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珈琲を啜りながらぼんやりと読んでいた新聞に、良く知った顔が載っていた。
インタビューの類が苦手なのは知っているが、さすがに年功経て多少は慣れてきたのか、最近はこうして取材に応じているのを時々見かけることがある。
言葉で伝えるのは難しいんだよ、と彼は言うけれど、プロダクトデザインという仕事に対する姿勢や言いたいことは記事からもきちんと伝わってくる、と瑞樹はいつも思う。それに、同じ業界にいる人間として、茜の言葉は得るものが多く、終わりまで丁寧に読んでから雑誌を閉じようとして、ふと末尾にあった彼のプロフィール欄が目に入った。
《現在、ストックホルム在住。パートナーである照明デザイナーの●●氏と共に、精力的に活動中》
その瞬間灼けるような痛みが走り、思わず瑞樹は持っていた珈琲カップを机に置く。茜と今の関係になってから持病のようになった痛みは、多少慣れはしたものの、昔から少しもその鋭さを失わない。
茜はまだ大学生だった頃から、その卓越したデザインセンスにおいて注目を集め、プロダクトデザイナーとしてのキャリアをスタートさせていた。同じ学科に通っていた同級生とはいえ、ごく一般的な学生だった瑞樹にとって、茜は謂わば雲の上の存在で、お互い顔見知りではあったけれど、学生時代に言葉を交わしたことはほとんど無い。
付き合いが始まったのは大学卒業後、在学中から世話になっていた工房で鉄職人の道を選んだ瑞樹を、茜が訪ねてきたのがきっかけだった。既に業界では名前の通っていた彼が、自分なぞに何の用があるのかと驚く瑞樹に対し、茜は、
「これのサンプル、作れる?」
と一枚のデザイン画を差し出した。それは特に凝っているというわけでもなく、非常にシンプルな鉄製プレートのデザインで、乱暴な言い方をすれば〝誰にでも作れるもの〟のように見える。取り引きのある、知識も技術も豊富な職人なら大勢いるだろうに、何故わざわざ職人としては無名で未熟な自分のところへ持ってきたのかと訝しみながらも瑞樹が製作を引き受けると、茜は仕上がりに対しての要望を、お世辞にも分かり易いとは言えない、酷く抽象的な言葉で山のように一方的に喋ってから、こちらに質問させる暇も与えずに機嫌良く帰っていった。
嵐の去った後のようだと、しばらく茫然としていた瑞樹は少しずつ気を取り直し、茜の言葉を自分なりに整理して考えていった。すると最初は支離滅裂で意味不明だと思っていた説明の中から、彼の言わんとするイメージが何となく固まって、一つの形が見えてくる。ああ、こういうことかな、と瑞樹は自分の解釈を頼りに数種類のサンプルを作り、期日を待った。
約束の当日、決めてあった時間よりも早くやってきた茜は、瑞樹が並べたサンプルを一つ一つ丁寧に調べ、やがてその中の一枚を引き出してしっかりと両手で持った。
「見つけた」
と独り言のように呟いた顔は満足そうで、果たして本当に注文通りに出来ているのか分からなかった瑞樹はほっとする。
「それで良かったの」
と念を押せば、うん、と頷いた茜は、プレートから目を離してこちらを見た。
「……やっぱ、お前に頼んで正解。俺、間違ってねーや」
心から嬉しそうに笑う、その言葉と表情に瑞樹もつられてにっこりした。依頼主の望むとおりのものを製作出来たのは職人としては嬉しいし、しかも相手が茜のような才長けた人間であれば、その度合いはさらに深くなる。
「また、頼みにくるわ」
と受け取ったものを大事に抱えて帰ろうとする茜を、瑞樹は呼び止めた。
「あの、一個訊いてもいいかな」
「いいよ、何?」
「何でこの話、俺のとこに持ってきたの?」
と感じていた疑問を投げてみると、
「3ヶ月くらい前かなあ、お前が展示会に出してたアイアンワーク、見る機会があってさ。何となく俺の仕事と合いそうだと思って、確かめたかったんだよ」
とあっさり言う。
「あ、そう……なんだ」
たったそれだけのきっかけで、特に事前に何か問い合わせるでも見本を取り寄せるでもなく、こんな遠い所までいきなり訪ねてきた行動力に呆気に取られ、思わず瑞樹が間の抜けた返事をすると、茜は、
「うん。まあ、何つーか……俺、直感だけで生きてるから」
と自分の頭を指差して笑った。その砕けた仕草に、瑞樹は胸が温まって何とも言えぬ心地よさを感じる、もう少し話をしていたいな、と思いながら口には出せず、片手を上げて立ち去ろうとする茜の後姿を見送っていると、彼は突然踵を返してこちらに戻ってきた。
「なあ、……今度飲みに行かね?」
思いがけぬ誘いに、瑞樹は嬉しくなり、
