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二章
60.嫌な夢
切り裂きジャックは、突如としてスラム街に現れた恐ろしい大量殺人鬼だ。
彼による初の犠牲者となったのは、スラム街の中心部に住む花屋の娘・ダリア。
ダリアは天真爛漫で誰に対しても優しい、誰からも愛される女性だった。
彼女は当時、スラム街ではそれなりに名の通った商人の息子と婚約しており、まさに人生の最高潮といった幸福な日々を送っていた。悲劇はまさに、その最中に起こってしまった。
全てが崩れ去ったのは、婚約者からのプロポーズを受けた夜のこと。
彼女はプロポーズの答えを一度保留し、婚約者を花屋に残して少しだけ外へ出た。花屋の娘らしく、花で答えを示そうと考えたのだ。
けれど彼女が彼に渡したかった花は、その時ちょうど店には置いていなかった。その花の在庫は、店から少し離れた場所の小屋にある。
時刻は夜。ちょうど月が雲隠れし、視界全てが暗闇に包まれた頃。
ダリアが店を出て行ってから、しばらくの時間が経った。婚約者の男がふと違和感を抱き始め、その違和感がやがて焦燥に変わった頃、彼は嫌な予感を抱えながら店を飛び出した。
向かう先は、店から少し離れた場所にある、花の保管に使用している狭い小屋。小屋というよりも、壁のある庭園と言った方が正しいかもしれない。
その場所は、地面いっぱいに花が咲き誇る箱庭の花畑。だからだろうか、彼は小屋に駆け込んだ当初、“それ”がただの花の水面だと勘違いしてしまった。
薔薇やアネモネ、その類の赤い花々の海だろうと。
一歩、また一歩とその赤に近付く。“それ”が花々ではなく、愛する人の血の海であったと気付いた瞬間、彼は底の無い絶望の渦に自ら沈み込んでしまった。
現実を受け入れることが出来ず、彼は微塵も動く気配のない婚約者の亡骸に縋りつく。
ただ呆然と涙を流す中、ふいにくり抜かれた屋根から射し込んだ月明かりが、二人以外の誰かの人影を濃く示した。
彼がゆっくりと視線を上げる。そこに立つ、血濡れのナイフを持った青年を見て、彼は大きく息を呑んだ。微かに開いた口が、震えながらその青年の名を紡ぐ。
『──ジャック』
片手に持った血濡れのナイフと同調するかのように、青年の朱殷色の髪が靡いた。
***
──ゴツンッ!
ごろごろーっとまだ少し覚醒しない頭でベッドの上を転がっていると、ふいに突如崖が訪れてぽとりっと身体が落っこちてしまった。
「あてっ」という情けない声と共に脳が覚醒する。ようやく目覚めることが出来たはいいものの……なんだかすごく嫌な目覚めになってしまった。
頭からごっつんこしてしまったので、たぶんおでこが真っ赤になっていると思う。むにゃむにゃと眠気を吹っ飛ばしながら立ち上がり、とことこと鏡の前へ向かった。
「む。やっぱり赤いな。ひりひりする……」
さっきのごろりんちょ事故で案の定おでこがちょっぴり赤くなっている。
さすさす、と優しく撫でつつ「まぁいいか」と楽観的に頷き、今度はてくてく歩いてソファにぽすっと腰掛けた。
時間帯的に、たぶんもう少しで侍従兼務をしているガウが来るはずだ。
本当なら俺の世話全般はジャックの役目だけれど……そのジャックが今はいないのだから仕方ない。
とは言え本館の使用人さんたちはまだちょっぴり怖いから、今は代理でガウに侍従をお願いしているところ。
ガウは大柄だからか分からないけれど少し不器用だから、湯浴みなんかは大変だ。俺が裸で動き回る度なぜか魂を抜かして倒れることが多い。
まぁ、護衛と兼任でたくさん負担を掛けてしまっている側だから、俺からガウに何か文句を言うつもりは毛頭ない。
むしろガウと一緒にいる時間が増えて嬉しいから、良いことづくめなのだ。ただ、ジャックがいないのがかなーり違和感あるけれど……。
「──……失礼致します、主様」
ぐるぐるーっと考え事をしている間に大分時間が経っていたらしい。扉の向こうから聞こえた声に慌てて返事をして立ち上がる。
静かに扉を開けて入ってきたのはガウだった。この二週間で大分見慣れた光景だ。
「ッ、主様!?その額は一体どうされたのですか……!」
俺に視線を移した途端、何やらガウがサーッと青褪めて叫んだ。
むむっ、やっぱりおでこの赤色は遠くから見てもかなり目立ってしまっているらしい。まぁいいかと思っていたけれど、人に見られる度この反応を躱すのはちょっぴり難儀だな……。
なんて溜め息を吐いていると、ガウがどこからか保冷剤的なものを取り出して俺のおでこにぴたーん!と貼り付けた。
って、ガウはすごいな。いつも備えあれば患いなしを真っ向から示しているようなやつだけれど、まさか保冷剤まで常備していたなんて。
呆ける俺を見てその驚きを察したのか、ガウは微かに頷いて答えた。
「主様のことですのでどうせいつか転ぶなり何なりするだろうと、念の為これを用意しておいて助かりました」
あれれ?ガウってば、珍しく俺に喧嘩でも売っちゃっているのだろうか。
飄々とした態度でそれを買ってやりたいのは山々だけれど、俺みたいなチビのちんちくりんが頑張ったところでガウの巨体に勝てるはずもない。
俺はムスッとほっぺを膨らませるだけに留め、額に保冷剤を当てられるのをじっと耐えた。
正直ガウにお仕置きではむはむを仕掛けてやりたいところだったけれど。
「とりあえず、しばらく額に当てていましょうか。痛いですか?」
「うぅん……さっきから、ヒリヒリなおらないぞ」
「ヒリヒリだけですか?血は出ていないようですが、その辺りは?」
「だいじょうぶ。平気だぞ」
ごっつんこした時のヒリヒリだけ残っているが、他は問題なし。うむっと頷くと、ガウは安堵した様子で息を吐いた。
「……ジャックは、昨日も戻らなかったか?」
なんとなく、ふいにぽつりと訪ねてみる。
一度動きを止め、すぐにこくりと頷いたガウに目を細めた。そうか、昨日もジャックは戻らなかったか。
「しんぱい、だな……」
ジャックがいなくなった日から早二週間。
一向に戻ってこない大切な側近を想い、俺はしょんぼりと肩を落とした。
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