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第四章 空と大地の交差

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 別に何処かを目指して走ったわけではない。

 ただヨハンの言葉が信じられなくて、そこから先を聞くのが怖くてその場から逃げただけだ。

 でも、少しばかり冷静になって考えて見れば何を恐れていたのか、それを自分で理解することもできない。

 何となくこういう気分の時は海を見るものだと、そう思った。

 だから今カナタは一人誰もいない海岸で寄せては返す波と、その向こうにある水平線を眺めている。

 カナタの視界の更に先ではあの御使いが呼び出した魚達が暴れて漁師も海に出れないような状況になっていると聞いたが、目の前に広がっている光景は平和そのものだ。

 眼前に広がる海の群青。

 その何処かに、彼女は眠っているのだろうか。


「随分と似合わないことをしているのね」


 少し上から声がする。

 カナタは顔を向けずとも、その主が誰だかすぐに理解した。


「あのさ。ボクには一人で物思いに耽る時間も貰えないわけ?」

「ええ。駄目よ」


 箒の上から、華奢な足が伸びて砂浜に着地する。

 海風に金色の髪を揺らして、いつも通りの無表情に近い顔をしたアーデルハイトはカナタの横に並んだ。


「折角見つけたんだもの。そのまま何処かに行かれては困るわ」

「……何処もいかないし」

「貴方の意思だけじゃないの。どうにもわたしが思っていた以上に貴方はポンコツみたいだし、放っておいたらまたドジを踏んで何処かに流されるに違いないわ。だいたい、アルゴータ渓谷のダンジョンから地底河川を通って海に流れ着くって、どんな奇跡的な確率なのよ」

「知らないよそんなの。ボクに言われても。……アーデルハイト、いたんだ?」

「ええ。船の上で会ったでしょう?」

「戦ってるときいなかったから」

「現地改修した魔操船の動力になる魔力は何処から調達したと思う?」

「あー、つまりアーデルハイトの魔法で動いてたってこと?」

「簡単に言うとね。おかげでエンジン室でずっと倒れてる羽目になったの」


 それを思い出したのか、若干苛立ったような口調でそう言った。


「――で、何を拗ねてるの?」


 その声音は、カナタが思っていたよりもずっと優しい。

 それがきっと、彼女がこの数ヶ月で得たものだ。カナタと出会ってヨハンと共にイシュトナルに来て、アーデルハイトが変わったこと。

 それを知るのが何故か辛い。胸に棘が刺さったような痛みが走る。


「アーデルハイトはいいよね」

「……何が?」

「理由がなくてもヨハンさんと一緒にいられてさ。わざわざ向こうから迎えに来てもらって」


 駄目だ。

 それはカナタの言葉じゃない。この世界に来てからずっと、カナタが口にしてきたものではない。

 醜くて、情けなくて、格好悪い。そんな類のものだ。

 決して口にしてはいけない。

 何故なら。


「魔法の知識もあるし、空も飛べるし。ボクよりもずっと役に立てる」


 アーデルハイトは無言のままその先を促す。

 厳密には呆れて何も言えていないだけなのかも知れないが、それでも構わないとカナタは自分の中にある泥のような感情を、容赦なく吐き出していく。


「ボクの取り柄なんて、ギフトだけだもん。運がよかったから、たまたま強いギフトを貰ったから、ヨハンさんは一緒にいてくれてた。でも」


 自嘲するようにカナタは続ける。


「やっぱり、要らないみたい」

「それを彼が言ったの?」

「今回の件、数に入ってないって言われちゃった。無理もないよね、結局シノ君を助けれなくて、ダンジョンで失敗して迷惑かけて、挙句の果てに海賊に捕まって……」


 伏せれられたカナタの表情は、アーデルハイトからは読み取ることができない。

 そのまま壊れた蛇口のように流れ出る感情を抑えることなく、カナタは垂れ流し続けた。


「他の人よりボクは運がいいんだから、その分を返さなきゃって、ボクの力で護れる人を護り続けないと駄目だって思ってたけど、それもできないし。こんなんじゃ確かに、ヨハンさんもボクのことなんか要らないよね」

