カルム

黒蝶

文字の大きさ
上 下
92 / 163

とばり

しおりを挟む
『おまえも、俺を怖がらないのだな』
「もっと怖いものを見てきたので、耐性がついちゃってるんだと思います」
彼はため息を吐き、そのまま近くにあった切り株に腰掛けた。
「幎って呼んでもいいですか?」
『何故その名を知っている?』
「あなたが俺の家の扉を傷つけたとき、想いが残っていったみたいで…」
『…別に嫌ではない。一先ずここに座れ』
「ありがとう」
肩にとまったままの瑠璃は少し警戒しているようだったが、言われるがまま腰掛ける。
『…この文字だけでは分からぬ。矢野はどうやって殺された?』
「それが、俺にも分からないんです。力になれなくてすみません」
『…おまえはいい奴だな』
「そんなことないと思います。差し支えなければ、あなたと矢野さんのことを聞かせてもらえませんか?」
『…まあ、おまえにならいいだろう』
それから彼は、楽しかった日々のことを教えてくれた。
一緒に勉強したこと、毎日欠かさず持ってきてくれた手作り弁当のこと、彼女が帰っていくとき少し寂しいと感じていたこと…。
『人間と話をするのは久しぶりで、つい舞いあがってしまった』
「沢山聞かせてもらえてよかったです」
空に虹がかかった瞬間、ようやく名乗ってくれた幎は呟いた。
『死んだ人間は虹の橋を渡ると言われている』
「そういう話もあるみたいですね」
『…またいつの日か、矢野に会えるだろうか』
「たとえ別の形になっていたとしても、きっと会えます」
彼は納得したように頷き、ゆっくり立ちあがる。
『この恩は必ず返す。世話になった』
「恩だなんて…。俺はただ、俺がやりたいようにやっただけですよ」
『矢野以外の人間は愚かで卑劣だと思っていたが、おまえはあの男とは違うのだな』
その一言に背筋が凍る。
「…幎、その男は白いフードに真っ赤な眼鏡をかけた、黒い本を持った奴だった?」
『ああ、そんな格好だったな』
「何かされませんでしたか?」
『実を言うと、そのあたりが曖昧なのだ。あの男に何か言われて怒りが抑えられなくなったのもあるはずだが、いまひとつはっきりしない』
「もし何か思い出したら教えてください。…また来ます」
『そっちの道はぬかるんでいて危ない。向こうを通れば町へ出られる』
「親切にしてくれてありがとう」
幎の心配そうな様子はなんとなく察知したが、これ以上深入りさせたくない。
『八尋』
「どうかしたのか?」
『そろそろ話してもらえませんか?』
「…知らない方がいいこともあると思うけど、強いて言うなら俺の大切なものを奪った相手だよ」
それ以上表現すると自分の心を穢してしまいそうで、口にすることができなかった。
ただ、今回の件には疑問が残る。
矢野さんは成仏したのか、それとも…今はまだ考えたくない。
しおりを挟む

処理中です...