芥川繭子という理由

新開 水留

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15「事件」

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何故こうなってしまったのか。
物事の渦中においては、それを考える事ほど無駄な時間の過ごし方はない。
起こってしまった今、自分に何が出来るかを考える以外に先へ進む方法などない。
では、何が出来るのか。
物事には順序があると言えど、人の気持ちは時にその順序を無視する事だってある。
過去が未来に繋がっているように、今ここで起きている目の前の事が全てだとは言い切れない。
答えを探そうと顔を上げた時、過去、現在、未来全てに思いを巡らせる必要がある。
全ては繋がっている。良い事も、悪い事も。良い思い出も、悪い思い出も。良い予感も、悪い予感も。
全ては繋がっているのだ。



2016年、5月23日。
URGAコンサートin「ドーンハンマーズ・バイラル4スタジオ」。
彼女が即興で名付けた素敵な一夜には、本番前の映像が存在する。
そこにはとても重要な、「ヒント」が散りばめられていた。
スタジオ内には一人で音の反響をチェックするURGAの姿。先程伊澄翔太郎と受けたインタビュー時とは若干衣装が変わっている。こういう姿にも、彼女なりの拘りとプロ意識を感じる。別室のPAブースから時折低い声が聞こえてくるが、カメラの映像からは明瞭に聞き取る事が出来ない。おそらくそれは音響を担当した真壁の声だが、リハーサルというにはあまりにも簡素だった。立ち位置と、マイクの感度、スピーカーから出る演奏の響き、音量、モニターからの返り、発声などを一通りチェックした後、ほんの10分程で「オッケーです」とマイク越しに囁くURGA。演奏が止むと、「一旦戻りますか?」というPAブースからの声が聞こえる。
「どうしようかな。…このままでも行けますよ。ここ来るまでに気持ちは作ってきたので」
「じゃあ、呼びますね」
「お願いします」
どうやらリハ終わりでそのままコンサートを始めるようだ。普通は違う。本来演者は一度楽屋へ戻り、客を呼び込んだ後SEと共に登場する。そこを飛ばしたようだ。しばらくの間、URGAが緊張した面持ちでマイクを握り、「ん、ん」と喉を鳴らす。
アアーー、ハーーーー。
先程から何度となく繰り返す発声練習。緊張感が漂う。やがて、池脇を先頭にドーンハンマーの面子がスタジオに入って来る。既にスタンバイしているURGAを目にとめ、驚いたように立ち止まる。
「え、いいの?」と池脇。
「どうぞ」微笑んで促すURGA。
了解したような顔でメンバーはソファーの所までやって来ると、配置を横一列に並び替えて腰を降ろした。そこへPAブースから少し慌てた声。
「あ、一旦スピーカー類の接続解除してつなぎ直します。ごめんなさい!」
「真壁ー」と池脇が嘆き、神波が無言でブースへ入って行く。
「おおう。ライブって感じー」マイクを握ったままお道化て見せるURGA。
本番に向けて集中力を高めていればいる程こういうイレギュラーな事態は避けたい筈だが、そこはやはり百戦錬磨の余裕が見える。
「一旦戻りますか?」と繭子が気遣いを見せると、URGAは微笑を浮かべたまま首を横に振った。彼女はそれでもマイクを離すことなく、足元や後ろを振り返りながら、
「あのさ。さっきから気になってたんだけど、この、ここのドラム前からフロント3人までのスペースに散らばってるこの、赤いシミのような点々は何?」
と言う。すかさず池脇と伊澄が答える。
「血」
「血」
「えええ。裸足になんなくて良かったー!」
「すみません、なんかそこらへんもう掃除しても落ちなくて」と繭子が謝る。
「いいんだけどさー、なんでこんなに飛び散ってるの? 殴り合いでもしてるの?」
「いやいや、普通弦ぐらい切れるじゃない」と伊澄。
「弦が切れたぐらいでこんなになんないよ!」とURGA。
「気づかなかったり、無視して弾き続けたりすると、いつのまにか血吹いてたりするよな」と池脇。
「どんだけバイオレンスな現場なの。特にここ、ここ酷い!」
URGAは自分の立っている場所から右斜め前の床をつま先で指し示す。
確かにそこは、他の部分よりも飛び散っている血の跡の範囲が広い。
なんだっけ、という顔で繭子が左隣を見る。
左隣に池脇、一人分空けて、左端に伊澄が座っている。
「えーっと、あれじゃない、竜二の、あれ、ガッ!っていう。喀血」
独特の間でそういう伊澄の言葉に、思わず繭子が吹き出して笑う。
「血吐いたの?」
本気で心配そうな顔をするURGAに、池脇は少しバツの悪そうな顔で答える。
「いやいや、しょうもない話なんだけど、物凄い勢いで舌噛んじゃって。痛いし、痛い事に腹立つし、しばらくそのまま歌ってたんだけど、なんか歌いづらいぞと思って血吐き出したらちょっと舌の先っぽ噛み切ってたみたいで」
「やめて!聞くんじゃなかった!」
URGAは自分が痛みに耐えるように、両拳を握ってぴょんぴょん跳ねた。
繭子も自分を抱きかかえるように両腕を回し、とても嫌そうな表情を浮かべる。
「いや、でもちょっと。ちょっとよ」
と見当違いなフォローを入れる池脇を見つめて、URGAは思い出したような顔でこう言った。
「あ、それで少しだけ、英語の発音が舌足らずなの?」
間髪入れずに池脇が食ってかかる。
「うるせえな!あんただって子供みたいな発音じゃねえか!」
「失礼な事言うな!」とURGA。
「竜二さんが悪い!」と繭子。
「なんでだよ!実際そうじゃねえか!」
「まだ言うか!」
言い返すURGAも含めて全員が笑っている。
「翔太郎くん、私って子供みたいな発音してる?」
URGAがムキになった振りをしながらそう尋ねると、伊澄は一瞬黙って、
「子供みたいな発音って言うか、小っちゃい女の子みたいな声だな、と思う事はあるよ。発音は素晴らしいと思うけど」と真顔で答える。
「よし!」池脇に向かってガッツポーズを見せつけるURGA。
「それそれ、それが言いたかった。俺らと歳変わんねえくせにめっちゃ、なんだろ、少女みたいな声出すだろ!なんだあれ!」
