『好きに生きる』と、そう決めた……はずだった。

青森りんご

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八話 亡命の航路と偽りの楽園

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 小舟が河口に辿り着いた時、水平線から昇る太陽が血のように海を染めていた。ライアンの頭を膝に乗せ、私は潮風に紛れる追手の気配を探る。鷗の鳴き声、波打ち際を逃げる蟹の足音──全てが敵に聞こえるのではないかと震えていた。

「北へ……三日漕げ……」

 ライアンの声はかすれ、唇は塩害で裂けている。彼の胸元の包帯から滲む血が、小舟の底に黒い紋様を描いていた。王室と実家の両方から追われる身。この広い海で、もはや信じられる羅針盤は彼の記憶だけだ。

「寝てていいのよ」 私は櫂を握る手に力を込める。「目を覚ましていても、傷が──」

「……暗号だ」 彼の指が私の膝で文字を刻む。E・G・4・W。かつて密偵時代の仲間との合図か。「今夜……星が見えたら……」

 突然、彼の身体が痙攣する。熱が悪夢のように襲い、小舟が危うく転覆しそうになった。私は必死に彼を抱き締め、潮風に叫んだ。

「助けて! 誰か──!」

「その叫び声、本物かしら?」

 女性の声が岩陰から響いた。朽ちた艀(はしけ)の上に立つ人物は、赤い髪をバンダナで束ねた船乗り装束の女。腰に短銃を二丁、頬に十字傷を持つ。

「病人を乗せた亡命者ね」 彼女が小舟をロープで引き寄せる。「代価は?」

「……この指輪」 私は侯爵家の紋章指輪を差し出す。「純金です」

「足りない」 彼女の目がライアンの刺青に止まる。「でも面白い。乗れ」

* * 

 船室のランプがゆれる。女船長リリアンと名乗る彼女は、ライアンの傷を手際よく縫合すると、私に濁ったラムを勧めた。

「エグモンド商会の追っ手が、港町に五十人」 彼女が海図に×印を付ける。「王室艦隊は補給のため三日停泊」

「どうして助けて?」

「あんたの目」 リリアンが不意に私の顎を掴む。「金で買えないものを持ってる。燃えるような憎悪と……希望の混ざった瞳」

 夜半、甲板で目を覚ましたライアンが、私の手帳を開いていた。そこには密偵時代の暗号で綴られた、王国の闇の記録。

「全部話す」 彼の指が「E・G・4・W」の文字を撫でる。「エグモンド商会4番倉庫の西通路……奴隷売買の証拠が」

 私は彼の額に触れる。「今は休んで」

「いや」 彼の目に密偵時代の鋭さが戻る。「お前を巻き込んだ償いを」

 潮風が突然冷たくなる。水平線に雷光が走り、リリアンが甲板で叫ぶ。「嵐だ! 全員固定しろ!」

 波しぶきが甲板を洗う中、ライアンが私を鎖でマストに縛り付ける。「生き延びろ」 彼の囁きが雷鳴に消える。「俺が航海長時代──」

 轟音。高波が船首を襲い、私は意識を失った。

* * *

 目覚めたのは珊瑚色の朝焼けの中だった。漂着した砂浜で、リリアンがライアンの脈を計っている。

「生きてる」 彼女が皮袋の水を注ぐ。「そっちの娘は?」

 私は鎖の跡が刻まれた手のひらを広げた。握り締めていたのは、ライアンの暗号メモの切れ端──「偽りの楽園に気をつけよ」

「ここは『楽園島』」 リリアンが苦笑する。「奴隷商人の中継地だ」

 ヤシの林から現れた人々の鎖につながれた足首。彼らの首には、エグモンド商会の刻印が燻されていた。

「客人か?」

 笑顔の男が現れる。白いスーツに身を包んだその人物──私の婚約者アルバート王子の側近だった。

「侯爵令嬢、ご苦労様」 彼が私の髪を撫でる。「殿下は貴女を『楽園』の女王にするとおっしゃって」

「逃げろ!」 ライアンの叫びと共に銃声が響く。リリアンの短銃が男の肩を貫き、奴隷たちの鎖が砕ける。

「楽園などない!」 私が叫びながら火把を掲げる。「でも自由は掴める!」

 保管庫に放たれた火炎が、夜空に偽りの楽園を照らし出す。炎の中で、私は初めてライアンと手を繋いだ──逃げるためではなく、進むために。
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