芥川繭子という理由

新開 水留

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49「夜明けのハンマー」

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2017年、1月某日。



池脇達の実家は都心部から離れた下町にあり、お互いの家が割と近いそうだ。
同じ町内ではないが同じ区内らしく、池脇の実家を訪れた後各々の実家を訪問する予定となっていた。
ある晴れた日の午前、繭子を除いたメンバー3人が連れ立ってその町を訪れた。
移動用の黒いバンから彼らが降り立つ場面で、カメラを回し始める。
池脇のモッズコート、伊澄のライダース、神波の黒のロングコート。
三者三様の出で立ちがとても絵になっている。
今回私は聞き手でもカメラマンでもなく、その場にいない者として扱ってもらった。



「あー。さみい」
「革ジャンとかアホだろ俺」
「だから事前に言ったのに」
「織江がだろ? 言われたってこれしかねえもんだって」
「ウソ言うなよお前」
「替えてくれよその金持ちコート」
「ふふ。絶対嫌だって」
「うーわ、懐かしい。お前ら最近いつ来た?」
「えー。去年の今頃かな」
「あはは!」
「俺は夏にも一回来てるよ、ちゃんとお前らんトコにも顔出したぞ」
「織江がだろ?」
「ふふ、うん」



池脇竜二の実家の前に立った時、私は背中に視線を感じて振り返り周囲を見回した。
すると私達が歩いて来た道の曲がり角の向こう側に、小柄な女の子が立っているのが一瞬だけ見え、そしてすぐに消えた。
こちらを見つめていたようにも思えたが、何分私は目が悪い。眼鏡をしていても20メートル先の人間の顔は分からない。
この時その曲がり角までは30メートル以上あったように思う。一瞬だったこともあり、
私は首を傾げただけでそのままメンバーの後を追った。
失礼があってはいけないと思い、池脇の家には事前に連絡しておいた。
今回メンバーの密着取材の一環としてカメラを回す人間が付き添っているが、
池脇竜二本人からの個人的依頼であり映像が世間に出回るわけではない事、
そこにはいない存在として扱ってもらいたい事などを電話越しに説明した。
その時話をしたのは池脇竜二の父・竜雄さんであったのだが、いろどり橋で聞いて思い浮かべた印象とは違い、
「はいはい、はいはい」とスムーズに事は進んだ。
昔ながらの引戸の玄関扉を池脇が開けると、上り框に御年配の女性が座っていたので驚いた。
「び、っくりした。…ただいま、母ちゃん」
と池脇が声をかけ、続いて伊澄と神波が深々と頭を下げた。
ニコニコ笑っているその女性はしかし答えず、代わりにその背後から、左足を引きずりながら背の高い男性が歩いて来た。
がっしりとした骨太の体躯の上で短い銀髪がつんつんと逆立っている様は、池脇竜二の30年後を思わせた。
「ただいま、父ちゃん」
「おう。とりあえず入れ」
竜雄さんが片手を挙げて答えると、伊澄と神波が少し強張った様子で頭を下げる。
顔を上げた二人の顔をまじまじと見つめた竜雄さんは、
「翔太郎と大成か、全然分かんなかった。入れ、寒いから戸閉めろ」
と嬉しそうな笑顔でそう言った。そしてゆっくりと千代乃さんの両脇に手を差し込んで立たせると、
優しく声を掛けて手を繋ぎ、家の奥へと歩き出した。
お邪魔します。口々にそう言いながら靴を脱ぐ皆の背後から、私も声を上げて挨拶をする。
竜雄さんはすでに背を向けて廊下を歩き始めていたが、肩から上だけを振り向かせて右手を挙げた。



和室に通されると、部屋の奥に竜雄さんと千代乃さんが並んで座り、その正面に池脇が胡坐をかいて座った。
そしてその背後に伊澄と神波が並んで正座する。
「寒いとこよく来たな。お前らも久しぶりじゃねえかよ、なんで後ろ座ってんだ」
竜雄さんが首を伸ばして言うも、伊澄らは曖昧な笑みで頷いている。
「今日は良いんだ、話があって来たから」
「そうか。まあ酒でも飲めよ」
そう言って竜雄さんが立ち上がるも、
「飲まねえよ、朝から」
と池脇はにべもなく断る。
そうか、と言って座りなおす竜雄さんの動きが、痛みを庇っている分とても辛そうだ。
「足もやってんのか、重そうだな」
「ああ、腰はもうずっとダメでよ。年のせいかな、色んなトコがガタガタだ」
