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第32話「視界の端で」怖さ:☆☆☆
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# 第32話:視界の端で 怖さ:☆☆☆
最初に気づいたのは、先月の終わり頃だった。
電車の窓に映る自分の顔を見ていた時、視界の端に誰かが立っているような気がした。振り返っても、そこには座席があるだけ。乗客は私を含めて三人しかいない。気のせいだと思った。
でも、それから毎日のように起こるようになった。
鏡で歯を磨いている時、後ろに人影が映ったような気がする。テレビを見ている時、画面の端に誰かの輪郭が見える。スマートフォンの黒い画面に、自分以外の顔が重なって見える。
いつも「気がする」程度で、はっきりとは見えない。振り返ったり、注意深く見直したりすると、そこには何もない。
「疲れてるのかな」
最近、転職したばかりで新しい環境に慣れるのに精一杯だった。残業も多く、睡眠不足が続いている。幻覚を見るほど疲れているのかもしれない。
でも人影を見かける頻度は日に日に増していった。
朝、洗面台で顔を洗っている時。昼休み、コンビニの防犯カメラのモニターを通り過ぎる時。夜、窓ガラスに映る室内の様子を見ている時。
必ず視界の端に、誰かがいる。
そして今日、ついにはっきりと見てしまった。
職場のエレベーターに一人で乗っていた時のことだ。扉が閉まり、上昇を始めた瞬間、エレベーターの鏡に映った自分の後ろに、確かに人が立っていた。
男性のようだった。中肉中背で、紺色のスーツを着ている。顔は見えなかったが、私の真後ろに立っていた。
私は慌てて振り返った。
誰もいない。
エレベーターの中には私一人だった。でも鏡を見ると、まだそこに男性の姿が映っている。
「何これ……」
声に出してつぶやいた瞬間、鏡の中の男性が動いた。
私の方を向いたのだ。
顔は相変わらず見えないが、確実にこちらを向いている。そして、ゆっくりと手を上げた。
まるで挨拶をするように。
私は鏡から目を逸らした。心臓がバクバクと音を立てている。
エレベーターが到着し、扉が開いた。私は一目散に飛び出した。
「椎名さん、どうしたんですか? 顔が真っ青ですよ」
同僚の南條さんが心配そうに声をかけてきた。
「あ、南條さん……ちょっと気分が悪くて」
「大丈夫ですか? 休憩しますか?」
「いえ、大丈夫です」
でも実際は大丈夫ではなかった。その後も、オフィスの窓ガラスに、コピー機の液晶画面に、トイレの鏡に、あの男性の姿が映り続けた。
いつも私の後ろにいる。
振り返っても姿は見えないのに、反射するものには必ず映っている。
そして日を追うごとに、男性の姿がはっきりと見えるようになってきた。
髪は短く刈り込まれ、眼鏡をかけている。年齢は四十代くらいだろうか。表情は無機質で、感情が読み取れない。
でも確実に私を見ている。
家に帰っても同じだった。玄関の姿見に映る男性。リビングのテレビ画面に重なる男性の顔。寝室の窓ガラスに映る男性のシルエット。
どこに行っても、あの男性がついてくる。
私は鏡という鏡、反射するものをすべて布で覆った。でも完全に避けることはできない。街を歩けば、ショーウィンドウに映るし、電車に乗れば窓ガラスに映る。
そして三日前、ついに決定的なことが起こった。
会社のトイレで手を洗っている時、鏡に映った男性が口を動かしたのだ。
何かを言おうとしている。
私は震え上がった。今まで男性は無表情で立っているだけだったのに、初めて動きを見せたのだ。
「何て言ってるの……」
口の動きを注意深く見ていると、繰り返し同じことを言っているようだった。
「た、す、け、て……」
助けて。
男性は「助けて」と言っていた。
その瞬間、背筋が凍った。私をつけ回しているのではない。助けを求めているのだ。
でも誰を? 何から?