「うん、行こう」
と迷わず即答したのが面白かったらしい、茜は小さく笑い、連絡する、と言って帰っていった。
これを機に瑞樹と茜は急速に親しくなり、忙しい合間を縫っては良く飲みに行くようになった。互いに関連のある仕事をしているのと、どちらもその仕事が好きな者同士、話しても話しても話題は尽きず、若かったのもあって、一晩中でも飲み明かしたものだった。
元々あまり対人関係が上手なわけでも重きを置いているわけでもなく、友人も少ない瑞樹には、茜は貴重な存在だった。話していて楽しいとか一緒に仕事をするのが有意義だとか、もちろんそういうこともあるけれど、理屈ではない部分での相性の良さを感じる。それは自分の一方通行な思い込みではなく、茜にとっても自分は居心地の悪い相手ではないというのが何となく伝わってくるから、そう確信出来るのだと瑞樹は思う。茜と一緒にいる時に感じる、独特の温かさや楽しさは、彼以外からは得られないもので、瑞樹にとって茜の傍にいられることは幸せでもあった。
その幸せだと思う感覚が狂い始めたのは、いったいいつ頃からであっただろうか。
年々、茜の仕事は忙しくなり、活動の場が日本を離れることも多くなった。そうなれば会える回数も少なくなるのは仕方のないことで、寂しさはあるものの、茜が活躍出来るのならそれは喜ばしいことなのだ、と瑞樹は思っていた。それで疎遠になることもなく、寧ろ仲は以前よりも濃くなっているくらいだから、心にも余裕があったのかもしれない。
だが丁度そういう折、瑞樹は大学時代の共通の友人から、最近茜に同業者の恋人が出来て、しかも相手が男性であるということを聞いた。その時感じた苦しさを、瑞樹は今でも忘れていない。
元々茜は全ての事柄に対し、タブーを持っていなかった。恋愛に関しても、時々紹介された『彼女』の中には既婚者だったり、ごく近しい関係者のパートナーだったりと、普通は踏み越えない一線を越えていたものもいたし、彼自身から漏れ聞く話で、性的に奔放なのは察していたけれど、それが茜が作品を生むための滋養の一つになっているのならば、別に良いのではないか、と考えていた。
だが、彼の新しい恋人の話を聞いた時、瑞樹は茜に対して弁えていたもの全てが自分の中から消し飛ぶのを感じた。常識的、理知的な覆いの剥がれた心の中に在ったのは、茜への、自分でも説明のつかない歪んだ感情であった。
これは一体何だろうか、激しい感情が巣食っているのは認識してもその正体を掴むことは出来ず、本能的な嫌悪かと疑えばこれも違い、怏々としている瑞樹の元へ茜から連絡が来たのは、それから約一ヵ月後のことだった。来週日本に戻るから飯でも食いに行こう、というシンプルなテキストの文面を見つめながら、瑞樹はこれまでに無い葛藤を覚える。未消化な感情を抱いたまま、そ知らぬ顔で茜に会うことへの躊躇いはあるけれど、会いたいという強い思いが先立ち、了承の返事を送れば、直ぐに折り返して楽しみにしてる、とテキストが届く。再び感じた胸の苦しさに、これではまるで恋でもしているようだ、と感じた瑞樹は、この再会がその後の自分の運命を決めるとは、勿論知らなかった。
茜との約束の日、瑞樹には予定外の、だがどうしても外すことの出来ない仕事が入ってしまい、都心から離れたこの仕事場からの移動時間も考えると、待ち合わせた時刻にはとても行けないことが判った。遅れる、とテキストはしたけれど、それが一時間なのか二時間なのか、それ以上かかるのか目途が立たず、瑞樹は仕方なく、今回の約束を延期してもらおうと決める。茜がどのくらい日本にいるのかは聞いておらず、彼のスケジュール如何によっては会えないかもしれない、と思うと気分が底まで落ち込んでいくけれど、生来真面目な瑞樹には、仕事を疎かにするという選択肢は無かった。
夜になって降り出した雪の中、工房を出たのは午後十時過ぎ、事情を説明し、約束の延期を頼んだテキストに対しての返信が無いことを確認して、瑞樹は溜息を吐く。仕事とはいえ、あまりにも急なキャンセルだったから気分を害したのかもしれない、と再び溜息を吐いた時、
「よぉ」
と門柱から身を起こした人影があった。
「そろそろ終わるかと思って。様子見に来た」
久しぶりに見る茜の変わらない姿に、瑞樹は胸が一杯になる。髪にもコートにも雪片を乗せているところを見れば、この寒い中をずっと待っていたのだろうか。
「……中、入ってれば良かったのに」
「仕事の邪魔すんのはなぁ、どうかと思ってさ」
とからりと笑った茜は、ふと口を噤み、そのまま黙って瑞樹を見つめていたが、
「……俺、明日の飛行機で戻るんだわ。だから、その前にどうしても会っておきたくて」
