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第一章 エトランゼ

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 弾かれるように、何もない空中からヨハンの身体が現れる。

 最早受け身を取る体力も残っておらず、無様に地面に落下して、全身を強く打った。

 落ちたのが草の上だったのがせめてもの救いで、多少は衝撃を吸収してくれたものの、疲労もあってか当分は動けそうにもない。


「……やはり、長距離の転移はポータルを開かないと無理があったか」


 短距離での転移魔法は、ギフトを使えた状態ならばそれほど難しいものではない。

 しかし、それが長距離ともなれば話は変わり、ポータルと呼ばれる門を魔法によって築いて初めて安定した移動が可能になる。

 そんなことをしている時間はなかったので、無理矢理に魔法を発動させた結果がこれだった。

 身体を転がして、俯せから仰向けに態勢を変える。


「しかし、ここは何処だ?」


 幾ら何でも無茶が過ぎたかも知れない。できるだけディッカーの屋敷の傍に転移したつもりだったが、今ここで魔物やウァラゼルのあの異形に襲われたら一巻の終わりだ。

 ゆっくりと感覚を確かめるように腕を動かして、左胸に当てると、心臓は間違いなく鼓動を刻んでいる。

 その横に埋め込まれたエリクシルの気配は、全く消え去っていた。

 もう、ギフトを使うことはできない。あれを作りだすのに数年の歳月と、極めて限定的な状況が必要だった。もし同じことをやれと言われても、それは難しい。

 ヨハンが再び森羅万象の力を振るう機会は、永遠ではないにせよ、当分の間失われたことになる。


「あの、大丈夫ですか? ……って、ヨハンさんじゃないですか!」


 そんな声がして、首だけを動かして見てみれば、護衛と思しきエトランゼを引き連れたサアヤが驚いた顔でこちらを見ていた。

 彼女がやってきた方角を見れば、道の先に幾つかの建物が連なっていて、どうやらディッカーの領地の随分と近くまでは来ていたらしい。恐らくは行き倒れた避難民がいないかどうか、見て回っていたのだろう。


