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一章
17.手を伸ばす意味
「ねぇねぇご主人様ぁ」
「俺は今はむはむで忙しい。あとにしろ」
「えぇーほんとにいいのぉ?別にご主人様がいいならいいんだけどさぁ」
癒しのはむはむタイムを邪魔されムスッと眉を顰める。
お前の耳ははむはむしないって言ってるだろ、と呆れ顔で言うと、ジャックは「そうじゃなくてぇ!」とぷんすかしながらピシッとどこかを指さした。
なにごとかね、と振り返りぎょっとする。何かが見えたわけじゃなく、指し示された方向から高いヒールの音が微かに聞こえたからだ。
サーッと途端に青褪めながら「な、なっ!」と震える俺を見下ろし、ジャックはほら見たことかと頬を膨らませて言った。
「ご主人様、ぜぇったい作戦のこと忘れてたでしょぉ」
「そ、そっ、そういうわけじゃ……!」
ギクゥッと大きく肩を揺らす。これは動揺しているわけじゃないぞ、ほら、あれだ、最近ちょっぴり寒くなってきたからさ、うむ。
なんて春の暖かさに包まれながら考えている中も、高く響くヒールの靴音は容赦なく近付いてくる。
まずいまずい……母とアンドレアの間に起こる事件について、はむはむに夢中ですっかり忘れていた……!
「ジャック、ガウ!はやくっ、はやくシャキッとしろ!作戦通りに動け、いいな!」
「ご主人様が一番シャキッとしてなかったけどねぇ」
今はジャックの言葉が聞けない耳になっているので、不満げなツッコミは華麗にスルーしてそそくさと位置についた。
アンドレアと直接話したり、ここにいることに直ぐ気付かれてしまったり……ここまでは正直作戦通りとは言えない進行具合だったけれど、今からは別だ。
展開的に、この靴の音は母で間違いない。
これから例の事件が起こるはずだから……そこからはきちんとしよう。さっきまではちょっぴりぐーたらしてしまっていたけれど、今からは本気を出す。だから大丈夫、問題なし。
心の準備が整わないまま作戦が始まったことに胸の嫌なドキドキが止まらないけれど、我慢してムグッと気配を消した。
茂みからそーっと顔を出し、静かに湖を眺めるアンドレアを見つめる。
やがてアンドレアも足音に気が付いたのか、ふいに音のする方を振り返った。
「──あらまぁ。アンドレアったら、どうしてこんな所に?」
予想通り、現れたのは母だった。
俺の存在には気が付いていないらしい。こんな場所に人が集まるわけないと高を括っているのか、母は周囲を確認することなくアンドレアに近寄った。
……こういうところ、ほんと無能な小物悪役って感じだなぁ。
「──……」
それにしても……角度の問題だろうか、陽射しやら影やらがちょうど色々と重なって、アンドレアの表情がよく見えない。
母の登場に一言も発さず黙り込んでいることから、少なくとも良い心情を抱いているわけではないのだろう。それをすぐに察して苦々しく眉を寄せた。
この先の展開を知っている身からすると、今すぐにでも飛び出してアンドレアを助けてあげたいけれど……でも、まだだ。まだダメだ。
助けるのは、アンドレアが母の悪意を悟ってから。
アンドレアを母から守ることは最優先事項として、同時に『弟が自分を助けてくれた』という確かな恩をアンドレアに感じてもらわなければならない。
だから、まだダメ。もう少し待って、母がアンドレアに悪意を向け始めたと同時に飛び出すのだ。
「……何なの、その無礼な態度は。本当に不気味ね、まったく忌々しい」
ニッコリ笑顔から悪意の滲む嫌悪の表情へ。突然切り替わった母の顔にギョッと硬直する。
え、えっ、もう?もうなの!?はやくない!?
せめて二三言にこやかに交わしてから嫌味が始まると思っていたのに。
想定を裏切り、めちゃくちゃ早い段階で嫌味モードに切り替わった母のせいで、びっくりして動きが遅れてしまった。
ぽけーっと驚きで硬直する間に、母は更にヒートアップしてアンドレアに罵声を浴びせる。
「──お前も実母と一緒に死ねば良かったのよ!」
むぅっ!あの悪ママめ……子供になんてことを言うんだっ!
もう我慢ならん!予定より少し早いけど、さっさとアンドレアを助けてあげよう!
……なんてヒーローの如く立ち上がりかけたその瞬間。母が次に放った言葉に再びピタッと固まってしまった。
「──お前さえ居なければ、ルカが後継者の座について、私はあの方の寵愛を難なく手に入れることが出来たのに!」
な、お、俺の名前を出すんじゃないよ、この悪ママめっ!
