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第一章 エトランゼ

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 フィノイ河には、既にモーリッツが自ら部下を率いて、大規模な見張りを展開していた。

 まるで海のような巨大な河の水は澄み切っているが、流れも早くとてもではないが泳いで向こう岸に渡れるものではない。

 数少ない移動手段の一つは魔装船と呼ばれる、魔力を動力として動く船だが、今ここにある魔装船は全てモーリッツの管理下に置かれており、無断で使用することは禁じられている。

 唯一の交通手段となった橋も同様に、見張りが何人も詰めて検問を行い、怪しい者はその場で拘束される。

 木製の塀に囲まれた砦は橋を渡りたい者達が進むための一本道と、砦内部への進入口とに分かれており、今カナタが立っているのは後者の方だった。


「……なんでボクが」


 頭にはホワイトプリム。紺色のドレスに白いエプロンを身に纏ったその姿は、まごう事なきメイドだった。


『お前が適任だからだ。つべこべ言わずにさっさと行け』


 頭の中に響いてきた声に、思わず身を竦ませる。

 先程ヨハンから貰ったイヤリング型の魔法道具で、耳につければお互いに通信できてしかも直接喋らなくても念話ができる優れものなのだが、頭の中で声がするというのはどうにも慣れそうにない。


「……行くよ。行くからね。失敗してもボクの所為じゃないよ。作戦立てたヨハンさんの所為だからね」

『いいから早くしろ』

 容赦ない言葉に背中を押され、塀に開けられた唯一の入り口へと近付いていく。

 当然そこには槍を立てて、鎧兜を身に纏った兵士が見張りに立っていて、カナタを見つけると目玉をぎょろりと動かした。


「なんだお前は? ……本当になんだ?」

 一度声を掛けてから、改めてその姿を見てもう一言。

 緊張状態、というほどでもないが。見張りをしている場所に突然メイド服の少女が現れればそうもなるだろう。


「ボク……じゃなくて、わたし、モーリッツ様のメイドです。モーリッツ様のおやつをお持ちしました」

「おやつ? お前、ふざけてるのか?」


 槍を向けるようなことはなかったが、やはり兵士は訝しんでいた。カナタは内心ではだらだらと冷や汗を流しつつ、ヨハンに詰め込まれた台詞を必死で思い出していく。


「で、でも本当にそう命令されていたんです。ほら、その証拠に!」


 取り出したる鞄の中からは、厳重に保護された蜂蜜漬けのパンと果物が覗く。長い時間立っていた所為で空腹を感じ始めていた兵士は、自分は滅多に食べることのできない甘味にごくりと唾を鳴らしていた。


「……確かに、モーリッツ様ならばそのようなこともあるか」


 美食と美女に目がないのが、モーリッツという男だ。ある意味では非常に貴族らしい。


「一応、身体を改めさせてもらうぞ」

「ど、どうぞ」


 鞄を置いて、両手を広げる。

 エプロンもスカートも魅力的な広がりを見せてはいるが、武器を隠せるほどのスペースはない。

 鞄の中を覗いても、そこに食料以外が入っている様子はなかった。


「おい」

「は、はい!」

「これもモーリッツ様の物か?」


 兵士が鞄から取り出したのは、軽く砂糖が塗された柔らかいパンだった。一口サイズに切り分けられ、よく農村では子供達のおやつとして親しまれている。


「い、いえ! これはわたしが焼いたものです。ここで勤める兵士の皆さんの疲れを少しでも癒せればと……。本当はモーリッツ様の許可を取ってから配ろうと思っていたんですけど、ちょっとだけつまみ食いしますか?」

「……ちょっとだけ、貰おうか」


 簡単に誘惑に負けた兵士はそれを摘みあげ、一口で食べ終える。

 満足そうに口をもぐもぐと動かしながら、彼は一歩引いて扉を開いた。


「怪しいものは持っていないようだしな。行っていいぞ。モーリッツ様は中央砦にいらっしゃるはずだ」

「ありがとうございます!」


 深々と頭を下げて、カナタは中へと入ると、小走りでその場から立ち去っていく。

 その姿に何か思うところがあったのか、兵士はそれを見送りながらしみじみとした声で呟く。


「エトランゼか。……気の毒だが、メイドの賃金程度ではすぐにソーズウェルにはいられなくなるだろうな。俺の娘と同じぐらいの年だろうに、不憫なものだ」


 同情はあるが、どうしてやることもできない。

 それだけ、エトランゼとオルタリア国民の間にある溝は深かった。


「それにしてもいい陽気だ。こんなにいい天気だと、眠くなってくる……」


 大きな欠伸をして、塀に背中を預ける。

 次第にそれだけでは飽き足らず、しゃがみこみ、その数分後には地面に尻を付けて足を延ばし、すっかり眠りこけていた。

 男のいびきが聞こえるようになると、ゆっくりと扉が開きそこからヨハンとトウヤが周囲の様子を窺いながら入り込んでくる。


「……寝てるな?」

「ミグ草を煎じた睡眠薬だ。明日の朝ぐらいまでは寝てるだろう」

「こんな簡単に行くもんなんだな?」

「ここからが本番だぞ。油断はするな」

「判ってるって」


 トウヤは手際よく兵士の鎧を脱がせて、その身体を塀の外の、できるだけ目立たない場所へと寝かせておく。

 そして自分が鎧を身に纏うと、腰に剣を指して持っていた槍を縦に持った。


「じゃあ俺はカナタを案内する振りをするから。あんたはあんたの仕事をしっかりしろよ」

「言われなくても判ってる。手筈通りに進めろよ」


「ああ。姫様のこともしっかり守れよ」

 それを最後に、できるだけ怪しまれないような足取りでカナタの後を追って行く。


「では、俺達も行きましょう」

「ヨハン殿、素朴な疑問なのだが」


 何もない空間から声が響く。

 光が揺らぎ、透明なカーテンが取り除かれるとそこからエレオノーラの困惑したような顔と、彼女の豊かな黒髪が零れ出た。


「このヴェールを全員に配ればそれで済む話ではないのか?」

「その生地は入手が難しく高価なので、一人分で限界です。全員分を用意する時間もありません」

「そ、そうか……。高価なのか」

「お代は後で請求するのでご心配なく。それよりも俺達も行きましょう」

「請求されるのか……。その手は何だ?」


 エレオノーラは自分の元に伸ばされた手を見て、首を傾げた。


「こちらからは姿が見えないのです。手を繋いでいなければ、逸れたかどうか判らないでしょう」

「む、それはそうかも知れんが。……だからといってそんな幼子のような」

「姫様の能力からして、この状況では立派な幼子です。はぐれないように気を付けてください」


 ぐっと手を握り、早足で歩きだすヨハン。

 エレオノーラは戸惑っていたが、強引なその態度に唇を尖らせながらも、特に文句を言うわけでもなく引っ張られるままにその後に付いていった。
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