1話5分でゾッと出来る話。短編ホラー集。短編怖い話は、そこにある

みにぶた🐽

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第53話:「白い猫の笑い声」怖さ:☆☆☆☆☆

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 一人暮らしを始めて三か月、静寂が耐え難くなった夜目瑠璃子は、近所のペットショップで出会った白猫に心を奪われた。店員によれば、この猫は生後半年ほどで、前の飼い主が急に手放したのだという。

「なぜ手放されたんですか?」

「さあ……引っ越しということでしたが」

 店員の曖昧な返答が気になったが、純白の毛並みと澄んだ青い瞳に見つめられると、そんな些細な疑問は消し飛んだ。瑠璃子はその猫を『雪丸』と名付け、家族として迎え入れた。

 最初の数日間、雪丸は理想的なペットだった。人懐っこく、よく甘え、夜は瑠璃子の足元で丸くなって眠った。仕事から帰ると玄関で出迎えてくれる雪丸の存在は、瑠璃子の生活に温かな彩りを与えた。

 変化が現れたのは、雪丸を迎えて一週間が過ぎた頃だった。

 深夜二時頃、瑠璃子は奇妙な音で目を覚ました。最初はテレビの音かと思ったが、電源は切ってある。耳を澄ますと、リビングの方から微かに聞こえてくるのは、人間の笑い声だった。

「くすくすくす……あははは……」

 女性の、それも幼い少女のような高い笑い声が、断続的に響いている。瑠璃子は不審に思いながらリビングに向かった。

 暗闇の中、雪丸がソファの上に座っていた。月明かりが窓から差し込み、その白い毛を淡く照らしている。雪丸は瑠璃子の方を振り返ると、いつものように「にゃあ」と鳴いた。

「雪丸? 今、変な音がしなかった?」

 瑠璃子が電気をつけると、雪丸は何事もなかったように毛づくろいを始めた。笑い声も止んでいる。瑠璃子は首をかしげながら寝室に戻った。きっと隣の部屋のテレビか、外を通る酔っぱらいの声だったのだろう。

 しかし翌夜も、同じ時刻に同じ笑い声が聞こえた。

「くすくすくす……ひひひひ……」

 今度は確実にリビングから聞こえてくる。瑠璃子は音を立てないよう注意深く部屋を出て、リビングのドア越しに耳を当てた。笑い声は間違いなく部屋の中から響いている。

 恐る恐るドアを開けると、雪丸がやはりソファに座っていた。そして瑠璃子が部屋に入った瞬間、笑い声がぴたりと止まった。

「雪丸……?」

 瑠璃子が声をかけると、雪丸は振り返って普通に鳴いた。しかし、その口元に微かな違和感を覚えた。まるで、人間が笑った後のような、口角の上がり方だった。

 三日目の夜、瑠璃子は確信した。笑い声の正体は雪丸だった。

 今度はドアの隙間から覗き見ると、雪丸がソファの上で人間のように座り、口を大きく開けて笑っていた。その姿は猫というより、猫の皮を被った何か別の生き物のようだった。

「あははは……くすくすくす……ひひひひひ……」

 様々な年齢と性別の人間の笑い声が、雪丸の口から次々と溢れ出る。時には子どもの無邪気な笑い声、時には大人の男性の低い笑い声、時には老婆の甲高い笑い声。まるで雪丸の中に複数の人格が住んでいるかのようだった。