池脇の言葉にURGAは怯む様子もなく、腰に手を当てて言う。
「それはね、女の子が幾つになっても使えるという伝説の魔法なの、という妄想は置いといて。別に意識して若作りしてるわけじゃないんだけどね、イントネーションを意識するとそうなるらしいんだよ。私が自然に発音しやすい声で喋ると、どうも高くなるみたいで」
「でも歌ってる時は全然そんな事感じないけどな」
伊澄がそう言うと、URGAは笑顔で答える。
「MCとかでしょ? 海外公演で挨拶とかするじゃない、そういう時になるかな。緊張してるってのもあるんだけど。変?」
「変じゃないです!」と繭子。
「日本人て若く見られるでしょう?だから普通に今でも可愛いねーって言われるよ」
「自分で言うな!」池脇の鋭い突っ込みが飛んだ所へ、神波が戻って来る。
「何を騒いでるんだお前らは」
「URGAさんがいくつになっても可愛いという話」と繭子。
「繭ちゃん100ポインツ!」
喜ぶURGAを無視して、
「お前も見習えばいいのに」
さらっと言い放ち、神波は池脇と伊澄の間に腰を下ろした。繭子は両手で顔を覆い、ソファーの背もたれに体を倒す。
「あー!ひどー!大成くんマイナス100ポインツ!」とURGA。
しかし繭子は傷つく素振りを一瞬で引っぺがし、「やっぱそうだよなー」と笑顔で答えた。
「いやいや、必要あるかい?」と池脇が言う。「URGAさんとお前じゃあなんか目指してる所違うと思うんだけど」。
「でもさー、思うんだけど」とURGAが低めのトーンで言う。「私達に託された人生って一回しかないじゃない。泣いても笑っても、一回こっきりで、いつ終わっちゃうかも分からないでしょ? 私は、自己、顕示欲…なんだっけ、自己アピール、そうそう、自己アピールをする事で人から可愛いって思ってもらえるんだとしたら、必要だと思うけどな。もちろん相手にもよるけどさぁ」
「なるほど」と頷く繭子。
「繭ちゃんと違って、歌ってない時の私は本当に普通の人なので。いつまでも若くいたいなーとか、可愛くなりたいなーっていう思いはさ、そう思える相手がいるっていう事がもう、とっても素敵な事だと思うし、幸せな事なんだよ」
「なるほどー」
「お前分かってんのかほんと」
なるほど、しか答えられない繭子に池脇が言う。
「分かってますよー!ただそういう、アピールしたい人が、いないというか」
「あれれ。そういう事言っちゃう?本当に?」とURGA。
「いやー、どうなんでしょうねえ」
右手でずっとスタンドマイクを握り、左手を腰に当てたまま、URGAが意味深な笑みを浮かべる。
「ここにいる殿方達は選択肢に入っていないわけね?」
「そうですねー」
「はっきり言うなー」と池脇。
「勿体ないと思うけどねえ」とURGA。
「いや、タイプじゃないとか好きじゃないっていう話ではないですよ。むしろ逆ですけど、だからこそ無理です」
「あはは、うん。分かるよ。…でもあれだよね、竜二くんの歌詞読んでるとさあ、たまあに、良い事言うじゃないかコノヤロー!ってなる事あるよね。ルックスと違うぜー!優しい男だぜー!って」
URGAが少しはしゃいでそう言うも、メンバーはピンとこない顔でお互いを見合っている。
コメントを差し挟むなら「そうなの?」と言っている顔である。
「なんで誰も何も言わないの?」とURGA。
「いやだってこいつが何歌ってるかなんて知らないから」
事も無げに伊澄がそう言うと、
「う、おお、え。馬鹿なんじゃないか君達。ちゃんと共有しなよ。たまにめっちゃ良い事言ってるんだから」
とURGAが嘆きの言葉を言い放つ。笑い声が響く。
「たまになんだ。8割どうでもいい事なんだな」
拗ねた口調で池脇が言うと、URGAが大きく頷いた。
「うん、8割意味分からないしどうでも良い事叫んでるんだけど、たまにどうしたんだって言うくらいメッセージ性のある歌を歌ってたりするの。私はやっぱりそういう、誰かに宛てた思いがこもっている歌詞が好きだから、そこには反応してしまうかな。ああ、こういう事を考える人なんだなー、とか。私とちょっと似てる所あるなー、なんて思ったり」
「っへー!例えば?」
目を輝かせて尋ねる池脇に、URGAは目をくるりと回して微笑む。
「アルバム名は覚えてないんだけど、『アイオーン』って言う曲ない? あの、出だしがめっちゃ格好良いやつ。楽器演奏と竜二君の叫びが同時に始まる歌。デデデンデデンデデデン!アアアアー!みたいな」
「あはは!可愛い!」嬉しそうに繭子が言う。「『aeon』、私も好きです。『7.2』ですね。2曲目の」
「そうなのかな?あれは別れの歌なんだよね。ああ、凄いな、ここまで言えるって、いいな。素敵だなーって。私多分このメンバーの中で一番気が合う人だと思う、竜二くんが。同じボーカリストだっていうのもあるし、考え方や性格もなんか似てる気がする。腹割って色々話してみたいもん。親友になれそう」
「おおお。イエーイ」嬉しそうに手を叩く池脇。
「でもあれだよ。胸がキュンとしたり、ウフっとかキャってなったりするのは翔太郎くんみたいなタイプなの」
「おい!男心を弄んじゃねえよ!」
「あははは!」
二人の漫才のようなやり取りに伊澄も神波も言葉はなく、最早笑うしかないようだ。
「すっごーい、天地が逆さに引っくり返ってもそんな大胆なセリフ言えない!」
繭子だけが真剣に目をキラキラとさせている。
「思わない事は言わないで良いんじゃない?ただ言いたい時にちゃんと言いたい事を言わないと、後で絶対後悔するよ」
「分かります」
「面白い事思いついた時は考えるより先に言っちゃってる時あるけどね(笑)。普段からそこは意識しながら生きてる所あるから。だからね、今日ここへ来て歌おうって思ったの。歌の歌詞というか、言葉もそうなんだけど、それ以上に今日は私の心を届けに来ました。…にしても長くないか?」
怒った振りをして、URGAがPAブースの方を見やる。
真壁の声が聞こえる。「あ、終わってますよ。面白かったので聞いてました」
響き渡る爆笑。
手を叩き、のけ反り、頬を染める、それぞれの幸せな笑顔。
そこにあるものが全てではない。そこにないものも決して無関係ではない。
やがて、その日のコンサートが始まる。




