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第二章 魔法使いの追憶

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 急遽ヘルフリートが貴族達を招集し開かれた貴族招集は、今回に関していえばそれ自体に意味のあるものではなかった。

 その目的はエレオノーラを壇上で言い負かし、彼女を屈服させるかもしくはイシュトナル自治区に軍を侵攻させることを貴族達に認めさせることだった。

 彼女が招集に応じなければそれを罪とする。例えこの場に現れたとしても、ヘルフリートの威容に恐れたエレオノーラはまともに身の潔白を証明することも叶わないだろう。

 少なくとも、ヘルフリートが知るエレオノーラとはそういう女だった。

 エトランゼとの混血という理由で宮廷では常におどおど過ごし、かと思えば外に出てエトランゼを救おうなどと声を張り上げる。

 目上には逆らえぬ臆病者。そういう評価を下していた。

 つい二日前、この白鷺の宮で彼女が凛とした受け答えを放つまでは。

 そして昨日を経て今日もまた、事態はヘルフリートにとって悪しき方へと転がっていっていた。


「兄上、妾の言葉が聞こえておいでか?」

「ああ、聞こえているとも!」


 大声で返されてエレオノーラだけでなく、周囲の貴族達も同じように身を竦ませたが、彼女だけは何故かすぐに平静を取り戻した。


「それでは決定していただきたい。フィノイ河の先にある土地の幾つかを分譲するに当たり、妾はアルニム卿を推薦したいのだが」

「黙っていろエレオノーラ! それに関しては後程こちらから任命した者を派遣する!」


 その声に、その場が若干の期待に満ちる。

 南側の領地がオルタリアの地であるからには即刻返すべきと主張するヘルフリートに対して、エレオノーラは返すのは問題ないが、それでまた管理の行き届かない状態になっては困ると反論した。

 その落としどころとして父の代で不当に領地を没収された貴族の誰かに任せてはどうかという意見が彼女から上がり、それによって事態はヘルフリートに取って不利になっていく。

 まず第一に、貴族達はそれでエレオノーラに野心はなしと判断してしまうものが多かった。加えてエトランゼ保護に関しても、元々放置されて管理しきれていなかった南側の領地を経営し、更なる国力の増強に繋がるのならばその程度の勝手は黙認してもいいだろうという流れになっていった。

 そもそもにして彼等とて、突然のヘルフリートの政策に混乱しているのだ。むしろここでエレオノーラに媚びを売っておいた方が、後々エトランゼの技術を流入させやすくなるかも知れないという下心も芽生えていた。

