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第三章 名無しのエトランゼ

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 夜が明け、ディオウルは完全に包囲されており、逃げる隙間はほぼないと言っていい。

 ヨハン率いるイシュトナルの兵達は街の中心部である講堂の周囲に、徹底抗戦の構えを見せていた。

 そこに、兵達の間にざわめきが起こる。

 敵の侵攻が始まったのかと身構えるが、どうやらそうではなさそうだった。


「ヨ、ヨハン様」


 慌てた様子で伝令が、講堂に駆け込んできた。


「敵の将が……。ルー・シンを名乗る男がヨハン様と会談を申し入れております」

「ルー・シンが?」


 後は号令一つでこちらをすり潰せばいいだけのこと。夜中の、余りにも迅速すぎる行軍のおかげで相手側の勝利はほぼ確定している。

 それなのにそんな提案をすること自体が奇妙だった。

 だが、上手く行けば無駄な流血を避けられるかも知れない。そう考えたヨハンはそれを承諾する。

 伝令が戻って数分後、ルー・シンはやってきた。

 驚くべきことに護衛にコテツ一人を伴っただけの状況で、敵陣を悠々と歩いてきている。

 ヨハンは講堂から出て、兵達が遠巻きに見守るなか、中央広場にて二人は対峙する。


「コテツ殿。案内ご苦労」

「これ以上の護衛はよろしいかな?」

「結構。ヨハン殿はそれほどの卑劣漢ではないと、手前は考えているのでな」


 コテツはそれ以上は何も言わずに数歩下がったところで二人を見守る。どうやら、ルー・シンの性格はよく判っているようだ。

 テーブルも椅子もない、広場の真ん中で二人は向かい合ったまましばらく無言で睨み合う。

 こちらの顔色でも観察していたのか、何かを察したかのように小さく頷いてから、ルー・シンは口火を切った。


「まずは、卿の手腕を認めよう。こちらの間隙を突いての進撃。戦争を変えうる二つの新兵器。どちらを取っても見事なものだった。
 だからこそ一つ、提案がある。ヨハン殿。エーリヒ・ヴィルヘルム・ホーガンに仕える気はないか? 卿ほどの知恵者が味方にいてくれれば、今後についても何かと捗るのだが」


 ヨハンが返答しようとしたところで、更にルー・シンは畳みかけた。


「個人的な条件はおいおいと相談するとして一先ずは……。ふむ、卿が今一番望んでいるものと言えば……差し当たってはここにいる兵全員の命と言ったところか?」


 それはとんでもない提案だった。

 ヨハン一人の身柄と引き換えに、ここにいる兵達全てを助けるというのだ。

 凄まじいものを天秤に乗せて、ルー・シンはヨハンに突きつけた。


「そちらの軍門には降れん。俺はエレオノーラ様に仕えると決めた身だ」

「ほう。そうか、それは残念だ」


 さして残念そうでもなく、ルー・シンは言った。

 まるで最初からヨハンがこう答えるであろうと判っていたかのように。

 いや、正確にはそうであれと願っていたのだろう。ここで兵達を救った名誉と引き換えに主を鞍替えするような男ならば、それはルー・シンに取って必要な人物ではない。

 彼は兵を助けるつもりこそあれ、ヨハンを助ける気などさらさらなかったのだ。


「見物だな。手前が見たところ、やはり例の銃兵と砲部隊は前の街に置いてきたようだ。こちらの捕虜達もそちらか?」


 その問いに対して無言を貫くヨハンだったが、それがルー・シンにとっては何よりも雄弁な答えとなった。

 捕虜の護送と、万が一に備えて二つの兵種はクルト・バーナーと共に一つ前に制圧した街へと移動させている。そちらの防備こそを万全にしたかったのと、魔導銃も砲台も、連続での使用に耐えうるほどの耐久性が確保できていなかったことが理由ではあるが。


「では本題に入ろう。これは卿のことを知ってから長らく疑問に思ってたことでは、時によって夜も眠れぬほどに悩んだものだ。まったく、罪作りな男だな」

「本題?」


 今の交渉が本題でなければ、これ以上何があるというのだろうか。


「手前がここに来たのは卿に質問をするためだ。……ヨハン殿、いや。名無しのエトランゼよ」


 ルー・シンの目はヨハンの顔を真っ直ぐに睨んでいる。

 そこから先の言葉に偽りがあるのならば、それを即座に見破らんと。


「卿は何のために戦っている?」

「……なん、の?」

「ただエトランゼを救うために邁進するわけではなく、かと言って私利私欲のためでもない。かと思えば自らの主を王座に据えるわけでもなく」


 ルー・シンの一言一言が、打ち水のようにヨハンの心を冷やしていく。

 それは決して、誰にも聞かれなかった言葉。何よりも、ヨハンにとっては致命的な質問となりうる。


「……俺は、エレオノーラ様に仕えている。その主の理想を叶えるために戦っている」

「それはつまらぬよ、ヨハン殿。それではエレオノーラの言葉を、卿の口から語っているだけに過ぎぬ。中身のない、何とも味気ないものだ。
 答えを言ってやろうか、名無しのエトランゼ。卿はかつて最強と呼ばれていた、そしてその力故に選択することを拒否した。まるで神が人を見守り、傲慢にも時に裁きを与えるが如くな」


 答えに詰まるヨハンに、ルー・シンは言葉を続けていく。


「そして卿は力を失った。その辺りの詳細は知らぬが……。それは自分の中の絶対が崩れるということ。ここ数年間は、なに、何のことはない。ギフトを失った自分が外の世界に出ることを怯えていたのだろう?」

「だからどうした? それがお前に、今この場で何の関係がある!」


 それでも、例え声を荒げて見せたとしても。

 ルー・シンの言葉を完全には否定できない自分がそこにいた。


「そこに偶然訪れたのだ。エレオノーラという女は。耳ざわりの良い、力を貸してもいいと思える理想に流されて、悪戯に力を消耗している。
 だが、卿のその傲慢とも呼べる見苦しさは変わらぬ。神の如く、ただ目の前にある者を救おうとする浅ましさはな」


 深く、ルー・シンが息を吐いた。

「最強のエトランゼ。その力は地に落ちてなお、手前に輝きを見せてくれるかと期待したのだが……。どうやら買い被り過ぎたようだ。ヨハン殿、そのまま借り物の言葉を語りながら、死ぬがよい」


 ルー・シンは踵を返す。

 そこに掛ける言葉を、反論をヨハンは何も持っていない。

 ぽつりと、曇天の空から雨の粒が落ちた。

 ルー・シンの姿が完全にそこから消えるころには雨は本降りとなり、世界の灰色に染め上げていく。

 そしてその雨の中、鬨の声が上がり、地鳴りのような音が轟く。

 ――戦いの始まりの合図が鳴り響いた。
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