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第二章
17話 小さな兆し
春と初夏の狭間。ドレッシングルームの窓から吹き抜ける爽やかな風が、ふわりとロアークの前髪を揺らした。
まだ午前のひんやりとした空気が残っているが、陽射しはやわらかくあたたかい。季節の境目らしい、やさしい光と風だ。
ロアークの前髪が乱れたのを、シュイはドレッシングルームの大きな鏡越しに確認する。さりげなく前髪を整えてあげたあと、ロアークの両肩にそっと手を添えた。
「ロアーク様、唇の端を持ち上げてください……あっ、でも目は細めないで!」
ロアークがぱっと目を開ける。
勢いよく見開きすぎて、今度は逆に目力が強すぎる。威圧しているつもりはないのだろうが、まっすぐ向けられた視線に一瞬たじろいでしまい、シュイは思わず吹き出しそうになるのを堪えた。
「も、もう少し力を抜いてみてください。はい、そう……もうちょっとだけ」
鏡越しに優しく指示を出しながら、シュイは隣でお手本の微笑みを見せる。
ロアークに勉強を教え始めて、もうひと月が経った。
算学も地政学も外国語も、当初よりずっと早く習得してしまったので、基礎知識はもう十分だ。
ならば次に必要なのは、立ち居振る舞いと表情のコントロール。最近は座学の比重を軽くして、〝自分を上手く魅せる方法〟に重点を置いていた。
堂々と見えつつ、威圧的にならない。かつ、話しかけやすい隙も見せる。その絶妙なバランスを身につけるため、今日も今日とて、鏡の前で練習を重ねていた。
「……一旦、休憩しましょうか」
「うん……あ、いや、大丈夫。まだやれるよ」
ロアークの顔にうっすらと疲れが滲んだような気がして、シュイは休憩を提案した。けれど、当の本人は首を横に振り、まだ続けるつもりでいる。
軽く両頬をむにむにと押して表情をほぐすと、ロアークはきりっと顔つきを改め、鏡の前でもう一度笑顔の練習を始めた。
その真剣な横顔を見ながら、シュイは複雑な思いに駆られた。
「あの、ロアーク様」
「ん? どうしたの?」
「あー……いえ、やっぱりなんでもありません」
シュイは首を振って否定した。しかし本心では、聞きたいことがあった。「グレイヴナー公爵とはどういうご関係なんですか?」と。
その疑問は七日前からずっと心に潜んでいる。
グレイヴナー公爵が離宮を訪れたのが七日前だ。それからというもの、ロアークはほんの少し——本当に、わずかにだが——変わった。
どこが、と問われると説明に迷う。ただ、強いて言うなら「目つき」だろうか。
以前はどこか柔らかく、守りに入っているような印象だったのに、今は微かに光が宿ったように見える。何か強い意思を感じさせる目だ。
特に、シュイが教える社交術に対しては驚くほど熱心で、何がきっかけなのかと不思議に思えてならなかった。
(……あのとき、何の話をしていたんだろう)
胸の奥で渦巻くもやの正体は、自分でも掴みきれない。ロアークが誰と、何を話そうと自由なはずだ。でも、自分の知らない場所でロアークが変わってしまったのが——どうしようもなく気にかかる。
これまでロアークが変わるきっかけは、いつも自分だった。シュイが助言をして、それをロアークが聞き入れてくれることで、ゆっくりと前へ進んできた。
けれど今回は違う。ほんのわずかな変化とはいえ、ロアークが自ら変わりたいと思うような何かがあの日、グレイヴナー公爵との間で起きたのだ。
(気になるけど……聞けないなぁ)
シュイが踏み込む権利なんてどこにもない。正式な婚約者でもないし。ロアークが話そうとしないことを、無理に聞くのも違うだろう。
そんな理屈を頭の中で並べても、胸のざわつきは消えなかった。そもそも、なぜ自分はこんなにも気になっているのだろうか。
はぁ、と小さく息を吐いて気持ちを整えようとしていたところで、控えめなノックが響いた。扉の向こうには、使用人が一通の手紙を盆に乗せて立っていた。