「まだトラック乗ってるって?」
「当たり前だろ」
「もう降りりゃあいいじゃねえか」
「なんで」
「金ならあるだろ」
「どこに」
「ちゃんと仕送りしてるだろうが」
「馬鹿か。働けるうちは働いてテメエの金で飯食うさ。なんでお前らのわけのわからん稼ぎで酒飲まなきゃなんねえんだ」
「わけのわからんて」
「右足が動くうちは降りねえぞ」
冗談なのか本気なのか分からない。
私の前で座っている伊澄が俯いたのを背後から見る限り、彼は笑っているように思えた。
「こないだも『まどか』行ったら和明と二人して心配しとったぞ。お前ら、織江ちゃんに働かせすぎじゃねえのか。おい大成、そこらへんどうなってんだよ」
(まどか=『いろどり橋』。善明アキラの母が経営する都内の小料理屋)
「え、何の話っすか?」
神波が顔を上げて答える。
「いまだにお前、半年に一回ぐらいまとまった金がぽーんと振り込まれるっつってよ。それでなくてもなんだかんだ金の工面してもらったのにって、一体どうなってんだ」
「いや、印税ってそういうもんだからさ」
「お前らがそんな偉そうな事言ってる裏っ側で、織江ちゃんが汗水流して働いてんじゃねえのかっつってんだよ!」
…なんでそうなるんだよ。
口ごもる神波の横で伊澄が肩を震わせる。
「笑ってんじゃねえぞ翔太郎!」
「あい、スンマセンっす」
「お前全然誠連れて帰って来ねえじゃねーか、どうなってんだ」
「平常運転っす」
いつもの事なのだろう。そんなやり取りの間も池脇は我関せずという態度で、ニコニコ笑っている千代乃さんに小さく手を振っている。やがてそのままの状態で池脇が切り出した。
「父ちゃんよ、偉そうな事言ってんのはどっちだ?」
「おお?」
「別に俺らはよ。今更納得してほしくて金入れてるわけじゃねえよ。ここまでデカくしてもらった自分の親に対して感謝の気持ちを形にしてるだけで、やましい気持ちなんか一切ねえよ。アキラんとこだけ特別扱いしてるわけじゃねえし、うちにも、こいつらんトコにも、もちろん織江のとこにも平等に分配してる。受け取らねえなら別に構わねえよ。でも理解出来ねえからって人を悪く言うなよ」
「生意気言うなチンピラ」
伊澄の肩がブルっと震える。
「織江はそらぁ頑張ってるさ。けどこいつらが普段どんだけの事をやってるか、父ちゃんは絶対に見ようとしねえんだな」
「見たって理解出来ねえもんは、理解出来ねえからな」
池脇は大きく鼻から息を吐き出し、
「それでも構わねえ。それでも、ちゃんと報告はしておこうと思って、今日皆で顔出したんだ」
と言った。
「アメリカへ行く話か?」
「ああ」
「なんでだ」
「何が」
「何をしに行くんだって聞いてんだ」
「何回言わせんだよ」
「もっぺん言ってみろよ」
「歌を、やりに」
「なんで日本じゃいけねえんだ」
「世界で勝負するんだよ」
「誰と」
「…世界とだよ」
「誰とだよ」
「…」
「竜二」
「…」
竜雄さんの深いため息。池脇らの沈黙。



私はこの場にいない約束だ。だから何があっても絶対に口を開く事はしない。
だから今ここで書こうと思う。
ドーンハンマー、あるいは彼らを取り巻く人々に基本的にはNGがない事実は、
ここまで読み進めて下さった読者諸兄にはご理解頂けていると思う。
しかしたった一つだけ、これまでの取材で全く明らかにしてこなかった事がある。
既にお気づきの方もいるかもしれないが、それは彼らが練習中に倒れてしまう場面だ。
この場面に関してだけは、伊藤織江から口外しない約束の言質を取られた。
女性である芥川繭子が体を痙攣させて倒れる場面など映像で残すわけにはいかないし、
彼女だけではなく全員が同じような姿でスタジオの床に転がって来た。
何度も救急車を呼び、いい加減にしてくれ、通報するぞと救急隊員にお叱りを受け、
そのうち119番すらしなくなったのも随分と前の事らしい。
そのせいで長時間の練習には必ず誰かスタッフが側に付くようになる。
それが伊藤の時もあれば上山の時もある。
しかし誰が側に付こうが彼らの顔に笑みはなく、固唾を呑んで見守っている。
そんな光景を感動的な場面として取り上げたくはないし、
メンバー誰一人そんな風には考えていないとの思いが全員に共通してあった。
これまで「リタイアマラソン」と呼ばれる月に一、二度行われる過酷な練習について、
会話の中で触れることはあっても直接的な描写は避けて来たし、
