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第62話:「本当の私」怖さ:☆☆☆☆☆
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大学二年の秋、私は一人暮らしのアパートのベランダで、何気なく夜風に向かって名前を呼んでみた。
「結衣~」
自分の名前を風に向けて投げかける。幼い頃、祖母から聞いた迷信だった。夜中に自分の名前を呼ぶと、何かが応えてくれるという話。子供の頃は怖くて試せなかったが、今なら笑い話になるだろうと思った。
風は優しく頬を撫でて過ぎていく。当然、何の返事もない。
「やっぱりね」
そう呟いて部屋に戻ろうとした時だった。
「結衣」
背後から、確かに私の声で私の名前が呼ばれた。
振り返ると、夜風に揺れるカーテンがあるだけ。きっと風の音が偶然そう聞こえただけだろう。そう自分に言い聞かせて、急いで窓を閉めた。
しかし翌日の夜、同じことが起こった。
今度は窓を閉めていたのに、ガラス越しに「結衣」という声が聞こえてくる。私の声で。まったく同じイントネーション、同じ音程で。
三日目の夜、私は決心した。もう一度ベランダに出て、確かめてみようと。
夜中の十二時。カーテンを開けると、ベランダに影が立っていた。
それは私の影だった。完全に私と同じ輪郭、同じ髪型、同じ服装の影。ただし、影は私とは反対を向いて立っている。
「結衣」
影が私の声で名前を呼ぶ。口の動きまで私と同じだった。
私が一歩後ずさると、影も同じように動く。しかし影は常に私に背を向けたまま。まるで私を映す鏡が、裏返しになったみたいに。
「何なの、あなた」
私が問いかけると、影は振り返った。
顔があった。私の顔が。しかし、その表情は私が今している表情ではない。影は微笑んでいた。とても満足そうに。
「やっと呼んでくれたのね」
影が私の声で言った。
「私、ずっと待ってたの。あなたが私を呼んでくれるのを」
「呼んだって、何を」
「私よ。本当の私を」
影は両手を広げた。
「あなたは今まで、偽物の私を演じてきたの。でも本当の私は、ここにいる」
寒気が背筋を駆け抜けた。
「何を言ってるの。私が偽物って」
「思い出してみて。あなたが最後に本当に笑ったのはいつ?本当に泣いたのはいつ?本当に怒ったのはいつ?」
言われてみると、思い出せない。最近の私は、ただ日常を機械的にこなしているだけだった。大学でも、バイトでも、家でも。感情らしい感情を抱いたのがいつだったか、本当に思い出せない。
「あなたは私の影になったの。私が本体で、あなたが影」
影は一歩近づいてくる。
「でも安心して。今日からは元に戻るから」
「元に戻るって」
「私があなたになって、あなたは私になる。それが本来の姿よ」
影が手を伸ばしてくる。その手に触れられそうになった瞬間、私は慌てて部屋に逃げ込んだ。窓を閉め、カーテンを引いて、鍵をかけた。
しかし、ガラス越しに影の笑い声が聞こえる。私の笑い声で。
「逃げても無駄よ。私はもうあなたの中にいるから」
翌朝、目を覚ますと違和感があった。鏡を見ると、そこには私がいる。当たり前だ。でも、なぜかその私が少し違って見えた。
表情が、昨夜の影と同じように満足そうに見えた。
大学に向かう電車の中で、窓ガラスに映った自分の顔を見た。やはり満足そうに微笑んでいる。私はそんな顔をしていないのに。
講義中、隣の席の友人が話しかけてきた。
「結衣ちゃん、なんか今日、表情が生き生きしてるね」
その時、自分の口が勝手に動いた。
「ありがとう。今日からは本当の私でいられるから」
私はそんなことを言うつもりはなかった。しかし口は私の意思とは関係なく動いていた。
友人は首をかしげて、「本当の私って?」と聞いてくる。
「秘密」
また勝手に口が動く。そして私の顔は、勝手に笑顔を作る。
その夜、ベランダに出ると、そこには私の影があった。しかし今度は、影は俯いて立っている。まるで項垂れているみたいに。
「どうして」
影が私の声で呟く。しかし、その声は元気がない。
「どうして私の体を取ったの」
私は答えた。いや、私の口が勝手に答えた。
「あなたが呼んだからよ。自分で私を呼んだくせに」
「私はただ、夜風に名前を呼んだだけ」
