはずっと前から変わらんよな。有難い事や。だからもう、俺がお前を疑う事なんかこの先二度とないやろう。みっともない姿を見せてすまん。そやけど、俺は自分が傷ついたとか、辛いとか、そんな事を考えてるんとは違うんじゃ。辛かったのはもちろんお前の方で、俺はお前を守ってはやれんかった。俺は自分を許す事ができんし、俺はお前がどんな過去を背負っていようと、この先どんな辛い出来事がお前に降りかかろうと、例え手足がもげようと、顔が半分吹き飛んで誰か分からんようなってしまおうと、お前が友穂なら、俺がお前の側から離れる事は絶対にない。ただ俺は、例えお前が何と言おうと」
 銀一は立ち上がって、志摩を睨み付けた。
「俺は自分の、この二つの拳骨で難波を殴り殺したかったよ」
 友穂は何も言えず、カーディガンで顔を覆い隠して崩れ落ちた。
 春雄が奥歯を噛んで、四つん這いの和明を助け起こした。
 銀一は静かに志摩を睨み付け、
「志摩。ありがとうなんか絶対に言わんぞ。それどころやない。犯人知ってて俺に言いに来んかった、お前の罪はとことんデカいぞ」
 志摩は生唾を飲み込んでゆっくりとシルクハットを頭に乗せると、見開いた両目をわずかに震わせながら、
「こっわぁー…」
 と囁いた。
 銀一の右側に春雄、左隣に和明が立った。
 春雄も和明も、顔面を蒼白くさせているにも関わらず、脂汗を滲ませている。友穂の過去を聞いたからだけではない。満身創痍なのだ。春雄は一見外傷がないように見える。しかし彼はつい先程二回も車に跳ね飛ばされている。おそらく服を脱げば、誰もが目を背ける程の打撲痕が大きく腫れあがっている筈である。そして和明は圧倒的に血が足りない。生まれ持った気性が、ただ寝ているだけの自分を許さない。それでも、立っているのがやっとであった。
「銀ちゃん、いけるか」
 しかしそう尋ねたのは和明である。
 銀一はちらりと和明を横目で見、『お前が言うな』とでも言いだげに鼻で嗤った。
「お前、凄いな」
 と言ったのは春雄だ。
「…何が」
 志摩を睨んだまま答える銀一に、
「俺も車に跳ねられたわ。死ぬか思た」
 と春雄は本音で答えた。「…二回もや」
 銀一と和明は思わず春雄の全身を下から上まで見つめて、
「なんでおるんよ、ここに」
「ロボットかお前」
 とぼやいた。
 三人の乾いた笑い声が低く揺れる。
「あかんなーぁ!」
 志摩が目を見開き、嘆くような声を張り上げた。
「前も言うたやろう、ワシはそういうお前らの甘っちょろうて軽薄なノリが致命傷やと…」
 そこまで言った志摩が口を閉じ、静かな目で銀一達を見つめた。
 この街に幼馴染と呼べる人間が幾人かいる中で、藤代友穂という存在は特別だった。それは年相応の思春期を経て、恋心を抱きつつ接して来た銀一に限った話ではない。春雄にとっても、和明にとっても、竜雄にとっても、藤代友穂は特別だった。そんな彼らが今、自分達の中にある感情を例えるならば『喪失感』である。清らかで、朗らかで、いじめになど決して屈しない強さを持ち、等しく皆に優しかった、かつて赤江に存在した小さくも最大の良心が、友穂だったのだ。
 友穂が変ってしまったとは、誰も思わない。しかし子供の頃、眩しくてまとも見る事すら出来なかった女の子を、この街の獣が傷つけてしまった。この街で生きる男として当たり前に備えている、そしてそれが己の全てと信じて疑わなかった暴力性が、大切だったあの頃の『良心』を押さえつけ、ねじ伏せていた。
 その事を知った時、春雄も和明も同じ事を考え、同じ気持ちに苛まれた。
 恥である。この街の男である事の、恥だ。