カメラを回す事もしなかったのその為だ。
だか私は幾度となく彼らが崩れ落ちる姿を実際この目で見てきたし、
酸素吸入や水分補給、別室への移動などの介助を手助けして来た。
自慢したいわけでは全くない。
そうやってとても近い場所で彼らの本気を見て来た私だから、
今彼らが理解されずに追い込まれている状況がとても辛かった。
しかも相手は、実の父親なのだ。



「竜二よ。…お前らが来る機会なんてめったにねえからこの際全員に言っとくぞ」
竜雄さんが口を開くと、伊澄と神波が背筋を伸ばした。
「ワシは、お前らが何をしようと一向に構わねえよ」
一度そこで言葉を切り、竜雄さんは3人の顔を見た。
本心だと、それだけで伝わった。
「お前らがどこで何をやらかそうと、テメエで考えてやる分には何とも思わんし、テメエのケツをテメエで拭けるんならそれでいい。だが理解は、出来んよ。そんなもの理解しろって方が無茶だろうが。こっちは50年近くトラック乗って生きてきた。ロックンロールなんてもんはエルビスで十分だし、お前らが何を喚こうがワシの耳には全然入って来ねえ。だからお前らも、そこをどうにかしてくれようなんて金輪際考えるな。どうでもいいし、興味はねえ。だが履き違えてくれるな。ワシは、お前らを憎く思ってこんな話して」
「あー!」
突然、千代乃さんが膝立ちになって池脇を指さして声を上げる。
全員ギクリとして彼女を見つめる。
だが声を上げた当人が、何故声を出したか分からない顔をして、首を傾げた。
池脇も首を傾げる。
千代乃さんは膝立ちのまま息子に近づいて、彼の顔を覗き込んだ。
「男前だねえ」
千代乃さんはそう言い、あははと笑う池脇の頭に手を置いた。
話の腰を折られた竜雄さんは俯いて後頭部をぼりぼりと掻いている。
「あんたぁ、うちの竜二に似てるよねえ」
と千代乃さんは言った。
「へえ、そうかい」
答える池脇の声が僅かに上擦る。
「兄さんもいい顔してるけどねえ、うちの子もなかなかよお。ただね、うちの子はまだちょっとだけ子供だからね。心配ごとは尽きないよね。特にこの町じゃあ生きてくだけで大変だものね」
「ああ、ホントにな」
「兄さんも、この町の人かい?」
「…ああ、昔ちょっとな」
「そうかい、今は違うんだね。…そうだ、兄さんに頼んでもいいかねえ」
「何?」
「うちの竜二をさぁ、よろしく見てやってくんないかねえ」
「…え?」
「うちの人さあ、腕っぷしはなかなかのモンだけど、ご覧の通り腰が悪くってさあ。仕事でね、トラック乗ってるんだけど、いつもいつも無理して日本中走り回ってくれてっからさ、子供らの事は私らでなんとか守ってやらにゃあ、いけないよね」
「ああ、うん、そうなのか。大変だな」
「うーん、うふふ、こんな事会っていきなり言うのも変な話だけどさあ、兄さんほら、うちの子に雰囲気がそっくりだからさあ。うちの竜二も兄さんみたいな良い面構えになってくれっといいんだけどねえ。なかなかどうして、ままならないよねえ」
「ああ。…分かるよ」
「春雄さんはでっかい船作ってんだって。和明さんはその船乗って海に出てんだって。うちの人は日本中走り回ってる。皆、額に汗して踏ん張ってる。休みなんてないんだ。あたしらはそれをよっく分かってるからさ、うちの人らにはこれ以上言えないもんねえ。でもさ、近所にね、うちの人が小さい頃から世話になってる大親友が住んでてね、その人だけはこの町にいて、いつも子供らを見守ってくれてんだ。銀一さんって言ってね、物静かでちょっとおっかない人だけど、優しい人なんだよ。突き当りの路地入った所進んでくと、…あるだろ。あそこで牛打ちの銀って言ったら知らない人はいない職人さんなんだよ。こないだもね」
「母ちゃん、まあま、そこらへんで」
竜雄さんが背後からそっと千代乃さんの肩に手を置いて、後ろへ下がらせようとした。
しかし千代乃さんはそれを振りほどき、上機嫌で息子に話を続ける。
池脇は微笑みながらうんうんと頷き、いつの間にか千代乃さんの手を握って話を聞いている。
「あ、所で兄さんお名前なんていうの?」
「名前?…あー、奇遇だねえ、俺も竜二ってんだよ」
「へー!竜二!こんな事あるんだねえ。でもやっぱりそうだ、うちの子に似てるよお」
「あはは」
伊澄は俯いている。神波は視線を外して背中を震わせている。
「悪いね。…ずっと聞いていたいけどよ、この後予定あんだわ。また来るから」
