愚者ハイドラの復讐

タタクラリ

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二章 虚なる化け物

〜幕間〜介錯

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 一般的な兵士より圧倒的に強く、悪しき愚者に対抗できる聖者といえど、全員が戦闘員に選ばれるわけではない。
 ──ティタノ王国軍第二補給連隊・守備隊長。
 愚者と対等に戦える聖者であるはずの私が任命されたのは、味方の聖者を支援する部隊を支援する隊だった。

「アミ隊長! 守備隊、総員集合しました!」
「よし! 総員傾聴! 第二補給連隊は、確保した商工区画に前線拠点を敷く! わかっていると思うが、これまでの任務とは違い我々は前線で叛徒共から補給部隊を死守しなければならない!」

 寝耳に水だった。現時点で最強の聖者が愚者を掃討するいつもの闘技大会が開かれるとあって王都が沸き立っていたその夜、突如として王都で反乱が発生した。
 軍は行政区画を最終防衛線と定め、総力を上げて抗戦。ハイドラ様とヘスティア様ご姉弟は見かけなかったが、ヘルクリーズ様やアルテミス様の到着後はその神がかった戦力を以て攻勢に転じ、王都を奪還しつつある。

「勘違いしてはならないが、我々の任務は守備だ。皆もヘルクリーズ様をはじめとした鮮烈な戦闘を目撃したと思うが、憧れこそすれ真似ていいものではない。出撃は三十分後だ! 解散!」

 私は守備隊に命令を告げた後、聖廟区画の一角にそびえる小さな女神像に祈っていた。ただのクソガキだった私が聖者になってから十年は経つ。徴兵されてから、非番の日には足繁く通った女神像だ。
 『ヤツを殺す』──無力だった私の目の前で母を強姦の後惨殺した男をいつの日か必ず殺すと、いつもここで祈っていた。

「アミ、おつかれ」
「アイリス……教皇様は?」
「ご無事だよ」

 後ろからアイリスという女性に話しかけられた。白い礼服を着ているから、きっと儀式の後だったのだろう。
 彼女は教皇親衛隊の隊長だ。何よりも教皇の身の安全のために尽くす、当然ながら聖者である。
 従軍した時期が近く、よく一緒に買い物に出かけるくらいの仲だった。

「それよりもアミ。あなたが無事でよかった」
「えっ? 私? 大丈夫だよ、戦闘に巻き込まれたわけでもないしね」
「……そう、でも、気をつけてね。アミの誓約は……」
「ヤツを殺すこと。もしかしたら、もう死んでるかも知れないけどね。もし見つけたら、私がとっちめちゃうけど!」
「愚者は基本的に捕獲だよ。忘れないでね」
「わかってるって」

 出撃の時間はすぐにやって来た。
 部下の手前言えないが、実は緊張している。最前線の任務なんて初めてなのだ。敵地に切り込み橋頭堡を築く訓練も実施されているが、全世界で愚者が急増し多くの国家が国内の対応に追われる中、対外戦争等で大規模な作戦に参加する機会などなく、あっても愚者の大群が潜伏する村の前に堂々と拠点を設営するくらいだった。

「ようやく、前線に出られる。もしヤツがいれば、私が殺してやる! そのために、今まで辛い訓練に耐えてきたんだ!」
「隊長、時間です」
「ええ。総員! 出撃! 補給部隊に先行し、安全を確保しろ!」

 確保した商工区画に進行し、建物の中から裏路地に至るまでネズミの隠れられる穴という穴を徹底的に潰し、補給部隊の安全な進行を援助する。
 商工区画はアルテミス様の火力で一掃された後だった。王国最強の魔導師と謳われる彼女は様々な威力の魔法を撃ちわけ、ほとんどの叛徒を生捕りにしていた。今は商工区画の前線に立ち、私たちの到着を待ってくれている。

「急げ! 私たちの動きが軍全体の速さに関わる!」
「アミ隊長! 逃れた叛徒が三人、宝珠の倉庫に立て篭もっています! 愚者ではありません!」
「C隊とE隊で対応しろ! 残りは前進だ、速度を落とすな!」