私は慌てて鏡から離れた。でも男性の口は動き続けている。
「助けて、助けて、助けて」
無言で、でも確実にそう言い続けている。
私は南條さんに相談することにした。
「南條さん、ちょっと相談があるんですが」
「どうしました?」
「最近、変なものが見えるんです」
私は今まで起こったことを全て話した。鏡に映る男性のこと、どこにでもついてくること、助けを求めていること。
南條さんは真剣に聞いてくれた。
「それは……心配ですね」
「やっぱり疲れからくる幻覚でしょうか」
「どうでしょう。でも椎名さん、一つ聞いてもいいですか?」
「はい」
「その男性の特徴、もう少し詳しく教えてもらえますか?」
私は覚えている限りの特徴を伝えた。身長、体型、髪型、眼鏡、服装。
南條さんの顔が青ざめていく。
「まさか……」
「どうしたんですか?」
「椎名さん、その男性の名前、もしかして黒崎さんじゃないですか?」
「黒崎さん?」
「この会社の元社員です。三か月前に……亡くなったんです」
私は言葉を失った。
「亡くなった?」
「過労で倒れて、そのまま……。椎名さんが座っているデスク、実は黒崎さんの席だったんです」
私は自分のデスクを見回した。確かに、私が入社する前からパソコンやその他の備品が設置されていた。
「だから黒崎さんが……」
「椎名さんが働きすぎているのを見て、心配してるんじゃないでしょうか。同じように過労で倒れてほしくないって」
なるほど。それなら「助けて」の意味も分かる。私を助けようとしているのではなく、黒崎さん自身が助けを求めていたのかもしれない。
「でも、なぜ今頃?」
「きっと椎名さんの状況が、黒崎さんと似ているからでしょう。残業続きで、体調を崩している」
確かにその通りだった。最近の私は、まさに過労で倒れる寸前の状態だった。
「椎名さん、少し休んだ方がいいですよ。有給を取って、体を休めてください」
「でも仕事が……」
「仕事より体の方が大切です。黒崎さんも、きっとそう思ってるはずです」
その日、私は早退して家に帰った。
洗面台の鏡を見ると、黒崎さんがいつものように立っていた。でも今度は恐怖を感じなかった。
「黒崎さん、ありがとうございます」
鏡に向かって話しかけると、黒崎さんの表情が少し和らいだような気がした。
私は有給を取って、一週間ゆっくりと休んだ。久しぶりに十分な睡眠を取り、栄養のある食事を摂り、散歩をした。
体調が回復すると、不思議なことに黒崎さんの姿を見かけなくなった。
鏡にも、窓ガラスにも、もう映らない。
会社に復帰した時、南條さんが声をかけてきた。
「調子はどうですか?」
「おかげさまで、すっかり良くなりました」
「よかった。実は、椎名さんが休んでいる間に調べてみたんです」
「何をですか?」
「黒崎さんのこと。彼、生前に『もし自分が過労で倒れたら、後任の人に同じ思いをさせたくない』って言ってたそうです」
私は胸が熱くなった。
「そうだったんですね」
「きっと椎名さんを守ろうとしてくれていたんでしょう」
その夜、家の鏡の前に立った。黒崎さんの姿はもう見えない。
「黒崎さん、ありがとうございました。もう心配しないでください」
鏡は自分の姿だけを映していた。
でも、微かに感じた。優しい風のような、温かい気配を。
きっと黒崎さんは安心して、あちらの世界に向かったのだろう。
私は鏡に向かって、深く頭を下げた。
最初に気づいたのは、先月の終わり頃だった。
電車の窓に映る自分の顔を見ていた時、視界の端に誰かが立っているような気がした。振り返っても、そこには座席があるだけ。乗客は私を含めて三人しかいない。気のせいだと思った。
でも、それから毎日のように起こるようになった。
鏡で歯を磨いている時、後ろに人影が映ったような気がする。テレビを見ている時、画面の端に誰かの輪郭が見える。スマートフォンの黒い画面に、自分以外の顔が重なって見える。
いつも「気がする」程度で、はっきりとは見えない。振り返ったり、注意深く見直したりすると、そこには何もない。
「疲れてるのかな」
最近、転職したばかりで新しい環境に慣れるのに精一杯だった。残業も多く、睡眠不足が続いている。幻覚を見るほど疲れているのかもしれない。
でも人影を見かける頻度は日に日に増していった。
朝、洗面台で顔を洗っている時。昼休み、コンビニの防犯カメラのモニターを通り過ぎる時。夜、窓ガラスに映る室内の様子を見ている時。
必ず視界の端に、誰かがいる。
そして今日、ついにはっきりと見てしまった。
職場のエレベーターに一人で乗っていた時のことだ。扉が閉まり、上昇を始めた瞬間、エレベーターの鏡に映った自分の後ろに、確かに人が立っていた。
男性のようだった。中肉中背で、紺色のスーツを着ている。顔は見えなかったが、私の真後ろに立っていた。
私は慌てて振り返った。
誰もいない。
エレベーターの中には私一人だった。でも鏡を見ると、まだそこに男性の姿が映っている。
「何これ……」
声に出してつぶやいた瞬間、鏡の中の男性が動いた。
私の方を向いたのだ。
顔は相変わらず見えないが、確実にこちらを向いている。そして、ゆっくりと手を上げた。
まるで挨拶をするように。
