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第45話「午前三時の来訪者」怖さ:☆☆
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真壁陽菜は午前三時に目を覚ました。
のどが渇いて目が覚めることはよくあった。一人暮らしを始めて半年、こうした夜中の目覚めにも慣れてきている。陽菜は枕元の時計を確認してから、ベッドを出た。
キッチンに向かって水を飲み、再びベッドに戻ろうとした時だった。
コンコンコン。
トイレのドアがノックされた。
陽菜は立ち止まった。確かにトイレのドアを叩く音が聞こえた。しかし、家には陽菜しかいない。誰がノックしているのだろうか。
陽菜は耳を澄ませた。しばらく静寂が続いた後、再びノック音が響いた。
コンコンコン。
今度ははっきりと聞こえた。間違いなくトイレのドアが叩かれている。ノックのリズムは丁寧で、まるで誰かが中にいる人に配慮しているかのようだった。
陽菜は恐る恐るトイレに近づいた。ドアは閉まっているが、電気は点いていない。中に誰かがいるはずはなかった。
「もしもし?」
陽菜は小さな声で呼びかけた。返事はない。
「誰かいるんですか?」
やはり返事はない。しかし、ドアの向こうから微かな気配を感じる。
陽菜はドアノブに手をかけた。中を確認してみよう。きっと何かの音を聞き間違えたのだろう。
ドアを開けると、トイレの中は真っ暗だった。電気をつけて確認すると、誰もいない。便座の蓋は閉まったままで、異常は見当たらない。
「気のせいだったのかな……」
陽菜はほっとして、電気を消した。しかし、その瞬間、再びノック音が響いた。
コンコンコン。
今度は陽菜の背後から聞こえてきた。振り返ると、確かにトイレのドアが叩かれている。陽菜は今しがたトイレから出てきたばかりなのに。
「何これ……」
陽菜は困惑した。中には誰もいないのに、ドアが叩かれる。一体どういうことなのだろうか。
陽菜はもう一度ドアを開けた。やはり中には誰もいない。しかし、ドアを閉めようとした時、便座の蓋がゆっくりと上がり始めた。
陽菜は息を呑んだ。誰も触っていないのに、蓋が勝手に動いている。
蓋が完全に上がると、便器の水面が微かに波打っているのが見えた。まるで誰かが中に手を入れたかのような波紋が広がっている。
陽菜は急いでドアを閉めた。心臓が激しく鼓動している。
しかし、ドアを閉めた直後、またノック音が響いた。
コンコンコン。
今度は内側から叩いているように聞こえる。まるで誰かがトイレの中に閉じ込められているかのような音だった。
陽菜は混乱した。さっき確認した時には誰もいなかったのに、どうして内側からノックされるのだろうか。
陽菜は友人の神谷美月に電話をかけた。午前三時という時間を考えると迷惑だが、一人では対処できない状況だった。
「美月?陽菜だけど、起こしちゃってごめん」
「陽菜?どうしたの、こんな時間に」
美月の声は眠そうだったが、心配してくれている様子が伝わってきた。
「実は、トイレのドアがノックされるの。誰もいないのに」
「ノック?誰かが訪ねてきてるんじゃない?」
「違うの。トイレのドアよ。家の中のトイレ」
陽菜は状況を詳しく説明した。美月は真剣に聞いてくれた。
「それは怖いね。でも、きっと何かの音を聞き間違えてるんじゃない?」
「でも、確かにノック音が聞こえるの。今も……」
その時、再びコンコンコンという音が響いた。
「今、聞こえた?」
「え?何も聞こえないけど……」
美月には聞こえないようだった。電話越しでは伝わらないのか、それとも陽菜にだけ聞こえる音なのだろうか。
「陽菜、疲れてるんじゃない?最近、仕事忙しかったでしょ?」
確かに陽菜は最近、残業続きで疲れていた。新しいプロジェクトが始まって、毎日遅くまで働いている。
「そうかもしれないけど……」
「とりあえず今夜は様子を見て、明日もう一度確認してみたら?それでも続くようなら、誰かに相談しよう」
美月のアドバイスは冷静で的確だった。陽菜は少し落ち着いた。
「ありがとう、美月。ごめんね、こんな時間に」
「気にしないで。何かあったらまた電話して」
