彼方の大地で綴る【四章まで完結済み】

しいたけ農場

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第一章 エトランゼ

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『うふふっ』


 響くその声は、幼い少女のように甲高い。

 耳に届いているのではなく、直接頭の中に反響する歓声。


『ようやく出られる! ようやく出られたわ! ずっとでたかったの、ずっとよ、ずーっと! あなた達に判るかしら? もう百年? 五百年? 千年かしら? ううん、もうでもいいわよね。やっと、こうして出られるのだから!』


 それは一瞬のことで、誰も反応することができなかった。

 床に落ちたウァラゼルが一瞬輝いたかと思うと、倒れたクレマンを足蹴にして、一人の少女がそこに立っていた。

 全身を黒いドレスに包んだ銀色の髪に、紫色の目をした少女。この場には似つかわしくないほどの美しさと無邪気と、それを直視することが躊躇われるほどの不気味な悍ましさ。

 理屈ではなく、生物としての本能が彼女を忌避していた。


「君、は?」

「ええ、ええ! 自己紹介するわね! ウァラゼルの名前はウァラゼル! 御使いが一柱、『悪性』の御使い、ウァラゼルよ! よろしくね!」


 そう言ってスカートの橋をつまんで、小さくお辞儀をする。

 優雅で可愛らしいその仕草も、彼女の放つ威圧感の前では威嚇行動にすら思てくる。


「あの中であなた達の声を聞いていたわ! ねぇ、あなたとっても素敵よ。自分の理想のために色々なものを裏切って、同じ命をたくさん、たくさん踏み躙るのよね?」


 ふわりと少女の身体が舞うように浮かび、ヨシツグの前に行って彼の手を取った。


「たくさん、遊べるわ。たくさんのお人形さん達で遊べるの。とっても素敵よ、とってもね!」

「……君は、なんだ?」


 無意識に、同じ言葉をヨシツグは繰り返す。


「だから、ウァラゼルは御使い。『悪性』のウァラゼルよ! 人間ってこんなにお馬鹿さんだったかしら? 長年あの中に入れられてたから、ちょっと覚えていないけれど。

 そうそう。酷いのよ、ウァラゼルが人間を殺し過ぎたからって力を奪って、四肢を千切ってあの中に放り込まれたの! それから千年以上もそのままで! ……誰だったかしら? えぇっと、よく覚えていないわ……ああ、そう! 『黙示』の奴よ! 今度あったらびっくりするような悪戯してあげないと」


 口調こそ怒っているようだったが、ウァラゼルの表情は笑顔そのもので、本当に悪戯を考えているだけのようだ。


「あなた、素敵よ。人間さん。お話を聞いていたけど、この場で裏切って、この国をめちゃめちゃにするんでしょう? それってとっても悪いことよね! あなたも立派な悪性ね。仲間ができちゃった、嬉しい!」


 両手を頬に当てて笑うウァラゼル。


「ヨシツグは悪じゃない! アタシ達のことを考えてくれてるんだから。だいたい、あんたは何なのよ!」

「悪性じゃないの? ……まあどっちでもいいわ。それよりもウァラゼルは遊びたいわ。この場に集まってくれたお人形さん達と、ちょっと身体を動かしたいの。それからどうしようかしら? うーん、悩むわ。他の御使いに仕返し? 今一つ面白そうじゃないわ」


