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第5話「止まない足音」怖さ:☆
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東雲蒼真が深夜の病院で初めてその音を聞いたのは、研修医として勤務を始めて一週間目のことだった。
午前二時。夜勤の見回りを終えて詰所に戻る途中、四階の西棟廊下から奇妙な足音が響いてきた。
コツ、コツ、コツ。
一定のリズムで歩く音だが、何かがおかしい。足音の主が見えないのだ。
蒼真は廊下の奥を見つめた。長い直線の廊下に、人影はない。しかし足音は確実に近づいてくる。まるで透明人間が歩いているようだ。
「看護師さんかな……」
蒼真は首をかしげた。夜勤の看護師は全員、一階と三階にいる。四階の西棟は現在使用していない病棟で、患者も職員もいないはずだ。
足音が蒼真の前を通り過ぎた。
風圧を感じた。確実に、何かが蒼真の横を歩いて行った。しかし姿は見えない。
蒼真は足音を追いかけた。廊下の突き当たりまで行くと、足音は左に曲がった。蒼真も曲がる。しかし東側の廊下に入っても、やはり誰もいない。
足音だけが、先へ先へと進んでいく。
「おかしいな……」
蒼真は立ち止まった。足音も止まる。蒼真が歩き出すと、足音も再開する。まるで蒼真の歩調に合わせているようだった。
試しに早足になってみると、足音も早くなった。走ってみると、足音も走り始める。
そして蒼真が完全に止まると、足音は蒼真の真横で止まった。
誰かがそこにいる。確実に。
蒼真は恐る恐る手を伸ばした。空気に触れるだけで、何もない。しかし温かい何かを感じた。人の体温のような暖かさ。
「誰ですか?」
返事はない。しかし足音が一歩下がった。まるで警戒しているように。
蒼真は看護師詰所に向かった。先輩の夜勤看護師に相談してみようと思ったのだ。しかし振り返ると、足音が後を付いてくる。
詰所に入ると、足音は入り口で止まった。まるで中に入ることを躊躇しているように。
「椎名さん」
蒼真は夜勤リーダーの椎名に声をかけた。
「四階の西棟で、変な足音がするんです」
「足音?」椎名は顔を上げた。「ああ、それね。気にしないで」
「気にしないでって……」
「四階西棟にはね、足音の主がいるのよ。みんな知ってる」
椎名の表情は真剣だった。冗談を言っているようには見えない。
「足音の主って、誰ですか?」
「分からない。でも昔からいるの。害はないから、放っておけばいい」
蒼真は困惑した。病院で働く医師や看護師が、幽霊の存在を当然のこととして受け入れているのか。
「本当に害はないんですか?」
「ええ。ただ歩いているだけ。時々、患者さんの見回りもしてくれるのよ」
「見回り?」
「四階西棟に患者さんがいた頃の話だけどね。夜中に容態が急変した患者さんがいると、その足音が詰所まで知らせに来てくれたことがあるの」
蒼真は驚いた。幽霊が患者の世話をしているということか。
「でも今は四階西棟は使ってないですよね?」
「そうね。だから足音の主も、することがなくて退屈してるのかも」
椎名は微笑んだ。
「あなたについて歩いているのは、きっと新人さんだから興味を持ったのよ」
蒼真は詰所を出た。入り口で待っていた足音が、また蒼真の後を付いてくる。
今度は怖くなかった。むしろ、一人ぼっちの夜勤が少し心強く感じられた。
「君は誰なんだ?」
蒼真は歩きながら話しかけた。足音は答えない。しかし歩調が少し軽やかになったような気がした。
見回りを続けていると、三階の患者から呼び出しベルが鳴った。急いで向かうと、高齢の男性患者が苦しそうに呼吸している。
「先生……苦しい……」
蒼真は診察を始めた。血圧、脈拍、酸素飽和度。すべての数値が低下している。すぐに処置が必要だった。
その時、足音が病室に入ってきた。患者のベッドサイドで止まる。
不思議なことに、患者の表情が穏やかになった。
「ああ……楽になった……」
患者の呼吸が安定し、顔色が良くなる。数値も正常に戻り始めた。
「どうしたんですか? 急に……」
「分からん……誰かが手を握ってくれているような気がして……暖かくて……」
蒼真は患者の手を見た。確かに誰かが握っているかのように、患者の手が少し浮いている。
足音の主が、患者の手を握っているのだ。
それから毎晩、蒼真の夜勤には足音が付いてきた。最初は四階西棟だけだったが、次第に病院全体を一緒に回るようになった。