電話を切った陽菜は、ベッドに戻ることにした。きっと疲れによる幻聴なのだろう。
しかし、ベッドに入っても眠ることはできなかった。時々、トイレのドアからノック音が聞こえてくるからだ。
陽菜は毛布を頭まで被って、音を遮ろうとした。しかし、ノック音は止まない。むしろ、時間が経つにつれて頻繁になっているような気がする。
午前四時を過ぎた頃、ノック音は急に止んだ。陽菜はほっとして、ようやく眠りについた。
翌朝、陽菜は寝不足で目を覚ました。昨夜の出来事を思い出し、トイレの様子を確認してみた。
ドアを開けると、特に異常はなかった。便座の蓋は閉まっており、水面も静かだった。
「やっぱり疲れのせいかな……」
陽菜は安堵した。きっと美月の言う通り、疲労による幻聴だったのだろう。
しかし、仕事から帰ってきた夜、再び同じ現象が起きた。
午前三時ちょうどに目を覚ました陽菜は、またトイレからのノック音を聞いた。
コンコンコン。
昨夜と同じリズム、同じ音の大きさだった。
陽菜は今度は無視することにした。幻聴だとわかっているなら、相手にする必要はない。
しかし、ノック音は止まらなかった。それどころか、だんだん激しくなっていく。
コンコンコン、コンコンコン、コンコンコン。
最初は丁寧なノックだったのに、今は焦っているような、急かしているような音になっている。
陽菜は耐えきれなくなって、トイレに向かった。
「何なの?何が欲しいの?」
ドアに向かって声をかけた。すると、ノック音が止んだ。
陽菜は耳を澄ませた。今度は、ドアの向こうから微かな声が聞こえてきた。
「……たすけて……」
陽菜は身震いした。確かに助けを求める声が聞こえた。女性の声のようだった。
「誰?誰か中にいるの?」
陽菜はドアに耳を当てた。
「……くるしい……」
また声が聞こえた。苦しんでいるような、か細い声だった。
陽菜は慌ててドアを開けた。中に誰かがいるのかもしれない。助けなければ。
しかし、トイレの中はやはり空っぽだった。誰もいない。
陽菜は混乱した。確かに声が聞こえたのに、中には誰もいない。一体どういうことなのだろうか。
その時、陽菜は便器の水面に気づいた。
水面に、女性の顔が映っていた。
陽菜は驚いて後ずさった。水面に映った顔は、陽菜とは明らかに違う人物だった。三十代くらいの女性で、とても苦しそうな表情をしている。
「あなた、誰?」
陽菜は震え声で尋ねた。
水面の女性は口を動かしたが、声は聞こえなかった。しかし、口の動きから「たすけて」と言っているのがわかった。
陽菜は恐怖を感じたが、同時に女性への同情も湧いてきた。何かに苦しんでいるようで、助けを求めている。
「どうすれば助けられるの?」
陽菜は水面に向かって尋ねた。
女性の口が再び動いた。今度は「おぼれてる」と言っているように見えた。
陽菜は理解した。この女性は溺れているのだ。どこかで溺れていて、トイレの水面を通じて助けを求めているのだ。
「どこにいるの?どこで溺れてるの?」
女性は必死に何かを伝えようとしているが、声が聞こえない。口の動きだけでは正確にわからない。
陽菜は水面に手を近づけた。もしかすると、触れることで何かがわかるかもしれない。
しかし、水面に手を入れた瞬間、陽菜の手首が何かに掴まれた。
陽菜は驚いて手を引こうとしたが、その何かは陽菜を離そうとしない。水の中から伸びてきた手が、陽菜の手首をしっかりと握っている。
「離して!」
陽菜は必死に手を引いた。しかし、水の中の手は想像以上に力が強い。
陽菜は反対の手でトイレの縁を掴み、体を支えた。このまま引きずり込まれてしまうかもしれない。
その時、陽菜は女性の真意に気づいた。この女性は助けを求めているのではない。仲間を探しているのだ。一緒に溺れる仲間を。
陽菜は恐怖に駆られながらも、必死に抵抗した。何とかして手を引き抜かなければ。
「離して!私を道連れにしないで!」
陽菜の叫び声が響いた。その瞬間、水面の女性の表情が変わった。
驚いたような、そして悲しそうな表情になった。
「……ごめんなさい……」
今度ははっきりと声が聞こえた。女性は陽菜の手を離した。
陽菜は勢いよく手を引き抜き、トイレから飛び出した。