突如母の罵声の中に強制登場させられた俺、怒りと焦りであわあわと大混乱してしまう。
もしかして、母はいつもあんな風な罵声をアンドレアに浴びせているのだろうか。だとすればかなりマズイ。
罵声を作り上げる一部となっている俺のことも、アンドレアは日頃から恨んでいた可能性……それがここに来て浮上してきてしまった……。
もしそうだとしたら、エビ事件の時の奮闘も無駄だったということになる。俺が何もしなくとも、母のせいでアンドレアが俺への恨みを蓄積させていたのだとしたら……それはもう、どうしようもない。
ゼロから必死で立てた作戦も、全部意味なんてなかったってことになる。
ちら、と微かにアンドレアの様子を盗み見る。
相変わらず表情はよく見えないけれど、やっぱり黙り込んだままというのが少し怖い。これじゃあアンドレアが俺に恨みを抱いているかどうか確認するのは不可能だな……。
まぁ、そういうことなら仕方ない。リスクがあると分かった以上、このまま呑気にしておくのも危険だろう。
「……ジャック」
俯きがちにジャックの名を呟く。
ほんの小さな声だったけれど、ジャックはきちんとそれを捉えてくれたらしい。ものの数秒で俺の隣に戻ってきたジャックは、甘く微笑んで「なぁに?ご主人様」と首を傾げた。
いつだっていつも通り。そんなジャックの様子に少し力を抜きながら、俺はぽそりと囁いた。
「作戦は失敗するかもしれない。準備しといてくれるか?」
「……!うん、うんっ!りょーかいっ」
何がそんなに嬉しいのか。
ジャックはニタァッととっても嬉しそうに微笑みながら、そそくさとどこかへ消えてしまった。
その背を見送り、俺もスッと静かに立ち上がる。
アンドレアに媚と恩を売れるかどうか。売れても売れなくても、どっちにしろ問題ない。だから、もう躊躇うことはない。
俺には切り札のジャックがいる。大丈夫、大丈夫。だめそうな状況になったら、きっとジャックが救ってくれるはず。
だから……!と、俺は震える体を叱咤して、茂みからガサゴソッと体を抜いて駆け出した。
「ちょぉっと待ったぁ!!」
ヒーローは遅れてやってくる!とかなんとか、お決まりのセリフを紡ごうと口を開いた直後、見えた光景にその口をそのままあんぐりとかっぴらいた。
アンドレアが……ふらりと倒れ込んでいる。それも、意外と深さがある後ろの湖に。
あぁ、動くのが遅すぎたんだ。俺がぐーたらしている間に、アンドレアは結局たくさんの罵声を浴びせられて、こうして倒れて……いや、違う、違うだろ。
なに諦めてるんだ。まだアンドレアは湖に落ちてない。
まだ、まだ間に合う!俺がアンドレアを、しっかりきっちり助けるんだ!
「──っ……アンドレア!」
ドヤ顔から一転、焦燥の滲んだ表情でがむしゃらに走り出す。
きっと傍から見たら、余裕のない、お世辞にもカッコいいとは言えない姿になっているはず。それでも、俺は本気で走った。
本気で走って、アンドレアの腕を引っ掴んで、持ち得る限りの全力でこっち側に引っ張って。
その反動でくるりと位置が入れ替わっても、最後まで絶対に諦めず。
突然現れた俺を見て、母が何やら青褪めた顔で叫んでいるけれど……それは全く耳に届かず、視界の真ん中にも入らず。
五感の全てがこの瞬間、無表情を驚愕の色に変えたアンドレアに集中していた。
「どうして……──」
それはさっきまでの淡々とした、冷酷な声じゃない。
ただ純粋な疑問と驚きが含まれた、子供っぽい声。それを聞いてなぜだか安心した俺は、ニヤッと得意気に笑ってカッコよく返してやった。
「家族だもん」
スローモーションみたいに、ゆっくりと湖に落ちていく感覚があった。
ぼちゃんっ!という大きな音の後、体を突き刺したのは凍てつくような冷たい温度。
寒さによって一瞬で動きを封じられてしまい、遠ざかる水面をただ眺めることしか出来ない。
ガウかジャックか……もうこの際どっちでもいい。とにかく早く助けにこーい。
なんて呑気に考えながら、朦朧とする意識を手放そうとした瞬間。ふいに水面がバチャンッ!と揺らいで、誰かが飛び込んできたのが見えた。
やっと二人の助けが来たか、とほっとしたのも束の間、一瞬有り得ないものが見えた気がして息を呑む。
意識を手放す直前、最後に見えたのは……。
──酷く焦ったような色を滲ませた、深いアメジストの瞳だった。
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