と呟くように言った。それを聞いた途端、瑞樹の中を名状し難い一種の悦びが満たす、どこか疼くようなその感情に自分でも戸惑いながら、
「ごめんな、今日」
とやっとこれだけ言えば、茜はいつもと同じ、にやりとした笑い方をした。
「お前、明日仕事?」
「うん」
「じゃあ、俺のために無理しな。これから飲みに行こうぜ」
「いいけど、……この辺、店無いよ?」
「大丈夫、俺んち連れてく予定だから。貰いもんのワインが山ほどあんだよ」
決まったことのようにあっさりと言うのが茜らしい、瑞樹はようやくここで笑うことが出来た。
ターミナル駅まで不便な電車を乗り継いでタクシーを拾い、結局茜の家に着いたのはほとんど日付が変わろうという頃だった。
実際にこうして顔を合わせて酒を飲み、笑ったり喋ったりしているのはやはり、楽しい。このまま自分が茜に対して抱いている奇妙な感情など消えてしまえばよいのに、と瑞樹は思う。だが、それは消えることなく心の底に澱んでおり、会話が途切れた時などに鈍く胸を刺す。
「どしたよ?」
目を上げると茜が訝しそうにこちらを見ている。顔に何か出ていたのだろうか、と瑞樹は慌てて首を振り、
「いや、何でも」
と言うと、茜はグラスを置いて、
「……無理しろって言ったけどさ。いいぞ、しなくて」
と心配そうに言う。
「本当にそういうんじゃないから。ちょっと考え事してて」
「考え事って?」
と訊かれるのへ、瑞樹は返事に困る。自分の中にあるこの感情を茜に言うことなど出来ない、だが同時に、自分を疲弊させる痛みの原因を、その影だけでも掴んでおきたい、という思いも瑞樹にはあった。まず、一連の苦痛の始まりになった事実関係を確かめたくて、
「茜、……向こうに彼氏いるんだってな」
と出来るだけさりげない調子を作って言えば、茜は一瞬驚いた顔をしたが、
「まあ、うん……、一緒に住んでる」
と素直に頷いた。ひょっとしたら否定してくれるのではないか、と期待していた瑞樹は、その言葉に出口を塞がれたような感覚を覚えた。
「……そっか」
「うん、いい奴だよ。仕事すんのも、何となく一緒にいるのも楽しいしさ」
淡々とした口調に返って茜の想いの深さを見せ付けられるような気がする、その瞬間瑞樹は自分の感情が嫉妬であることに気付いた。しかもそれは、これまで感じてきたものとは比べ物にならないほどの強い嫉妬であって、一気に心を侵食する。嫉妬の元になっているのは、恋というにはあまりにも醜い、身勝手な独占欲と、自分の大切な人間を他の誰かに取られてしまうことへの、子供じみた恐怖であり、どんな制御も利かないほどの激しさで瑞樹を打ちのめす。
「何か、俺の才能、とやらが好きなんだってさ。自分じゃただやりたいことやってるだけだから、良く分かんないんだけど」
と楽しそうに笑う茜へ、
「……俺もそうだよ。そいつと変わらない」
と返した自分の言葉を彼はどう受け取るだろうか、瑞樹は他人事のようにぼんやり考えた。こちらを見る茜の目に浮かんでいるのは軽蔑か疑念か、蝕まれた思考回路では判別することも出来ないまま沈黙だけが流れていく、やがて茜は小さく溜息をついた。
「……俺は止めとけ、瑞樹」
静かな茜の言葉に、瑞樹は彼が自分の意図を正しく読み取ったことを知る。
「俺なんかじゃ役不足か」
自虐的に呟く瑞樹に、茜は首を横に振った。
「そうじゃない。……俺は、普通の恋愛、……お前がしてきたような恋愛は出来ないから。俺が相手じゃ、お前が辛くなる。そしたら、」
と躊躇う風で一度言葉を切ってから、茜は視線を落とした。
「お前、俺から離れてくだろ」
その声には、これまで聞いたこともない、どこか怯えたような響きがあって、瑞樹は混乱する。拒絶の理由にしては切なすぎ、かといって受容を意味しているとも思えず、どう理解すればいいのか戸惑う瑞樹へ、
「……エゴなのは解ってんだけど、お前がいないと困んだよ」
と茜は苦しそうに呟いた。その様子に胸が痛む、言葉の意味を考えるより先に苦痛を取り除いてやりたくて、
「俺は離れないよ」
とだけ言えば、茜はしばらく黙っていたが、俯いていた顔を上げて瑞樹を見た。
「糸の切れた凧みたいなもんだからよ、俺は。いっつもふらふらしてて、一ヶ所に止まってられない。それが……妙に評価されたりしてさ、いつの間にか周りに許容されてっけど、時々自分がどこ行くのか解んなくなることがあんの。けど、お前がいるって解ってっから、……ここに戻ってくると、色々見失わないですむっつーか」
一言一言押し出すようにゆっくりと話す茜を見つめながら、瑞樹の中を狂おしい悦びが走った。
「すっげー勝手だろ、……つか、意味解んねえと思うけど」