陽菜は居間に戻って、震えながら座り込んだ。手首には赤い跡が残っている。確かに掴まれた証拠だった。
陽菜はインターネットで、この地域の事故について調べてみた。もしかすると、水難事故で亡くなった人がいるのかもしれない。
調べてみると、三年前にこの近くの川で溺死事故があったことがわかった。三十代の女性が一人で川に入り、そのまま帰らなくなったという。
被害者の名前は宮代奈々。写真を見ると、トイレの水面で見た女性と同じ顔だった。
陽菜は記事を詳しく読んだ。奈々は仕事のストレスで精神的に不安定になっており、川で自殺を図ったと推測されていた。しかし、遺書などは見つかっておらず、事故の可能性もあるとされていた。
陽菜は複雑な気持ちになった。奈々は本当に助けを求めていたのかもしれない。しかし、その方法が間違っていた。陽菜を道連れにしようとするのは、解決にならない。
陽菜はトイレに戻った。恐怖はあったが、奈々と話をする必要があると感じた。
水面を覗くと、奈々の顔が映っていた。さっきより落ち着いた表情をしている。
「奈々さん?」
陽菜は優しく声をかけた。
奈々は頷いた。
「あなたは溺れて亡くなったのね?」
奈々は悲しそうに頷いた。
「でも、私を道連れにしても、あなたは救われないわ」
陽菜は説明した。
「あなたが必要なのは、生きている人の助けじゃない。安らぎよ」
奈々は涙を流しているように見えた。
「あなたは苦しんでるのね。でも、その苦しみは他の人に移すものじゃない」
陽菜は続けた。
「きっと、あなたを待ってる人がいる。向こうの世界で」
奈々の表情が少し明るくなった。
「行きなさい。安らかな場所へ」
陽菜は心を込めて言った。
奈々は微笑んで、頷いた。そして、水面からゆっくりと消えていった。
その夜以来、トイレからノック音が聞こえることはなくなった。陽菜は安心して眠ることができるようになった。
しかし、陽菜は時々奈々のことを思い出す。一人で苦しんでいた女性のことを。もし生きている時に誰かが手を差し伸べていれば、悲劇は防げたかもしれない。
陽菜は自分の周りの人たちにもっと注意を向けるようになった。同僚が疲れていたら声をかけ、友人が悩んでいたら話を聞く。
小さな親切が、誰かの命を救うかもしれない。陽菜はそう信じて、日々を過ごしている。
数か月後、陽菜は川沿いの公園を散歩していた。事故があった川を見ながら、奈々のことを思い出していた。
その時、公園のベンチで一人の女性が泣いているのを見つけた。三十代くらいの女性で、とても辛そうな表情をしている。
陽菜は迷ったが、声をかけることにした。
「大丈夫ですか?」
女性は顔を上げた。目は赤く腫れている。
「すみません、見苦しいところを……」
「いえいえ、何か辛いことがあったんですか?」
陽菜は女性の隣に座った。
「実は、仕事のことで……もう疲れちゃって」
女性は少しずつ話し始めた。上司からのパワハラ、過度な労働、将来への不安。奈々と同じような悩みを抱えていた。
陽菜は女性の話を丁寧に聞いた。そして、専門機関への相談や、転職の可能性について一緒に考えた。
「ありがとうございます。知らない人なのに、こんなに親身になってくれて」
女性は感謝の気持ちを表した。
「いえ、困った時はお互い様です」
陽菜は微笑んだ。
「一人で抱え込まないでくださいね。必ず解決方法があります」
女性は頷いて、少し元気を取り戻したようだった。
陽菜は連絡先を交換し、何かあった時はいつでも連絡するよう伝えた。
帰り道、陽菜は空を見上げた。奈々がこの光景を見ているような気がした。
きっと奈々も、誰かに助けてもらいたかったのだろう。でも、その方法がわからなくて、間違った選択をしてしまった。
陽菜は今度の女性が同じ道を歩まないよう、できる限りのサポートをしようと決めた。
トイレのノック音は二度と聞こえることはなかった。しかし、陽菜の心の中で、奈々の存在は生き続けている。
人を助けることの大切さを教えてくれた、大切な存在として。
その夜、陽菜は午前三時に目を覚ました。のどが渇いて水を飲みに行く途中、トイレの前を通った。
静かで、何の音もしない。しかし、陽菜は立ち止まって、小さく呟いた。
「奈々さん、ありがとう。あなたのおかげで、大切なことを学べました」