 死んだ難波に対し、それでも尚殺してやりたいと思いつつ、そんな自分自身に潜む暴力性そのものを鏡に映った恥であると感じていた。車に跳ねられようが刃物で刺されようが弱音一つ吐かぬ程痛みに強い彼らが、今はただ泣けて仕方がなかった。返して欲しかった。まだ恐怖や痛みに怯え傷つく前の、あの頃の友穂を返して欲しかった。だがそんな思いも男の身勝手さでしかないのだろうと、友穂の優しさを前に銀一達は気が付かざるをえなかった。
 志摩は目の前に立つ三人の男達の、涙に濡れた両目に浮かぶ感情が何であるかを知り、責める事を止めた。
 そして静かで長い溜息の後で、「もう帰れ」と言った。
「ここにおっても、ええ事ないぞ。もう帰れ」
「帰れるわけないやろ」
 そう答えたのは和明だ。しかし両膝に手をついたまま、体を真っすぐに伸ばす事も出来ぬ有様で、その声は涙に震えて小さい。
「お前にはとことん気の済むまで返さないかん借りがあるからのお」
 己に潜む暴力性を恥じる一方で、どうしようもなく抗えない怒りもまた途切れる事なく留まり続けている。和明は理性と本能がない交ぜになった気が狂いそうな程の葛藤を抱えてて、志摩を睨んだ。
「なんや?」
 本気で分からないという顔で眉を顰める志摩に、和明はぐっと体を起こして、
「とぼけんなワレ! 銀一刺した事と俺らタコ殴りにしてくれた事、俺ぁ死ぬまで忘れんからな!」
 と気勢を吐いた。志摩があの時もう一人現場にいた黒ずくめの男と二人して、和明と竜雄を一方的に痛めつけた事に対し、暴行を受けた当人である二人は酒が入るたびに奥歯をギシギシと言わせながら悔しがっていた。
 志摩は一瞬ぽかんと口を開け、
「まだそんな事言うてんのか」
 と呆れた調子でそう言った。
「…」
 和明はもはや何も言うまいと、志摩を睨み付けたまま首を左右に倒して戦意を見せつける。
 銀一が、そんな和明の肩に手を置いて後ろへ下がらせた。有無を言わさぬその力は、危うく満身創痍の和明をひっくり返らせる程に強かった。慌てて春雄が和明を支える。
「ここにおってもええ事ないとは、どういう意味や」
 と銀一が言った。
「…そのままや」
 という志摩の答えに、
「誰かと待ち合わせしとるんやな、志摩」
 と確信のこもった声で銀一が言った。
「なんでそう思う」
「来るんやろ。お前の言う、化け物とやらが」
「っは」
 志摩は楽しそうに笑い、すーっと片腕を上げて銀一達の後方を指さした。
「お前の役目はこんな事と違うやろ。はよ、友穂連れて帰れ。そいでもうお前らは赤江から出て行け」
「何をわけのわからん事を!」
 和明が尚も食って掛かると、
「化け物て、テンケンの事か?」
 と、今度は春雄がそう口を開いた。
 ぎょっとした顔で銀一と志摩が春雄を見やる。そして二人は一拍置いて、同時に言葉を発した。
「そうや」
「違う」
 そうや、と言ったのは銀一で、違う、と答えたのは志摩だった。
 銀一が志摩を振り返り、志摩は春雄を睨み付けた。
「春雄。お前は誰からその名前を聞いた」
「誰からて、なんでお前に教えなあかんのじゃ」
「ええから言うてみい。テンチヨか?」
「てんつゆ?」
「ッチ!緊張感のない!」
 志摩が舌打ちすると、銀一が小声で、誰からだと春雄に尋ねた。春雄が酒和会の花原茂美と答えると、銀一は頷いて視線を志摩に向けたまま、
「そのテンケンとやらが、こっちに向かってるらしいわ」
 と、先程志摩から仕入れた情報を伝えた。だが春雄は別段驚く風でもなく、
「さっきやり合うた」
 と言ってのけた。
 志摩が目を剥いて春雄を見やる。
 銀一と和明は言葉の意味が理解出来ず、黙って春雄を見返した。
「…いやだから、さっき襲われたんじゃ。車で跳ねられた。テンケンと、響子の親父の乗った車に」