池脇がそう言うや否や、千代乃さんは息子の手を両手で握りしめた。
「頼むよ!兄さんお願いだ!」
彼女のあまりの勢いに、池脇は息を呑んで何も言い返せない。
「うちの竜二を見てやってくれよ。竜二だけじゃない、翔太郎も、大成も、アキラも、本当はもうどうにもなんないんだよ、私らじゃ!兄さんみたいな強い人ならさ、守ってやってくれるだろ!? あの子らにゃ助けが必要なんだ!こんな!こんなクソみたいな町でこれ以上ボロボロにされてたまるか!」
「母ちゃん」
「駄目だ、終わりにしよう」
そう言って竜雄さんは千代乃さんの肩に置いた手に力をこめる。
「母ちゃん」
項垂れた池脇の背後へ、ゆっくりと伊澄が這い寄る。
そしていきなり無言の一撃を彼の脇腹へ叩き込んだ。
「い!っつ…」
四つん這いの姿勢からだったが、不意打ちの右フックに池脇の顎が跳ねあがった。
「泣いて良い場面じゃねえだろ、竜二」
奥歯を噛締めながらそう言った伊澄の声に、池脇はぐっと堪えて千代乃さんの手を握り返した。
「ああ。分かったよ。あいつらの事は俺に任せな。ちゃんと面倒見てやるから」
「ホントに!? あ、あの、竜二だけじゃ嫌だよ!? 他の3人も一緒に頼むよ!あの子らいっつも一緒なんだよ!4人で力合わせて生きてんだよ!我儘なんて絶対言わない、良い子達だから!だから!ね!だから!あの子らだけは幸せになんなきゃいけないんだよ!」
「ああぁ…クソ!…クソ!」
どうしようもなく溢れ出る涙に池脇の震えは止まらず、
優しい母への言葉も返せない彼の顔面は鬼のような形相に変わっていた。
全てが腹立たしかったと、後に彼は語った。
あの町も、自分達や家族を苦しめた悪夢も、今尚母親の前で泣いてしまう自分も、何もかもが。
「翔太郎」
池脇が名を呼ぶと、心得たとばかりに伊澄が2発目をお見舞いした。
その時だった。
ずっと膝立だった千代乃さんが立ち上がり、叫んだ。
「お前うちの竜二に何をしよんじゃあ!」
右手に何かを握っているかのように、腕をめちゃくちゃに振り回しながら伊澄に襲い掛かろうとする。
背後から竜雄さんが羽交い絞めにし、正面から池脇が抱きしめてそれを止めた。
「早く行け、外出ろ」
竜雄さんが顎をしゃくってそう促す。
池脇も同じく顔だけ振り向いて、「頼む、先行ってくれ」と2人に告げた。
無言で立ち上がる伊澄と神波に習い、私もカメラと共に外へ出た。
玄関の扉を開けて家の前の道に出ると、向かいのコンクリートブロックの塀を神波が思い切り蹴った。何度も蹴った。しかし塀はびくともぜす、乾いたその音はとても悲しく寒空へ登っていく。
伊澄は神波の側でしゃがみ込んだ。両膝の上にだらしなく両腕を乗せ、「きっついなあ」と一言漏らし、深く項垂れた。



ここから先の映像はない。
思いがけないタイミングの思いもよらない出会いに、私の心の歯車は上手く噛み合わず、
失礼を働いたかもしれないという肝の冷える思い出だけが強く残っている。
まず池脇の実家を出た直後、言葉を無くした私達へ一人の女性が声を掛けてきた。
「そんな所で、なんでお前が泣いてんの?」
言葉はぶっきらぼうだが、とても優しい声だった。
振り向いたそこに立っていたのは、少女のように小柄な女性だった。
黒のニットセーターとスリムフィットデニムの上から、濃いえんじ色の厚手のエプロンを被っている。
そしてミディアム・ショートボブという髪型を見て私はぎょっとする。
この場所に到着した時に感じた、あの視線の先に立っていた人影だと直感したからだ。
ご部沙汰しています、と神波が九十度に体を曲げて頭を下げた。
その後頭部に手を置いて、優しい声の女性は言った。
「頭下げるのちょっと早いなぁ。顔上げてみ」
言われた通り神波が頭を上げると、小柄な女性の背後にゆっくりと近づいてくる男の人影があった。
紹介されずとも一発で誰だか分かってしまった。顔さえ見なければ同一人物と思い込む程雰囲気が同じだったからだ。
おそらく息子から贈られたであろう、まだ新しそうなシングルのライダース、その下は真冬だというのに白のVネックシャツ一枚だ。
そんな所まで似てるんだなと感心して胸が熱くなる。
そして顎のラインから首筋と鎖骨にかけて、酷使してきたであろう筋肉と刻まれた皺が惚れ惚れする程に色っぽい。
男性に向かって神波はまたもや深々と頭を下げた。