2016年、6月8日。
沈鬱な空気に支配されたスタジオ内に今、メンバーが集まっている。唯一、伊澄の顔にだけ普段と変わらない微笑みが見て取れる。ソファーに座っているのも彼だけだ。繭子はソファーの肘置きに腰掛けているが、顔はカメラと反対側を向いている。
スタジオ入口に近い場所に伊藤織江が立ち、マイクスタンドの位置に池脇。
神波が一人だけ少し離れた場所、PAブースの入り口横の壁にもたれて立っている。
私もこれまで幾度となくバンドマンの痴話喧嘩、男女の縺れなどを目の当たりにしてきた。個人的な事を言わせてもらえば、もうそこには何の感情も興味もない。この時はまだ事情を掴めていない事もあり、ただの傍観者に過ぎない私は「こういう空気はやっぱり好きじゃないな」程度の感想しか抱いていなかった。
伊澄翔太郎と関誠の恋人関係が終わった。言葉にするとそれだけなのだ。それだけなのだが、15年という時間の重みは一行の言葉に収まりきるものではない。それぐらいは色恋に疎い私でも分かる。だが彼らの人間関係をまだどれほども理解していないこの時点の私にとって、何より驚いたのが神波大成の狼狽であった。私は勘違いしていたのかもしれない。寡黙で余計な事を口にしないこの男は、何事にも取り乱す事のない冷静な人間だなのだと勝手に思い込んでいた。それはあながち間違いではないかもしれない。だがそこにはある種の、感受性の低さや冷徹さを想起させるニュアンスも含まれてはいないだろうか?しかしながら、全くそんな事はなかった。だが、友人とその恋人が別れる、その事がこれ程まで彼に影響を与えるなど私に予想出来るはずもなかった。私に見えている事以上の意味がそこにはあるのだろうし、そう思う他なかった。見れば伊藤織江の顔も蒼白である。ともすれば倒れてしまいそうなほど弱々しい。繭子の背中もいつもより丸くなり、常に明るく下らない冗談ばかり飛ばしている池脇の眉間に深い皺が刻まれている。その中で唯一、伊澄だけが微笑んでいる。この息を呑む程の異常な空気に、私は何も考えられなくなった。



