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三章「焼け跡の記憶」

その五

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「……一つ、訂正」
それは、苦し紛れの言葉だった。
「『見たくない』ってのは正確な言い方じゃない。おれは見たくないんじゃなくて、『見るべきじゃない』って思ってる」
苦し紛れだが、真実でもあった。ミツユキは「ふうん?」と興味深そうな反応を返して、笑ったまま言葉の続きを促す。
「気になるって気持ちも、正直無くはない……それは認める。でもそれ以上に、倫理的に触れるべきではないと思ってる。そんな気持ちが強い」
唯助の目は泳ぎがちだった。にやにや笑いのミツユキに目を向けたり、逸らしたり、それを何度も忙しなく繰り返している。
「唯助はその『見るべきじゃない』って点が主と違うんだろうなぁ」
ミツユキはにやにや笑いを一旦消して、冷静に分析を展開する。
「主は逆なんだよ。よく言ってるじゃない。譚本作家は全てを見届けなければならないって。これって『全てを見るべきだ』って言い換えられるでしょ?」
「……それって、大義名分じゃねえか。譚本作家としての役目っていう大義名分を掲げて、なんでも覗いてるってことじゃねえのか」
「うん、そうだよ」
ミツユキは臆面もなく、さらりと言ってのけた。
「主はいつもそんな気持ちで見てるんだと思う。見たいという欲望の裏で、他人の大事な秘密を見ることに対する罪悪感も少なからずあるんだろうけど、それでも自分は見なければならないという作家としての使命――唯助的に言うなら大義名分をつけることで、主は譚を暴くことを自分に許してるんだろうね」
まあ、これは私の勝手な解釈だけどね。
――と一応は言っているが、ミツユキは三八の譚から生まれた毒だ。ミツユキの持つ思考も、思想も、言葉も、人を模したその姿も、すべて七本三八が大本なのだから、当然ながらその解釈も七本三八本人の解釈といって相違ない。
「どっちにしたって悪趣味じゃねえか!」
思考を変えたところで、大義名分を付け加えたところで、結局やっていることに変わりはない。
譚を覗き見る、それも、じっくりと舐め回すように見る。
唯助の価値観で言えば、到底行儀が良い行為とは言えないし、歴然たる冒涜であった。
「だからそうだって言ってるじゃない」
唯助の批判を、ミツユキは何を今更と返す。まさに、暖簾に腕押しの会話だ。
しかし、そもそも論点はそこではない。
「悪趣味だ上品だなんてこの際どうでもいいんだよ、どんな譚を見るにしたって君がその欲求を受け入れなければ始まらない。『見るべきじゃない』って言い訳してる限り、心眼は絶対使えないよ」
譚の読み解きに美徳など要らない。むしろ、あるだけ邪魔な場面が多い。三八の常人から逸脱した破天荒な言動がそれを示しているし、唯助とて今までの経験から分かっているのだ。なのに悪趣味だの倫理的にどうだのぐだぐだ並べているこの有様を、ミツユキが今更と評するのは当たり前なのである。
「まあいいさ。見たくないのならさっさと帰ろう、君の立派な道徳を責めるなんてことは主もしないだろうし。君はこの仕事から降りればいい」
というか降りるべきだ、とミツユキは言う。今度は実に素っ気ない態度だった。
「……それは、したくない」
ミツユキが実井邸から踵を返して歩き出そうとしたところで、唯助から返答があった。
「それじゃあ、音音さんがつらいままだ」
気が進まないのも、紛れもない彼の本音だ。
さりとて、姉貴分の音音が頭を悩ませ続けているのは見るに堪えなかった。
「姐さんのために、おれはここまで来たんだ」
「主のように私欲で読み解くのではなく――君はあくまで人助けのために譚を読み解くんだね?」
人助けとくれば草村堂の苦い経験が思い出されるが、それでも唯助は頷いた。迷うことなく、頷いた。
「――その方が君らしいか」
三八の思想からできているミツユキからしてみれば随分甘い考えではあるが、しかし。性根がまっすぐで青臭い彼には実によく似合っているではないか。
唯助はもう一度、焼け残った瓦礫に触れて、目を閉じた。
「集中して。譚たちに呼びかけてごらん」
ミツユキが唯助の横で静かに語りかけてくる。唯助はその言葉通りに、譚たちに呼びかけるように念を送った。