と自嘲気味に笑う茜を抱きしめる、確かに茜の言わんとすることを理解したわけではないけれど、瑞樹には彼が自分を必要としているという事実だけで十分だった。
一瞬体を強張らせたものの抵抗するでもなく、茜は溜息をつき、力の抜けた腕で瑞樹の背を軽く叩いた。
「……辛いぞ、お前」
「それでも、……茜がいい」
例え今だけでも、掴まえているものがすり抜けていかないように腕に力を込めながら、瑞樹はふと頭の片隅で、自分が触れたいのは茜自身なのか、それとも茜が持っている、そして自分が望みながらも持てなかった才能なのだろうか、とぼんやり考える。だがそれも、どうでもいいことなのだ。行きつく先はどちらでも、きっと変わらない。
「馬鹿だな、瑞樹」
と掠れた声には僅かな安堵が漂い、続けて初めて触れた唇が声の無い形だけで、ごめん、と呟くのを瑞樹は見た。
もう10年以上も前になるのか、と瑞樹は置いたカップを取り上げ、痛みを宥めるように残る温みを手で囲う。
その後も茜は自分で言うとおり、決して一つの場所に留まることは無かったし、特別な関係を持つ人間も減る様子は無かった。蜜月のような数ヶ月を過ごしてふいに消えうせることもあれば、逆に何ヶ月も音信不通でひょいと戻ってくることもある、それが茜の生き方なのだと頭では解っていても、会えない時間の辛さ、都度変わる彼の傍にいる人間への嫉妬で、瑞樹は想像以上の苦しさを味わってきた。茜への想いが存在する以上、決して終わることの無いその苦痛を耐えてきたのは――。
ふと視線を感じて顔を上げる、去年の冬に独立して一人で営む工房兼住居に人はいないはずなのに、と立ち上がった瑞樹は、眉間に皺を寄せて入り口のガラス戸に貼り付いている茜を見つけた。
「……何してんの」
ドアを開けてやりながら呆れて言えば、
「ここ、すっげー道が解り難い上に、他にも三つくらい似たような工房あんだろ。ったくよー、何か目印出しとけよ、こっちはいちいち確認して探さなきゃなんねーじゃん」
と捲し立てられ、瑞樹は苦笑する。
「ちゃんと住所と詳細地図送っておいただろ」
「俺、地図苦手なんだよ」
こちらにはどうしようもないことをあっさり言ってのけた後、茜は機嫌を直して辺りを見回した。
「……いいとこだな。静かで落ち着く」
「ますます都心から離れたけどね。……茜、いつ帰ってきたの?」
と言いながら、瑞樹がさっき読んでいた新聞の記事を差し出すと、茜はちらと目を向けただけで興味も無さそうに押し返す。
本当は向こうにいる、今度のパートナーのことについても訊きたいけれど、答えを得たところでどうなるものでもないことは経験上解っており、瑞樹はぐっと言葉を飲み込む。もう何度も繰り返してきたことではあっても、未だに飲み込んだ言葉で喉が焼け爛れるのは、やはり苦しかった。そういう瑞樹をじっと見つめていた茜は、
「一昨日帰ってきた。しばらくこっちにいるわ」
と簡潔に言った。
「そっか」
「うん」
しばらくというのはいつまでなのだろうか、と考えている瑞樹へ、茜は
「俺、これから一個仕事あんだけどさ、……夜、こっち戻ってきていい?」
と訊いた。
「うん」
「なら、帰りに何か色々買ってくるわ。家飲みしようぜ」
「ん、そのつもりでいる」
「じゃあ後でな。……つーか、言い忘れた、」
と茜は瑞樹のすぐ傍へ寄り、袖口を指先で引っ張った。
「……ただいま」
少し照れたように笑う茜は、自分の負の感情全てを押し退けて愛おしく、瑞樹はしっかりと目の前の体を抱きしめる。茜はそのままおとなしくしていたが、片手を瑞樹の胸に置いた。
「なあ、俺の場所ってまだ残ってんの?」
「うん。……ずっとあるよ」
静かに、だがはっきりした口調で言えば、茜はまるで縋るように瑞樹の背を掴み、それからそっと体を離して軽く瑞樹の唇へキスすると、後は何も言わずに出て行った。
初めて茜に触れた夜、彼が言った言葉は良く理解出来なかったけれど、長い年月彼と向き合ってきた今、瑞樹はようやくそれを理解出来るようになったと思う。自由を愛し、縛りの無い空気の中でしか生きられない茜に必要だったのは、自身が自由であることを確認するための帰る場所だった。それが自分だったのだろう、と瑞樹は思う。
傍から見れば哀れな位置にいるのかもしれないけれど、茜に必要とされていることは瑞樹にとって、誇りでもあった。恐らく誰からも理解はされないだろうが、それでも自分達の間には偽りではない想いが存在する。だからこそ、瑞樹は苦痛に耐えてきたし、これからもそれは変わらないであろう。
すっかり冷えた珈琲の残りを飲み干して仕事に戻る、後で茜が戻ってきたら、さっき言えなかったおかえりを言おうと考えて、瑞樹は小さく笑った。