風が窓の外で音を立てた。まるで奈々が答えてくれているかのようだった。
陽菜は微笑んで、ベッドに戻った。今夜は安らかに眠ることができそうだった。
のどが渇いて目が覚めることはよくあった。一人暮らしを始めて半年、こうした夜中の目覚めにも慣れてきている。陽菜は枕元の時計を確認してから、ベッドを出た。
キッチンに向かって水を飲み、再びベッドに戻ろうとした時だった。
コンコンコン。
トイレのドアがノックされた。
陽菜は立ち止まった。確かにトイレのドアを叩く音が聞こえた。しかし、家には陽菜しかいない。誰がノックしているのだろうか。
陽菜は耳を澄ませた。しばらく静寂が続いた後、再びノック音が響いた。
コンコンコン。
今度ははっきりと聞こえた。間違いなくトイレのドアが叩かれている。ノックのリズムは丁寧で、まるで誰かが中にいる人に配慮しているかのようだった。
陽菜は恐る恐るトイレに近づいた。ドアは閉まっているが、電気は点いていない。中に誰かがいるはずはなかった。
「もしもし?」
陽菜は小さな声で呼びかけた。返事はない。
「誰かいるんですか?」
やはり返事はない。しかし、ドアの向こうから微かな気配を感じる。
陽菜はドアノブに手をかけた。中を確認してみよう。きっと何かの音を聞き間違えたのだろう。
ドアを開けると、トイレの中は真っ暗だった。電気をつけて確認すると、誰もいない。便座の蓋は閉まったままで、異常は見当たらない。
「気のせいだったのかな……」
陽菜はほっとして、電気を消した。しかし、その瞬間、再びノック音が響いた。
コンコンコン。
今度は陽菜の背後から聞こえてきた。振り返ると、確かにトイレのドアが叩かれている。陽菜は今しがたトイレから出てきたばかりなのに。
「何これ……」
陽菜は困惑した。中には誰もいないのに、ドアが叩かれる。一体どういうことなのだろうか。
陽菜はもう一度ドアを開けた。やはり中には誰もいない。しかし、ドアを閉めようとした時、便座の蓋がゆっくりと上がり始めた。
陽菜は息を呑んだ。誰も触っていないのに、蓋が勝手に動いている。
蓋が完全に上がると、便器の水面が微かに波打っているのが見えた。まるで誰かが中に手を入れたかのような波紋が広がっている。
陽菜は急いでドアを閉めた。心臓が激しく鼓動している。
しかし、ドアを閉めた直後、またノック音が響いた。
コンコンコン。
今度は内側から叩いているように聞こえる。まるで誰かがトイレの中に閉じ込められているかのような音だった。
陽菜は混乱した。さっき確認した時には誰もいなかったのに、どうして内側からノックされるのだろうか。
陽菜は友人の神谷美月に電話をかけた。午前三時という時間を考えると迷惑だが、一人では対処できない状況だった。
「美月?陽菜だけど、起こしちゃってごめん」
「陽菜?どうしたの、こんな時間に」
美月の声は眠そうだったが、心配してくれている様子が伝わってきた。
「実は、トイレのドアがノックされるの。誰もいないのに」
「ノック?誰かが訪ねてきてるんじゃない?」
「違うの。トイレのドアよ。家の中のトイレ」
陽菜は状況を詳しく説明した。美月は真剣に聞いてくれた。
「それは怖いね。でも、きっと何かの音を聞き間違えてるんじゃない?」
「でも、確かにノック音が聞こえるの。今も……」
その時、再びコンコンコンという音が響いた。
「今、聞こえた?」
「え?何も聞こえないけど……」
美月には聞こえないようだった。電話越しでは伝わらないのか、それとも陽菜にだけ聞こえる音なのだろうか。
「陽菜、疲れてるんじゃない?最近、仕事忙しかったでしょ?」
確かに陽菜は最近、残業続きで疲れていた。新しいプロジェクトが始まって、毎日遅くまで働いている。
「そうかもしれないけど……」
「とりあえず今夜は様子を見て、明日もう一度確認してみたら?それでも続くようなら、誰かに相談しよう」
美月のアドバイスは冷静で的確だった。陽菜は少し落ち着いた。
「ありがとう、美月。ごめんね、こんな時間に」
「気にしないで。何かあったらまた電話して」
電話を切った陽菜は、ベッドに戻ることにした。きっと疲れによる幻聴なのだろう。
