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第2話「笑う影」怖さ:☆☆☆
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黒崎美月が塾からの帰り道で異変に気づいたのは、十月の終わり頃だった。
夜の九時過ぎ。街灯の明かりが等間隔に並ぶ住宅街の一本道。いつものように歩いていると、足元に伸びる自分の影が妙に気になった。
最初は歩くリズムがおかしいと思った。美月の足音は一定なのに、影の動きが微妙にずれている。一歩、また一歩と歩くたびに、アスファルトに映る影が小さく震えるように見えた。
「疲れてるのかな……」
美月は立ち止まり、深呼吸をする。受験勉強の疲れで、目がおかしくなっているのかもしれない。しかし足を止めても、影は動き続けていた。
ゆらゆらと、まるで水の中にいるように。
美月は恐る恐る影を見つめた。街灯の光が真上から差しているため、影は足元にくっきりと映っている。だが、その影の輪郭が徐々に変化していく。
最初は些細な違いだった。影の髪の毛が、実際の美月の髪よりも少し長く見える。影の肩が、わずかに上がっている。そして影の頭部に、小さな膨らみができ始めた。
まるで、笑っているような形に。
「え……?」
美月は手で自分の口元を確認する。真顔だ。むしろ不安で眉間にしわが寄っている。それなのに影の口元は、明らかに弧を描いていた。
にんまりと、満足そうに笑っている。
美月は慌てて歩き出した。影を見なければいい。そう思って前を向いて歩く。しかし街灯の下を通るたびに、足元の影が目に入ってしまう。
そのたびに影の笑みは大きくなっていく。
三つ目の街灯の下で、美月は震え上がった。影の顔に、新しい変化が現れていたからだ。
目だった。
影の顔に、白い点が二つ浮かんでいる。それは確実に目の形をしていた。しかも、その目がこちらを見上げている。
美月は走り出した。
背後から、かすかな笑い声が聞こえてくる。振り返ると、街灯の下に自分の影が残されていた。本来なら美月と一緒に動くはずの影が、一人でそこに立っている。
そして手を振っていた。
「いやああああ!」
美月は全力で走った。家まであと二百メートル。息を切らしながら角を曲がると、また新しい街灯の下に入る。
足元を見ると、影がまたできていた。さっき置いてきたはずなのに、新しい影が現れている。そしてその影は、前よりもはっきりと笑っていた。
口が大きく開き、歯まで見える。影なのに、なぜか白い歯がきらりと光る。
「どうして……どうして……」
美月は涙声になりながら歩き続けた。もう走る気力もない。街灯の下を通るたびに影ができ、そのたびに影の表情は豊かになっていく。
五つ目の街灯で、影に鼻ができた。
六つ目で、影の髪が風になびき始めた。
七つ目で、影が美月と違う服を着ているのに気づいた。
そして八つ目の街灯の下で、影が口を開いた。
「お疲れさま」
地面から、美月の声がした。自分の声なのに、自分が発したものではない。
「毎日毎日、よく頑張ってるね」
影がアスファルトの上で振り返る。完全に独立した存在として、美月を見上げている。
「でも、もう疲れたでしょ?」
影の顔は、美月と同じだった。しかし表情だけが違う。影は心から楽しそうに笑っている。美月がここ数年、一度も浮かべたことのない笑顔で。
「私と代わりましょう」
影が立ち上がった。平面的だった存在が、ゆっくりと立体になっていく。影の美月が、本当の美月の前に立つ。
「あなたは疲れすぎた。だから私が代わりに生きてあげる」
影の美月が手を差し出す。
「楽になりましょう?」
美月は後ずさりした。しかし背後の街灯が、美月の影を地面に映し出す。新しくできた影も、同じように立ち上がり始めた。
「そう、その通り。私たちがあなたの代わりに生きてあげる」
前後を影に挟まれて、美月は動けなくなった。
「受験も、友達付き合いも、家族との会話も、全部私たちがやってあげる」
影たちが一歩ずつ近づいてくる。
「あなたはもう、何も考えなくていい」
その時、街灯が一つずつ消え始めた。
影たちが消える。しかし暗闇の中で、笑い声だけが響き続ける。
「ありがとう、美月」
複数の美月の声が重なる。
「もう大丈夫。私たちに任せて」
美月は膝をついた。確かに楽になりたかった。毎日の勉強、成績への不安、将来への恐怖。すべてを誰かに押し付けてしまいたかった。
暗闇の中で、美月は微笑んだ。生まれて初めて、心から安らいだ笑顔を浮かべた。
翌朝、黒崎美月は いつものように学校に向かった。
友達は気づかなかった。家族も気づかなかった。
ただ一つだけ変わったことがある。美月の影が、どんな明るい場所でも映らなくなった。
本物の美月は、影たちと一緒にどこかへ行ってしまったのだから。
今の美月は、影が作り出した偽物だった。でも誰も気づかない。
なぜなら偽物の方が、本物よりもずっと上手に『黒崎美月』を演じていたから。