インタビューの類が苦手なのは知っているが、さすがに年功経て多少は慣れてきたのか、最近はこうして取材に応じているのを時々見かけることがある。
言葉で伝えるのは難しいんだよ、と彼は言うけれど、プロダクトデザインという仕事に対する姿勢や言いたいことは記事からもきちんと伝わってくる、と瑞樹はいつも思う。それに、同じ業界にいる人間として、茜の言葉は得るものが多く、終わりまで丁寧に読んでから雑誌を閉じようとして、ふと末尾にあった彼のプロフィール欄が目に入った。
《現在、ストックホルム在住。パートナーである照明デザイナーの●●氏と共に、精力的に活動中》
その瞬間灼けるような痛みが走り、思わず瑞樹は持っていた珈琲カップを机に置く。茜と今の関係になってから持病のようになった痛みは、多少慣れはしたものの、昔から少しもその鋭さを失わない。
茜はまだ大学生だった頃から、その卓越したデザインセンスにおいて注目を集め、プロダクトデザイナーとしてのキャリアをスタートさせていた。同じ学科に通っていた同級生とはいえ、ごく一般的な学生だった瑞樹にとって、茜は謂わば雲の上の存在で、お互い顔見知りではあったけれど、学生時代に言葉を交わしたことはほとんど無い。
付き合いが始まったのは大学卒業後、在学中から世話になっていた工房で鉄職人の道を選んだ瑞樹を、茜が訪ねてきたのがきっかけだった。既に業界では名前の通っていた彼が、自分なぞに何の用があるのかと驚く瑞樹に対し、茜は、
「これのサンプル、作れる?」
と一枚のデザイン画を差し出した。それは特に凝っているというわけでもなく、非常にシンプルな鉄製プレートのデザインで、乱暴な言い方をすれば〝誰にでも作れるもの〟のように見える。取り引きのある、知識も技術も豊富な職人なら大勢いるだろうに、何故わざわざ職人としては無名で未熟な自分のところへ持ってきたのかと訝しみながらも瑞樹が製作を引き受けると、茜は仕上がりに対しての要望を、お世辞にも分かり易いとは言えない、酷く抽象的な言葉で山のように一方的に喋ってから、こちらに質問させる暇も与えずに機嫌良く帰っていった。
嵐の去った後のようだと、しばらく茫然としていた瑞樹は少しずつ気を取り直し、茜の言葉を自分なりに整理して考えていった。すると最初は支離滅裂で意味不明だと思っていた説明の中から、彼の言わんとするイメージが何となく固まって、一つの形が見えてくる。ああ、こういうことかな、と瑞樹は自分の解釈を頼りに数種類のサンプルを作り、期日を待った。
約束の当日、決めてあった時間よりも早くやってきた茜は、瑞樹が並べたサンプルを一つ一つ丁寧に調べ、やがてその中の一枚を引き出してしっかりと両手で持った。
「見つけた」
と独り言のように呟いた顔は満足そうで、果たして本当に注文通りに出来ているのか分からなかった瑞樹はほっとする。
「それで良かったの」
と念を押せば、うん、と頷いた茜は、プレートから目を離してこちらを見た。
「……やっぱ、お前に頼んで正解。俺、間違ってねーや」
心から嬉しそうに笑う、その言葉と表情に瑞樹もつられてにっこりした。依頼主の望むとおりのものを製作出来たのは職人としては嬉しいし、しかも相手が茜のような才長けた人間であれば、その度合いはさらに深くなる。
「また、頼みにくるわ」
と受け取ったものを大事に抱えて帰ろうとする茜を、瑞樹は呼び止めた。
「あの、一個訊いてもいいかな」
「いいよ、何?」
「何でこの話、俺のとこに持ってきたの?」
と感じていた疑問を投げてみると、
「3ヶ月くらい前かなあ、お前が展示会に出してたアイアンワーク、見る機会があってさ。何となく俺の仕事と合いそうだと思って、確かめたかったんだよ」
とあっさり言う。
「あ、そう……なんだ」
たったそれだけのきっかけで、特に事前に何か問い合わせるでも見本を取り寄せるでもなく、こんな遠い所までいきなり訪ねてきた行動力に呆気に取られ、思わず瑞樹が間の抜けた返事をすると、茜は、
「うん。まあ、何つーか……俺、直感だけで生きてるから」
と自分の頭を指差して笑った。その砕けた仕草に、瑞樹は胸が温まって何とも言えぬ心地よさを感じる、もう少し話をしていたいな、と思いながら口には出せず、片手を上げて立ち去ろうとする茜の後姿を見送っていると、彼は突然踵を返してこちらに戻ってきた。
「なあ、……今度飲みに行かね?」
思いがけぬ誘いに、瑞樹は嬉しくなり、
「うん、行こう」
と迷わず即答したのが面白かったらしい、茜は小さく笑い、連絡する、と言って帰っていった。
