あの日、少女と汽車の着くところ

東條零

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08 月枝の乱

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 三月に入って、日中の気温が氷点下に下がらない日がでてきた。

 そんな日はぽかぽかと暖かく、毛糸のセーターを着ていると汗ばむくらいだ。

 春の気配を感じると、誰もがウキウキする。



 そんな暖かな日曜日、事件は起こった。



 月枝は朝から日向子の見舞いに来て、いつものように明奈と遊んでいた。

 左手の包帯がもうすぐとれるというので、明奈は喜んでいた。

 月枝も、まるで自分のことのように嬉しかった。

 家から持ってきたお弁当を明奈の病室で食べようと、日向子のところへ取りに行ったときのことだった。



 廊下に置かれた配膳ワゴンの陰で、太った中年女が二人で立ち話をしていた。

 通りかかった月枝を顎で指して意味ありげに声を潜める。



「ほらほら、あの子。仲良しなのよ。包帯を取ったら、どんな化け物みたいな顔になってるか知らないから、つきあえるのよ」

「手だって……。指が六本あったって聞いてるわよ。だからちょん切る手術をしたんですって」



「あらぁ~……。怖いわねぇ。目も夜になると猫みたいに光るんですってよ」

「あれは獣憑きよ。病院なんかより、お払いしてもらったほうがいいんじゃないかしら。うちの子に伝染りでもしたら大変だわ」



 月枝は、配膳ワゴンの反対側で、呆然と立ちすくんだ。

 おばさんたちの会話はすっかり耳に入っている。

 聞こえては困る話をする人ほど声が大きい。

 いや、聞こえるように言っているのかもしれない。

 口を手で覆って耳打ちする動作もわざとらしい。



 女がいちばん醜く見える瞬間だ。



 月枝には、当然、誰のことを話しているのかすぐにわかった。

 首筋がザワッと粟だって、心臓がどきどきいう音が耳元で大きく反響した。



「それにねぇ、あの子、もう駄目みたいよ。次々といろんな病気を発症していくんですって。もともと長くないって宣告されてたっていうし……」

「あらぁ、そうなの……。まあ、あやしげな病気じゃしょうがないわねぇ」



 その瞬間、月枝の頭の中で、なにかがプチッと切れたような気がした。

 大事に持っていたお弁当箱を放り投げると、両手を配膳ワゴンにかけ、渾身の力を込めて押しつけた。



 向こう側でうわさ話をしている女たちを押し潰してやろうと思った。

 ワゴンは、廊下に留めてあるときはキャスターが動かないようにロックがかかっている。

 だが、このときは天が月枝に味方したのか、少女の押す力でするするとワゴンが動き出した。



 壁とワゴンの間に挟まれて煎餅になる寸前、太った中年女たちは命からがら廊下に転がった。

 自分が先に助かろうと相手を押しのけ合う醜い争いの果てに、より大きいほうの女が先に転がり出てきた。



 月枝は、廊下にへたり込んだ中年女に、迷うことなく掴みかかっていった。

 座り込んでいるのを幸いに、顔面を思いっきりひっかく。

 爪の間に肉片がめり込む感触があった。



 飛びかかった月枝はあっけなく払いのけられ、床にしたたかに背中を打ち付けた。

 息が詰まって死ぬほど苦しかったけど、そのまま息をせずにもう一人のたわわな腕にかみついた。



 ものも言わず攻撃してくる子供の不気味さに、女たちは顔色を失い、ぎゃあぎゃあ喚きながら手足をばたつかせた。

 月枝は、何度も何度もその丸太のような手で殴られ、象のような足で蹴られた。



 それでも必死で噛みついていった。

 ちょうど生え替わる時期でぐらぐらしていた乳歯の前歯が二本抜けて血しぶいた。



 月枝の口元は、人を喰ったように赤く染まった。



 騒ぎを聞きつけて、入院患者たちやナースが集まってきた。

 ものすごい人垣ができて、月枝は年配の看護婦に押さえつけられた。



 けっきょく、月枝のほうがボコボコになっていた。

 それでも、自分たちの正当性を訴えることを忘れない醜悪な中年女の姿に、はらわたが煮え、月枝は涙と血でぐちゃぐちゃになりながら叫んだ。

 ありったけの大声だった。



「明奈ちゃんの悪口、いうなっ!」



 それで、シーンと、ざわついていた場が静まった。



 人垣をかき分けて、月枝の母が慌てて輪の中心に入ってきた。

 母は、看護婦に押さえられている月枝の頬を理由も聞かずに張り飛ばすと、倒れている中年女たちと周囲の野次馬に向かって平謝りに謝りまくった。



 月枝は、そんな母の姿を見て裏切られたような気がした。

 ちぎれ飛んだ前歯の痛さよりも、殴られ蹴られた体の痛さよりも、母に殴られた頬と胸の奥が痛んだ。



 看護婦たちが野次馬を自分の病室へ帰したあと、月枝はナースセンターの横の応接室に連れて行かれた。

 歯の抜けた痕を消毒して、止血用の脱脂綿を噛まされた。

 殴られたおでこが腫れていたので氷嚢を看護婦さんが当ててくれた。

 ちゃんと検査をしたほうがいいかもしれません、と看護婦さんが母に言ったが、月枝は要らないと突っぱねた。



 隣の部屋で相手の中年女たちに先に話を聞いた婦長が、沈痛な面持ちで月枝のいる応接室に入ってきた。

 母が先方の怪我の具合と憤りのほどをを心配そうに訊くと、婦長は静かに答えた。



「しばらくは歯形と爪痕が残るでしょうけど、子供のしたことですので良く言い聞かせてくれれば問題にはしないと仰ってました」



 母は、婦長に頭を下げっぱなしで、ひたすら「申し訳ありません」と繰り返していた。



「申し訳ありません。こんなことは初めてで……。普段はこんな子じゃないんですが……」



 母の動揺の仕方は尋常ではなかった。

 この様子では精神神経科へ通院させられるか、明日から宇津救命丸を飲まされることになりそうだと月枝は思った。



 婦長は、月枝に向き直り目線の高さを合わせるようにしゃがみ込んだ。



「歯が抜けて、まだしゃべれないわね……。どこか凄く痛くなったり、吐き気がしたらすぐに教えてね」



 月枝はしっかりと婦長の目を見てうなずく。

 おでこに当てた氷嚢ががさがさと動いて打ち身が痛んだ。

 婦長は、月枝の目を見て自分もうなずくと、慈しむように、そっと月枝の小さな体を抱きしめた。



「もう、しないわね?」



 優しく抱きしめる婦長の声と暖かな腕が、「全部わかってるからね」と言っているように月枝には思えた。



 その瞬間、張りつめていた糸がぷつんと切れた。

 溢れてくる感情の洪水を抑えることができなかった。

 実の母さえわかってくれない少女の想いを、周囲の大人たちの中でたったひとりだけわかってくれたのだと思うと、もう我慢なんかできなかった。



 月枝は婦長に抱きついて、わあわあと声を上げて泣きじゃくった。

 明奈の前では泣かずにいなきゃ。

 涙は全部出し切ってしまわなきゃと、思った。



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