お疲れさまですと神波が言うと、小柄な女性は後ろの男性の腕を引いて頭を下げさせ、耳打ちした。どうやら耳が不自由のようだ。
「俺はスジモンか」
身体を起こすとその男性は小さく呟き、神波を見ながら蹲っている伊澄を指さした。
神波は黙って頷き、翔太郎、と声を掛けた。
伊澄はゆっくりと顔を上げて、泣いてねえよと答える。
「久しぶりだな。父ちゃん、母ちゃん」
私達の元へ現れたのは伊澄銀一、友穂ご夫妻であった。
先程からずっと、私の心臓が繭子のツー・バス連打並みの早鐘を打っている。
言葉が出て来ない。本来なら一番に自己紹介して状況を説明せねばならない部外者の立場だが、
二人の放つ存在感に圧倒されてしまい息をするのもやっとだった。
見兼ねたのだろう。友穂さんの方から、大丈夫?と心配の声を掛けて頂いた。
ある意味いつもの私らしいリアクションを見て落ち着きを取り戻したようで、伊澄は立ち上がって私の背中をトンと叩いた。
「父ちゃん、銀一。母ちゃん、友穂。この人は出版社の時枝さん」
私は先ほどの神波よりも深々と頭を下げて名乗った。
一年前からバンドの密着取材ウンヌンと説明し始めた私の言葉に興味がないのか、銀一さんはふらっと池脇のお宅へ入って行ってしまった。友穂さんはその姿を目線だけで追いながら、やがて私を見て微笑んだ。気にするな、そう言ってもらったように感じた。
ここへ来た時の伊澄の言葉が本当なら、親子の再会は一年振りのはずだ。
友穂さんは息子の顔をまじまじと見上げながら、なんの取材?と尋ねた。
何かやらかした?と言いたげに、眉を下げて苦笑しているその顔は、お世辞でなく60代には絶対に見えない。突拍子もない話だが、私がこの一年で出会った女性達を、例えば全員60代になるまで時間を押し進めて統一した場合、おそらく最も若く見られるのはこの伊澄友穂さんだと思う。そのぐらい圧倒的に若い。何の取材と言われて答えに窮する息子を面白そうに見ながら、織江ちゃんが言ってた話か、と思い出したように納得する。
またもや飛び出す伊藤の名前に、胸が鳴ると共に思わず溜息が出た。
友穂さんが神波に一歩近づいて、声を掛ける。
「なあ、男前。あとでウチ寄っていきな。響子来てるからね」
「え、母ちゃんすか。なんで」
「たまたま。さっき父ちゃんの忘れ物をこのウチに取りに来たらあんたらが見えて、急いで電話掛けたらちょうどウチの家に来る所だったってさ。もう着いてんじゃないかな」
「分かりました。伺います」
「チヨには会った?」
「今しがた」
「最近まともに話してなかったんじゃないの?」
「はい」
「…びっくりしたろ」
「…少し」
「あの子一人だけ若返りやがってさ、やんなるよ」
「あはは」
「織江ちゃん元気?」
「はい」
「お前もこっち来るのはいいけどさ、ちゃんとあちらさんにも顔出しなよ?」
「そうします」
少女のようなシルエットで優しい声を放つ友穂さんが、伊澄と神波を従えている事が不思議と、とても幸せな光景に見えた。
「翔太郎は、どう」
「どうって?」
「すぐ戻るの?」
「どうすっかな。竜二次第」
「そうか。忙しい?」
「まあ、おかげさまで」
「良い事だよ」
「今度は誠も連れてくる」
「ああ。体の具合はいいの?」
「え? 誰が」
「誠、もういいの?」
「…俺、言ったっけ?」
「電話あったよ。なんでか知らないけどすっごい謝ってた」
「へえ」
「会いに行こうかって言ったんだけどね、自分から行きますって」
「そっか。うん、大丈夫。ちゃんと見てるから」
「じゃあ、任せた。何か助けがいるならすぐに言いな」
「頼りにしてるよ、元看護婦だもんな」
「それは別に関係ないけどね。父ちゃんもお前の事より誠を心配してたよ」
「あはは、そらそーだ」
「お前は相変わらずそうだね」
「絶好調」
「あはは。いいね、それでこそだ。…あ」
何かを思い出したように友穂さんはエプロンの前ポケットから小さな財布を取り出した。
そして折りたたまれた何枚かのお札を抜き取り、伊澄に手渡した。
「何、こづかい?」
「父ちゃんの革ジャン代。繭子が新しいの買って持って来てくれたんだ」
「…あいつ」
「どう見たってお前の着古したボロよりあっちの方が高いだろう?」
「だろうな」
怒ったような伊澄の苦笑い。
「父ちゃん喜んで毎日着てるけどね。繭子は受け取らないだろうし、お前から何かの形で返してやりな」