これを機に瑞樹と茜は急速に親しくなり、忙しい合間を縫っては良く飲みに行くようになった。互いに関連のある仕事をしているのと、どちらもその仕事が好きな者同士、話しても話しても話題は尽きず、若かったのもあって、一晩中でも飲み明かしたものだった。
元々あまり対人関係が上手なわけでも重きを置いているわけでもなく、友人も少ない瑞樹には、茜は貴重な存在だった。話していて楽しいとか一緒に仕事をするのが有意義だとか、もちろんそういうこともあるけれど、理屈ではない部分での相性の良さを感じる。それは自分の一方通行な思い込みではなく、茜にとっても自分は居心地の悪い相手ではないというのが何となく伝わってくるから、そう確信出来るのだと瑞樹は思う。茜と一緒にいる時に感じる、独特の温かさや楽しさは、彼以外からは得られないもので、瑞樹にとって茜の傍にいられることは幸せでもあった。
その幸せだと思う感覚が狂い始めたのは、いったいいつ頃からであっただろうか。
年々、茜の仕事は忙しくなり、活動の場が日本を離れることも多くなった。そうなれば会える回数も少なくなるのは仕方のないことで、寂しさはあるものの、茜が活躍出来るのならそれは喜ばしいことなのだ、と瑞樹は思っていた。それで疎遠になることもなく、寧ろ仲は以前よりも濃くなっているくらいだから、心にも余裕があったのかもしれない。
だが丁度そういう折、瑞樹は大学時代の共通の友人から、最近茜に同業者の恋人が出来て、しかも相手が男性であるということを聞いた。その時感じた苦しさを、瑞樹は今でも忘れていない。
元々茜は全ての事柄に対し、タブーを持っていなかった。恋愛に関しても、時々紹介された『彼女』の中には既婚者だったり、ごく近しい関係者のパートナーだったりと、普通は踏み越えない一線を越えていたものもいたし、彼自身から漏れ聞く話で、性的に奔放なのは察していたけれど、それが茜が作品を生むための滋養の一つになっているのならば、別に良いのではないか、と考えていた。
だが、彼の新しい恋人の話を聞いた時、瑞樹は茜に対して弁えていたもの全てが自分の中から消し飛ぶのを感じた。常識的、理知的な覆いの剥がれた心の中に在ったのは、茜への、自分でも説明のつかない歪んだ感情であった。
これは一体何だろうか、激しい感情が巣食っているのは認識してもその正体を掴むことは出来ず、本能的な嫌悪かと疑えばこれも違い、怏々としている瑞樹の元へ茜から連絡が来たのは、それから約一ヵ月後のことだった。来週日本に戻るから飯でも食いに行こう、というシンプルなテキストの文面を見つめながら、瑞樹はこれまでに無い葛藤を覚える。未消化な感情を抱いたまま、そ知らぬ顔で茜に会うことへの躊躇いはあるけれど、会いたいという強い思いが先立ち、了承の返事を送れば、直ぐに折り返して楽しみにしてる、とテキストが届く。再び感じた胸の苦しさに、これではまるで恋でもしているようだ、と感じた瑞樹は、この再会がその後の自分の運命を決めるとは、勿論知らなかった。
茜との約束の日、瑞樹には予定外の、だがどうしても外すことの出来ない仕事が入ってしまい、都心から離れたこの仕事場からの移動時間も考えると、待ち合わせた時刻にはとても行けないことが判った。遅れる、とテキストはしたけれど、それが一時間なのか二時間なのか、それ以上かかるのか目途が立たず、瑞樹は仕方なく、今回の約束を延期してもらおうと決める。茜がどのくらい日本にいるのかは聞いておらず、彼のスケジュール如何によっては会えないかもしれない、と思うと気分が底まで落ち込んでいくけれど、生来真面目な瑞樹には、仕事を疎かにするという選択肢は無かった。
夜になって降り出した雪の中、工房を出たのは午後十時過ぎ、事情を説明し、約束の延期を頼んだテキストに対しての返信が無いことを確認して、瑞樹は溜息を吐く。仕事とはいえ、あまりにも急なキャンセルだったから気分を害したのかもしれない、と再び溜息を吐いた時、
「よぉ」
と門柱から身を起こした人影があった。
「そろそろ終わるかと思って。様子見に来た」
久しぶりに見る茜の変わらない姿に、瑞樹は胸が一杯になる。髪にもコートにも雪片を乗せているところを見れば、この寒い中をずっと待っていたのだろうか。
「……中、入ってれば良かったのに」
「仕事の邪魔すんのはなぁ、どうかと思ってさ」
とからりと笑った茜は、ふと口を噤み、そのまま黙って瑞樹を見つめていたが、
「……俺、明日の飛行機で戻るんだわ。だから、その前にどうしても会っておきたくて」
と呟くように言った。それを聞いた途端、瑞樹の中を名状し難い一種の悦びが満たす、どこか疼くようなその感情に自分でも戸惑いながら、
「ごめんな、今日」