「いつ?」
と言葉を発したのは伊藤織江である。
伊澄は大きく鼻から息を吸って、煙草の煙と一緒に言葉を吐き出した。
「一昨日。話をしたのは一昨日だな。で、そういう結果になったのは昨日。ってかなんでこんな会議みたいになってんの。あいつが誰かに何か言ったのか?」
「うん、私が聞いた」
いつになく声の小さい伊藤の言葉が、叱られた子供のように頼りない。
沈黙。
特に、誰も何も言わない。
言う言葉などないのだろう。伊澄が認め、関誠が伊藤にそう告げたのなら、2人の関係は確かに終わったのだろう。しかしスタジオ内に漂う空気に内包された感情は、とても複雑だったように感じられた。
本当か?これでいいのか?あり得るのか。なんで今なんだ?切っ掛けはなんだ。理由は?なぜ受け入れたんだ。怒ったらいいのか?悲しんだらいいのか?誠をこの場に呼ぶべきじゃないのか。
「もう、どうにもならないんですか」
繭子が呟くように言った言葉に、伊澄はいつものように即答する。
「どうにもって。そうなんじゃないの。何をどう変えようっての」
「一方的にって事ですよね。誠さんからそう告げられたからって。そういう事ですよね」
「他に理由なんかないだろ」
「そんな事あります?ついこないだ話したトコなんですよ。15年前からだねって。正直な話、私人の恋愛事情とかどうでもいいと思ってきましたけど、これはなんだか納得できないです」
「俺が振ったって言いたいのか?」
「そうじゃなくて。信じられないって思うだけです」
「何を?誰も嘘はついてないけど」
「ちゃんと話したんですよね。どうやって納得したんですか?」
「なんでそんな事お前に言わなきゃなんないんだよ」
繭子の正直な思いは、伊澄の正直な言葉によってぶった斬られた。
確かにそう言われては、誰も何も言えまい。


携帯の着信音。
しばらく間を置いて伊藤がジャケットから携帯電話を取り出す。画面を一瞥し、止まる。
何も言わずに携帯をポケットに戻し、また沈黙がやって来る。重圧に耐えきれない様子の池脇が、全く興味を感じていない声で誰からだと尋ねる。「テツ。業務連絡」(上山鉄臣、バイラル4スタッフ)。短く簡潔に答える伊藤の顔はいまだ青白く、そしてまた沈黙。


「帰っていい?」と伊澄。
彼にしてみれば、無言という名の拷問に晒されこの場に縛り付けられる理由などない、というのが本音だろう。誰も答えられない。やがてゆっくりと、繭子が言葉を吐き出した。
「バンド、辞めないですよね」
はっと息を吐き出しながら伊澄は笑う。
「なんで辞めんだよ。辞めねーよ、そんな事になったらそれこそ」
ぐっと言葉を飲み込んだのが伝わった。ピン、と空気が張り詰めた。
「まあ。最悪バンドが続くなら私はもういいです」
務めて明るく振る舞おうという気持ちだけは感じられたが、繭子の声は涙に少し震えていた。肩を掴んで強く揺すれば零れてしまいそうな程、ギリギリのラインに達していた。我慢強く、どこか達観している風ですらあった繭子の震える姿が、とても痛々しく見えた。
池脇はマイクスタンドの側でうずくまり、頭を抱えている。彼のこんな姿を見るのも初めてだ。何事も豪快に笑い飛ばす姿の印象しかないだけに、見ているこちらの方が辛くなる程だ。
神波は腕組みしたまま俯いている。男性メンバー2人から言葉が発せられることは無い。
「じゃあ、そういう事で」
硬くなった体を伸ばすように、両腕を真上に持ち上げて伊澄が言ったその時、またもや伊藤の携帯が鳴る。先程とは音が違う。慌てたように織江は携帯を取り出して確認する。
「来た」と言う伊藤。
「誰?」と尋ね返す池脇。
「誠。今下に来てる」
勘弁してくれと言わんばかりの伊澄の様子。私も同じ気持ちだった。いくら家族のような長年の付き合いとは言え、惚れた腫れたの恋愛沙汰に他人がここまで深く干渉する必要があるのかと思う。実際、伊澄は心底嫌がっているように見えた。
「呼んだわけじゃないよ。どうせおかしな空気になるんだろうから、自分で言いに行くよって、誠がそう言ってたの」
「いいんじゃないですか、帰れっていう理由なんかないですよね」
繭子が少しやけになっているのが気に掛かる所だが、彼女の言葉を否定する事も出来ない。
昨日まで誰の許可も必要とせず出入りしていた人だ。恋人と別れた瞬間追い返すような無粋な真似をする人間はここにはいない。