「ここは一人で大丈夫ですから、エレオノーラ様に報告をお願いします」


 サアヤの言葉を聞いて、一緒にいたエトランゼ達は街の方へと戻って行った。


「まずは怪我を治しますね」


 傍に膝をついて、翳された手から淡い光が照らし、ウァラゼルに付けられた傷がゆっくりと塞がっていく。

 それだけではなく、先程地面に叩きつけられた痛みも消えて、体力も少しずつではあるが戻って来た。


「どうしてこんなところに一人で?」

「時間を稼ぐのに、ウァラゼルと戦ってきた。……離脱に失敗してこの様だがな」

「お一人でですか? それじゃあやっぱりヨハンさんのギフトは……」


 首を横に振る。


「残念だが、あれはもうない。恥ずかしながら今の俺はギフトを持たないエトランゼだ」


 口ではそう言ったが、それほど残念とは思っていない自分がいた。


「全然、恥ずかしくなんかありませんよ」


 サアヤのリザレクションの効力は相当なもので、もう傷も痛みも完全に消え去っていた。

 起き上がろうとしたヨハンの身体を、そっと伸びてきた手が制する。


「あの、よかったら……。もう少し、休んでいきませんか?」

「……ここでか?」

「は、はい! 草の上ですけど、柔らかいですし……。わたしが辺りの様子は見ていますから、危険はありません」

「いや、別にそこは問題ないんだが……。そっちも仕事があるだろう?」

「今日は今の見回りで最後でしたので。むしろ周りから、少し休んだ方がいいって言われてしまいました」

「……そうか。無理をさせたようだな」


 彼女がいなければ、下手をすればエレオノーラの軍はもう駄目になっていたかも知れない。

 ここ数日だけで、そのギフトで数え切れないほどの人の命を救ってきたのだろう。


「いいえ。逆にわたしはそれしかできませんから。それに、不謹慎ですけど、少しだけ嬉しいんです」

「嬉しい?」


 サアヤの口元は小さく綻び、まるで幼き日の思い出を語るかのように、その口調は普段より増して柔らかい。


「憧れていた貴方のお役に立てましたから」

「……その憧れは、」


「判っています。貴方にとってはそれは数ある、それこそ数え切れないぐらいの挿話の一つでしかないことも」

 多くの人を救った。

 その過程で、命を奪ったこともある。

 悩みもしたし、迷いもあった。だから、その中の小さな過程、救われた命のことなどは顧みたこともない。命が助かればそれでいい、それ以上は自分が干渉することではないと。


「でも、貴方の在り方はわたしを変えてくれました。この世界に来て迷い続けていたわたしが、自分の意思で立って歩もうとする力を貰いました」

「……なら、よかった」


 結果としてヨシツグは裏切り、彼女が属していた暁風は壊滅状態となってしまったが。

 それでもここでこうして、名実ともにヨハン達を支えてくれる理由になったのだとしたら、それでいい。


「あの……!」

「ヨハン殿!」


 意を決したように、サアヤが何か言おうとするのと、離れたところからよく通る声が響いてきたのはほぼ同時だった。


「無事であったか! 心配したのだぞ。……まだ何処か不調があるのか?」


「いえ。さっきまではぼろぼろでしたが、今はサアヤのおかげでだいぶ楽になりました」

 上体を起こし、そのまま立ち上がる。

 そんなヨハンを見て、サアヤが少しだけ面白くなさそうな表情に変わったのだが、残念ながらそれに気が付くことはなかった。


「あと二日もすればディッカー卿とトウヤ達も戻ってくるでしょう。それから、モーリッツ卿との共闘戦線を張る形になりました」

「おお、そうか! 妾の命を狙った男と共に戦うのは思うところはあるのだが……」


 エレオノーラがちらりとディッカーの屋敷を見る。そこにヴェスターがいるとすれば、今更という話だ。


「しかし、今は非常時だ。敵味方の区別なく、あのウァラゼルを撃破せねばならぬ。それに、ヨハン殿が傍にいてくれれば奴等も滅多なことはできぬだろうよ」

「あまり期待されても困りますがね」

「そういう時は、胸を張って任せろと言うものだぞ? それよりも、ウァラゼルを倒す手段は何かあるのか?」


 エレオノーラの質問に、何故かサアヤが悲壮な顔をして俯く。彼女なりに、ヨハンのギフトが失われたことを心配してくれているのだろう。


「あります。先程ウァラゼルと交戦して、確証を得ました」

「交戦!? 無茶をする! 身体は何ともないのか?」

「ですから、サアヤのおかげで問題ありません」

「そ、そうか。……サアヤ、そなたには何度も助けられたな。本当に、幾ら感謝してもしきれん」


「いえ、そんな……」

 エレオノーラに深々と頭を下げられて、サアヤは少しばかり気まずそうに顔を背ける。


「しかし、うむ。そうだな、うん。ヨハン殿、今後のことの話しあいと、ウァラゼルと戦った件をしっかり聞かねばならぬ。どうだ、これから妾と会議を」


 ヨハンの手を引っ張り連れていこうとすると、反対側からそれに反発するように、重りが加わる。


「駄目です。ヨハンさんは今非常にお疲れですから、身体を休めることが先決です」

「なんだと? ふむ、それは確かに問題だな。ならば会議は取りやめにして、一先ずは二人でのんびりとお茶でもいただこうではないか。知っているか? エトランゼが入れてくれるあの甘い、牛乳を混ぜた紅茶は非常に美味で、疲れなど一気に吹き飛ぶだろう。なぁに、話などはそれを飲みながらすればいい」