――これは、仕事のため。見なければならないもの。作家になる者として見るべきもの。
どんな譚でも、見届けなければ。彼女のために、すべて暴かなくては。
……そうだ。彼女のためだ。
彼女が自分の譚に向き合うために、その手助けをするために、どうしても必要なことなのだ。
おれは。
実井寧々子を知らなければならないのだから。
だから、知りたい。
教えてくれ。
おれの眼に、どうか見せてくれ――

*****

耳の奥に痛みを覚えた。おれは驚いて目を開ける。
ひらけた視界に飛び込んできたのは、鮮烈な朱色の光景。見た瞬間に汗が噴き出してきそうな、迫り来る火炎の光景。
また耳が痛くなる。耳に飛び込んでくる感覚も、今度は明確な形を持っていた。――張り裂けんばかりの、女の子の悲鳴だった。
「お父様! お父様ぁぁっ!!」
帝都の郊外にある林の中心から、火の手が広がっている。唸りを上げる炎は周囲の木を次々に飲み込み、もはや手の付けようのない有様だった。押し寄せる炎の津波から逃げるように、黒い人影が突っ切っていく。それはもう、全速力で。人間の足で出せる限界速度で、彼は――彼らは駆け抜けていく。
漆本しちもと様、下ろして!」
人影から、また悲痛な叫び声がする。影はひとかたまり。走っている若い男と、それに担がれている少女の二人分で、ひとかたまり。
担がれている少女が叫んだ漆本という名には、おれも覚えがある。――旦那の、七本三八の、譚本作家としての筆名だ。
走っているのは間違いなく七本三八で、それならば担がれているのはもしや、件の実井寧々子だろうか。
「下ろして! 下ろしてください! お父様、お父様!」
旦那は現在の年齢通りの肉体とは違い、若い肉体をしていた。とはいえ、あんな細い足からよくあんな速度が出せるものだ。まさしく火事場の馬鹿力ということか。燃えていく林を風のような速度で、旦那は走り続けていた。
そんな彼の肩に担がれながら、寧々子さんは力いっぱい身を捩っていた。それでもがっしりと抱えて離さない旦那の背中を、何度も叩いていた。肺の中の空気を押し出されて苦しいだろうに、それでも旦那は走り続けていた。泣き叫ぶ彼女の声に耳ひとつ貸さずに――決して耳を傾けまいとするように。
寧々子さんの悲鳴が、炎の唸り声と共に、夜闇に響いていた。