私は鏡から目を逸らした。心臓がバクバクと音を立てている。
エレベーターが到着し、扉が開いた。私は一目散に飛び出した。
「椎名さん、どうしたんですか? 顔が真っ青ですよ」
同僚の南條さんが心配そうに声をかけてきた。
「あ、南條さん……ちょっと気分が悪くて」
「大丈夫ですか? 休憩しますか?」
「いえ、大丈夫です」
でも実際は大丈夫ではなかった。その後も、オフィスの窓ガラスに、コピー機の液晶画面に、トイレの鏡に、あの男性の姿が映り続けた。
いつも私の後ろにいる。
振り返っても姿は見えないのに、反射するものには必ず映っている。
そして日を追うごとに、男性の姿がはっきりと見えるようになってきた。
髪は短く刈り込まれ、眼鏡をかけている。年齢は四十代くらいだろうか。表情は無機質で、感情が読み取れない。
でも確実に私を見ている。
家に帰っても同じだった。玄関の姿見に映る男性。リビングのテレビ画面に重なる男性の顔。寝室の窓ガラスに映る男性のシルエット。
どこに行っても、あの男性がついてくる。
私は鏡という鏡、反射するものをすべて布で覆った。でも完全に避けることはできない。街を歩けば、ショーウィンドウに映るし、電車に乗れば窓ガラスに映る。
そして三日前、ついに決定的なことが起こった。
会社のトイレで手を洗っている時、鏡に映った男性が口を動かしたのだ。
何かを言おうとしている。
私は震え上がった。今まで男性は無表情で立っているだけだったのに、初めて動きを見せたのだ。
「何て言ってるの……」
口の動きを注意深く見ていると、繰り返し同じことを言っているようだった。
「た、す、け、て……」
助けて。
男性は「助けて」と言っていた。
その瞬間、背筋が凍った。私をつけ回しているのではない。助けを求めているのだ。
でも誰を? 何から?
私は慌てて鏡から離れた。でも男性の口は動き続けている。
「助けて、助けて、助けて」
無言で、でも確実にそう言い続けている。
私は南條さんに相談することにした。
「南條さん、ちょっと相談があるんですが」
「どうしました?」
「最近、変なものが見えるんです」
私は今まで起こったことを全て話した。鏡に映る男性のこと、どこにでもついてくること、助けを求めていること。
南條さんは真剣に聞いてくれた。
「それは……心配ですね」
「やっぱり疲れからくる幻覚でしょうか」
「どうでしょう。でも椎名さん、一つ聞いてもいいですか?」
「はい」
「その男性の特徴、もう少し詳しく教えてもらえますか?」
私は覚えている限りの特徴を伝えた。身長、体型、髪型、眼鏡、服装。
南條さんの顔が青ざめていく。
「まさか……」
「どうしたんですか?」
「椎名さん、その男性の名前、もしかして黒崎さんじゃないですか?」
「黒崎さん?」
「この会社の元社員です。三か月前に……亡くなったんです」
私は言葉を失った。
「亡くなった?」
「過労で倒れて、そのまま……。椎名さんが座っているデスク、実は黒崎さんの席だったんです」
私は自分のデスクを見回した。確かに、私が入社する前からパソコンやその他の備品が設置されていた。
「だから黒崎さんが……」
「椎名さんが働きすぎているのを見て、心配してるんじゃないでしょうか。同じように過労で倒れてほしくないって」
なるほど。それなら「助けて」の意味も分かる。私を助けようとしているのではなく、黒崎さん自身が助けを求めていたのかもしれない。
「でも、なぜ今頃?」
「きっと椎名さんの状況が、黒崎さんと似ているからでしょう。残業続きで、体調を崩している」
確かにその通りだった。最近の私は、まさに過労で倒れる寸前の状態だった。
「椎名さん、少し休んだ方がいいですよ。有給を取って、体を休めてください」
「でも仕事が……」
「仕事より体の方が大切です。黒崎さんも、きっとそう思ってるはずです」
その日、私は早退して家に帰った。
洗面台の鏡を見ると、黒崎さんがいつものように立っていた。でも今度は恐怖を感じなかった。
「黒崎さん、ありがとうございます」
鏡に向かって話しかけると、黒崎さんの表情が少し和らいだような気がした。
私は有給を取って、一週間ゆっくりと休んだ。久しぶりに十分な睡眠を取り、栄養のある食事を摂り、散歩をした。
体調が回復すると、不思議なことに黒崎さんの姿を見かけなくなった。
鏡にも、窓ガラスにも、もう映らない。
会社に復帰した時、南條さんが声をかけてきた。
「調子はどうですか?」
「おかげさまで、すっかり良くなりました」
「よかった。実は、椎名さんが休んでいる間に調べてみたんです」
「何をですか?」
「黒崎さんのこと。彼、生前に『もし自分が過労で倒れたら、後任の人に同じ思いをさせたくない』って言ってたそうです」
私は胸が熱くなった。
「そうだったんですね」
「きっと椎名さんを守ろうとしてくれていたんでしょう」
その夜、家の鏡の前に立った。黒崎さんの姿はもう見えない。
「黒崎さん、ありがとうございました。もう心配しないでください」
鏡は自分の姿だけを映していた。
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