 無理に戦争を仕掛けるよりは、なあなあで終わらせてしまって双方の利益を得たい。その場の大半がそう思い始めていた。

 一度深呼吸して、ヘルフリートは改めて頭の中を整える。

 そして、最早愚劣とも呼べるその手段を切ることを決意した。


「いいだろう。フィノイ河の先にある領地を、こちらで派遣した貴族が治めることを認める。だが、イシュトナル自治区の管理に関しては俺はまだ認めはせぬぞ!」

「な、兄上……!」


 ざわめきが広がっていく。

 そう、ここはヘルフリートの国だ。兄を排し関心もない面倒な教義を飲み、ようやく手に入れたものだ。

 例え貴族達が納得しようとしまいと、そんなことは関係ない。ただ一人、王であるヘルフリートが否と言えばそれは認められることはない。


「で、ですがヘルフリート殿下……」

「そろそろこの辺りはお話しを纏めておいた方がいいのでは?」

「そうでしょう。今日までの話し合いで、エレオノーラ様にも国を害する意思がないことはよくお判りでしょう?」

「ええい、黙れ黙れ! 貴様等のように椅子に座って勘定ばかりが達者になった愚か者に、俺の心が判るものか!」


 振り上げた両腕を、目の前のテーブルに叩きつけて、貴族達を黙らせる。

 その行動に対して五大貴族を除く誰もが息を呑み、事の成り行き、ヘルフリートの次の言葉を待つことになった。


「エイスナハルの教義だ。この国に最も広がる教えにより、エトランゼは人でないことが定められている。然るに! 貴様とて半非人だ、エレオノーラ!」

「なっ、その言い分は……!」


 彼女の最大の欠点。

 それはその身体に流れる、異界の血。

 例えギフトを持たずとも、王族の血を持っていたとしても、それは覆すことのできない枷となる。


「人で無きものに栄光あるオルタリアの地は任せてはおけぬ! むしろ侵略者と同意! 俺はオルタリアの国王として、貴様達を征伐する義務があるのだー!」


 身を乗り出し、全身全霊を込めてその言葉を放つ。

 静まり返った場内でそのあらん限りの悪意を受けて、正気で居られるはずがない。

 事実、エレオノーラの身体は小さく震えている。

 だが、泣きだしたところでどうなる場でもない。ここは水面下の野心が渦巻く一つの戦場なのだ。

 戦で泣いて許してもらえる者がいないのと同様に、ここで泣き落としなどは通用しない。

 勝った。

 勝利の恍惚を今まさに得ようとするヘルフリートだが、最後に静寂に包まれたその場を見渡し、ある一点が目に留まる。

 エレオノーラの横に立つ一人の男。

 今日は一切の発言をしていない、そのエトランゼの男の表情は何一つ変わっていなかった。

 来たときと同じ表情で、こちらを見上げている。

 最後の足掻きか、それとも主を罵倒されたことに対する反抗か。

 理由は判らないが、それがどうしようもなく不快だった。


「発言を許す。小賢しいエトランゼ、俺に言いたいことがあれば言ってみろ」

「言いたいことはありますが、今は黙っておきましょう」

「ほう? 許すと言っているのだぞ? 別にもう俺を言い負かす必要もない。既にお前の主は何かを喋る気力もないようだからな。罵倒したければするがよい」

「……厳密には、言う必要がない。といったところでしょう」

「なんだと?」


 ヘルフリートの疑問には、すぐに答えが出ない。

 先程まで俯いていたエレオノーラは、顔を上げてヘルフリートを睨みつけている。全身を打ち付けた悪意に負けぬように、その身を奮わせて。


「兄上は、この国を神の国にでもするつもりでしょうか?」

「人の上に座すのが神だ。その教えを護ることに何の問題がある?」


 その教えをくれた連中は、代わりにヘルフリートを王座へと押し上げた。

 その代わりに彼等の教義を徹底する。エトランゼを排除する。

 その共犯関係こそが、今のヘルフリートを形作る。やがて壊れるものだとしても。


「それは何も救わないではありませんか。迫害されたエトランゼは心に傷を負い、それはやがてオルタリアの国民に還る。妾は傷つき、疲れ果てた先に、オルタリアを滅ぼしその上にエトランゼの国を創ろうとした男を見ました」

「ならば根絶すればいい」

「できるはずがないでしょう。彼等はやってくるのです、何処からかこの地に、寄るべきものもなく、たった一人で!」


 エトランゼの国。

 その響きが、収まりかけた貴族達を更に揺さぶる。

 誰もが想像しながら口にしなかった最悪の未来。相互理解を拒み、迫害を続けた先にある破滅。


「いい加減に目を覚ましてください、兄上! 貴方が背負っているのはオルタリアという国なのです、決して個人の感情で好き勝手していいものではありません! 妾が憎いのならばその理由を仰ってください、そしてお互いに衝突せぬようにしていこうではありませんか!」