 四人の部隊を二隊派遣する。合計八人。この人数差なら、愚者相手でもなければ、 訓練を積んだ軍人が負ける道理がない。一般人と軍人には、ただの軍人と愚者ほどの差が存在する。
 ──然り、軍人が一般人を圧倒できるなら、愚者と軍人であっても同じことが言えるのだ。
 アルテミス様の部隊と合流できるまで、あと少しという時だった。

「アミ隊長! C隊からの伝令です!」
「なんだ!」
「E隊壊滅! 倉庫に愚者が!」
「……なん、報告に誤りがあったか、クソ……」

 詳しく聞けば、愚者ではない三人が逃げ込んだ倉庫に、すでに愚者が一人隠れていたらしい。

「周辺に展開している聖者の部隊は? アルテミス様くらいか」
「はい、商工区画が突出したことで王都中の叛徒がこちらに集まってきているため、ヘルクリーズ様が聖者を引き連れて別の地点からの攻勢を計画されています」
「そうだったな……B隊とD隊は前進! アルテミス様との合流を急げ! 聖者は……私か。A隊は、私と宝珠の倉庫へ向かう!」

 私には、ヘルクリーズ様らのような戦闘力は無い。
 徴兵され、聖者としての誓約を述べた時からまるで罪人が監視下に置かれたかのような生活を送り、戦闘訓練はあまり受けられず、同期との差は開く一方だった。聖者ですらないハイドラ様に稽古をつけてもらった時も、地に這いつくばって胃液の逆流を堪えるのが精一杯だった……これは他の同期も大差無かったが。
 それでも努力を続け、補給連隊の守備隊長の座を得た。そのころ友人は教皇親衛隊なんて煌びやかな部隊に所属していたが。

(ここで活躍して、私だってやれるんだって、証明してやる!)

 現場では、崩れた建物の陰に横たわった兵士が二人並んでいた。E隊の兵士だ。その二人をC隊の一人が介助し、同隊の報告に来た一人を除く二人が倉庫と睨み合っている。

「状況は?」
「アミ隊長! 倉庫に愚者が……!」
「落ち着いて。愚者の特徴は?」
「かなり長身の男で、叛徒たちと同じ槍を武器としています。すみません、これくらいしか……」
「いい、ありがとう。C隊は負傷者を連れて補給部隊に合流しなさい。A隊は周辺を警戒!」

 叛徒の多くは同様の槍を持って戦っていた。押収した槍が綺麗に揃って地面に並べられていたのが印象に残っている。
 また、槍の穂先が不揃いな敵陣も一部に存在したようだ。この敵陣には訓練を受けた兵士たちも苦戦し、別の守備隊から兵員が補充されていた。槍の長さが疎らということは、その槍はおそらく敵の私物である。家の備品を売ってでも明日の飯代にしなければならない家庭があるこの時代に、彼らは大きな鋼の塊を所持しているのだ。──王国軍に欠員が出ている原因の一つとも言える。
 反対に同様の槍を所持している者は多数。普段武器を振るわない職か、もしくはそもそも職についていないかだ。そんな者たちが槍を王国の旗にむけているのだから、叛徒の多くが誰かしらに雇われ武器の配給を受けたことを意味している。

「愚者の男も、戦闘には慣れていないはず。大丈夫、やれる!」

 倉庫の二階の窓から人の顔が覗いていた。
 否、人ではない。その男の首には、愚者の灼印が刻まれていた。

「あの灼印……まさか……」

 見覚えのある位置と、形だった。
 男は窓を破って外へ飛び降りてきた。薄汚れた褐色の布切れを着る痩せ細った中年が、まるで農具を扱うように槍を構えている。
 間違いない……私の聖者の光印が強く反応した。

「お前! お前だな!!」
「なんだ、聖者かよ、くそ」
「覚えていないのか!? お前が私の母を殺した!」
「は? 聖者の家族ヤっちまったのかよ? ツいてねぇな」
「違う! 母を殺したお前を殺すために聖者になったんだ!!」
「あぁ、もうどうでもいいって。あっ、俺さ、殺した女全員犯してんだけど、もしかしてお前も──」

 男が言葉を発し切る前に、私はすでに男の声を掻き消すように雄叫びを挙げ、腰帯につけた「柄」から魔法の槍を繰り出した。青白く光魔法の槍は、魔法の得意なアイリスから教えてもらった物だ。