「…………」


 カナタの表情が見えないように、カナタからアーデルハイトの顔も見えなかった。

 もし彼女が一度でも顔を上げていたのなら、その情けない独白を途中でやめていただろう。

 傍から見れば誰も気付かない。しかしアーデルハイトとある態度親しい人ならば誰でも気が付く。

 小さな魔法使いは、無表情に見えつつも確かにその顔を怒りに染めていたのだから。


「なにを」

「むぎゅ!」


 両手が頬に伸びて掴む。

 それは容赦なく、両側に向かい引っ張られた。


「ひたいひたいひたい!」

「な、に、を、甘えてるのよ」

「らって……!」

「だってじゃない! 確かに貴方は恵まれてるかもね。特別な、強力なギフトを持っているかも知れない。でもそれが人のために使わなければいけないことにどうして繋がるのよ」


 カナタは何か反論しているが、頬に掛けられる力は強くなるばかりで、最早言葉は意味をなしていない。と言うか、もうアーデルハイトも聞いていない。


「だいたい、何がギフトよ。わたしはこう見えても大魔導師の孫で天才よ。貴方と一緒で、他の人よりも優れた力を持っている。でもね、一度も、一度たりともそれを他人のために使ってやろうなんて思ったことはないわ。自分のために研究して、自分のために力を磨いて、自分のためだけに使うの」


 もう自分でも力の制御ができていないのか、万力のように締め上げられてそろそろカナタは本気で涙目だった。


「そう。そうよ、わたしはわたしがあの人と同じ景色が見たくて魔法を学んだの。それが何よ、あの女は横から出てきて掻っ攫って行って……。今思い出してもイライラする。しかもカナタに少し似てたのが余計に」


 それが誰のことを指すのか判らないが、いい加減離してもらわないと本気で頬肉が取れそうなぐらいに痛くなってきた。


「本当に似てるわ。嫌になるぐらいに。わたしがあの人の隣にいるのにどれだけ苦労している知ってるの? しかもここ最近だと色ボケ姫だとかお茶くみ女だとかを牽制するのも一苦労なのに、貴方と来たら!」