しかし、ベッドに入っても眠ることはできなかった。時々、トイレのドアからノック音が聞こえてくるからだ。
陽菜は毛布を頭まで被って、音を遮ろうとした。しかし、ノック音は止まない。むしろ、時間が経つにつれて頻繁になっているような気がする。
午前四時を過ぎた頃、ノック音は急に止んだ。陽菜はほっとして、ようやく眠りについた。
翌朝、陽菜は寝不足で目を覚ました。昨夜の出来事を思い出し、トイレの様子を確認してみた。
ドアを開けると、特に異常はなかった。便座の蓋は閉まっており、水面も静かだった。
「やっぱり疲れのせいかな……」
陽菜は安堵した。きっと美月の言う通り、疲労による幻聴だったのだろう。
しかし、仕事から帰ってきた夜、再び同じ現象が起きた。
午前三時ちょうどに目を覚ました陽菜は、またトイレからのノック音を聞いた。
コンコンコン。
昨夜と同じリズム、同じ音の大きさだった。
陽菜は今度は無視することにした。幻聴だとわかっているなら、相手にする必要はない。
しかし、ノック音は止まらなかった。それどころか、だんだん激しくなっていく。
コンコンコン、コンコンコン、コンコンコン。
最初は丁寧なノックだったのに、今は焦っているような、急かしているような音になっている。
陽菜は耐えきれなくなって、トイレに向かった。
「何なの?何が欲しいの?」
ドアに向かって声をかけた。すると、ノック音が止んだ。
陽菜は耳を澄ませた。今度は、ドアの向こうから微かな声が聞こえてきた。
「……たすけて……」
陽菜は身震いした。確かに助けを求める声が聞こえた。女性の声のようだった。
「誰?誰か中にいるの?」
陽菜はドアに耳を当てた。
「……くるしい……」
また声が聞こえた。苦しんでいるような、か細い声だった。
陽菜は慌ててドアを開けた。中に誰かがいるのかもしれない。助けなければ。
しかし、トイレの中はやはり空っぽだった。誰もいない。
陽菜は混乱した。確かに声が聞こえたのに、中には誰もいない。一体どういうことなのだろうか。
その時、陽菜は便器の水面に気づいた。
水面に、女性の顔が映っていた。
陽菜は驚いて後ずさった。水面に映った顔は、陽菜とは明らかに違う人物だった。三十代くらいの女性で、とても苦しそうな表情をしている。
「あなた、誰?」
陽菜は震え声で尋ねた。
水面の女性は口を動かしたが、声は聞こえなかった。しかし、口の動きから「たすけて」と言っているのがわかった。
陽菜は恐怖を感じたが、同時に女性への同情も湧いてきた。何かに苦しんでいるようで、助けを求めている。
「どうすれば助けられるの?」
陽菜は水面に向かって尋ねた。
女性の口が再び動いた。今度は「おぼれてる」と言っているように見えた。
陽菜は理解した。この女性は溺れているのだ。どこかで溺れていて、トイレの水面を通じて助けを求めているのだ。
「どこにいるの?どこで溺れてるの?」
女性は必死に何かを伝えようとしているが、声が聞こえない。口の動きだけでは正確にわからない。
陽菜は水面に手を近づけた。もしかすると、触れることで何かがわかるかもしれない。
しかし、水面に手を入れた瞬間、陽菜の手首が何かに掴まれた。
陽菜は驚いて手を引こうとしたが、その何かは陽菜を離そうとしない。水の中から伸びてきた手が、陽菜の手首をしっかりと握っている。
「離して!」
陽菜は必死に手を引いた。しかし、水の中の手は想像以上に力が強い。
陽菜は反対の手でトイレの縁を掴み、体を支えた。このまま引きずり込まれてしまうかもしれない。
その時、陽菜は女性の真意に気づいた。この女性は助けを求めているのではない。仲間を探しているのだ。一緒に溺れる仲間を。
陽菜は恐怖に駆られながらも、必死に抵抗した。何とかして手を引き抜かなければ。
「離して!私を道連れにしないで!」
陽菜の叫び声が響いた。その瞬間、水面の女性の表情が変わった。
驚いたような、そして悲しそうな表情になった。
「……ごめんなさい……」
今度ははっきりと声が聞こえた。女性は陽菜の手を離した。
陽菜は勢いよく手を引き抜き、トイレから飛び出した。
陽菜は居間に戻って、震えながら座り込んだ。手首には赤い跡が残っている。確かに掴まれた証拠だった。