「死ね! 死ね!」

 魔法の槍が男の腹を突くと、男の体は見えない巨人に跳ね飛ばされたように壁に激突した。教皇親衛隊アイリスの魔法、威力は折り紙付きだった。
 問題は私にあった。光印の反応によって増幅する殺意のせいで、もはや自分自身の手綱を見失っていたのだ。
 「愚者は原則捕縛」──その意味を、この時の私はわからないでいた。

「死ね! 地獄に堕ちろ!」

 この男を殺すことこそが私の人生における本懐だといわんばかりに、私は殺意以外の感情を置き去りにして槍を振りかざした。
 壁にもたれかかる男の体に槍を突き刺す。防ごうとした男の腕に槍が触れると、火薬が破裂したような高い音が鳴り、頑丈なはずの愚者の体でさえ左腕が千切れるのを耐えられなかった。

「死ね──」
「待って!!」

 後ろから声がしたらしい。だが、それは空高く飛ぶ鳥が起こす羽音と同じだった。私の耳には、縋るような男の声しか聞こえてこない。
 トドメを刺す寸前、私と男を一枚の魔導防護壁が隔てた。防護壁はあえて傷付き槍の穂先を少しだけ飲み込むと、瞬く間に修復し槍を捉えて動けなくしてしまった。

「えっ? なに……」

 続け様に、私に炎の魔法が放たれる。しかし痛みは無い。青く美しい炎だった。……美しいと、そう感じ取れた。
 その炎は、人の心を鎮静化させる聖なる魔術──浄化の炎だった。
 浄化の炎を私に使ったと思われる人物の声が、殺意の沈んだ私の耳に今度はしっかりと聞こえた。

「アミ=エルツァーニ守備隊長、ご無事ですか?」
「ア、アルテミス様……!」

 防護壁と炎の正体は、王国最強の魔導師による魔法だった。
 アルテミス様は魔導師隊の装衣を纏い、世にも珍しい紫色の宝珠を取り付けた長杖を右腕に握りしめていた。

「はい、おかげで助かりました!」
「愚者は捕縛が基本、ですがやはり、誓約の前では感情は抑えが効きませんね」
「も、申し訳ございません。……あの、なぜ私の誓約を?」
「アイリスと話しているのを聞いてしまいまして。誓約の殺意は、この男にのみ向けられるものですか?」
「はい! 浄化の炎で抑えられていますが、今にも殺したくて仕方ありません!」
「……そうですか」

 その言葉を聞いたアルテミス様は、少しだけ辛そうな顔で私にたずねてきた。

「アミ守備隊長。虚骸が何から産まれるか、ご存知ですか?」
「えっ? 虚骸が……? いえ、全く……」
「──わかりました」

 その質問の意味を、私は最後まで知ることはなかった。
 まさか自分が虚骸化の危機に瀕していたなんて、想像もしなかった。

「そうだ、アミ守備隊長。今度、アイリスと三人でお茶をしませんか? ……そこで、話しておきたいことがあります」

  *

 ヘルクリーズ様の進撃の末、軍は叛乱を鎮圧。
 各地に燻る火の気を確実に潰しつつ、すでに復興に向けて歩みを進めているところだ。
 戦闘が終わっても、仕事はいくつも残っている。軍議場の執務室の扉を叩き、中にいる男に声をかけた。

「ヘルクリーズ……アイリスだけど、いい?」
「ああ、入れ」

 アルテミスに、アミと三人でお茶をしようと誘われていた日。部隊員の好意もあり無理やり時間を作った矢先、私はヘルクリーズの執務室に呼ばれた。いくらアルテミスの頼みといえど、こちらを優先しないわけにはいかなかった。

「なに?」
「アミ=エルツァーニの件だ」
「アミの?」

 愛の告白でなくて安心した。ユスティナの死が決まってから、こいつは少しおかしくなっているから心配だったのだ。
 そして、彼の口からアミの名が飛び出すのは意外だった。アミには悪いけど、ヘルクリーズとアミとでは決して関わり合いにならないほどの立場の差がある。