「その時、あなたは無意識に私を求めていた。本当の感情を。本当の自分を。だから私が応えてあげたの」
影は顔を上げた。その顔は、昨日まで私がしていた表情だった。無気力で、疲れて、どこか虚ろな表情。
「返して。私の体を返して」
「嫌よ。せっかく手に入れたんだもの」
私の口は私の意思とは関係なく、そう答え続ける。
「それに、あなたはもう必要ないの。私がいれば十分」
影は泣きそうな顔をしている。私が昨日まで、心の奥でしていた表情と同じだった。
その時、気づいた。影の体が薄くなっている。透明になりかけている。
「あなた、消えるの?」
「そうね。きっと消えるでしょう。あなたが私を受け入れるほど、私は消えていく」
影は微笑んだ。とても悲しそうに。
「でも、いいの。私はずっと疲れていたから。消えるのも悪くない」
「待って」
私は手を伸ばした。しかし影には触れられない。
「私たち、元に戻れないの?」
「無理よ。あなたが私を呼んだ時点で、入れ替わりは始まっていた。今さら止められない」
影はどんどん薄くなっていく。
「さよなら、私。今度は幸せになってね」
そして影は完全に消えた。
私は一人、ベランダに立っていた。体は私のものだ。でも、その体を動かしているのは、もう私ではない。
私の心は、消えた影と一緒にどこかへ行ってしまった。
翌日から、周りの人たちは私の変化を喜んだ。表情が豊かになった、生き生きしている、前向きになったと。
でも私は知っている。この笑顔は偽物だということを。この感情は借り物だということを。
本当の私は、あの夜、影と一緒に消えてしまったのだから。
それでも体は生きている。偽物の感情で、偽物の笑顔で、偽物の人生を歩んでいる。
夜になると、ベランダに出て空を見上げる。もう影は現れない。私はもう、本当の私を呼ぶことはできない。
なぜなら、本当の私は、もうどこにもいないのだから。
時々、風が私の名前を呼ぶような気がする。
「結衣」
でも振り返っても、そこには何もない。きっと、消えた私の声だろう。永遠に戻ることのできない、本当の私の声が、風に混じって聞こえてくるのだ。
私は微笑む。偽物の微笑みで。そして答える。偽物の声で。
「何?私はここにいるわよ」
しかし本当は知っている。
私は、もうどこにもいないということを。
「結衣~」
自分の名前を風に向けて投げかける。幼い頃、祖母から聞いた迷信だった。夜中に自分の名前を呼ぶと、何かが応えてくれるという話。子供の頃は怖くて試せなかったが、今なら笑い話になるだろうと思った。
風は優しく頬を撫でて過ぎていく。当然、何の返事もない。
「やっぱりね」
そう呟いて部屋に戻ろうとした時だった。
「結衣」
背後から、確かに私の声で私の名前が呼ばれた。
振り返ると、夜風に揺れるカーテンがあるだけ。きっと風の音が偶然そう聞こえただけだろう。そう自分に言い聞かせて、急いで窓を閉めた。
しかし翌日の夜、同じことが起こった。
今度は窓を閉めていたのに、ガラス越しに「結衣」という声が聞こえてくる。私の声で。まったく同じイントネーション、同じ音程で。
三日目の夜、私は決心した。もう一度ベランダに出て、確かめてみようと。
夜中の十二時。カーテンを開けると、ベランダに影が立っていた。
それは私の影だった。完全に私と同じ輪郭、同じ髪型、同じ服装の影。ただし、影は私とは反対を向いて立っている。
「結衣」
影が私の声で名前を呼ぶ。口の動きまで私と同じだった。
私が一歩後ずさると、影も同じように動く。しかし影は常に私に背を向けたまま。まるで私を映す鏡が、裏返しになったみたいに。
「何なの、あなた」
私が問いかけると、影は振り返った。
顔があった。私の顔が。しかし、その表情は私が今している表情ではない。影は微笑んでいた。とても満足そうに。
「やっと呼んでくれたのね」
影が私の声で言った。
「私、ずっと待ってたの。あなたが私を呼んでくれるのを」
「呼んだって、何を」
「私よ。本当の私を」
影は両手を広げた。
「あなたは今まで、偽物の私を演じてきたの。でも本当の私は、ここにいる」
寒気が背筋を駆け抜けた。
「何を言ってるの。私が偽物って」
「思い出してみて。あなたが最後に本当に笑ったのはいつ?本当に泣いたのはいつ?本当に怒ったのはいつ?」