足音の主は、患者の異変をいち早く察知した。容態が悪化しそうな患者の病室で足踏みをして、蒼真に知らせてくれる。医療機器の異常を発見したときは、その場で何度も足を鳴らした。
蒼真は足音の主を相棒のように感じ始めた。
ある夜、蒼真は四階西棟の古い病室で休憩していた。足音も隣に座っているように、そこで止まっている。
「君はもしかして、昔この病院で働いていた人?」
足音が一回、床を叩いた。肯定の合図のようだった。
「医師? 看護師?」
二回足を叩く。否定。
「じゃあ……」
蒼真は考えた。医師でも看護師でもなく、患者の世話をする人。
「介護士さん?」
一回足を叩く。当たりだった。
「いつ頃の人なの?」
足音が歩き始めた。病室の壁に向かって、何かを叩く音がした。まるで文字を書いているように。
蒼真は壁を見た。古いペンキの下に、薄く文字が見える。
『昭和四十七年 看護助手 水無瀬みずき』
蒼真は息を呑んだ。五十年以上前に、この病院で働いていた人だ。
「水無瀬みずきさん……」
足音が嬉しそうに、小さく跳ねた。
蒼真は水無瀬みずきについて調べてみた。病院の古い記録に、彼女の名前があった。昭和四十七年から四十九年まで勤務。夜勤専門の看護助手として、多くの患者から慕われていた。
そして昭和四十九年、夜勤中に階段から転落して亡くなった。
享年二十四歳。蒼真とほぼ同じ年だった。
「君は死んでからも、ずっと患者さんの世話をしていたんだね」
その夜、足音は蒼真の隣で静かに響いていた。まるで「ありがとう」と言っているように。
それから数か月後、蒼真は他の病院に転勤することになった。
最後の夜勤で、蒼真は四階西棟を訪れた。
「みずきさん、僕は明日でここを離れます」
足音が止まった。寂しそうに、一歩後ずさりする。
「でも、僕がいなくても大丈夫。他の先生や看護師さんたちも、みずきさんのことを知っています」
足音がゆっくりと近づいてきた。蒼真の手に、暖かい感触があった。握手をしているようだった。
「ありがとう、みずきさん。患者さんたちのこと、よろしくお願いします」
足音が一回、床を叩いた。
蒼真が病院を去った後も、四階西棟では足音が響き続けている。
新しく赴任した若い医師たちを見守りながら、今夜も患者たちの世話をしている。
コツ、コツ、コツ。
愛情深い足音が、今夜も病院に響いている。
午前二時。夜勤の見回りを終えて詰所に戻る途中、四階の西棟廊下から奇妙な足音が響いてきた。
コツ、コツ、コツ。
一定のリズムで歩く音だが、何かがおかしい。足音の主が見えないのだ。
蒼真は廊下の奥を見つめた。長い直線の廊下に、人影はない。しかし足音は確実に近づいてくる。まるで透明人間が歩いているようだ。
「看護師さんかな……」
蒼真は首をかしげた。夜勤の看護師は全員、一階と三階にいる。四階の西棟は現在使用していない病棟で、患者も職員もいないはずだ。
足音が蒼真の前を通り過ぎた。
風圧を感じた。確実に、何かが蒼真の横を歩いて行った。しかし姿は見えない。
蒼真は足音を追いかけた。廊下の突き当たりまで行くと、足音は左に曲がった。蒼真も曲がる。しかし東側の廊下に入っても、やはり誰もいない。
足音だけが、先へ先へと進んでいく。
「おかしいな……」
蒼真は立ち止まった。足音も止まる。蒼真が歩き出すと、足音も再開する。まるで蒼真の歩調に合わせているようだった。
試しに早足になってみると、足音も早くなった。走ってみると、足音も走り始める。
そして蒼真が完全に止まると、足音は蒼真の真横で止まった。
誰かがそこにいる。確実に。
蒼真は恐る恐る手を伸ばした。空気に触れるだけで、何もない。しかし温かい何かを感じた。人の体温のような暖かさ。
「誰ですか?」
返事はない。しかし足音が一歩下がった。まるで警戒しているように。
蒼真は看護師詰所に向かった。先輩の夜勤看護師に相談してみようと思ったのだ。しかし振り返ると、足音が後を付いてくる。
詰所に入ると、足音は入り口で止まった。まるで中に入ることを躊躇しているように。
「椎名さん」
蒼真は夜勤リーダーの椎名に声をかけた。
「四階の西棟で、変な足音がするんです」
「足音?」椎名は顔を上げた。「ああ、それね。気にしないで」
「気にしないでって……」
「四階西棟にはね、足音の主がいるのよ。みんな知ってる」
椎名の表情は真剣だった。冗談を言っているようには見えない。
「足音の主って、誰ですか?」