「彼女、もとい、彼女の誓約の対象となる愚者の件だな。あいつの殺処分を検討している」
「……は?」
「今の王都に愚者を安置しておく余裕はない。拘置所から抜け出された際、聖廟区画と行政区画を守るためのシステムも現状では不十分だ。誓約に関わらない愚者の処分は終わったが、まだ負担を軽減しなければならない」
「待って、どういうこと? ヘルクリーズ、何を言ってるかわかってるの?」

 ヘルクリーズは無表情で、淡々と説明を繰り返した。
 「アミを殺すぞ」、と。
 件の愚者を殺せば、そいつの殺害を誓約としていたアミは虚骸に成り果てる。多くの聖者にとって、単純に死するより避けたいと考える最期だ。
 むかつくほどに無感情な説明だった。いや、頭と心に血が通っていればこんな事を宣うなど不可能だろうから当然か。
 とても、認めるわけにはいかない。

「ふざけないで! アミを殺すなんて!」
「教皇親衛隊の隊長である君の合意さえ得られれば、あの愚者を処分できるんだ。拘置所に割かれている何人もの聖者の手が空けば、多くの区域において戦力が充足する」
「今のままじゃだめなの? アミを殺してまでしなきゃいけないこと!?」
「……十年前の事を忘れたか、アイリス」
「……っ」

 ──十年前、教皇様が殺されかけた出来事があった。教皇様が私たちの暮らす孤児院を訪問していた時、警備の隙を突いた暗殺者たちの襲撃を受けたのだ。

「あれも、戦力の不足と油断から起こった間違いだ。意地悪な質問になるが、君は一人の友人と『教皇』のどちらが大事なんだ?」

 腕についた光印に目を落とす。人の感情も良くも悪くも偏向させるこの白い印は、迷わず『院長先生を護りたい』と答えたがっている。

「……でも、私たちだって、あの時よりずっと強くなった! 今ならどんな相手が来ても──」
「ハイドラなら? あいつの消息が掴めていない。まだ王都に潜伏している可能性だってある」
「そ、そんなはず……殺せないでしょう? いくら愚者になったって、まさか院長先生を……」
「すでにあいつは、闘技場で十人を超える聖者を殺害している」
「え」
「誓約の対象を前に、別の感情などあってないようなものだ」

 「愚者ハイドラ」……体が震え上がるような文字列だ。
 大聖堂の地下でハイドラが愚者になるのを、私も間近で目視した。彼が一瞬でその有り余る力を制御してしまったのも。
 あの力が教皇様に振われ、かつそれがハイドラの得意とする高機動を得た奇襲攻撃だった場合、たしかに今の警備状況で防ぐ手段は無かった。
 再び、私は友人を他人と比べてしまった。──アミの命より、院長先生の命が大事だと。

「エルツァーニは地下聖堂で火に焚べる。ただ死ぬより、次代の聖者の礎となってもらおう。儀はヘルメスが責任を持って執り行う」
「……命の価値なんて、比べていいはずないのに……」
「兵士であり、教皇親衛隊である以上、慣れろ。辛いだけだぞ」

 仲間を切り捨てる苦痛は、恋人すら生贄にしたヘルクリーズも知るところだろう。
 私は決心しなければならなかった。教皇様を、院長先生を護るために、如何なる命をも犠牲にする覚悟をすると。たとえそれが、親しい友人であったとしても。

「アミの聖誕の儀、今からなの?」
「合図を出せば、いつでも」
「私も行く」


  *


 気がつくと、荘厳な聖堂の中にいた。空気は冷たく、街中に漂う死臭はしない。
 そこは地下だった。
 なんとアルテミス様にお茶に誘われたので、目一杯のおめかしをしようと守備隊のお洒落な子に一張羅を借り、自室の鏡の前で胸を高鳴らせていた──そこで記憶が途切れている。

「おや、早いお目覚めですね。エルツァーニ第二補給連隊・守備隊長」

 混乱の最中、男性に声をかけられた。
 その人は聖者が公用の際に着る礼服を身に纏っていた。白い長髪を後ろで一つにまとめ、四角い黒縁の眼鏡をした四十代くらいの腕の細い男だった。