言われてみると、思い出せない。最近の私は、ただ日常を機械的にこなしているだけだった。大学でも、バイトでも、家でも。感情らしい感情を抱いたのがいつだったか、本当に思い出せない。
「あなたは私の影になったの。私が本体で、あなたが影」
影は一歩近づいてくる。
「でも安心して。今日からは元に戻るから」
「元に戻るって」
「私があなたになって、あなたは私になる。それが本来の姿よ」
影が手を伸ばしてくる。その手に触れられそうになった瞬間、私は慌てて部屋に逃げ込んだ。窓を閉め、カーテンを引いて、鍵をかけた。
しかし、ガラス越しに影の笑い声が聞こえる。私の笑い声で。
「逃げても無駄よ。私はもうあなたの中にいるから」
翌朝、目を覚ますと違和感があった。鏡を見ると、そこには私がいる。当たり前だ。でも、なぜかその私が少し違って見えた。
表情が、昨夜の影と同じように満足そうに見えた。
大学に向かう電車の中で、窓ガラスに映った自分の顔を見た。やはり満足そうに微笑んでいる。私はそんな顔をしていないのに。
講義中、隣の席の友人が話しかけてきた。
「結衣ちゃん、なんか今日、表情が生き生きしてるね」
その時、自分の口が勝手に動いた。
「ありがとう。今日からは本当の私でいられるから」
私はそんなことを言うつもりはなかった。しかし口は私の意思とは関係なく動いていた。
友人は首をかしげて、「本当の私って?」と聞いてくる。
「秘密」
また勝手に口が動く。そして私の顔は、勝手に笑顔を作る。
その夜、ベランダに出ると、そこには私の影があった。しかし今度は、影は俯いて立っている。まるで項垂れているみたいに。
「どうして」
影が私の声で呟く。しかし、その声は元気がない。
「どうして私の体を取ったの」
私は答えた。いや、私の口が勝手に答えた。
「あなたが呼んだからよ。自分で私を呼んだくせに」
「私はただ、夜風に名前を呼んだだけ」
「その時、あなたは無意識に私を求めていた。本当の感情を。本当の自分を。だから私が応えてあげたの」
影は顔を上げた。その顔は、昨日まで私がしていた表情だった。無気力で、疲れて、どこか虚ろな表情。
「返して。私の体を返して」
「嫌よ。せっかく手に入れたんだもの」
私の口は私の意思とは関係なく、そう答え続ける。
「それに、あなたはもう必要ないの。私がいれば十分」
影は泣きそうな顔をしている。私が昨日まで、心の奥でしていた表情と同じだった。
その時、気づいた。影の体が薄くなっている。透明になりかけている。
「あなた、消えるの?」
「そうね。きっと消えるでしょう。あなたが私を受け入れるほど、私は消えていく」
影は微笑んだ。とても悲しそうに。
「でも、いいの。私はずっと疲れていたから。消えるのも悪くない」
「待って」
私は手を伸ばした。しかし影には触れられない。
「私たち、元に戻れないの?」
「無理よ。あなたが私を呼んだ時点で、入れ替わりは始まっていた。今さら止められない」
影はどんどん薄くなっていく。
「さよなら、私。今度は幸せになってね」
そして影は完全に消えた。
私は一人、ベランダに立っていた。体は私のものだ。でも、その体を動かしているのは、もう私ではない。
私の心は、消えた影と一緒にどこかへ行ってしまった。
翌日から、周りの人たちは私の変化を喜んだ。表情が豊かになった、生き生きしている、前向きになったと。
でも私は知っている。この笑顔は偽物だということを。この感情は借り物だということを。
本当の私は、あの夜、影と一緒に消えてしまったのだから。
それでも体は生きている。偽物の感情で、偽物の笑顔で、偽物の人生を歩んでいる。
夜になると、ベランダに出て空を見上げる。もう影は現れない。私はもう、本当の私を呼ぶことはできない。
なぜなら、本当の私は、もうどこにもいないのだから。
時々、風が私の名前を呼ぶような気がする。
「結衣」
でも振り返っても、そこには何もない。きっと、消えた私の声だろう。永遠に戻ることのできない、本当の私の声が、風に混じって聞こえてくるのだ。
私は微笑む。偽物の微笑みで。そして答える。偽物の声で。
「何?私はここにいるわよ」
しかし本当は知っている。
私は、もうどこにもいないということを。
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