 くるくると楽しそうに回るウァラゼル。

 その圧力に耐えられなくなったのか、ヨシツグの仲間の一人が背負っていた槍を構えた。


「ヨシツグさん! このイカれ女をやっちまいましょう!」


 ヨシツグの返事も待たずに突きだされた槍は、無防備なウァラゼルの顔面に吸い込まれていく。


「なっ……!」


 傍目には、やはり少女を傷つけられないその男が咄嗟に手を止めたようにも見えただろう。

 事実トウヤも、驚愕に歪むその表情がなければそう思っていた。

 よく見れば槍は何かにぶつかって止まっている。

 少女の眉間のほんの少し手前、彼女が薄く纏う紫色の極光に阻まれていた。

 トウヤはその光に覚えがある。


「……カナタの、極光に似てる」


 色こそ違うが、それは彼女が扱っている光そのものだった。


「うふ」


 可愛らしく少女が笑う。

 指先を伸ばし、そこから伸びた光が、槍を持った男の腹を容赦なく貫いた。


「うごっ……!」

「うふふっ、あははっ。弱い弱い! もう死んじゃうの? 駄目よ、それじゃあつまらないわ! だからお人形さんにしてもっと楽しんで……」


 ふっと、楽しげなウァラゼルから表情が消えた。


「あげない。よく見ればあなた、可愛くないもの」


 紫の極光はその体内で膨らみ、内部から破裂させられたかのように部屋中に血と臓物をぶちまけて、その肉体は完膚なきまでに破壊された。


「お人形に変えるなら女の子がいいな」


 そう言って彼女の瞳が捉えたのは、この場で唯一の女性兵士であるナナエだった。


「ナナエ、逃げろ!」


 ヨシツグがその前に立ちはだかり、陽光を剣に集める。

 極限にまで圧縮された太陽の光が、ウァラゼルに振り下ろされた。

 それは巨大な閃光となって、ヨシツグの前面をレーザーのように焼き払う。

 轟音と破壊の閃光が過ぎると、要塞の壁は吹き飛び、その先の空へと光が伸びていく跡が覗いていた。

 それだけの威力を持った、強力なギフト。

 トウヤでは真似できないそれを以てしても、その光が過ぎ去った後に立つウァラゼルは、傷一つ負うことはなかった。


「なに……!」

「うふふっ、今のは眩しくて綺麗だったわ。そう言えば、あなた達は「そう」なのよね。贈り物を持っているんだったわね。でも可哀想、そんな弱い力しか持っていないなんて。きっと運が悪かったんだわ。そうよね、もっと強い力があれば、ウァラゼルと楽しく遊べたのに!」


 紫の極光が伸びる。

 ヨシツグは陽光を盾に纏わせてそれを防御しようとするが、そんなことはお構いなしに極光は彼の全身を包みこんだ。


「ヨシツグ!」

「ねぇ」


 ウァラゼルが背伸びをして、動けないヨシツグに顔を寄せる。


「やっぱりあなたは悪性よ。ウァラゼルには判るわ。悪性のセレスティアルが言っているもの、あなたは同じものだって。ううん、別に怒っているわけではないわ、むしろ喜んでいるの。ウァラゼルは嬉しいの、とっても素敵なことだもの!」


 ヨシツグの拘束が解かれ、彼は勢いあまってその場に尻餅を付く。


「ねぇ、来訪者さん、お人形さん。わたし、たくさん、遊びたいの? この意味が判るかしら? 遊ぶのは大勢でした方が楽しいのよ。だから提案」


 ウァラゼルの手がヨシツグの眼前に伸びた。


「一緒に壊しましょう、この大地を。あなた、気に入らないのでしょう? この世界で繁栄する人間が、外から来た来訪者であるあなた達を苦しめるのが嫌なのでしょう? だったらそれを全部、全部、ぜーんぶ壊してしまえば、その心の痛みは消えるわ」


 誰かが唾を飲む音が聞こえる。

 トウヤは止めようとするが、ウァラゼルの恐怖に足が竦んでいた。

 まさか、そんな決断をするはずがない。

 彼女は見た目こそ幼い少女だが、目の前で一人を斬殺して見せた化け物だ。

 ヨシツグは誇りを持って、エトランゼとしての生き方を全うするために、その提案を拒否するだろう。


「君に従えばいいのか?」


 その場の誰もが息を呑む。

 あれだけの強さを持ったヨシツグが、全く敵わない相手を目の前にして、屈しようとしていた。


「ううん。従う必要なんてないわ。あなたはウァラゼルのお友達として、一緒に遊んでいればいいの。そうすればいつの間にかこの大地から人が消えるわ。以前もそうだったもの」

「……その果てに、エトランゼの世界がやってくるのか?」

「さあ、ウァラゼルは知らないわ。でも来訪者さん達は放っておいてもこの世界に来てしまうもの。うん、そうね、そうよね。すっごく強い来訪者さんが来れば、ウァラゼルとも遊べる。そうすればきっと楽しいわよ。そう、そうしましょう!」