「は、はい!」


 両手が離れてようやく解放された頬をさすっていると、最早カナタには恐らく関係ないであろうことで怒られたが、口答えする気も起きなかった。


「……似ているから、きっと心配されるのよね」

「何の話?」

「こっちの話よ」


 ぷいとバツが悪そうに横を向くアーデルハイト。幸いと言うか、少しばかり失言が過ぎたことにカナタは気付かない。


「とにかく。カナタは少し自分が恵まれているってことを理解した方がいいわ」

「それは判ってるよ」


 アーデルハイトは首を横に振る。


「判ってない。生まれついてのお金持ちはそれを配るのが仕事? そんな義務があるわけないでしょう? 貴方の力を、自分のために使って何が悪いのよ」

「……でも、じゃあボクは……」

「駄目ね」


 何かを諦めたように、アーデルハイトは自分の頭に手をやって、髪の毛を掴んだ。


「本当はわたしが説得してちゃんと言い聞かせてあげようと思ったけど。……大概、口下手なのはお互い様みたい」


 もう片方の手で指さした先には色違いのローブを来た男性が、息を切らせて立っていた。


「ヨハンさん……」

「後は任せるわ。……カナタ、別に理解しろとは言わないけど」

「元気付けてくれたんだよね。ありがと」

「……っ」


 アーデルハイトは降ろしていたフードを慌てて被ると、ヨハンの元に小走りで駆け寄る。

 そして何も言わずただその脛を蹴っ飛ばしてから、箒に座って飛び去っていってしまった。

 蹴られた当の本人は頭に疑問符を浮かべながら、カナタを怯えさせないようにゆっくりと近付いてくる。


「……なんで俺は蹴られたんだ?」

「……知らない」


 本当は知っている。

 アーデルハイトはきっと悔しかっただろう。

 自分の方が付き合いが古いのに、きっと彼女はヨハンの役に立とうと必死で頑張っているのに。

 こうして迷惑をかけ続けるカナタを、追いかけて来てくれるのだから。


「下手だよね、アーデルハイトは」

「何の話だ?」


 それでも彼女は優しかった。


「言いたいことがある」


 背筋が伸びる。

 その可能性を、何度も何度もカナタの心を締め付け続けた言葉が放たれるのではないかと言う恐怖が、無意識に身体を強張らせた。

 逃げたい。この場から走って、また遠くに行ってしまいたい。

 結論さえ出なければ、ずっと悩んでいられるのだから。

 それはきっとお互いにとって不幸なことだと、もう判っていた。


「……どう言えば伝わるのかはよく判らんが、お前にとって悪いことではないと思う。多分」


 一歩前に歩み出る。

 ヨハンのバツが悪そうな顔を正面から見て、話を聞く準備を整える。

 風と波の音が心地よく、二人の間に流れる沈黙を取り持ってくれる。


「あー、あれだ。……なんと言えばいいのかも迷っているが。つまりだな」


 その様子がじれったくて思わず海の方に視線を移すと、その波間に今はもういない人の姿が見えた。

 きっとそれはカナタと思い込みで、彼女はもう海の底で眠っている。

 でも、彼女の言葉は残っている。彼女の生き方は、カナタに伝わっている。

 悪党、にはなれそうにないが。

 更に一歩踏み込んで、カナタはヨハンのすぐ傍に立つ。

 そして身体をゆっくりと傾けて、その胸の辺りに額を当てて、体重を預けた。

 カナタの熱を受けて、ヨハンも何を言うべきか理解した。


「あまり心配させるな」


 ヨハンはカナタの背に手を回して、優しく自分の身体にその顔を押し付けてから、ゆっくりと諭すように言い始めた。


「心配してくれたんだ」

「当たり前だろう。今までもずっとな。お前が馬鹿なことをする度に、気を揉んでいた」

「言ってくれればよかったのに」

「自由にさせてやりたかったんだ。それに、最終的には俺を頼ってくれればそれでいいと思ってた」

「嫌じゃないの? ボク、ヨハンさんの役に立ってないよ?」


 それは自立心の芽生えでもある。

 力を手に入れて、それが他の人にはない強いものだと自覚する。

 だからもう甘えるわけにはいかないと、人よりも優れたものを持っているのだから、自分の力を誰かのために使わなければならないと。

 カナタはそう自分に言い聞かせていた。


「そんなの関係あるか。俺の方こそ、お前に置いて行かれるんじゃないかと、怖かった」

「ボクがヨハンさんを……? なんでさ?」

「小さな英雄になったから。人々に期待されて、それを背負って生きる。お前がその道を歩むのに、力を失った俺は付いていけないと、そう考えていた。だが」


 ヨハンの手に力が籠る。

 その体温が、聞こえてくる心臓の音が心を安らげてくれる。

 こんなに簡単に、ずっと淀んでいたものが溶けて流れていくなど、カナタ自身にも想像できていなかった。


「英雄なんかにはなるな」


 その一言は、カナタの心に強く響く。

 重く、しかし決して嫌ではなく。

 染み込むように心に染み渡って、そこにこびりついていた汚れを洗い流してくれる言葉。

 誰もがカナタをそう呼んだ。期待して、一緒に戦おうと誘ってくれた。

 でも、そこにカナタはいない。

 居たのは小さな英雄と呼ばれた誰かだ。


「小さな英雄じゃなくていい。お前は、カナタでいい」


 どうして、ベアトリスの傍が心地よいと感じたのか。

 彼女もまた、カナタを英雄として扱わなかった。単なる小娘として接してくれたことが、嬉しかった。

 胸に溜まった熱いものが、涙となって目から溢れだしてくる。


「カナタとして、心のままに行動すればいい」

「それってつまり」


 カナタは涙を誤魔化すように、ヨハンの胸元にぐりぐりと顔を押し付ける。

 くぐもった涙声は、ちゃんとヨハンの耳に届いているだろうか? 心配するまでもなく、頭の上では彼の頷く気配がする。


「ボクは無理して御使いと戦わなくていいってこと?」

「そうだ。それは俺の、俺達の仕事だ。お前が英雄としてではなくて、誰かのために戦わなくてはならない義務でもなくて、それでも戦うのなら、一緒に来い」

「……ヨハンさん、勝てるの?」

「さあな。やってみなければ判らん」

「ウァラゼルの時のこと、忘れてないよ。みんなを逃がすために無理して、ぼろぼろになって帰って来てさ」

「……あの時のようなへまはしない」

「本当に?」


 実のところ先日もヨハンはやらかしているので自信満々とは言えないが、どうにか頷き返して見せた。


「信用できないなぁ」


 そんなことを言うカナタの声色にもう悲壮さはなく、むしろ何処かこの会話を楽しんでいるようですらあった。


「うん。仕方ないね、ボクも協力してあげる。他ならないヨハンさんのためだもん」

「……別に頼んではいない」

「うん。だからボクが勝手に、自分の意思で、やりたいから協力するんだよ、悪い?」

「いや、まったく。……助かる」
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