「いいよ、俺が自分で返すから」
「それじゃ意味ないだろ」
「なんで。俺が父ちゃんに新しいの買ってやるのと同じ事だろ。母ちゃんが金出す理由はどこにもない」
「…ほんとだ」
「だろ?」
「うん。なあ、やっぱり今日泊まっていきな。一晩ぐらい時間あるだろ」
「うーん、どうすっかな」
「泊まって行けよ」と神波。「今日は、俺もそうさせてもらう」
伊澄は何度か頷き、黙って池脇宅の玄関を見つめた。
友穂さんは俯き加減の顔に微笑みを浮かべて、やはりとても嬉しそうだ。
あ、と声を上げて神波が私を見る。
私は慌てて後退り、一人で運転して帰れるから気を使わないで欲しいと告げる。
伊澄の眉間に皺が寄ったので、何度も首を横に振る。
午後から予定が入っている為もともと戻る気でいたと説明しても、伊澄は疑ったまま私を見つめる。睨んでいるようにも見える。
「まあまあ、気も遣うだろうしね。他人の実家で居心地良いわけないし、帰る方が彼女も気楽だと思うよ」
と神波が言わなければ、伊澄は納得しなかったかもしれない。
しかし友穂さんが「お前送ってきな」と伊澄に言った事で、結局私はまた彼らの優しさに甘えてしまう形になった。



伊澄の運転する帰りの車内にて。
-- はー。胸が一杯です。
「お腹一杯?」
-- 胸です。
「巨乳アピール?」
-- 今はカメラ回ってますからね。
「ホントーニモーシワケゴザイマセンデシタ」
-- (笑)。はー! 凄い日だなあ、今日。情報が多すぎて処理しきれないです。
「あはは、なんか帰り際グダグダでごめんな」
-- 何故です?
「結局竜二出て来ないままだったし、父ちゃんもあんな感じで、フラフラした人だからさ」
-- いえいえ、お会い出来ただけで光栄でした。もともといない者として扱ってもらう筈が、最後には写真撮影までお願いしちゃって申し訳ないです。それにしても翔太郎さん、お父様とそっくりですね。
「俺? そうかな」
-- お顔と言うよりも、雰囲気とかシルエットが全く同じでした。翔太郎さんの30年後が見えました。竜二さん所もそうですけど。
「あそこは似てるよなあ、竜二よりでかいもんなあ」
-- 翔太郎さんのお母様、友穂さん、可愛くて素敵な方ですね。
「そうかい? じゃあそう言っとくよ」
-- 千代乃さんも、涙が出るぐらい素敵なお母さまです。
「あの年代の、俺らの親世代は皆地獄を見てきてるからね。強いよ、本気で凄い人達だと思う」
-- はい。
「うちの父ちゃんの耳、気付いた?」
-- はい。
「左はまだ大丈夫みたいだけど、右側は完全にダメなんだよ」
-- 事故か何かで。それとも生まれつきですか。
「どっちでもないな。竜二の父ちゃん、竜雄さんの腰もそうなんだけど。…俺達の子供の頃の話しただろ、さっきチヨさんも言ってた」
-- はい。
「父ちゃんは違うって言うけど、実際体張って守ってくれてたんだと思う。それはきっと、頭のおかしい連中ばっかりだったあの街に生きて、俺達が家にいる間だけは安心して眠れた事だけ見ても、もう証明されてると思うんだよ。父ちゃんも母ちゃんも外で働いてたし、俺達が学校へ行ってる間、通学路の往復なんかはそれこそどうしようもない地獄だったけど、完全に目を付けられてたにも関わらず、家にいる間は全く何もされなかったしな。今思えば、相当外で苦労しただろうなってのは、想像付くよ。俺の父ちゃんだしね、やりすぎて恨み買ってただろうし、ヤクザ者やシャブ中も多かったから、敵だらけだったんだよ。母ちゃんなんて一年中貞操帯つけてたよって笑って言うからな(笑)」
-- …笑えません。
「…うん。ある日夜明け前にさ、父ちゃんが顔面血塗れになって帰って来た。父ちゃんの仕事ってのは遅くとも夕方前には終わるはずだったから、その日は帰りが遅いの心配して皆起きてたんだけど、嫌な予感が見事に的中したもんでめちゃくちゃ怖かったのを覚えてる。顔面どころか、首から肩から一杯血がついてて。それ見た母ちゃんが凄くてさ。泣きも喚きもしないで、たまたま家に帰って来てた竜雄さん呼びに走って。でも父ちゃんさ、母ちゃん達が戻ってくるのを待たないで、仕事道具のハンマー持ち出すわけ。どうするの?って俺が聞いたら、父ちゃんなんて言ったと思う?」
-- …。