「え、それって」
「庭師か!」
 和明と銀一が詰め寄ると、春雄は複雑な事態をどう説明したものかと思案する顔で後頭部を掻いた。
「あー、いやー」
「それでお前はなんでここにおる」
 志摩が割って入った。
「テンケン相手にしてなんでお前はここにおる。適当なフカシこくな」
 その言い草に、和明に変わって春雄が眉間に皺を刻んだ顔で怒鳴り声を上げる。
 今にも飛び掛からんとする勢いで怒鳴り散らす春雄と和明の前に立って、銀一だけが冷静な顔を浮かべていた。
 志摩が話した内容がウソでないなら、事は考えていたよりもずっと複雑で、はるかに危険だと直感したのだ。銀一はただ、この場に志摩がいるのではと半信半疑のまま訪れた。もしいれば、殴り合いでもなんでもしてやろう。それが、胸につかえる蟠りを解消できる唯一の手段なのではと、そんな単純な思考でしかなかったのだ。
 この街にテンケンが来ている事も、志摩太一郎と響子の父親が来ている事も、銀一はつい今仕方知ったばかりである。そして自分の知らない所で次々と起こる血生臭い死闘に、春雄や和明が巻き込まれている事を、たった今聞いたばかりである。
「何が起こってる」
 銀一が言った。
 力のこもったその声に、春雄と和明が黙った。
「西荻幸助に襲われた事も、春雄がテンケンに襲われた事も、お前がここにおる事も、その化け物とやらがこの街に来た事も、全部繋がっとるのやろう? 今赤江は一体どうなってるんや。お前らは一体何がしたいんじゃ!」
 吠える銀一の言葉を引き継いで、和明が言う。
「幸助は言いよったぞ。自分が一番殺したいのは藤代友穂やとな。なんでなんじゃ!なんでお前らぁ関係ない人間ばっかり狙いよる! 幸助だけやない。お前とお前の親父は何を考えとるんじゃ!」
 …友穂を?和明の言葉に、聞き捨てならぬ顔で銀一が反応する。
 一団から少し離れた後方で蹲っていた友穂が、ゆっくりと顔を上げた。
 だが真っ先に声を発したのは、春雄だった。
「それは違うぞ和明。俺らが言うてた庭師は響子の親父やない。テンケンが、庭師なんや」
「ん、ん」
「何?」
 理解が追い付かず、銀一と和明は混乱した顔で春雄を見返した。
 東京にある大衆酒場にて響子の告白を聞いた一行は、『庭師』の正体が志摩響子の父親であると、確信に近い心境にまで至った。しかし今日春雄がその目で見た庭師は、自身を大謁教教主並びに裏神天正堂当主、天童権七であると名乗ったのだ。
 銀一が、志摩を振り返った。
 志摩は真顔で、混乱の極致にある一団を見据えていた。
「…お前…」
 銀一は突風のように襲い来る寒気に背中を撫で上げられ、額に浮かぶ冷や汗を拭った。
「お前、あの日西荻の敷地で、庭師の格好した男と一緒におったよな」
 銀一の言葉に、春雄と和明が顔を合わせた。
 確かにそうである。響子の告白を聞いた彼らは、あの時西荻家の敷地内で、門扉を挟んで向かい合った二人の様子を思い出して驚愕し、あの二人が親子だったとは、と歯噛みしたものだった。
 だが違うのだ。あの時志摩が相対していた庭師の格好をした男こそ、天童権七だったのだ。西荻家の使用人が誰一人その存在を知らぬはずである。
「志摩。一つだけ正直に答えろ。お前、さっきの話の口振りやと相当裏神を嫌うとるな。そのお前が、なんであの日あの場所で、テンケンと一緒におったんや」
 志摩は鼻から静かに溜息を逃がし、
「…なにがあの日、や」
 と独り言ちるように呟いた。
「あ?」
 眉を顰める銀一らに対し、志摩は目を剥いて噛み付いた。