*****

そこはまだ焼ける前の実井邸のようだった。
洋風の階段を背に、玄関の扉を見ながら今か今かと何かを待ちわびている人たちがいる。
一人は長い黒髪を三つ編みに結った、洋服が似合う長身痩躯の少女だった。言わずもがな、実井寧々子だ。
もう一人は四十代半ばの男。少女と同じく洋服を上品に着こなしている。先日、菅谷に見せてもらった写真の男と外見の特徴が一致しているから、この人物こそ亡くなった実井正蔵だろう。
写真と違う点をあげるとするならば、二人は見るからにやつれていることだろうか。娘の寧々子さんは病人のような青白い顔をしていて、何かに怯えているようにも見えるし、それを慰める正蔵さんも明らかに頬が痩けている。
一体、この父娘になにがあったのだろうとおれは探ろうとしたが、そこへ扉をノックする音が割り込んだ。
「やあやあ、ごきげんよう。実井さねい 正蔵しょうぞう殿のお宅はこちらで間違いないかな」
緊迫した火事の場面とは打って変わって、ひょうきんな声が聞こえてくる。おれは聞き覚えのある声だったからさほど驚きはしなかったが、寧々子さんは驚いて、木陰に身を隠す栗鼠りすのように正蔵さんの背後へ隠れた。
「そちらにおわすのが、貴方のお嬢さんですかな?」
ひょうきんな声の主は被っていた帽子を取る。しかし、帽子を取ったところで、その男は前髪が長すぎて目がすっぽりと隠れてしまっているから、顔はよく分からなかった。まあ、逆にそのおかげで、この男が七本三八であることは明瞭に分かるのだが。
「ええ、娘の寧々子ねねこです。ほら、お前も隠れていないで挨拶なさい」
「っは、い…」
寧々子さんは様子を伺うように、正蔵さんの影からおそるおそる出てきて、ぎこちなく頭を下げた。
「さ、さ、実井さねい 寧々子ねねこと…申します…は、初め、まして…」
(――あの時と同じだ)
この吃り方。菅谷が七本屋に来たあとの音音さんの喋りによく似ている。よく似ているというか、同じだった。
旦那はそれには特に関心を示すこともなく、ただにっこりと口元で笑って言った。
「初めまして、お嬢さん。小生は漆本しちもとみつ。しがない物書きだ」

*****

舞台はそのままに時間だけが動いたようで。
実井邸のある一室で、彼――実井正蔵はどっかりと椅子に腰をかけ、ため息をついていた。
俯いた彼の顔を横から覗き込めば、彼の目の下には色濃い隈ができている。頬はやはり痩けていて、客人がいないからか髪は整えられずくちゃくちゃだった。
「お父様……」
そこへ、寧々子さんの薄い声が這入りこむ。心配そうな目で、彼女はやつれた父を見つめていた。
「ど、どうして……ああ、あの、ピアノを売ってしまわれたのですか……」
緊張しているのか、彼女は吃りながら父に尋ねる。
「なに……見るのがつらくなったからだ。ただそれだけだ」
「でも、それでは……」
寧々子さんは、その先は言うのを躊躇っていた。二の句に迷っている彼女の視線が、ちらっ、ちらっとある場所へ向けられている。
彼女の視線を追うと、そこには机があり、その上には棒が置かれている。ほっそりとしていて、白く塗られていて、持ち手は木でできた棒だった。
(……確か、実井正蔵は指揮者って言ってたよな。あれって指揮棒なのか?)
実物を見たことがないから本当にそうかは分からないが、会話に関連づけて考えるなら、多分そうだろう。
「すまない……許してくれ、寧々子」
正蔵さんは唐突に、そんなことを言い出した。寧々子さんに何かを責められたわけではないのに、娘に何かを詫び始めた。
「お父様は、お前のことだけは守るからね」

*****

ある日の記憶だろうか。正蔵さんは、泣き崩れていた。湧き上がる声を必死に抑えるように、苦しそうに呻きながら泣いていた。
部屋の中は雑多に物が置かれていて、床には色んなものが散乱していて。洋服箪笥も机の引き出しも寝台の布団も、何もかもがひっくり返されていた。洋服や宝石、筆記用具、何かの記号と棒線が描かれた紙の束、化粧品や調度品なんかがそこかしこにぶちまけられている。
(……? 手紙?)
正蔵さんの手に、なにかが書かれた紙が握られていた。足元には同じく、文字が綴られた紙の山がある。
おれはその内容をよく確かめようと、手を伸ばした。