「分からない。でも昔からいるの。害はないから、放っておけばいい」
蒼真は困惑した。病院で働く医師や看護師が、幽霊の存在を当然のこととして受け入れているのか。
「本当に害はないんですか?」
「ええ。ただ歩いているだけ。時々、患者さんの見回りもしてくれるのよ」
「見回り?」
「四階西棟に患者さんがいた頃の話だけどね。夜中に容態が急変した患者さんがいると、その足音が詰所まで知らせに来てくれたことがあるの」
蒼真は驚いた。幽霊が患者の世話をしているということか。
「でも今は四階西棟は使ってないですよね?」
「そうね。だから足音の主も、することがなくて退屈してるのかも」
椎名は微笑んだ。
「あなたについて歩いているのは、きっと新人さんだから興味を持ったのよ」
蒼真は詰所を出た。入り口で待っていた足音が、また蒼真の後を付いてくる。
今度は怖くなかった。むしろ、一人ぼっちの夜勤が少し心強く感じられた。
「君は誰なんだ?」
蒼真は歩きながら話しかけた。足音は答えない。しかし歩調が少し軽やかになったような気がした。
見回りを続けていると、三階の患者から呼び出しベルが鳴った。急いで向かうと、高齢の男性患者が苦しそうに呼吸している。
「先生……苦しい……」
蒼真は診察を始めた。血圧、脈拍、酸素飽和度。すべての数値が低下している。すぐに処置が必要だった。
その時、足音が病室に入ってきた。患者のベッドサイドで止まる。
不思議なことに、患者の表情が穏やかになった。
「ああ……楽になった……」
患者の呼吸が安定し、顔色が良くなる。数値も正常に戻り始めた。
「どうしたんですか? 急に……」
「分からん……誰かが手を握ってくれているような気がして……暖かくて……」
蒼真は患者の手を見た。確かに誰かが握っているかのように、患者の手が少し浮いている。
足音の主が、患者の手を握っているのだ。
それから毎晩、蒼真の夜勤には足音が付いてきた。最初は四階西棟だけだったが、次第に病院全体を一緒に回るようになった。
足音の主は、患者の異変をいち早く察知した。容態が悪化しそうな患者の病室で足踏みをして、蒼真に知らせてくれる。医療機器の異常を発見したときは、その場で何度も足を鳴らした。
蒼真は足音の主を相棒のように感じ始めた。
ある夜、蒼真は四階西棟の古い病室で休憩していた。足音も隣に座っているように、そこで止まっている。
「君はもしかして、昔この病院で働いていた人?」
足音が一回、床を叩いた。肯定の合図のようだった。
「医師? 看護師?」
二回足を叩く。否定。
「じゃあ……」
蒼真は考えた。医師でも看護師でもなく、患者の世話をする人。
「介護士さん?」
一回足を叩く。当たりだった。
「いつ頃の人なの?」
足音が歩き始めた。病室の壁に向かって、何かを叩く音がした。まるで文字を書いているように。
蒼真は壁を見た。古いペンキの下に、薄く文字が見える。
『昭和四十七年 看護助手 水無瀬みずき』
蒼真は息を呑んだ。五十年以上前に、この病院で働いていた人だ。
「水無瀬みずきさん……」
足音が嬉しそうに、小さく跳ねた。
蒼真は水無瀬みずきについて調べてみた。病院の古い記録に、彼女の名前があった。昭和四十七年から四十九年まで勤務。夜勤専門の看護助手として、多くの患者から慕われていた。
そして昭和四十九年、夜勤中に階段から転落して亡くなった。
享年二十四歳。蒼真とほぼ同じ年だった。
「君は死んでからも、ずっと患者さんの世話をしていたんだね」
その夜、足音は蒼真の隣で静かに響いていた。まるで「ありがとう」と言っているように。
それから数か月後、蒼真は他の病院に転勤することになった。
最後の夜勤で、蒼真は四階西棟を訪れた。
「みずきさん、僕は明日でここを離れます」
足音が止まった。寂しそうに、一歩後ずさりする。
「でも、僕がいなくても大丈夫。他の先生や看護師さんたちも、みずきさんのことを知っています」
足音がゆっくりと近づいてきた。蒼真の手に、暖かい感触があった。握手をしているようだった。
「ありがとう、みずきさん。患者さんたちのこと、よろしくお願いします」
足音が一回、床を叩いた。
蒼真が病院を去った後も、四階西棟では足音が響き続けている。
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愛情深い足音が、今夜も病院に響いている。
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