程なくして、いつもと変わらぬ場違いな美人がスタジオ内に現れた。そしていつもと変わらない、肉まんの差し入れ。いつもと違うと言えばその量だ。2袋を両手に持って現れた。私ははそんな彼女の姿を見て、自然と涙が込み上げてきた。
「だっはー。物凄い空気だなあ。これ、置いとくんで、好きに食べてください。さて、何から言おうかな」
誰に言うでもなく話し始める誠も、よく見れば微笑みがぎこちなく、誰を見て良いか分からないでいるような、所在無さげな印象を受けた。
「ああ。時枝さんさ、いるのは構わないんだけど、撮るのはやめない?」
急に矛先が私に向いて内心ぎょっとしたのだが、気づかれないように涙を拭っていた私は小さく「分かりました」と即答した。
「いいの。私が依頼出してる事だから、…全部残す」
そう助け船を出す伊藤に、
「ええ?私バンドと関係ないんだけど」
と笑顔のままやり返す誠の言葉が私に突き刺さる。関係ないのは正にこの私だからだ。
「表に出す出さないは後で決める事だし、誠が嫌ならもちろんそうする。ただ翔太郎と付き合っててバンドと無関係っていう言い方はないでしょ。その言い分は通さない」
「怖ーわ。はいはい、もう好きにしていいけど。それにしても酷い空気だね。翔太郎の事だからきっと何も言ってないんでしょ。優しいね、やっぱり」
「どうしたのよ誠さん。いつもより余裕ないね」
優しい声で、繭子は不意に抉るような事を言う。辛うじて誠の方へ顔を向けてはいるが、ソファの肘置きけにだらしなく座ったまま、立ち上がろうともしない。いつもの繭子らしくないと思えた。
誠は苦笑し、
「スッキリはしてるよ、でも」と返す。「やっと言えたーって感じだし」
「翔太郎さんの事、好きじゃなくなった?」
ストレートに尋ねる繭子に、誠は首を横に振る。
「いやいや、違う違う」
「じゃあなんで?」
「この話もうやめようぜ。オッサン3人にこのノリはきついわ」
しゃがんで頭を抱えたままの姿勢で、池脇がそう言った。力の篭った声だった。虚勢や空元気やトゲなどを含んだ女達の声をまとめて上から押さえつけるような、それは「音」だった。しかし動揺する繭子とは対照的に、誠は全く意に介さない。
「別に帰ったらいいじゃないですか。聞きたい人だけ残ればいいと思うよ」
彼女がそう言うも、誰も立ち去ろうとはしない。しばらく待って、誠は両手の平を上に向けるジェスチャーをして見せる。どうするの。続けるの。帰るの。そして彼女はつま先の少し先を見たまま言った。
「元はと言えば最初っから決まってた事なんだと思う。こうなるはずだったと言うか。だから本当はもっと早く」
「帰るわ」
誠の話を遮るようにそう言って、伊澄が立ち上がる。
「そう来たか」と誠。
「どうする、タクシーで来たんだろ。送ってくか」
伊澄が誠に向かって言う。今来たばかりの人間に掛けるその言葉の意味は、帰れ、だろう。
面食らったような誠はそれでも、そういう可能性もあるだろうなと予想していた顔だった。
「うん。…じゃ、一緒に帰る」
そこへイライラしたような伊藤の声が被さる。
「ふざけてないでちゃんと説明してよ。月9(のドラマ)見てるんじゃないんだからさ。別に今更考え直せなんて思ってないから。それでも15年一緒に生きてきて、こんな理解不能な終わり方で明日っから今まで通り練習に打ち込めるわけないでしょう。そんな器用な人間ここには一人もいないんだから」
伊藤の言葉を受けて、伊澄はしぶしぶ腰を降ろす。
どうなっても知らないぞ。そんな空気が彼の横顔から感じられた。
言葉とは裏腹に立っているのも辛そうな伊藤の様子を見て、繭子が言葉を繋げる。
「嫌いになっていないならさ、あえて今二人が別れる事なんてないんじゃないかな」
誠は笑顔のまま繭子を見つめる。
「そう思う?」
「思うよ」
「他の人の事が好きでも?」
「え?」
「私ずっとアキラさんの事が好きだったんだよ」
「…何言ってんの?」
「15年経って言う話じゃないよね、そりゃびっくりもするよ。でもそうなんだよ。ずっと黙ってただけ。翔太郎のことももちろん好きだよ。色々助けてもらったし、感謝してる。ただもう黙ってるのも限界が来たというか」
「本気で言ってるの?」
「そうだよ。なんで嘘だと思うの。思いたい気持ちも分かるけどさ。カオリさんの事だって好きだし、邪魔するつもりはもともとなかった。2人ともいなくなっちゃったけど、だからって気持ちはそんな簡単に消えてなくならない。私が辛い時、やばい時、翔太郎が側にいて支えてくれたことは一生忘れないよ。でもだからってその事が、私がこの人と一緒にいる理由にはならないんじゃないかってずっと思ってた。もういい加減、お互い自由になるのがいいんじゃないかな」
「なにそれ、全然分かんない」
と繭子。
「恋愛感情のない人と15年付き合ってたってこと?翔太郎をずっと騙してたっていうことなの?」
と伊藤。
「まあ、翔太郎が気づいていなかったんなら、そうなるね」
「な、え、なんの為に?もしそれが本当の話なら私誠さんの事軽蔑する」
繭子の言葉に、誠は疲れたような苦笑いを浮かべる。
「なんの為って。翔太郎に大事にしてもらう事が心地良かったからなんじゃないの。ただのその心地よさと罪悪感の天秤がもう釣り合わなくなったんだよ」
「他人事みたいに言わないでよ。もう死んじゃった人より翔太郎さんの事をもっとちゃんと大切にしてよ!なんで今更そんな事言うのよ!」
「悪かったとは、思ってるよ」
「そんな事言ってないでしょ! なんで翔太郎さん黙ってるの!? なんで怒らないの!?」
黙ってやり取りを聞いていた伊澄は、困ったような顔で首を横に振った。
「なんで怒るんだよ。仕方ないだろうこればっかりは。ここにいない奴の話したって仕方ねえからアキラの事はまあ、ひとまず置いといてさ。理由がなんであれ俺とはもう付き合えないってのがこいつの答えなんだろ。だったらもうそれが全てじゃないのか。それとも俺が、泣いて引き留める姿を見たいのか?」
繭子にとってそれは、伊澄から聞きたい言葉ではなかったようだ。しかし反論出来る余地はどこにも無かった。繭子は両目をギュッと閉じ、大きく溜息を吐き出した。
「もう帰る」
そう言って繭子は立ち上がり、誠の横を通り過ぎる。慌てた様子でその背中に伊藤が言葉を掛けた。
「ちょっと、泊っていけば。うち来る?」
「楽屋で寝ます。練習は休みません」
立ち止まらずに繭子はスタジオを出て行った。
「ちょっと見ててやってくれる?」と神波が顔を上げ、
「分かった」と答えて伊藤もその後を追った。



「さて、と」ようやく口を開いて、池脇が立ち上がった。
その顔は険しかったが、誰かに対して怒っているような表情ではなかった。
「私も帰るよ」
誠がそう言うと、伊澄が立ち上がろうとする動作を見せた。それに気づいた誠が手で制し、
「タクシー呼ぶから平気。やっぱりもう、彼女面はしない」
と言って微笑んだ。伊澄は黙って頷き、煙草を銜えて火を付けた。
「俺は、気づいてたのかもしれねえ。というか、そういう可能性の話を考えた事はある」
そう切り出したのは池脇だった。何の感情も感じさせない口調で誠が答える。
「そうなんだ。お優しい事だね。今までずっと黙って見守ってくれてたわけだ。私アキラさんにも言ってないんですけどね」
「だってお前、アキラが死んだ直後のお前酷かったじゃねえか。少しくらいは、あれって思うぜ。そんくらい思い詰めてたように見えたし」
「俺はアキラから、スゲー誠の事を心配してるっていう話を聞いてた」
そう言ったのは神波だ。どうやら池脇も神波も、繭子や伊藤の前では言いたくなかった事のようだ。
「翔太郎は何をしてんだ、誠を一人にしちゃいけないって。正直、何言ってんだこいつ、てめーの事心配してろって思ってたけど。実際あいつが死んじまった後のお前を見て、これはもしかしてそういう事だったのかなって。ただ俺も竜二も、お互いその事には触れてこなかった。お前らはずっとうまく行ってるように見えてたし、翔太郎がもし気づいてるとしても、それでもこいつは、こういう奴だから」
「気づいてても気づかないでも、誠の側にいただろうなって。それが自然な事のように思えたし」
「気持ち悪りいな!ウダウダと下らねえ話すんじゃねえよ!」
自分をフォローしているはずの池脇と神波を罵倒し、伊澄は煙草を投げ捨てた。
「お前今格好付けたって仕方ねえだろ」
そう諭す池脇に、伊澄は平然と鼻で嗤い返す。
「お前らがメンタル弱すぎなんだよ、こんな事可能性としていっくらでもある話だろう。15年付き合った女と別れる、それだけだ。世界中で起こってるよこんな事」
「あれー」
不意にひと際大きな声を発し、誠が間に割って入る。
「もしかして他に良い人いる?」
沈黙せざるを得ない言葉だった。
「え、お互い様だった?」
誠が目を見開いて伊澄を見つめる。
「いや、いない」
「返事遅っ」
「おいおいお前ら、何やってんだ」と池脇。
「URGAさん?」
「え?」と神波。
「まじか」と池脇。
「なんでそう思うんだ」とようやく伊澄が尋ね返す。
「こないだのスタジオインタビューとライブの映像、繭子と一緒に見たよ。ああ、こういう人が翔太郎の側にいるべきだったんだろうなーって思った。良かったじゃん。私も一安心だよ」
事の真相は定かではない。しかし恋人の立場から見ると、嫉妬心が首を擡げても仕方のない空気が2人の間にあった事は確かだった。
「…厄介払いみたいに言うなよ」
ゆっくりと伊澄がそう言った。
「私の方こそ、ずっと厄介者だったね」
そう返した誠の声のトーンがあまりにも素直過ぎたせいか。場が静まり返った。空気が張りつめる程の静寂だった。
「翔太郎。本当に、今までありがとう。…ずっとごめんなさい」
誠はそう言って、笑顔で数秒伊澄の横顔を見つめ、頭を下げた。
あまりの出来事に、池脇も神波も何も言えずただ2人を見つめるしかなかった。
さようならも言わず、誠はスタジオから出て行く。
伊澄が立ち上がった。
「俺が行くわ」
神波がそう言って返事を待たず誠の後を追った。
残されたのは伊澄、池脇、何故か私、時枝の3人。
伊澄は立ち上がったまま再び煙草に火を付けて、いきなりこう切り出した。
「そうだ、今丁度いんじゃないか、インタビュー。次俺なんだろ。時間無いって大成に愚痴ってるの聞いたぞ。どうせ帰った所で酒飲んで寝るだけだし、とことんやるか」
当然私は狼狽えて言葉が出てこない。そんな私のリアクションなど織り込み済みだと言わんばかりのテンションで、池脇が続ける。
「なら。一緒に俺も済ませるか!」
「おお、いいね、繭子も呼んでくる?」
「いいねえ。ちょっと様子見て来るわ」
そういうと池脇もスタジオを出て行ってしまった。