*****

手を伸ばしたところで、指先が手紙に触れようとしたところで、……あと少しのところで、場面が変わってしまった。
「お父様、決して無理はなさらないで……」
寧々子さんが、またも椅子にどっかり腰をかけていた正蔵さんを心配している。寧々子さんは立派な洋服をまとっていたけれど、おそらくは普段着だ。対して、正蔵さんはシワひとつない背広をまとい、蝶ネクタイを結んでいる。
「無理などしていないよ。いい加減、私も立ち直らなくてはならないからね。お前は何も心配しなくていいんだよ」
「お父様……」
寧々子さんはとても不安そうに父親を見ていた。無理をして笑っているのだろう父親を、本気で心配しているのだ。だが、おれから見れば、正蔵さんの顔はまだマシなように見える。頬が痩けていないし、まだ血色も感じる。全快というほどではないにしろ、先ほどに比べればまだまだ生命力があるのがわかった。
「けれど、お父様。ここ最近、お父様はずっと働きづめです。養ってもらっているわたくしが言うのも烏滸がましく思うのですが、もう少し休養なさったほうが……お金を稼げても、お父様がお体を壊されては本末転倒ですわ」
それはごもっともだ。どれだけ働きづめなのかはこれを見ただけでは分からないが、万全の状態と言い難いのは確かだ。娘として、父親の体調が気がかりなのも分かる。まして、おれの知る姐さんは人一倍心配性で優しい人だから。
「今夜の演奏会が成功すれば、またまとまった収入が得られる。それまでは持ち堪えるさ」
けれど、正蔵さんは正蔵さんで父親としての矜持があるのか。娘に余計な心配はさせまいと、笑っていた。……どこか、旦那に似た感じがする。

*****

次の場面は、随分と朧気だ。視界が靄がかっているというか、磨りガラス越しに見ているようだった。耳に届く音も途切れ途切れで、ただ、屋敷の外で激しい雨が降っているのだけは分かった。
……夜なのだろうか。橙色のうすぼんやりとした灯りが見える。何度か瞬きをして、視界がほんの少しだけ鮮明になった。おそらく、おれは扉かなにかの隙間から、部屋の中を覗き込んでいるようだった。それにしては視点がやけに低い気がするが。
「本当は、 な     なり  った」
女性の声だった。一瞬、寧々子さんの声かと思ったが、少しだけ違っている。寧々子さんは透き通った薄い声だけど、今聞こえた声はそれよりも年季の入った、深みのある声だった。
その声が何を言ったのか。激しい雨音と、突然鳴り響いた雷鳴に遮られたせいで、上手く聞き取れなかった。
『……す や、  ……?』
今度はやけに近くで、あどけない少女の声がした。いや、近くなんてものじゃなく。おれの口から、自分の口から出たような距離感と音量だった。
そうか、おれは今、この女の子の中にいるのか。

*****

場面は変わって、しかし視界はもっと霞んでいて、何があるのかさえ分からない。分かるのは音だけになってしまった。それも調子が悪い時の自働電話のようで、会話の声もぶつぶつ切れて聞こえる。
けれど、一つだけ。耳に飛び込んでくるように鮮明に聞こえる音がある。
とん ぴん たたん
何かを叩くような音。よくよく耳を澄ませば、音にはきちんと音階があるようで、何かの音楽を奏でているようにも聞こえる。しかしまあ、素人のおれでも音楽と言うのは躊躇われるくらいの、なんとも不格好で不揃いな音の粒だった。
ぴん ぴん とん たた ぴん 
……これは多分、子供が楽器か何かで遊んでいるのだろう。――多分。おれは音楽になんてこれっぽちも触れたことがないし、これがなんの楽器の音かも分からないのだ。
「     !    !」
「           」
「       」
人の声らしき音がする。何を言っているのかは分からないが、拍手のようなものも聞こえるから、褒めているのだろうか。子供の稚拙な演奏を、大人たちが手を叩いて大袈裟に褒めているのかもしれない。
視覚も聴覚も満足に働かないから、ほとんどおれが想像力で補っているのだが、それにしても幸せそうな光景だった。
まるで一家団欒の楽しい一幕を切り取って見ているような――温かい気持ちになった。
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