夜の住宅街では今夜も、誰かの影が一人歩きを始める。
疲れた魂を探しながら。
夜の九時過ぎ。街灯の明かりが等間隔に並ぶ住宅街の一本道。いつものように歩いていると、足元に伸びる自分の影が妙に気になった。
最初は歩くリズムがおかしいと思った。美月の足音は一定なのに、影の動きが微妙にずれている。一歩、また一歩と歩くたびに、アスファルトに映る影が小さく震えるように見えた。
「疲れてるのかな……」
美月は立ち止まり、深呼吸をする。受験勉強の疲れで、目がおかしくなっているのかもしれない。しかし足を止めても、影は動き続けていた。
ゆらゆらと、まるで水の中にいるように。
美月は恐る恐る影を見つめた。街灯の光が真上から差しているため、影は足元にくっきりと映っている。だが、その影の輪郭が徐々に変化していく。
最初は些細な違いだった。影の髪の毛が、実際の美月の髪よりも少し長く見える。影の肩が、わずかに上がっている。そして影の頭部に、小さな膨らみができ始めた。
まるで、笑っているような形に。
「え……?」
美月は手で自分の口元を確認する。真顔だ。むしろ不安で眉間にしわが寄っている。それなのに影の口元は、明らかに弧を描いていた。
にんまりと、満足そうに笑っている。
美月は慌てて歩き出した。影を見なければいい。そう思って前を向いて歩く。しかし街灯の下を通るたびに、足元の影が目に入ってしまう。
そのたびに影の笑みは大きくなっていく。
三つ目の街灯の下で、美月は震え上がった。影の顔に、新しい変化が現れていたからだ。
目だった。
影の顔に、白い点が二つ浮かんでいる。それは確実に目の形をしていた。しかも、その目がこちらを見上げている。
美月は走り出した。
背後から、かすかな笑い声が聞こえてくる。振り返ると、街灯の下に自分の影が残されていた。本来なら美月と一緒に動くはずの影が、一人でそこに立っている。
そして手を振っていた。
「いやああああ!」
美月は全力で走った。家まであと二百メートル。息を切らしながら角を曲がると、また新しい街灯の下に入る。
足元を見ると、影がまたできていた。さっき置いてきたはずなのに、新しい影が現れている。そしてその影は、前よりもはっきりと笑っていた。
口が大きく開き、歯まで見える。影なのに、なぜか白い歯がきらりと光る。
「どうして……どうして……」
美月は涙声になりながら歩き続けた。もう走る気力もない。街灯の下を通るたびに影ができ、そのたびに影の表情は豊かになっていく。
五つ目の街灯で、影に鼻ができた。
六つ目で、影の髪が風になびき始めた。
七つ目で、影が美月と違う服を着ているのに気づいた。
そして八つ目の街灯の下で、影が口を開いた。
「お疲れさま」
地面から、美月の声がした。自分の声なのに、自分が発したものではない。
「毎日毎日、よく頑張ってるね」
影がアスファルトの上で振り返る。完全に独立した存在として、美月を見上げている。
「でも、もう疲れたでしょ?」
影の顔は、美月と同じだった。しかし表情だけが違う。影は心から楽しそうに笑っている。美月がここ数年、一度も浮かべたことのない笑顔で。
「私と代わりましょう」
影が立ち上がった。平面的だった存在が、ゆっくりと立体になっていく。影の美月が、本当の美月の前に立つ。
「あなたは疲れすぎた。だから私が代わりに生きてあげる」
影の美月が手を差し出す。
「楽になりましょう?」
美月は後ずさりした。しかし背後の街灯が、美月の影を地面に映し出す。新しくできた影も、同じように立ち上がり始めた。
「そう、その通り。私たちがあなたの代わりに生きてあげる」
前後を影に挟まれて、美月は動けなくなった。
「受験も、友達付き合いも、家族との会話も、全部私たちがやってあげる」
影たちが一歩ずつ近づいてくる。
「あなたはもう、何も考えなくていい」
その時、街灯が一つずつ消え始めた。
影たちが消える。しかし暗闇の中で、笑い声だけが響き続ける。
「ありがとう、美月」
複数の美月の声が重なる。
「もう大丈夫。私たちに任せて」
美月は膝をついた。確かに楽になりたかった。毎日の勉強、成績への不安、将来への恐怖。すべてを誰かに押し付けてしまいたかった。
暗闇の中で、美月は微笑んだ。生まれて初めて、心から安らいだ笑顔を浮かべた。
翌朝、黒崎美月は いつものように学校に向かった。
友達は気づかなかった。家族も気づかなかった。
ただ一つだけ変わったことがある。美月の影が、どんな明るい場所でも映らなくなった。
本物の美月は、影たちと一緒にどこかへ行ってしまったのだから。
今の美月は、影が作り出した偽物だった。でも誰も気づかない。
なぜなら偽物の方が、本物よりもずっと上手に『黒崎美月』を演じていたから。
夜の住宅街では今夜も、誰かの影が一人歩きを始める。
疲れた魂を探しながら。
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