「『ちょっと仕事行ってくるわ』。…俺、今帰って来た所だろって思いながら、条件反射で『いってらっしゃい』って答えちゃってさ。父ちゃん血塗れの顔でニッコリ笑って、心配すんなって言って走って飛び出してった。その時にはもう両方の耳やられててさ。左側だけは手術でなんとかなったけど、右側はダメだった。左側だって、今でも耳元で喋ってやんないと聞き取れないし、仕事の時は補聴器手放せないしな」
-- す、凄い話ですね。とにかく、ご無事で何よりでしたね。
「あはは。その後戻って来た母ちゃんは自分もハンマー持って飛び出して行くし、竜雄さんもブチ切れて追いかけるわで誰も止める人間がいないんだよ。大成とアキラんちはちょっとだけ離れてたし、呼びに行こうにも夜中だし誰が行くんだって話だろ。あの日は凄かったなあ。皆が戻って来るまで竜二と二人でガタガタ震えてさ、家のカギ閉めてずーっと起きて待ってたよ。途中いきなり電話が鳴ってさ、悲鳴上げて。恐る恐る出たら大成なんだよ。お前ふざけんな!って怒って(笑)」
-- 震えるぐらい怖いお話ですけど、翔太郎さんにとっては懐かしい思い出話の一つなんですね。私、冷や汗が止まりませんけど(笑)。
「まあな。でもそういう一つ一つがさ、その時何を意味してるかとか、当時は全然分かってないんだよな。ただ怖かったり、気味悪かったり。だけどこうして俺達も大人になってあの頃を振り返った時にようやく見えて来る、あの人達の強さとか、優しさみたいなものがね…」
伊澄は前を向いて運転したまま、言葉を切った。
泣いているわけではない。
彼の沈黙の奥に、容易に口に出来る言葉では言い表せない思いがある事だけは、私にも伝わった。
-- 友穂さんがハンマー持ったら後ろにひっくり返りそうですけどね。
「あはは!じゃあそう言っとくよ」
-- モーシワケゴザイマセンデシター。
「いいねえ(笑)」
-- 皆さん同じ年なんですか?
「誰?」
-- 竜雄さんや、銀一さん達です。
「父ちゃん達はそうだよ。春雄さんも和明さんもうちらの親と同じ年。母ちゃん連中はちょっと違うみたいだけど。なんで?」
-- 先日お会いしたアキラさんのお母様、まどかさんもそうですけど、皆さん本当にお若いのでびっくりしました。
「おばちゃん綺麗だろ」
-- まどかさんですか? そうですねえ。あんな風に年を重ねられる自信がありません。
「俺も自分でそう思う」
-- いやいや、翔太郎さん達は絶対、格好いいおじいちゃんになりますよ。
「そうかい? …あ、さっきあんたよく怒らなかったな」
-- 怒る?
「竜雄さんに俺らボロクソ言われて、俺はひたすら面白かったけど、大成きっと織江の事言われて不満がってるし、時枝さんも腹立ててんだろうなあって」
-- あー。あはは。
「違った?」
-- んー。最初は確かに、怒るというか辛いなと思ったりしたんですげど、でもちょっと、そんな単純な話ではないんだよなって思いながら、聞いてました。
「そうか」
-- 竜雄さん、物凄く真っ直ぐな方なんじゃないかなって思うんです。きっとそれは私が竜二さんを知っているからそう見えたんだと思いますけど。分からない事は分からないとしか言えない。相手を慮って優しい愛想を振りまく言葉や行為は、きっと竜雄さんの中では優しさなんかじゃないんだろうな、って。
「うん」
-- 途中で話が止まってしまったのが残念ですが、きっと、バンドとしての皆さんの活動は理解できなくても、息子としては誰よりも心配されているだろうし、愛していらっしゃる。だからこそ、アメリカ行きの話が突拍子の無いものに聞こえて仕方がないのだと思います。
「うん」
-- 私は、たった一年ですが皆さんの本気を見てきました。だから立ち上がって、「息子さん達はたった4人で、何万人もの人間が発する熱狂と狂乱を相手に真正面から戦える音楽戦士です!」って叫ぶ事は出来ます。
「あははは!」
-- でもそれはきっと竜雄さん達の理解出来る現実ではないし、伝わらないんだろうなと思いました。きっとこう仰ると思います。「自分達は60年日常と戦い続けて、20年かけてこいつらを男にした親という戦士だ」って。その経験と愛情に打ち勝つ言葉は、私の中から出てきません。
「そんな上等なセリフは逆立ちしたって出て来やしないだろうけど、思ってはいるだろうな」
-- はい。
「あんたやっぱ凄いな」
-- はい?
「ちょっと感動した」
-- やめてくださいよ。
「あそこの親子は本当、似た者同志でな」
-- 竜二さんですか?