 瑠璃子が息を呑むと、雪丸の動きが止まった。ゆっくりと振り返ったその顔は、確かに雪丸のものだった。しかし、その青い瞳が、人間のように知性と悪意に満ちて輝いていた。

 雪丸と瑠璃子の視線が合った瞬間、雪丸の口が三日月のように歪んだ。猫が笑うはずなどないのに、確実に笑っていた。人間の笑顔を模倣した、不気味で歪んだ笑みだった。

「にゃあ」

 雪丸は何事もなかったように鳴くと、四つ足でソファから飛び降り、瑠璃子の足元に擦り寄ってきた。まるで今の出来事など存在しなかったかのように。

 瑠璃子は震える手で雪丸を抱き上げた。その体は温かく、心臓の鼓動も感じられる。間違いなく生きている猫だった。しかし、あの笑い声と笑顔は確実に人間のものだった。

 翌日、瑠璃子は仕事を早退してペットショップに向かった。

「雪丸について聞きたいことがあるんです。前の飼い主のことを詳しく教えてください」

 店員は困ったような表情を浮かべた。

「実は……前の飼い主さんは三人いらっしゃったんです。最初の方は一週間で、二番目の方は四日で手放されて」

「なぜそんなに短期間で?」

「皆さん、『夜中に変な音がする』とおっしゃって。でも私たちには聞こえませんし、獣医師の検査でも異常はありませんでした」

 瑠璃子の背筋に冷たいものが走った。

「変な音って、どんな?」

「笑い声だそうです。人間の」

 その夜、瑠璃子は眠らずに雪丸を観察することにした。リビングに布団を敷き、雪丸から目を離さないようにした。

 午前二時、雪丸が動き始めた。

 普段の猫らしい動きとは明らかに違っていた。まるで人間が四つ足で移動するかのような、不自然で計算されたような動作だった。雪丸はソファに飛び乗ると、再び人間のように座った。

 そして始まった。

「くすくすくす……」

 最初は子どもの笑い声だった。無邪気で澄んだ、幼稚園児のような笑い声。しかし次第に年齢が上がっていく。小学生、中学生、高校生……。

「あははは……ひひひひ……」

 成人男性の豪快な笑い声に変わり、続いて女性の上品な笑い声、老人の渇いた笑い声と続いた。まるで人生のあらゆる段階の笑い声を順番に再生しているかのようだった。

 しかし最も恐ろしかったのは、その笑い声が徐々に狂気を帯びてきたことだった。

「あははは……ひひひひひ……けけけけけ……」

 正常な笑い声から、次第に病的で歪んだ笑い声に変化していく。まるで精神を病んだ人間の、理性を失った笑い声のようだった。

 雪丸の瞳が瑠璃子を見つめた。その青い瞳には、もはや猫らしさの欠片もなかった。完全に人間の、それも狂気に支配された人間の目だった。

「くすくすくす……瑠璃子ちゃん……見てるのね……」

 瑠璃子の血が凍った。雪丸が人間の言葉を話していた。少女の声で、瑠璃子の名前を呼んだのだ。

「ねえ、瑠璃子ちゃん……一緒に笑いましょう……」

 雪丸の口が人間のように動き、明瞭な日本語を発していた。しかしその声は雪丸の口から出ているのに、まるで部屋のあちこちから聞こえてくるような、空間に響く不気味な音だった。

「笑うって気持ちいいの……みんな笑うの……前のお家の人たちも、最後はみんな笑ったの……」

 瑠璃子は布団の中で震えていた。逃げたかったが、雪丸の視線から逃れることができなかった。

「最初は怖がるの……でも段々慣れてくるの……そして最後は一緒に笑うの……瑠璃子ちゃんも笑いましょう……」

 雪丸が立ち上がり、瑠璃子に向かって歩いてきた。その歩き方は完全に人間のそれだった。四つ足で立ってはいるが、歩くリズムも足の運び方も、人間が四つ這いで移動する時のものだった。

「ね、瑠璃子ちゃん……笑って……」

 雪丸が瑠璃子の顔の前まで来ると、その口が不自然に大きく開いた。猫の口とは思えないほど大きく、まるで人間の口のように開かれたその中から、無数の笑い声が同時に聞こえてきた。