「なあ。これさ。記事にするとしたらどんなタイトル?」
一人になった伊澄は、振り返る事もなくそう聞いた。
-- 『事件』です。
嘘みたいな明るい笑い声がスタジオにこだまして、泣き疲れた私からも、少しばかりの笑顔を引き出した。こんな人は見た事がなかった。もし私に出来る事があるならば、オロオロしている場合ではないと思った。
「あ、ちょっと待ってて」
そう言って伊澄はPAブースに入って行くと、間もなく缶ビールを4つ抱えて戻って来た。
冷蔵庫が中にあるようだ。ここへ通うようになって3か月、スタジオでお酒を飲むメンバーを見た事もなければ、もちろん外で一緒に飲んだ事もない。今夜が初めての事だ。
-- うわー、ありがとうございます!
「まあまあ、変な所一杯見せたからなあ。…口封じだよ」
-- あはは。
「じゃあ、お疲れさん、乾杯。…乾杯は変か」
伊澄と2人になるのは初めてではないが、バンドマンとしての姿しか知らない私にとっては、今日は初めて尽くしの日となった。
-- 乾杯。不思議ですね。なんだか、私今なにやってんだろうって思います。
「俺もだよ。なんだろうな、今日は」
-- 聞いていいですか?
「どうぞ」
-- 未練はないですか。
「っはは。あー。まー。どうだろう。こんな事言うと気持ち悪いかもしれないけど、全然終わった気がしないな、まだ」
-- お二人の関係ですか?
「うん」
-- それは、どういう。
「あいつも言ってたけどさ。好きだとか大切に思う気持ちって、そんな簡単に消えたりするもんじゃないって俺も思うんだよ」
-- はい、そうだと思います。
「実感がないだけって言えばそれまでなんだけど。別れたって言ってもお互い死んだわけじゃないし、またどこかで顔合わすこともあるだろう。別々かもしれないけどこの先も生きてくわけだし、何かが終わったって言うにはまだ早いかな。ただ、もう別に俺はいいかなっていう思いも、あるにはあるかな」
-- 別れる事を受け入れるという事ですか。
「それもそうだし、そもそもが、今日までの毎日が俺にとっては十分出来過ぎた時間だったんだよ。よく15年続いたなって思うよ。それに、どうせあと何年か何十年かしたら俺も死ぬだろ。だったらもういいかなって。また誰か別の女と出会って新しい関係をどうこうって話は、もういらないな。誠だけでいいよ。…うん、泣くとは思ったけど早いなぁ。聞いといてそれはないって」
-- そういう話は、もう昨日の段階で済まされていたわけですか?
「いやいや。俺も内心びっくりはしたからね。でもさっき言ったみたいに、足掻いてどうなる事でもないだろうなって、それだけは思ったんだよ。あいつがそうしたい以上、最後は黙って受け入れてやるのが男らしくて良いかなって。だってさー、何度も言うようだけど15年って、簡単に言うけど長いと思うんだよな。聞いたと思うけど、俺らあいつが15の時に知り合ってんだよ。15歳から30歳になるまでの女として一番、良い時期って言うとやらしい話になるけど、そういう思春期から大人になってく時期をずっと隣にいて過ごしてくれたんだって思うとさ。例えあいつの中にずっとアキラがいたんだとしてもだよ。それでも俺は感謝する。俺だって心地良かった、あいつといた時間はずっと。…俺さ、今だから言うけどめちゃくちゃあいつの顔好きなんだよ。それは多分綺麗だからとかそんなんじゃなくて、あいつだからだと思うんだよな。誠だから、あの顔だからじゃなくて誠だったから、横にいて笑ってる事が凄く心地良かったんだって思ってる。だから今でもそうだけど、こんな風に終わっといて信じられないかもしれないけど、俺からはあいつの嫌いな所一個もないな。普通どっかしらなんかあんじゃん、15年も一緒にいたら。同棲しなかったってのも関係あるかもしれないけど、いつも笑ってくれてた気がするんだよ。少なくとも俺がバンドに打ち込んでこられたのはそれを許してくれてたあいつのおかげだと思ってるし、色々支えてもらったっていう実感はあるよ。…そう考えると、あいつやっぱりスゲーな。アキラへの思いをずっと抱えたまんまで、それを隠したまんまで、俺の横にいて、それでも笑っていられたんだから、スゲーなあ。優しい奴だと思うよ。…良い15年だった」
-- はい(それしか言えなかったのだ)。
「はい。あ、肉まんあるんだった、これで飲むか」
-- 差し入れはいつも肉まんでしたね。翔太郎さんの好物なんですか?
「どうだっけな。忘れた。まあ何にせよこれでしばらく食うことはないな」
-- 付き合うきっかけは、翔太郎さんの方から?
「だったと思うよ。具体的なきっかけは曖昧にしか覚えてないけど」
-- 人生、何があるか分かりませんね。
「なあ」
-- 取られた悔しさのようなものはないですか。
「アキラに?んー、ないかな。負け惜しみかもしれないけど、取られたと思ってない。あいつは死んだんだし、実際に15年付き合ったのは俺だから。変かな。15年得したくらいに思ってるよ」
-- あっぱれです。
「馬鹿みたい?」
-- いえいえいそんな。ただ私は我慢出来ないですけどね。嫉妬で狂います。それにしても、最後まで綺麗な人でしたね。ちゃんと、面と向かって感謝と謝罪を述べておられた。普通言えませんよ、あんな風には。
「サバサバしてたなー。まあ、その方がいいよ。がんがんに泣かれても困るし、今のあんたみたいにな」
-- 最初、こういう話になるとは思ってもみなくて一瞬は、なんだあの女!って腹立ったんですけど、肉まん2袋抱えてやって来た誠さん見て、あーダメだ、嫌いになんかなれないって思っちゃいました。
「あははは!そりゃーまーなんというか、ありがとう」
-- 色々想像しちゃいました。きっと、いつもより多めに買って来られたのも、これで最後だっていう思いがあったんだろうな、とか。
「そうかもしれないな。…自分で言って自分で感動泣きとかしないでくれるかな」
-- でも、本当なんですか。
「何が?」
-- URGAさんとの関係は。
「何もないよ」
-- ちょっと信じられないです。
「っはは! 女って本当そういう所面倒だわ。何もねえよ、それはあの人に対しても失礼だろ」
-- さっき、一度スタジオに戻られた時電話していた相手は、誠さんですか、URGAさんですか。
「何でそんな事答えなきゃいけねんだよ(笑)」
-- 同じ女だから言いますけど、URGAさんにはあると思いますよ、翔太郎さんに対する気持ちが。
「あるわけねえだろ(笑)。仮にそうだとしても、俺達の間に何かあったかって言われても何もないとしか答えられない」
-- ああ、今後そのご予定があるとか。
「あ、え?酔ってんのか?」
-- 酔ってますよ。色んな感情が溢れ過ぎて吐きそうですもん。で、どうなんですか、URGAさんとビッグカップル誕生なんですか。
「誕生はしないと思うぞ」
-- URGAさんですよ? 断る自信ありますか。
「ないよ、ないない。断るもなにも、そんな事言われないって。例え何かの間違いで、そういう話になったとしても、今それをあれこれ考える余裕がそもそもないよ。本当にさ、また誰かとイチから付き合って、信頼とか愛情とかそういうのを育む時間を持つくらいなら俺はバンドに集中したい」
-- なるほど。URGAさんの事はどう思いますか。
「どうって?」
-- ミュージシャン同志ならもう絆に近い信頼がお二人には生まれつつあると思います。そこを飛び越えて人生のパートナーとして見る事が出来る人ですか。
「見るだけならなんぼでも見れるよ。そりゃあれだろ、あの人に魅力があるかないかって話じゃねえか。あるに決まってるだろ。実際に見て触れてあの人の凄さや良さに気づけない奴はただの不感症だよ」
-- だったらもう幸せになって下さいよ!
「え?」
-- 幸せになって下さい!
「どうした。幸せだよ俺は。どうしたんだよ」
-- あんまりだと、思って。
「同情かよ。面倒くせえ酔い方しやがって」
-- いけませんか。幸せになってほしいって願う事は面倒くせえですか。
「ごめんごめん、もういいもういい。竜二全然帰って来ねえじゃねえか。ちょっと電話してみる。…何で俺が謝ってんだ」
-- 私に出来ることはありませんか。なんなら、私URGAさんの連絡先分かるんで、何か伝えたいことあったらすぐにでも連絡取ります。ちょっと早めに帰って来てほしいとか。
「大丈夫。連絡先なら俺も知ってるから」
-- やっぱりURGAさんなんですね、さっきの電話。
「あははは!スゲーな!時枝さんスゲーな!久々にしてやられたわ!」
-- ええー、やっぱりなんか嬉しいです、もしそうなら、嬉しいってのは誠さんに失礼か、でも、うん、バランスですよバランス、終わりがあってはじまりがあるんですよね、そう、そうこなくっちゃあいけませんよ、人生はね、何があるか分からないけど、何があっても良いんですよ、特に男と女ってのは、よく分からないくらいがちょうどいいバランスなんですよ、きっとね、私はそう思いますよ、ちょっと私の方からも連絡してみますね、あ、ツアーに出ちゃいましたけど、どうしましょ、明日連絡したって、もう海外ですね、あー、ニアミスって奴ですねこれ、ニアミス、あー、しくじったなー、こういう所がねー、人生って上手くいかないなーって思う瞬間んすよねー。