陽菜はインターネットで、この地域の事故について調べてみた。もしかすると、水難事故で亡くなった人がいるのかもしれない。
調べてみると、三年前にこの近くの川で溺死事故があったことがわかった。三十代の女性が一人で川に入り、そのまま帰らなくなったという。
被害者の名前は宮代奈々。写真を見ると、トイレの水面で見た女性と同じ顔だった。
陽菜は記事を詳しく読んだ。奈々は仕事のストレスで精神的に不安定になっており、川で自殺を図ったと推測されていた。しかし、遺書などは見つかっておらず、事故の可能性もあるとされていた。
陽菜は複雑な気持ちになった。奈々は本当に助けを求めていたのかもしれない。しかし、その方法が間違っていた。陽菜を道連れにしようとするのは、解決にならない。
陽菜はトイレに戻った。恐怖はあったが、奈々と話をする必要があると感じた。
水面を覗くと、奈々の顔が映っていた。さっきより落ち着いた表情をしている。
「奈々さん?」
陽菜は優しく声をかけた。
奈々は頷いた。
「あなたは溺れて亡くなったのね?」
奈々は悲しそうに頷いた。
「でも、私を道連れにしても、あなたは救われないわ」
陽菜は説明した。
「あなたが必要なのは、生きている人の助けじゃない。安らぎよ」
奈々は涙を流しているように見えた。
「あなたは苦しんでるのね。でも、その苦しみは他の人に移すものじゃない」
陽菜は続けた。
「きっと、あなたを待ってる人がいる。向こうの世界で」
奈々の表情が少し明るくなった。
「行きなさい。安らかな場所へ」
陽菜は心を込めて言った。
奈々は微笑んで、頷いた。そして、水面からゆっくりと消えていった。
その夜以来、トイレからノック音が聞こえることはなくなった。陽菜は安心して眠ることができるようになった。
しかし、陽菜は時々奈々のことを思い出す。一人で苦しんでいた女性のことを。もし生きている時に誰かが手を差し伸べていれば、悲劇は防げたかもしれない。
陽菜は自分の周りの人たちにもっと注意を向けるようになった。同僚が疲れていたら声をかけ、友人が悩んでいたら話を聞く。
小さな親切が、誰かの命を救うかもしれない。陽菜はそう信じて、日々を過ごしている。
数か月後、陽菜は川沿いの公園を散歩していた。事故があった川を見ながら、奈々のことを思い出していた。
その時、公園のベンチで一人の女性が泣いているのを見つけた。三十代くらいの女性で、とても辛そうな表情をしている。
陽菜は迷ったが、声をかけることにした。
「大丈夫ですか?」
女性は顔を上げた。目は赤く腫れている。
「すみません、見苦しいところを……」
「いえいえ、何か辛いことがあったんですか?」
陽菜は女性の隣に座った。
「実は、仕事のことで……もう疲れちゃって」
女性は少しずつ話し始めた。上司からのパワハラ、過度な労働、将来への不安。奈々と同じような悩みを抱えていた。
陽菜は女性の話を丁寧に聞いた。そして、専門機関への相談や、転職の可能性について一緒に考えた。
「ありがとうございます。知らない人なのに、こんなに親身になってくれて」
女性は感謝の気持ちを表した。
「いえ、困った時はお互い様です」
陽菜は微笑んだ。
「一人で抱え込まないでくださいね。必ず解決方法があります」
女性は頷いて、少し元気を取り戻したようだった。
陽菜は連絡先を交換し、何かあった時はいつでも連絡するよう伝えた。
帰り道、陽菜は空を見上げた。奈々がこの光景を見ているような気がした。
きっと奈々も、誰かに助けてもらいたかったのだろう。でも、その方法がわからなくて、間違った選択をしてしまった。
陽菜は今度の女性が同じ道を歩まないよう、できる限りのサポートをしようと決めた。
トイレのノック音は二度と聞こえることはなかった。しかし、陽菜の心の中で、奈々の存在は生き続けている。
人を助けることの大切さを教えてくれた、大切な存在として。
その夜、陽菜は午前三時に目を覚ました。のどが渇いて水を飲みに行く途中、トイレの前を通った。
静かで、何の音もしない。しかし、陽菜は立ち止まって、小さく呟いた。
「奈々さん、ありがとう。あなたのおかげで、大切なことを学べました」
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