「貴様……!」


 言えるはずがない。

 そんなことを口にできるはずがないのだ。ヘルフリートという男のプライドに掛けて。

 無理矢理に王位を奪い取ったその男が恐れるもの。

 それは簒奪。それも力や権力ではない、純粋さによって冒され奪われてしまう王の座であろうなど。


「いい加減にせよ、エレオノーラ! もうよい、この愚妹を捕らえてしまえ! そのつまらぬ夢から醒めさせてやる!」

「それはやめた方がいいでしょう、ヘルフリート殿下」


 それを制した声は、先程の男。

 ヨハンを、かつてこの国に使えた大魔導師と同じ名を名乗る、エトランゼ。


「横暴が過ぎたようです。もうこの場で誰も、貴方の言葉に従うことはないでしょう。もしそれをすれば、次に理不尽な言葉を受けて排されるのは自分となる」

「き、さま……! エトランゼ如きが生意気な口を叩くな!」

「エトランゼですが、エレオノーラ様の家臣です。その危機となれば動くのは道理。もし兵を呼ぶのであれば、俺は全力でこの場を切り抜けるために力を振るいましょう」

「ま、待て!」


 悲鳴のような声が上がったのは、横の席からだった。

 モーリッツが慌てて立ち上がり、ヨハンの言葉を制するように右手を前に差し出したまま固まっている。


「ヘルフリート殿下! お言葉ですが、いい加減にこの者達に非はないとお認めください! 別にこれまでずっと放置されていた南方の統治権如き、くれてやればいいではないですか!」


 必死になってヘルフリートを説得に掛かるモーリッツに、その場の雰囲気もこのまま会議を終わらせようとする流れへと変わっていく。


「……ヨハン殿」


 ほっとしたように、エレオノーラがヨハンのローブを袖を握る。

 それを見たヘルフリートは全てを察した。

 あの惰弱な妹が、この場で分不相応にも自分に対して強く言葉を発した理由。

 一喝すれば混乱してしまうであろう予想を超えて、渡り合ってきた原因。


「貴様か……。貴様か! 貴様がエレオノーラに余計な入れ知恵を、くだらぬ思想を植え付けたというのか!」


 唾を飛ばし叫ぶヘルフリートの横で、「ほう」と声がする。

 誰に聞かれることもなく、そのエーリヒの呟きは掻き消えた。


「入れ知恵、はその通りですが……。エレオノーラ様は元よりその志を持っていた。自分はそれを認めたからこそ、その下にいるに過ぎません。師である先代のヨハンからも、そう教えを受けました」


 それが決定打となった。

 国に使えた大魔導師。その弟子が協力しているとあっては、エレオノーラにある大義とてヘルフリートの持つ王権に決して劣るものではない。

 例え事実が違おうと、そう思う者の数は決して少なくはない。



「貴様の顔、覚えたぞ! この俺を愚弄して楽に死ねると思うなよ、エトランゼ!」

 最早この場で相応しくない、単なる憎しみだけをぶちまけるヘルフリート。

 そんな彼の怒りに誰もが口を噤み、しばらくの時間が流れる。

 いい加減エーリヒが閉廷を宣言しようとしたその瞬間、まるで見計らったかのように外から何者かが飛び込んでくる。


「何事だ? 今は何人たりとも白鷺の宮への立ち入りは禁じているはずだぞ」


 エーリヒに厳かに注意されながらも、その軍服を着たオルタリアの兵士は跪き、自らの使命を果たすべく言葉を口にする。


「非常事態です! このオル・フェーズ、第八、第九住居区画にて正体不明の魔物が複数、暴れております! 詳細は未だ不明ですが一小隊で止められる規模ではないと……」


 泡を食ったような声に反して、それに対する反応は様々だった。

 自らの身の危険に怯えるもの、噂の御使いが現れたのではないかと警戒するもの。

 すぐに兵を派遣するためにその場を去ろうとする者もいたが、ヘルフリートの冷たい声がその行動を押し留める。


「放っておけ。あの場所は税を払えぬトランゼ共が集まり、貧民街となっている場所だ。被害が外に広がれば、警備隊や駐留軍がどうとでも処理するだろう」

「兄上!」

「エレオノーラ。今は貴様の処遇の方が優先事項だ。くだらぬエトランゼ共が幾ら死のうが、オルタリアには関係ない。それに連中はギフトを持っているのだろう? それで勝手にどうとでもするだろうよ」

「……ヨハン殿! 妾達だけでも救援に行くぞ!」


 ヘルフリートに向ける怒りを揉み消し、エレオノーラはヨハンの手を握って無理矢理に白鷺の宮から退出していく。

 彼女の姿がそこから消え、残された者達の間には今後どうすればいいのかを、お互いに問いかけるような空気が流れた。

 その中で一人、ヘルフリートだけが先程とは違う笑みを浮かべている。

 しかし、王都の襲撃とさっきまでのやり取りによる混乱が冷めやらぬこの場内で、それに気が付く者は余りにも少なかった。
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