「おおおおお、なんだこれ、どういう状況だオマエら」
そう池脇が驚きの声を上げた事も、伊藤と共に繭子が戻って来た事も、この時の私は分かっていない。そもそも記憶がない。私はアルコールに弱い体質なのだが、4本あった缶ビールの内3本を一人で飲んだというのを後から聞いた。大失態ではあったが、嘔吐を免れた奇跡と撮影中だったカメラを止めずにいてくれた伊澄の優しさに感謝したい。
池脇が2人を連れて戻って来た時、スタジオにいた私は涙と涎と鼻水でぐちゃぐちゃになっており、そこらへんにあった誰かのタオルで、伊澄に顔を拭いてもらっていた。何度も言うが全く覚えていない。
この後の話は私の預かり知らない出来事であり、本来は外に出る内容ではないのだが、大変貴重な会話が記録されていたので後日特別に許可を貰って収録する運びとなった。


池脇(R)、伊澄(S)、繭子(M)、伊藤(O)。

R「おまえなんぼなんでも手当たり次第すぎんだろーよ」
S「なわけあるか。お前が遅いからこんな事になってんの」
M「えええ、トッキー大丈夫ですかねこれ。ちゃんと意識あるのかな?」
何事か喚く時枝。何を言っているかは全く聞き取れない。
S「さっきまでべらべら普通に喋ってたから平気だろ。寝かせといてやれよ」
O「毛布取ってくるね」
S「悪いな」
しばらく時枝を介抱する4人の姿。コの字に並んだソファーの一辺に私を横たわらせ、L字に二人ずつ並んで座る四人。
画面左から伊澄、繭子、池脇、伊藤。
生きていたカメラは楽器側ではなくソファーとは反対側にある固定カメラの為、彼らの顔はほとんど映っていない。
S「大成は?」
O「しばらく下でタクシー待って、誠を見送ったって。そのまま彼も自宅に戻るってさっき連絡あった。大丈夫そうだって、誠」
S「そか。あとで俺からも言っとく。あ、送ってくから」
O「私? 気にしないで、ありがと」
R「結局インタビューやったのか?」
S「はあ?お前が全然戻ってこねえから大変だったんだけど。話し始めて5秒で泣くしさー、あることないこと騒ぎ立てるしさー。何やってたんだよお前らこそ」
R「こっちはこっちで大変だったん…あれ肉まん少なくない?どんだけ食ったんだよお前ら」
S「見てみ(机の上に散乱したビールの空き缶を指さし)、4本中3本行ったもんこいつ。俺すげー小さくなってずっと肉まん齧ってたもん」
M「あははは。あー、はは、おかしい。良かった、いつもの翔太郎さんで」
伊澄がぽんと繭子の頭を叩いて、「ごめんな」と言う。
ガクンと繭子の首から上が落ちた。頭を前に倒し肩が震えているのが離れた所からでも分かる。
S「誠と仲良かったもんな。なんか、お前にとっても辛い事になっちゃったなーと思って。ちょっと喧嘩っぽくなって終わってるけど、きっと大丈夫だから。あいつも分かってるはずだから、それはそれとして、今後も仲良くしてやってくれよ」
言葉で返す事が出来ず、大きく縦に首を何度も振る繭子。
池脇は鼻をすすって、残っていた肉まんを頬張る。
S「織江も」
O「いやー、私はどうかな。私は誰より、何よりもバンドを優先する人間だから。ここを揺さぶる相手には容赦しない」
S「あはは!まじで。まじで怖いから」
O「怖いよー、織江さん怒らせたら怖いんだよ」
R「繭子より全然織江の方が怒ってんだもん、何をどう話したって全然ダメ」
S「あー、それで遅かったの?」
R「そー」
S「お前が怒っても仕方ないだろう」
O「仕方があるかないかの話じゃないの。私という人間が許せないの。ノイも絶対黙ってないはず」
R「なんでノイが出てくんだよさっきから」
(ノイ=伊藤乃依【イトウ ノエ】の愛称、織江の妹。池脇竜二の恋人。故人)
O「なんか、全く気づきもしないで、こんな事態になるまで何も出来なくて、なったらなったでただ狼狽えるだけの私が本当に嫌だった。ノイがいたらきっとなんとかしてくれたはずだって、なんかそんな事ばっか考えちゃって」
S「お前がそんな風に思う事はないんだって。悪かった、色々と」
O「え、なんで翔太郎が」
S「頼む。もう悪く言わないでやってくれよ。事情はあれだし、きっと筋としてはお前らの言ってる事が正しいと思うんだけど、俺自身が別にあいつに対して怒り心頭ってわけでもないんだよ。上手く言えないけど。…なんか嫌なんだよ、あいつがお前らに嫌われちまうのは。そういうのは見たくない」
R「おー。なんか、お前大人になったな」
S「なんだそれ(笑)」
O「…分かった。翔太郎がそう言うなら、私も切り替えるようにする」
S「うん」
O「クッソ忙しいしね、織江さんはね、社長さんだしね」
R「ああ、テツなんだって?なんか変更でもあったのか?」
O「何。テツ?」
(テツ=上山鉄臣。事務所「バイラル4」のスタッフ)
R「え?」
O「テツがどうかした?…え?」
M「さっき織江さんが自分で言ったんですよ。テツさんから連絡来たって」
O「あー! 私テツって言ったんだ? 違う違う、びっくりしちゃって嘘付いた。えーっと、言っていいのかな」
S「…ん?」
O「URGAさんからだったの。さっき翔太郎と電話で話したんだけど、ちょっと怒らせたかもしれないから、謝っておいて欲しい、ツアーから帰ったらまた行きますね、みたいな文章で、全然意味分からないからキョドった」
M「さっきって。いつ電話したんですか?」
S「えー。今何時?12時前だと思うから、もう3、4時間前」
O「そうなんだ。全然知らないからさ。なんだよ、今する話かこれとか思っちゃった。怒らせたかもって何、また揉めたの?」
S「全然」
M「なんの話だったんですか?明日からヨーロッパ(ツアー)ですよね。あ、行ってきますとかですかー? なんちゃって」
お道化る繭子に、頷いて見せる伊澄。
S「まあ、そういう感じになるのかな。急に、ギターの音が聞きたくなったから聞かせて欲しいって」
M「ひゃー」
照れた様子でソファーに倒れ込む繭子。唖然とする伊藤は、それでも声に出してはマズいという理性が働いたのか、ん?ん?と伊澄の顔を覗き込んだ。
S「なんだよ。いや俺ここにギター置いてないからさ、断ったわけ。大成のモーリスも楽屋だったし、わざわざ取りに行かせるのも悪いしさ」
M「えー、それぐらいしましょうよー」
S「あはは、同じ事言われた。にしたってアコギなんて家にしかないし、大成に取りに行かせるには理由言わなきゃなんないだろ。無理っすって。『えー』っつってなんか電話の向こう、拗ねた声でなんか暗いし、切り辛いじゃんそんなん」
M「うん、そんなの絶対ダメですよ」
S「一応、なんかないかなーって探しはしたんだけど。竜二いないし、モーリス楽屋だし、俺のはそもそもないし。俺もえーってなって。したらあの人も自宅兼スタジオなんだって思い出して。そっちにギターないの?って聞いて」
M「はいはい」
S「エレアコがあるんだけど、全然弾けないと。昔チャレンジしたけど、歌ってる途中から弾かなくなっちゃうから諦めたんだーなんて。で、今から口でコード教えるからそこを取りあえず指で押さえてくれと」
M「ふんふん。え、URGAさんが電話の向こうで?」
S「そう」
R「なんで?」
S「でー、取り敢えず言ったトコ全部抑えて貰って、一気に全部の弦弾いてって」
R「よく伝わったな」
S「ちょっと苦労した(笑)。でもめちゃくちゃ簡単なフレーズだから、それを何パターンか繰り返して」
M「なんの曲だったんですか?」
S「アイオーン」
M「ああ、なるほど」
S「彼女も途中で気づいて、あー!アイオーンだー!って」
M「あー…えっと、それはわざと?」
S「本人好きだっていうから。え、何が?」
かつてURGAはドーンハンマーの名曲『aeon』を、別れの歌なのだと称していた。
S「それだけなんだけど。なんで俺怒ってる話になんの?」
M「怒って、敢えて別れの歌をチョイスしたんだ、って思ったんじゃないですか」
S「へー、そうなるんだ。実際あれって別れの歌なのか?」
R「そこはちょっと難しいな。別にメッセージソングを書いたわけでもねえし、実際の歌詞とは逆の気持ちで叫んでるような部分もあるっつーか。…どうだろな。アイオーンって、英語で書けるか?」
S「書けない」
O「簡単だよ。エー、イー、オー、エヌ、だよね。元々ギリシャ語とかラテン語とかだよね。なんだっけ、時間とか時代とかの意味を持ってるんだよね。永遠とかの意味でつかわれる事もあるんだよ。物知りでしょ」
R「まー、そうなんだけど。それを、アルファベットを逆から読んでみな」