「なにがあの日じゃ!ずっとやろ!お前らが平和ボケして下らんバカ騒ぎをしよる世界の反対側で!ずっと俺がお前らを守って来たんじゃろが!思い出せ!藤堂から初めて『黒』の話を聞かされた日の帰り道、俺はお前らの後を付いて歩いた!なんでついて来よるとお前らが聞いたあの時!俺はお前らになんと答えた!思い出せ!」


『護衛じゃ』


「友穂だけやないぞ!お前ら全員の命が標的じゃ!銀一!お前先生と話しよったんじゃないんか!何をいつまでも寝ぼけた事言いよるんじゃ!何のために友穂は襲われた!なんの為にケンジとユウジは赤江に送り込まれた!なんのためにテンチヨは竜雄に近づいた!なんのために榮倉は殺された!答えは一つしかない!…お前ら全員が裏神の的に掛けられとるんじゃ!なんでか教えたろか!その昔、芥部衆を抜けた伊澄翔吉とお前らの親父連中が!足抜けの代償として天…」
 志摩が、叫ぶのをやめて俯いた。そして右足の靴のつま先をトントンと地面に打ち付け、腰に両手を当てて、ゆっくりと深く、息を吸って、吐いた。志摩は心の中で十数え、そして顔を上げた。
 しかし銀一達の様子は変わらなかった。
 顔を赤くし、息苦しそうに瞬きを繰り返し、完全に思考か停止したように茫然自失していた。
 志摩は言った。
「だからもう、帰れや、とっとと。お前らとは住む世界が違うんじゃ。だから和明にも言うたはずや、お前らに話す事なんか何もない。なんの意味もないて」
「太一郎さんは、最初っから、ほんまは味方なんか?」
 そう言った友穂の声に、なんとか銀一達は息をする事を思い出した。だが誰もが両目を見開いたままで、思考の整理が追い付いたわけではなさそうだった。その証拠に、誰一人友穂を振り返る者がいなかった。
「強いていうなら」
 志摩は言う。
「誰の味方でもないわ。…仕事やものな」
 自嘲気味に答える志摩に対し、友穂は生来の優しい声で話しかける。
「仕事? ほな、太一郎さんを雇ってる誰か他の人が、おるの?」
「おるよ」
「誰?」
「名前言うても分からんよ。友穂は会った事も聞いた事もないやろう」
「どういう人?」
「んー、正直よう分からんな」
「ちゃんと答えて。イタリア人?」
「イタリア!?」
「ふふ。ううん、関係ないわな。でも色々とぼける割には、私や、銀一らを護衛する仕事を太一郎さんに与えたんやな、その人は」
「護衛することが仕事の目的やない。そんな甘いもんと違う。お前らが想像できるような事と違う」
「でも私が襲われて、太一郎さんが大暴れした理由が分かったわ。仕事をとちった、そう思ったんやね」
「…」
「響子はどこまで知ってるん?」
「あいつは何も知らん」
「そうなん。…千代乃から少しだけ話を聞いた。ということは千代乃のお父さんが、今赤江で起きてる事件の黒幕、という奴なんやな」
「そうやけど、違う」
「あってるのに、違うの?」
「…友穂は強いなァ」
 淡々と、まるで思い出話をかわすように志摩太一郎と話を続けた友穂が、ゆっくりと立ち上がった。響子から借りたカーディガンに袖を通し、ボタンを留め、乱れた髪を整え、やがて毅然として涼やかな表情でこう言い放った。
「生きてますから」
「…ほお」
 友穂の言葉に、志摩は頬に赤味がさす程感心し、声を漏らした。
「色々あるけど。まだ私生きてますから。生きてる限りは、負けやないんですよ」
「銀一。お前の女は凄いな。お前には勿体ないよ」
 志摩の言葉に友穂は照れ、それでも、
「何を言うとるの。今言うた言葉は、私が昔銀一にかけてもろうた言葉よ。この人をナメたらあかん」
 と銀一を立てる事を忘れない。志摩は半ば呆れたように頷き、
「阿保のくせして、言うことだけ一丁前やもんの」
 と皮肉を言う。友穂が怒った顔で睨むと、志摩は両手を上げて降参の意を示した。