とやっとこれだけ言えば、茜はいつもと同じ、にやりとした笑い方をした。
「お前、明日仕事?」
「うん」
「じゃあ、俺のために無理しな。これから飲みに行こうぜ」
「いいけど、……この辺、店無いよ?」
「大丈夫、俺んち連れてく予定だから。貰いもんのワインが山ほどあんだよ」
決まったことのようにあっさりと言うのが茜らしい、瑞樹はようやくここで笑うことが出来た。
ターミナル駅まで不便な電車を乗り継いでタクシーを拾い、結局茜の家に着いたのはほとんど日付が変わろうという頃だった。
実際にこうして顔を合わせて酒を飲み、笑ったり喋ったりしているのはやはり、楽しい。このまま自分が茜に対して抱いている奇妙な感情など消えてしまえばよいのに、と瑞樹は思う。だが、それは消えることなく心の底に澱んでおり、会話が途切れた時などに鈍く胸を刺す。
「どしたよ?」
目を上げると茜が訝しそうにこちらを見ている。顔に何か出ていたのだろうか、と瑞樹は慌てて首を振り、
「いや、何でも」
と言うと、茜はグラスを置いて、
「……無理しろって言ったけどさ。いいぞ、しなくて」
と心配そうに言う。
「本当にそういうんじゃないから。ちょっと考え事してて」
「考え事って?」
と訊かれるのへ、瑞樹は返事に困る。自分の中にあるこの感情を茜に言うことなど出来ない、だが同時に、自分を疲弊させる痛みの原因を、その影だけでも掴んでおきたい、という思いも瑞樹にはあった。まず、一連の苦痛の始まりになった事実関係を確かめたくて、
「茜、……向こうに彼氏いるんだってな」
と出来るだけさりげない調子を作って言えば、茜は一瞬驚いた顔をしたが、
「まあ、うん……、一緒に住んでる」
と素直に頷いた。ひょっとしたら否定してくれるのではないか、と期待していた瑞樹は、その言葉に出口を塞がれたような感覚を覚えた。
「……そっか」
「うん、いい奴だよ。仕事すんのも、何となく一緒にいるのも楽しいしさ」
淡々とした口調に返って茜の想いの深さを見せ付けられるような気がする、その瞬間瑞樹は自分の感情が嫉妬であることに気付いた。しかもそれは、これまで感じてきたものとは比べ物にならないほどの強い嫉妬であって、一気に心を侵食する。嫉妬の元になっているのは、恋というにはあまりにも醜い、身勝手な独占欲と、自分の大切な人間を他の誰かに取られてしまうことへの、子供じみた恐怖であり、どんな制御も利かないほどの激しさで瑞樹を打ちのめす。
「何か、俺の才能、とやらが好きなんだってさ。自分じゃただやりたいことやってるだけだから、良く分かんないんだけど」
と楽しそうに笑う茜へ、
「……俺もそうだよ。そいつと変わらない」
と返した自分の言葉を彼はどう受け取るだろうか、瑞樹は他人事のようにぼんやり考えた。こちらを見る茜の目に浮かんでいるのは軽蔑か疑念か、蝕まれた思考回路では判別することも出来ないまま沈黙だけが流れていく、やがて茜は小さく溜息をついた。
「……俺は止めとけ、瑞樹」
静かな茜の言葉に、瑞樹は彼が自分の意図を正しく読み取ったことを知る。
「俺なんかじゃ役不足か」
自虐的に呟く瑞樹に、茜は首を横に振った。
「そうじゃない。……俺は、普通の恋愛、……お前がしてきたような恋愛は出来ないから。俺が相手じゃ、お前が辛くなる。そしたら、」
と躊躇う風で一度言葉を切ってから、茜は視線を落とした。
「お前、俺から離れてくだろ」
その声には、これまで聞いたこともない、どこか怯えたような響きがあって、瑞樹は混乱する。拒絶の理由にしては切なすぎ、かといって受容を意味しているとも思えず、どう理解すればいいのか戸惑う瑞樹へ、
「……エゴなのは解ってんだけど、お前がいないと困んだよ」
と茜は苦しそうに呟いた。その様子に胸が痛む、言葉の意味を考えるより先に苦痛を取り除いてやりたくて、
「俺は離れないよ」
とだけ言えば、茜はしばらく黙っていたが、俯いていた顔を上げて瑞樹を見た。
「糸の切れた凧みたいなもんだからよ、俺は。いっつもふらふらしてて、一ヶ所に止まってられない。それが……妙に評価されたりしてさ、いつの間にか周りに許容されてっけど、時々自分がどこ行くのか解んなくなることがあんの。けど、お前がいるって解ってっから、……ここに戻ってくると、色々見失わないですむっつーか」
一言一言押し出すようにゆっくりと話す茜を見つめながら、瑞樹の中を狂おしい悦びが走った。
「すっげー勝手だろ、……つか、意味解んねえと思うけど」
と自嘲気味に笑う茜を抱きしめる、確かに茜の言わんとすることを理解したわけではないけれど、瑞樹には彼が自分を必要としているという事実だけで十分だった。