「うん。とにかく責任感が強い。あいつ自分で言ってたけど、時枝さんが諦めたように、竜雄さん達に自分の仕事を認めさせようとはもう思ってないんだよ。ないんだけど、あいつはバンドや会社を自分の責任として抱えてる部分もあるからさ。『俺はいい、だけど他の奴らの事は認めてくれ』って、変に意固地になってる所がある」
-- なるほど。分かる気がします。
「でもそれって見方を変えれば同じ事なんだよな。竜雄さんだけじゃなくて、うちの父ちゃんも、和明さんも同じように家族への責任感で生きてる。なんだったら、母ちゃん達だってそうだ。なんつーかな。…例えば竜雄さんだったら、体悪くしてもトラックを降りない、子供の世話になんかならない。でも言いたいのは自分の頑張りなんかじゃなくて、アメリカが本当にそんなに大事な事か、もっとお前らを育てた母ちゃんを大切にしろ、分かってんのかって、…そういう気持ちなんじゃないかな。立場が違うだけでさ、あの二人は同じように感じながら生きてると思うんだ」
-- はい。確かに仰る通りですよね。
「親子!って感じだよ、あそこは本当に」
-- 翔太郎さんはそこまで分かっているから、面と向かってチンピラと罵られようが、笑っていらっしゃったんですね。
「だってチンピラだもん(笑)」
 -- あははは! 翔太郎さんは、どうなんですか。お父様とはどういったご関係ですか?
「あー。うちはあんまり喋らないから」
-- 寡黙な方なんですね。それは耳の事がある前からですか?
「うん。声を上げて笑ってるトコ見た事ない気がする」
-- えーっ!そこまでですか。
「うーん。逆に、変に怒鳴ったり喚いたりもしないし、そこは良かったけどね。竜雄さんも和明さんも気性が激しい人だから子供の頃はマジで怖かったし。…今でも怖いけどね(笑)。その点春雄さんとうちは愛想ないくせになんでか一目置かれるタイプというかね。けどうちの母ちゃんがああいう人だから、暗い家ではなかったよ、全然」
-- にこやかですけど、芯の強さが滲み出ている方ですね。好きです、ああいう女性。
「ちっこいクセに貫禄あるだろ。あれで一番年上だからな」
-- え!?
「2、3個しか違わない筈だけど、確か一番上はうちの母ちゃんで、次が響子さんかな。チヨさんとまどかさんがその下で同い年、だった気がする」
-- へえー、私響子さんとはまだお会い出来ていませんが、友穂さんの若々しさはちょっと見過ごせませんね。お幾つなんですか?
「父ちゃんと同じだから、67?」
-- 嘘だー!
「あははは」
-- あ、…『アギオン』ライダース。あれって銀一さんがずっと着ていらしたんですね。
「あー、バレちゃったな。くっそー、格好悪」
-- そんなワケないですよ。絆とか、歴史とか、優しさとか、愛情とか。そういう気持ちのギュっと詰まった素敵なエピソードだと思います。でも、繭子はいつ知ったんでしょうね。代わりに新しいの買ってあげるなんて、やっぱり彼女も素敵だなあ。
「バレるとそうなるのが分かってたから言わないようにしてたんだけどな。…織江かもな、俺らの実家連中と今でも一番顔合わせてるのって、多分あいつだし」
-- ああ、なるほど。先日竜二さんと『いろどり橋』ご一緒したんですが、その時も、今日も、さっきも、今も、もうどこにいたって織江さんの名前が出てくるんですよ。私あんなに凄い人見た事ないです。私の中の歴代ナンバーワン女性です。
「織江? まあね、あいつは…うん。…今後ろ乗ってるけどね」
-- ええ!?(驚愕して振り返る)
「あははは!」
-- …びっくりしたー。ちょっとしたホラーじゃないですか!
「そう言っとくよ」
-- ほんと勘弁してください、織江さん大好きです!超愛してます!心の底から!!
「うるせえなあ!」



伊澄銀一の握る仕事道具、相棒としてのハンマー。
そして我らが、ドーンハンマー。
偶然の一致とは言え怖いぐらいに交差するその意味合いに、より深みが増した気がした。
血塗れになりながらも、我が子らの行く道を死守せんと夜明けのハンマーを握りしめる彼の背中は、
伊澄翔太郎に、そして若き日の彼らに本当の強さとは何かを教えていたのではないだろうか。
池脇竜二の横腹に喝を入れた伊澄に対して両腕を振り回した千代乃さんの叫び声は、
きっと彼らが子供の頃から、本当の愛情とは何かを教えていたのではないだろうか。
そんな事を考えている間に視界に飛び込んで来た、住み慣れたはずの我が街の光景は、
何故だかいつもより色褪せて、現実味が薄いように私には感じられた。





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