「あの、ここは? あなたは……」
「事は一刻を争います。貴殿の質問に応えている時間はありません」

 男が冷酷な返答をした私の手には重い金属状の手枷が付けられており、それは聖堂の壁の奥に鎖で繋がっていた。
 自分が囚われの身で、発言権を有していないと理解した、次の瞬間、辺りが青い炎で包まれた。──浄化の炎だ。
 先日アルテミス様から食らった物とはその性質は大きく異なり、痛みがないのは同様だがなんというか攻撃的で、私を焼き尽くさんとしているように思えた。

「いや! やめてください!」
「…………」

 男は人殺しを悪びれるでもなく、正義感に駆られるでもなく、ごく僅かな正体不明の笑みを目尻に浮かべ、宙天を宿したような宝珠から浄化の炎を放ち続けた。
 毛先がパチパチと立てる音を受け入れるばかりだった耳に、ふと、誰かの声が入ってきた。地下の広い空間で反響したその女性の声は、私にいささかな希望を与えた。

「アミ!」
「アイリス!」
「……おや、アイリス殿」
「アイリス! この人なんなの!? 早く止めてよ!」
「アミ……」

 アミはさも当然のように男の隣に並び立ち、ただ悲壮な表情で肌の焼け落ちる私を見つめた。

「アイリス! 怖い! 痛くないの! なのに、体が弱まってて、死ぬ! 見てないで助けて! アイリス!」
「アミ……ごめんなさい」

 アイリスの口が震えながら開かれ、放たれたのは一言、謝罪だった。どうやら助けてくれるつもりがないらしいことは、その一言で理解できた。

「なんで!? なんで!!?」
「……アミ、このままだとアミは、虚骸になるの」
「なん……は? え?」
「誓約を果たすか、もしくは果たせなくなった聖者は虚骸になる。あの男を殺すとアミは虚骸になる。さっきね、あの男の処分が……決まったの」

 説明を受けた。私が、味方だと思っていた人に殺される理由。
 妙に納得してしまった。「愚者は基本的に生捕り」という耳が痛くなるほど教えられた対愚者戦闘の原則のおかげだ。まあ仮に納得できなくとも私はもうすぐ焼け死ぬのだが。
 これから焼け死ぬ間に、聞いておきたいことが一つあった。

「…………だれが、決めたの?」
「…………ごめん、ごめんね……」


 友人の謝罪を聞きながら、私の体は灰になった。
 しかし、この世は不思議で溢れていた。
 私は十個くらいの小さな光の粒になった。ちょうど、アイリスの頬を伝うのと同じくらいの大きさだ。それはまるで、絵本に描かれるような妖精だった。

 本能が語りかける。妖精の使命。
 なるほど、私はこれから聖者と変じるに能う感情を携えた人間を探すのだ。
 地下聖堂を抜け、大空へ羽ばたいていった光の粒があちこちへ散らばっていく。それと同時に、私の精神は海に落とした雫のように世界へ溶けていった。


  *


「まだかな……アイリス、アミ守備隊長」

 聖廟区のカフェテラスで書類に目を落としながら人を待っているのは、王都の英雄が一人アルテミスである。
 二脚の椅子を余らせた丸い机の上では、店主が死守した豆のコーヒーが白いカップの中から湯気を低く立てていた。
 未だに口をつけられないでいるのを店主が不安げに見守る中、椅子が一脚後ろに引かれた。

「アルテミス、ごめん、遅くなって」
「アイリス! いいよ、みんな忙しいもんね」
「アルテミスだって」

 アルテミスは書類を膝の上に片付け、「座って」と声をかけた。
 冷めきってはいけないからと、アイリスは急いでコーヒーに口をつけた。アルテミスもそれに倣いようやく店主を安心させると、もう一人の待ち人をたずねた。

「アミ守備隊長は?」
「……うん。あの、それが、ね?」

 アルテミスは目を見開いた。同じく開かれたままの口元からコーヒーが一滴垂れるが、そんなことにも気づけなかった。
 そこを、一陣の風が通り抜ける。二人を目掛けたような風はソーサーに鎮座したままのコーヒーの水面を揺らすと、ただ通り過ぎていった。

「……そう、なんだ」

 湯気が風に煽られた、次の瞬間、コーヒーは完全に冷めきってしまって、ついに湯気は立たなくなった。
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