 楽しい、最高の遊びを思い付いたとでも言わんばかりに、ウァラゼルはヨシツグの手を握って上下に振っていた。

 ヨシツグは熱に浮かされたような顔で、周囲の者達は恐怖に引きつった表情で、それを見ていた。

 彼の判断が全てを左右する。

 やがて、長い葛藤の後、決断の時は来た。


「君の力になろう」

「うふふっ。とっても素敵」

「ヨシツグ!」

「アンタ正気かよ!」


 立ち上がったヨシツグは、トウヤに容赦なく剣の切っ先を向ける。


「正気だよ、俺は。エトランゼの未来のことを考えて、今は雌伏の時を選ぶんだ」

「そんなの、ただ死にたくないだけじゃないか!」

「死ぬわけにはいかないんだよ。エトランゼは俺が導いていかないといけないんだから!」


 陽光の剣が振るわれ、咄嗟に避けたトウヤの頬を掠めて、その後ろにある壁を切り裂く。

 その目は本気で、ヨシツグの太刀筋に一片の曇りもない。


「ナナエ。お前は助けてやる。こっちに来い。ウァラゼル、この娘も」

「ええ、いいわ。いいわよ。お友達だものね、ウァラゼルは優しいから、我が儘を聞いてあげる。うん、遊ぶのは大勢の方が楽しいもの!」


 怯えながらも、ヨシツグの元に歩み寄るナナエ。

 その腰を抱くようにヨシツグは支えると、ウァラゼルへと視線を向けた。


「みんな逃げろ!」


 トウヤは反射的にそう叫んでいた。

 無我夢中で放った炎は、やはりウァラゼルの極光に阻まれて彼女を焦がすことはない。


「あははっ、追いかけっこ! いいわ、ウァラゼルそれ得意よ! でも三人じゃ疲れちゃうから、ちょっとだけずるしてもいいわよね? だったそうでしょう、あなた達の方が数が多いもの!」


 ぽたりと、血が滴るように、紫の極光が降ろされた指先から床に落ちる。

 ウァラゼルの身体から、彼女の周囲の空間から、無数に落ちたそれは液体のように広がり、次第に個体へと形を変えていく。


「なんだよ、あれ……!」


 赤黒い剥き出しの肉、飛び出したような歯茎に鋭い牙。

 丸い目玉は眼球がそのまま外についているようで、それぞれが異なる形を持っている。

 その全てに共通しているのは誰も見たことがないような醜悪な異形であること。

 蟲のように、陸を這いずる魚のように、下半身をもがれた人のように。

 ずるずると、その口を広げて動き始めた。


「久しぶりね、ウァラゼルの『悪性』達。随分と久しぶりだからお腹が空いたでしょう? 本当は食べる必要はないのだけど、あなた達はそれが好きだものね。それ、食べてもいいわよ」


 床に落ちた、クレマンとエトランゼの戦士だったものを指さす。

 異形の内の一匹が、すぐさまそれに齧り付き、二度三度口の中で味わってから飲み込んでしまった。


「お、俺達も助けてくれ!」


 ヨシツグの部下達が、逃げようとするトウヤとは反対方向に駆けだして、ウァラゼルに跪く。


「ヨシツグさん! 俺達も助けてくれ、頼む。一緒にこの世界を手に入れたいんだ!」


 それを見下ろすヨシツグの目は余りにも冷たくて、トウヤはそこから先の惨劇を容易に予想できてしまった。


「ウァラゼル。弱いお人形さんは要らないわ。えっと、この……ヨシツグ?と、そっちの子は可愛いからいいけれど、他のは要らないの」


 駆けだしたトウヤの背中越しに、悲鳴と肉が裂け、骨が砕ける音が響く。

 人が死ぬ音を背中にぶつけられながら、トウヤは目を閉じてイシュトナル要塞を駆け抜けた。

 ここで死ぬわけにはいかない。まだ生きて、やらなければならないことがある。
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