一瞬体を強張らせたものの抵抗するでもなく、茜は溜息をつき、力の抜けた腕で瑞樹の背を軽く叩いた。
「……辛いぞ、お前」
「それでも、……茜がいい」
例え今だけでも、掴まえているものがすり抜けていかないように腕に力を込めながら、瑞樹はふと頭の片隅で、自分が触れたいのは茜自身なのか、それとも茜が持っている、そして自分が望みながらも持てなかった才能なのだろうか、とぼんやり考える。だがそれも、どうでもいいことなのだ。行きつく先はどちらでも、きっと変わらない。
「馬鹿だな、瑞樹」
と掠れた声には僅かな安堵が漂い、続けて初めて触れた唇が声の無い形だけで、ごめん、と呟くのを瑞樹は見た。
もう10年以上も前になるのか、と瑞樹は置いたカップを取り上げ、痛みを宥めるように残る温みを手で囲う。
その後も茜は自分で言うとおり、決して一つの場所に留まることは無かったし、特別な関係を持つ人間も減る様子は無かった。蜜月のような数ヶ月を過ごしてふいに消えうせることもあれば、逆に何ヶ月も音信不通でひょいと戻ってくることもある、それが茜の生き方なのだと頭では解っていても、会えない時間の辛さ、都度変わる彼の傍にいる人間への嫉妬で、瑞樹は想像以上の苦しさを味わってきた。茜への想いが存在する以上、決して終わることの無いその苦痛を耐えてきたのは――。
ふと視線を感じて顔を上げる、去年の冬に独立して一人で営む工房兼住居に人はいないはずなのに、と立ち上がった瑞樹は、眉間に皺を寄せて入り口のガラス戸に貼り付いている茜を見つけた。
「……何してんの」
ドアを開けてやりながら呆れて言えば、
「ここ、すっげー道が解り難い上に、他にも三つくらい似たような工房あんだろ。ったくよー、何か目印出しとけよ、こっちはいちいち確認して探さなきゃなんねーじゃん」
と捲し立てられ、瑞樹は苦笑する。
「ちゃんと住所と詳細地図送っておいただろ」
「俺、地図苦手なんだよ」
こちらにはどうしようもないことをあっさり言ってのけた後、茜は機嫌を直して辺りを見回した。
「……いいとこだな。静かで落ち着く」
「ますます都心から離れたけどね。……茜、いつ帰ってきたの?」
と言いながら、瑞樹がさっき読んでいた新聞の記事を差し出すと、茜はちらと目を向けただけで興味も無さそうに押し返す。
本当は向こうにいる、今度のパートナーのことについても訊きたいけれど、答えを得たところでどうなるものでもないことは経験上解っており、瑞樹はぐっと言葉を飲み込む。もう何度も繰り返してきたことではあっても、未だに飲み込んだ言葉で喉が焼け爛れるのは、やはり苦しかった。そういう瑞樹をじっと見つめていた茜は、
「一昨日帰ってきた。しばらくこっちにいるわ」
と簡潔に言った。
「そっか」
「うん」
しばらくというのはいつまでなのだろうか、と考えている瑞樹へ、茜は
「俺、これから一個仕事あんだけどさ、……夜、こっち戻ってきていい?」
と訊いた。
「うん」
「なら、帰りに何か色々買ってくるわ。家飲みしようぜ」
「ん、そのつもりでいる」
「じゃあ後でな。……つーか、言い忘れた、」
と茜は瑞樹のすぐ傍へ寄り、袖口を指先で引っ張った。
「……ただいま」
少し照れたように笑う茜は、自分の負の感情全てを押し退けて愛おしく、瑞樹はしっかりと目の前の体を抱きしめる。茜はそのままおとなしくしていたが、片手を瑞樹の胸に置いた。
「なあ、俺の場所ってまだ残ってんの?」
「うん。……ずっとあるよ」
静かに、だがはっきりした口調で言えば、茜はまるで縋るように瑞樹の背を掴み、それからそっと体を離して軽く瑞樹の唇へキスすると、後は何も言わずに出て行った。
初めて茜に触れた夜、彼が言った言葉は良く理解出来なかったけれど、長い年月彼と向き合ってきた今、瑞樹はようやくそれを理解出来るようになったと思う。自由を愛し、縛りの無い空気の中でしか生きられない茜に必要だったのは、自身が自由であることを確認するための帰る場所だった。それが自分だったのだろう、と瑞樹は思う。
傍から見れば哀れな位置にいるのかもしれないけれど、茜に必要とされていることは瑞樹にとって、誇りでもあった。恐らく誰からも理解はされないだろうが、それでも自分達の間には偽りではない想いが存在する。だからこそ、瑞樹は苦痛に耐えてきたし、これからもそれは変わらないであろう。
すっかり冷えた珈琲の残りを飲み干して仕事に戻る、後で茜が戻ってきたら、さっき言えなかったおかえりを言おうと考えて、瑞樹は小さく笑った。
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