四匹の猫と君

花見川港

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君の願い(4)

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 前触れもなく、ステンドグラスの窓が弾ける。床に散らばった鮮やかなガラスの花びら。その中で大きな物を拾い上げる着物姿の青年。

 修治と常ノ梅はハッと目を開く。側仕えの姿はどこにもなかった。

 ガラスを握りしめた手のひらから赤があふれ、透けるような白い腕を伝い下に流れる。

 青年は顔に――顔……顔が、わからない。

 輪郭は二重にぼやけ、目鼻口があるはずの場所はなにかがもぞもぞと蠢いている。

 目を凝らしていると修治の体は無意識に前に出ていて、それを引き戻そうと常ノ梅が手を伸ばす。

 四つの低い唸り声が空気を震わせ、両足、肩、首に爪と牙が突き立てられ、常ノ梅は小さく悲鳴を上げた。

 四匹は敵意を剥き出しに、決して離してなるものかという形相だった。

 ステンドグラスの破片が青年の首に強く押しつけられるのを修治は目を逸らさずに見つめた。

 あと、もう少し。



 廃屋敷に来る以前、修治が触れた身近な死は六回。うち二回は、祖父と祖母だった。

 最初に祖父が亡くなったとき、修治は十に満たない子どもだった。まだ生死というのが理解できていない歳で、悲しみを感じる以前に周囲の陰気な雰囲気に退屈していたのを覚えている。

 幼かったがゆえに。

 二度目の別れが訪れるまで、そう思っていた。

 二度目。アリスが逝ってしまった。その頃には、修治も人並みにその意味を理解していた。だからとても悲しかった。修治よりもずっと年上の彼女は、静かにその生を閉じた。苦しみのない最後だったと両親は慰めてくれたけれど、離別は悲しかった。心臓が壊れてしまうんじゃないかというくらい、泣いて泣いて、疲れて。母が遺体を箱に入れる瞬間は、とても見ていられなかった。

 長年連れ添った妻がいなくなって寂しかったのか、元から甘えん坊なところがあったリンは、シャオリンやククを押し退けるほどべったりとくっついてくるようになった。

 三度目。祖母がベッドの上で息を引き取るのを最後まで見届けた。そして泣いている家族を、修治自身は乾いた目でぼんやりと眺めていた。

 祖母として惜しみない愛情を注いでくれた彼女を慕っていたはずなのだ。なのに、修治は泣けなかった。心臓が止まった事実を受け止めて、骨になる前の最後の顔合わせでも淡々と花を添えただけ。

 慣れたのだと思った。

 しかし。

 四度目。リンが逝ってしまって、あの怒涛の悲しみが再び修治の体から溢れ出た。胸も頭も引っ掻き回す苦しみ。目の前に横たわる細い体に頭を下げて、最後の瞬間に側にいてやれなかったことを「ごめん」「ごめんなさい」と何度も何度も嘆いた。

 三ヶ月ほど経って、修治は愕然とした。

 慣れてなどいない。愛するものを失うのはいつまで経っても悲しい。

 なのに、なのに!

 祖母のときはそんな苦しみを感じなかった。

 ぞっとした。

 もともと、他人への関心が薄いことは自覚していた。

 家族に対する情はある。他人とは違う特別な存在。己を愛してくれる、信頼できる人たち。

 あるのは、己を産み落とした存在に対する前提の・・・感情。死んだら終わりのそれだけ。家族も他人も関係なく、修治にとって人間は、惜しむ存在ではなかった。

 人間への関心が薄い代わりに、猫たちへの愛情は深かった。共に過ごした時間は両親よりも長く、修治の心の穴を満たし、この世に縫いとめる楔になっていた。

 五度目。シャオリンが逝ってしまった。苦しかった悲しかった。

 アリスは何匹もの仔猫を産んだけれど、ほとんどは引き取られ、シャオリンは初めて手元に残された仔猫だった。一緒に育った兄弟のような存在の喪失は、アリスやリンのときとはまた違った衝撃を修治に与え、彼の心臓を弱らせた。

 それでもまだ耐えられたのは、末っ子のククがいたから。

 もう、ククしかいなかった。

 空洞に吹き抜ける風の音がした。

「どうせなら、俺も連れてってくれよ」

 手のひらに収まる額を撫でてやれば、末っ子は目を細めて修治の膝に乗った。



 アリス、リン、シャオリン、ククが怒っている。喉から搾り出すような声を発し、尻尾をたぬきのように膨らませて、上に向かって縦に並んでいるのが目に入って修治は呆気に取られた。

 猫四匹を貼り付けたままでいるのは、キャットタワーでも柱でもない。常ノ梅だ。

 修治と青年の間に割り込み、修治に背を向ける形で立っている。

 また邪魔をされた。

 常ノ梅は青年から破片を取り上げ、床に放り投げた。

「耳を澄ませ」

 近距離で顔を突き合わせ、ゆったりとした口調で語りかけている。

 自分の息遣いが急に大きくなった気がして、修治は息を止めた。

「君の音はもう、止まっているだろう」

 一分は経ったかもしれないし、数秒のことだったのかもしれない。酸素を求めて修治が口を開いたとき、常ノ梅の肩越しに青年の頬から水滴が落ちたのを見た。

 包帯の下の傷が一斉に口でも開いたのか、全身から血が滲み、溢れ、足元に大きな血溜まりを作って、青年は笑顔を浮かべて満足気に後ろに倒れた。

 ようやくはっきり見えた顔は、眠っているようで、青年も流れた血も煙のように空気に溶けて消えていく。

 ずるい。

 修治は口の中の肉を噛み締めた。

 ようやく訪れたチャンスだと思ったのに。

 自分を呼ぶ常ノ梅を睨む。また優しく手を引いて修治を連れ帰ろうとするのだろう。

 愛でも恨みでも、種類など関係なく「誰か」という意識は、心の虚ろに膜を張る。その上に色んなものが溜まって、生に意味を持てるのだ。

 修治にとって人間は、底を塞ぐ膜にはなり得ない。支えにあり得たのは人間自分よりも短命な生き物。たとえ何度も穴を塞げても、それはともて脆く、何度も味わいと思えない。

 もしかしたら未来このさき、一生心に留めて起きたい「誰か」に出会えるかもしれない。

 でもそれはいつ?

 ずっと誰にも出逢えなかったら?

 この虚ろを抱えたまま、耐えてまで生きる価値があるのか。

「……死にたい」

 息をするように言葉が出た。

 振り返った常ノ梅は、噛みついたまま威嚇を続ける猫たちをぶら下げたまま、かまわず修治に近づく。

 真っ直ぐと向けられる瞳から逃げるように修治は己の足元を見つめた。

「君がそう望むなら……」

 左右の頬にそっと触れる手のひら。輪郭をなぞるように下がり、顎を上げるよう優しく促される。

「君の願いは、僕が叶える」

 そのおとは、いままで聞いた何よりも美しいものに感じた。

 唸るのを止めた猫たちは、床に飛び降りて、二人を見守る。

 顎に添えられていた両手がさらに下がり、首を包む。体から力が抜けた。

 じわじわと圧迫される感覚に反射的に肺を膨らまそうとすると逆に締め付けがキツくなって気道が塞がる。破裂するんじゃないかと思うほど目玉が熱くなって水気を帯びた。逃げようのない苦しさに襲われながら心の中から湧き出す幸福感。修治の手が相手の上着の腹部辺りを鷲掴んだとき、ぶれる視界の中で慈愛に満ちた頬笑みを見た気がした。

 最後に目にしたものがそれなら満足だと思いながら、修治は暗闇に沈んだ。
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