「あははははははははははは……」

 子どもの笑い声、大人の笑い声、老人の笑い声、男性の笑い声、女性の笑い声、狂人の笑い声……ありとあらゆる人間の笑い声が、雪丸の小さな体から溢れ出していた。

 瑠璃子は悲鳴を上げて立ち上がった。しかし部屋から逃げ出そうとした時、自分の口から奇妙な音が漏れているのに気づいた。

「くすくす……」

 瑠璃子は愕然とした。自分が笑っていた。恐怖で体が震えているのに、口は勝手に笑っていた。

「ほら、瑠璃子ちゃんも笑ったね……」

 雪丸の声が耳の奥で響いた。瑠璃子は必死に笑いを止めようとしたが、笑い声は止まらなかった。それどころか、段々大きくなっていく。

「くすくす……あはは……ひひひ……」

 瑠璃子は自分の意志とは無関係に笑い続けていた。その笑い声は、雪丸が発していた様々な笑い声と同じ種類のものだった。まるで雪丸に笑い声を教わっているかのように。

「みんな同じなの……最初は怖がって、次に困惑して、そして最後は笑うの……瑠璃子ちゃんは三番目ね……」

 雪丸の説明を聞きながら、瑠璃子は恐ろしい真実に気づいた。雪丸の中にいる複数の人格は、過去の飼い主たちだった。彼らは雪丸に取り込まれ、その一部となっていたのだ。

「前のお父さんはとても笑い上手だったの……」

 雪丸が男性の豪快な笑い声を発した。

「前のお母さんは上品に笑ったの……」

 今度は女性の控えめな笑い声が響いた。

「前のおばあちゃんは最後まで笑わなかったけど……でも最後は諦めて笑ったの……」

 老婆の諦めにも似た、力ない笑い声が聞こえた。

 瑠璃子は理解した。雪丸は人間の笑い声を集めているのだ。そして飼い主となった人間を取り込み、その笑い声を自分のものにしているのだ。

「瑠璃子ちゃんの笑い声は綺麗ね……私のコレクションに加えさせて……」

 雪丸の青い瞳が異常に大きく見えた。その瞳の奥で、無数の人間の顔がちらちらと見え隠れしていた。恐怖に歪んだ顔、絶望に沈んだ顔、そして最後に狂気の笑みを浮かべた顔……。

 瑠璃子の笑い声が止まらなくなった。もはや自分の意志ではコントロールできなかった。

「あははははは……やめて……あははははは……助けて……あははははは……」

 助けを求める言葉の間に、勝手に笑い声が挟まれる。瑠璃子は必死に笑いを止めようとしたが、体が言うことを聞かなかった。

「上手になったね、瑠璃子ちゃん……もうすぐ私の一部になれるわ……」

 雪丸が瑠璃子に近づいてきた。その小さな体から、人間の大きさでは考えられないほど強い圧迫感が放射されていた。

 瑠璃子の視界が段々歪んできた。自分の意識が薄れていくのを感じた。しかし笑い声だけは続いていた。まるで笑い声だけが独立した生き物であるかのように。

「さあ、瑠璃子ちゃん……こちらにいらっしゃい……」

 雪丸の口が再び大きく開いた。その奥には暗い闇が広がっていたが、よく見ると闇の中で無数の人影が蠢いていた。全員が笑顔を浮かべ、手招きをしていた。

 瑠璃子は最後の力を振り絞って逃げようとした。しかし足が動かなかった。体が言うことを聞かなかった。そして何より、逃げたいという気持ちすら薄れていくのを感じた。

「笑うって……気持ちいい……」

 瑠璃子は自分の口から出た言葉に驚いた。しかしそれは確かに自分の本心だった。恐怖はまだ残っていたが、それ以上に笑うことへの快感が勝っていた。

「そうでしょう? 瑠璃子ちゃん……みんな最後はそう言うの……」

 雪丸の声が優しく響いた。瑠璃子にはその声が、もはや恐ろしいものには聞こえなかった。むしろ安らぎを与えてくれる、母親のような温かい声に感じられた。

「ここなら永遠に笑っていられるの……寂しくないし、辛いこともないの……ただ笑っていればいいの……」

 瑠璃子は微笑んだ。初めて心から笑えた気がした。今まで感じていた孤独感も、仕事のストレスも、すべてが笑いの前には些細なことに思えた。

「一緒にいましょうね、瑠璃子ちゃん……」

 雪丸の声と共に、瑠璃子の意識は闇の中に吸い込まれていった。最後に感じたのは、無数の笑い声に包まれる温かさだった。

 翌朝、大家が様子を見に来た時、部屋には白い猫だけがいた。瑠璃子の姿はどこにもなかった。まるで最初からいなかったかのように、完全に消失していた。

 猫は大家の方を振り返ると、人懐っこく鳴いた。

「にゃあ」

 その鳴き声は普通の猫のそれだった。しかし大家は一瞬、猫の口元が笑っているように見えた気がした。そして猫の青い瞳の奥で、複数の人影がちらちらと見え隠れしているような錯覚を覚えた。

 白い猫は再びペットショップに戻された。そして数日後、新しい飼い主に引き取られていった。一人暮らしの寂しい青年が、この美しい白猫に心を奪われたのだった。

 その夜、青年のアパートから微かに笑い声が聞こえてきた。

「くすくすくす……あははは……」

 四人分の、異なる人間の笑い声が重なり合って響いていた。そして夜が更けるにつれ、その笑い声はひとつずつ増えていく運命にあった。

 白い猫のコレクションは、今夜もまたひとつ増えることになるだろう。永遠に笑い続ける、新しい仲間が。
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