「ですから! エレオノーラ様と一緒では気が休まらないのではと言っているんです! 仮にもお姫様なんですから!」

「か、仮とは何だ仮とは! ……いや、今は兄上と敵対しているから間違ってはいないが……。とにかく、ヨハン殿は妾と一緒に行くのだ」


 ぐいと、エレオノーラが自分の方にヨハンの腕を引っ張る。

 それに対抗するように、サアヤも余った方の腕を自分の方へと引いた。


「いいえ。ヨハンさん疲れていますし、これからも激務が待っているのですから、今だけはゆっくりと身体を休めなければなりません! その間のお世話はわたしがさせていただきます!」

「そなたの言うことは判るが、事は一刻を争うのだ。妾達だけでも今後の方針を立てることにはちゃんとした意味があるだろう!」

「それで肝心なときに倒れてしまっては本末転倒です!」

「ほん……? エトランゼの言葉で妾を惑わすでない!」

「そっちこそ、権力とか仕事を使ってヨハンさんを独占するのをやめてください!」


 ぐいぐいと腕を引っ張りあう二人。エレオノーラに至っては胸に抱え込むような有り様で、柔らかいものが当たっていることもお構いなしだった。

 果たしてこの状況を治めるにはどうしたらいいものか。それ以前にヨハンはヨハンで別にやることがあるのだが、今言いだしたところで火に油というか、言葉一つで解決する事態とは思えない。

 いよいよもって第三者の助けが必要というところで現れたのは、金髪で長身の自称旧友だった。


「おう、戻ってたか、ヨハン!」

 片手を上げて軽く挨拶してから、ヴェスターは二人を見て眉を顰める。

「人を働かせて遊んでんじゃねえよ」

「……そんなつもりはなかったんだが」

「そうです! ヨハンさんはいつもわたし達の為に……」「そうだ。そなたのような荒くれ者には判らぬだろうが、ヨハン殿はいつでも妾のために……」

「誰だってそうだろうが。だったらあっちで荷物運びしてる兵隊は、お前とか、他の奴等のために働いてねえってのか?」

「う、」「そ、それは……」

「避難してきた連中も手伝って、あのウァラゼルを押し留めるために必死だってのに、なんで頭の方にいる奴等が働かねえんだよ」


 意外な人物から飛び出した、ぐうの音も出ないほどの正論に言い負かされて、二人は言葉を失うばかりかずっと掴んでいたヨハンの手も手放してしまった。


「おう。そんで、お前のチビ弟子と遊んでやってたんだけどよあの、あれだ……あれ。セレスティアルって奴の攻略方法が掴めそうだぞ」

「本当か? それは助かる。一応、当たりはつけてはあったが」

「俺が判ったことは、百回ぐらいぶっ叩けば罅が入るってことだな。ただ、嬢ちゃんが意識して防御に回そうとしたり、光自体を分厚くするとその限りじゃねえ」

「やはりか。そうなると物理攻撃による突破は現実的ではないか……」

「ただよ、至近距離でぶっ叩けば衝撃はちょっとだが伝わるっぽいぜ。頭がんがん殴ったら痛がってやがった」

「……絵面は虐待だな」

「仕方ねえだろ。だいたい、あんなのの相手させられる方の身にもなってみろよ。ギフトもくそもあったもんじゃねえ、自分自身を全否定された気分だっての」


 他にも聞きたいことがあったので、カナタの元に向かいながら続きを話すことにして、ヨハンとヴェスターは連れだって歩き出していった。

 本当はハーマンが残していった物資から、ウァラゼルとの戦いに使うための魔法道具を作成するつもりだったのだが、それは後回しでもいいだろう。

 何にせよ、モーリッツの部下がヨハンの家から目的の物を持って来てからが本番になる。それからはウァラゼルが再び動きだすまでの間、寝る間もないだろう。

 去っていった二人を見送ってから、エレオノーラとサアヤは顔を見合わせて、お互いに溜息を吐くのだった。
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