 何度も、銀一の口を突いて言葉が出かかった。
 これまで自らを納得させて来た一連の事件に対する事実関係が、百八十度反転する。それ程の激烈な勢いに、まさしく翻弄されたと言っていい。今更、である。やはり志摩太一郎は連続殺人事件の犯人あるいは共犯者ではなかった、敵どころか味方でしたと言われ「はい、そうですか」などと言える筈もなく、「もしかしたらそういう可能性もあると思っていました」と、都合よく納得する事など出来なかった。
 成瀬老刑事は、志摩は黒ではないと言った。だが、志摩は己を黒だと語った。
 銀一の父である翔吉は、志摩家は黒の団であると話して聞かせた。
 藤堂義右は、志摩を限りなく黒に近いと信じていたし、それなりの情報を掴んでいる様子も見受けられた。
 だが銀一達は警察関係者でも探偵でもない。自分達の足で様々な情報をかき集めたわけではなく、そのほとんどが人から聞き受けただけに過ぎない。己の目で見た物だけを真実とするならば、銀一達は何ひとつ真実を知らないと言っても、過言ではないのだ。
 …なら、ならばケンジとユウジはどうだ!
 そんな疑問が、銀一の口から洩れ出ようとした。しかし、目の前で志摩がケンジ達に暴行を働いた場面は見ていないし、ユウジの死をきっかけに自ら首を掻っ捌いたのは他ならぬケンジ自身である。銀一の背中を刺した男と行動を共にしていた、そう見受けられる状況においても、ただその瞬間そこに並んで立っていただけで、共謀関係を示す証拠にはなりえない。刃傷を受けた銀一を庇った竜雄と和明を長時間にわたっていたぶり、滅多打ちにしたという、その事ですら、実際竜雄達が顔を上げて誰がどのように危害を加えていたかを見たわけではない。
 全ては推測と先入観でしかなかった。
 ともすればあの時、志摩が現場にいなければ、瀕死の銀一を庇った竜雄と和明はあっさりと殺されていたのか?
 銀一は既に、この世の者ではなかったとでもいうのか?
 志摩は、本当に銀一達を『護衛』していたとでもいうのだろうか。
「翔竜成明鏖殺」
 不意に、志摩がそう言った。
 銀一達の意識が、再び志摩に焦点を合わせた。
「事態はお前らが考えてるより遥にややこしい。そして、正直お前らにはどう足掻いても辿り着けん場所に、この一連の事件の答えはあるのや。だからと言うて時間は止まってはくれんし、なんとかせんならん。そう考えた時、これはもう先生にも動いてもうしかない、そう考えた。お前らがなんぼ程ボンクラでも、さすがに自分らの親の名前が羅列されたあの文面送り付けたら、話くらい聞きに行くやろ?」
「お前が書いてよこしたんか、あの紙」
 直接受け取った和明が、呻くようにそう言った。
「俺が書いたんじゃ。郵送する気やったから、死体やったはずの和明に直接渡す事になる思わなんだけどな」
 頷く志摩に、銀一達は大きく深い溜息を付いた。それしか反応の仕方が分からなかった。
「せや、友穂見てて一個思い出したわ。銀一、お前にひとつ頼みがあるんじゃ」
 志摩が言い、銀一は黙ったまま首を傾げた。
 その刹那、志摩は向かって左に視線を飛ばした。志摩の顔からは束の間の柔らかさが消し飛び、恐ろしいまでの敵意が代わりとしてその目に浮かんでいた。
「…なんの音?」
 耳を澄ませる一団で、やがてそう声を上げたのは友穂だった。
「…面倒臭いんが来たわ。先生、恨むでぇ」
 志摩が暗闇を睨んだままそう言い、銀一が眉を吊り上げた。
 その時、暗闇より黒い何かが静寂を切り裂いて現れた。
 










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