示し合わせたように3人ともが上を向いて、空中にアルファベットを書いていく。
別れとは反対の意味で歌っているという、A.E.O.Nという名の曲。
アイオーンのアルファベットを逆から綴れば、N.O.E.Aとなる。
そのまま読めば、ノエ、エ、とも読むことも出来るだろう。
まず最初に伊澄がパッと池脇の顔を見た。
右側に座っていた繭子の背中に手を当てて体を前に倒し、
空いた左手で池脇の背中をバシっとを叩いた。
R「イッタ!なんだオマエ!」
潤んだ目を輝かせて、無言のまま織江も同様に池脇の背中を叩いた。
調子に乗った繭子が叩こうとして、池脇の反撃にあった。
M「なんで私だけー!」
ずっと顔色のおかしかった織江の頬に赤みが差し、今にも涙が零れそうになった。
何か言葉を発すれば、その涙はきっと零れていただろう。
M「そっかー、こういう事もあるんですねえ。今後はちゃんと歌詞読んでみるべきかもしれませんね。全然気づかなかった」
S「んー、でも俺はやっぱいいかな」
R「あははは!そう言うと思ったよお前は」
S「いやでもこういうのはなんて言うか、きっと特別な事なんだと思うし、おそらくだけどあんましそういう事やらない奴だと思うんだよ竜二は」
R「いやいや、全部スゲー考えて作ってっから」
S「うそうそ」
R「いやいやいやいや」
S「それでなくたってさ、歌詞チェックしてる織江が気づかないんだから、そうそう読んで言葉を理解したくらいじゃ分からないように作ってるはずだろ。そんなの敢えて俺らが共有する意味なんかないだろ」
M「まあーたー、そういう言い方するー」
S「なんでー。俺正直嬉しかったけどね、URGAさんがさ、8割意味の分からない事を叫んでるって言ってたの聞いてさ、ちょっと惚れ直したもん。あ、こいつはやっぱそうなんだなって」
M「逆じゃなくてですか?」
S「うん。なんかね、これは個人的な考え方だし、前にも言ったと思うけど、あんまし『良い事』を言いたくないんだよ。詩人っぽい事とか、哲学っぽい事とか、芸術性の高い表現とか。俺あんまり好きじゃないの、本当は」
M「ああ、はいはい、そうですね。仰ってましたね」
R「そんな上品な言い方してなかったけどな」
S「あれ、お前にも言った?」
R「直接は言われてねえけど、そういうバンドの事スゲー嫌ってんのは知ってるよ。言うならちゃんと言え、と」
S「そうなー、うん、そうそう。なんか『俺の中の悪魔が囁く、この竜巻を飛び越えた先にお前の魂の光が見えている、暴風域を突き抜けろ』みたいな歌詞書く奴いるだろ。死ねと」
一同、爆笑と拍手喝采。
S「もうゲロ出そうになるわ」
M「お腹痛い、お腹痛い」
O「意外と才能あるんじゃない?」
S「フザケんなお前、マジで鳥肌立つから」
R「特に英語で書く奴なんかは日本語に直すとそういうクソ寒い表現になりがちだしな。そこはそうならんように、考えて書いてるよ」
O「竜二のはちゃんと英語を話せる人が書く歌詞になってるし、そもそもテーマがあるようでないから、読んでるだけで面白いよ。8割意味がないっていうのは、めちゃくちゃな歌詞っていう意味じゃないよ。馬鹿馬鹿しいとか、メッセージ性をあえて籠めないっていう事だから」
S「そう。だから、良かったーと思って。そういうどうでも良い言葉並べておいてさ、それでいてスケールに嵌った奴らより格好良いって思われる事の方が、一番格好良いと俺は思ってるから」
M「ああ、確かにそうですね。言葉で何かを伝えるっていうバンドじゃないですもんね」
S「そうそう。まあそもそも、何かを伝えたいとも思ってないしね」
O「メッセージソング大好きなくせにね」
と織江がお道化た口調で池脇の腕に自分の肩をぶつける。
R「だからこそじゃねえかな。うん、きっと、俺達がやるべき事じゃねえって思ってるのかもしれねえ」
S「ストレートな日本語歌詞で歌わせたら格好良いバンドはもう一杯いるもんな。最近他所のライブ行ってないから今も生きてるか分からないけど」
M「あとURGAさんとかね!」
そう言って織江を真似るように、繭子は伊澄の腕に自分の肩をぶつける。
目を細めて天井を仰ぎ見る伊澄の口元が何かを呟いているが、小さすぎて聞こえない。
後日聞いた話だと、面倒くせえ、らしい。
O「さっきチラっと竜二に聞いちゃった。でも皮肉っちゃあ皮肉だよね。一番最初にURGAさんのCDここに持ち込んだのって多分誠だと思うんだよ。私も大成に教えてもらって知ってはいたんだけど、ドハマりしてる誠見て改めてのめり込んだ記憶あるもん」
M「まさかのまさかですよね。そのURGAさんと、いやいや私自身ここまで近い関係になった事も信じられないし、まさか翔太郎さんとねえ」
S「だから付き合ってないし、付き合わないし」
R「え?」
O「え?」
M「え?」
S「え?」
M「なんで?」
S「なんでってお前ら」
M「あー、まー。翔太郎さんはそういう人かもしれないなー」
S「出た、全然わかってない奴が使う十八番、『そういう人』」
M「馬鹿にされた(笑)」
S「それは俺のセリフだろ」
O「じゃあなんで止めなかったの。…そんなに誠の事大切なら、なんであんなにあっさり受け入れたのよ」
不意に伊藤の声が真剣味を帯び、池脇も繭子も笑顔でいられなくなった。
伊澄が煙草に火をつける。
普段は視線を送らずとも先端だけに綺麗な火を灯す彼だが、
今は深い縦皺を眉間に刻み、怖いくらいに強い目でその火を見つめていた。
S「あっさりじゃねえよ。ボケ」
口調は強くなかったが、最後に「ボケ」と付けた瞬間伊澄の装えない本心が見えような気がした。
明るかった室内の雰囲気が、またきゅっと温度を下げたよう感じられた。
全てを吹き飛ばすような音量の溜息をついて、池脇が言う。
R「もう終わったことは終わったことだ。今日はもういいだろ」
沈黙の中で伊澄の吐き出すく煙だけが自由に漂う。
S「約束したからな」
沈黙。
M「…どんな約束ですか」
S「言わない」
R「おお。約束は、守んないとな、男は」
S「そう。内容はどうでもいい。相手が守るかどうかも関係ない。でも約束ってそういう物だろ」
M「…誠さん忘れちゃったのかな。私どうしてもそういう人には思えないんだけどな」
O「あれはあれで、一本筋の通った良い女だと思ってるんだけど。どんな内容かは知らないけどさ、何か大切な約束を翔太郎と交わしておいて、今更アキラがどうとかね。…ダメだやっぱり腹立つ」
S「やべえ、藪蛇だ」
R「まあまあ(笑)。最後の肉まん食っていい?」
M「私食べてないんですけど!」
O「私はいらない」
S「お前腹減ってるからカリカリしてんじゃないの?」
O「ふざけないで?」
S「ごめんごめん」
M「竜二さん幾つ食べたの?」
R「3つ?」
M「食べ過ぎですよー!翔太郎さんは?」
S「こっちの袋全部」
M「ちょっとー!お腹どうなってんですかー!?」
O「無邪気だなー君たちは」
どうにかこうにか、その夜を笑い声で乗り切る事が出来たのは、彼らの結束力があってこそだったように思う。その日流れた涙の量は、時枝の分も含めるときっと伊澄が抱えて持って来た缶ビールより多いだろう。
この世の中に変わらない事などない。しかし変わって欲しくない事は山ほどある。
この日の出来事はドーンハンマーの絆をより一層強固にしたに違いない。
だが、この日の事件はこれで終わった訳ではなかった。確かにこの夜から数か月間は、環境面での変化についていくのが精一杯で、伊澄の抱えた寂しさは次第に爆音の中へ紛れて消えていったように思う。
何より彼らには音楽があった。どのバンドよりも強靭で、絨毯爆撃と称される隙のない音の爆弾で、魂を込めた一曲一曲を全力で炸裂させて行く毎日だった。
その年の後半、彼らのコンディションは登り調子に良くなって行く。今この瞬間世界へ飛び出し、いつどこでヘッドライナーを任されようと誰にも文句を言わせない。そんな確固たる自信が漲り、ピークを迎えようとしていた冬の始まりのある夜。
再び彼らに試練が訪れた。しかし時間を一足飛びで駆け抜ける事をしたくはない。醜態を晒した時枝の横で交わされた4人の会話を収録する事が出来たのは何故か。今ここでそれを語る事は出来ない。しかし読者諸兄に約束しよう。必ずや、かつてない熱量の感動と衝撃を味わう事になると。その時こそ、今この瞬間を共に生きている彼らの強さの意味を、感じ取ってほしい。私の願いはそれだけだ。










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