「……初夏の舞踏会の案内だ」
手紙を開いたロアークが、紙面を見つめたまま静かに呟く。赤い封蝋に刻まれた王家の紋章が、いやでも格式の高さを想起させた。
王宮主催の大きな舞踏会は年に二度。新年の舞踏会と、初夏の舞踏会だ。後者は特に若い貴族たちの社交デビューも兼ねているため、注目度も高い。
王室の参加も必須だ。ロアークも逃げようがなく、出席をする立場のはずだった。
「……これは避けて通れないですね」
シュイがそう告げると、ロアークが一瞬間を置いてから頷いた。
「そうだね……去年は体調不良で休んだんだけど、今年はさすがに出ないと……」
シュイは手紙を読むロアークの横顔をじっと見つめる。
その瞳に宿る輝きの強さが違うのは、シュイの教育のたまものか。あるいは、グレイヴナー公爵に何か言われたのか。
「前回はソフィアおばさまに挨拶さえできなかったから、今回は綺麗な退場を目指したいな」
ロアークが苦笑交じり微笑む。先ほどの練習していたぎこちない笑みではなく、自然で柔らかい表情に、シュイも笑みを返す。
「そうですね。今のロアーク様なら、絶対にできますよ」
内心で渦巻く暗い感情は微塵も出さずに、シュイはロアークを励ました。
まだ午前のひんやりとした空気が残っているが、陽射しはやわらかくあたたかい。季節の境目らしい、やさしい光と風だ。
ロアークの前髪が乱れたのを、シュイはドレッシングルームの大きな鏡越しに確認する。さりげなく前髪を整えてあげたあと、ロアークの両肩にそっと手を添えた。
「ロアーク様、唇の端を持ち上げてください……あっ、でも目は細めないで!」
ロアークがぱっと目を開ける。
勢いよく見開きすぎて、今度は逆に目力が強すぎる。威圧しているつもりはないのだろうが、まっすぐ向けられた視線に一瞬たじろいでしまい、シュイは思わず吹き出しそうになるのを堪えた。
「も、もう少し力を抜いてみてください。はい、そう……もうちょっとだけ」
鏡越しに優しく指示を出しながら、シュイは隣でお手本の微笑みを見せる。
ロアークに勉強を教え始めて、もうひと月が経った。
算学も地政学も外国語も、当初よりずっと早く習得してしまったので、基礎知識はもう十分だ。
ならば次に必要なのは、立ち居振る舞いと表情のコントロール。最近は座学の比重を軽くして、〝自分を上手く魅せる方法〟に重点を置いていた。
堂々と見えつつ、威圧的にならない。かつ、話しかけやすい隙も見せる。その絶妙なバランスを身につけるため、今日も今日とて、鏡の前で練習を重ねていた。
「……一旦、休憩しましょうか」
「うん……あ、いや、大丈夫。まだやれるよ」
ロアークの顔にうっすらと疲れが滲んだような気がして、シュイは休憩を提案した。けれど、当の本人は首を横に振り、まだ続けるつもりでいる。
軽く両頬をむにむにと押して表情をほぐすと、ロアークはきりっと顔つきを改め、鏡の前でもう一度笑顔の練習を始めた。
その真剣な横顔を見ながら、シュイは複雑な思いに駆られた。
「あの、ロアーク様」
「ん? どうしたの?」
「あー……いえ、やっぱりなんでもありません」
シュイは首を振って否定した。しかし本心では、聞きたいことがあった。「グレイヴナー公爵とはどういうご関係なんですか?」と。
その疑問は七日前からずっと心に潜んでいる。
グレイヴナー公爵が離宮を訪れたのが七日前だ。それからというもの、ロアークはほんの少し——本当に、わずかにだが——変わった。
どこが、と問われると説明に迷う。ただ、強いて言うなら「目つき」だろうか。
以前はどこか柔らかく、守りに入っているような印象だったのに、今は微かに光が宿ったように見える。何か強い意思を感じさせる目だ。
特に、シュイが教える社交術に対しては驚くほど熱心で、何がきっかけなのかと不思議に思えてならなかった。
(……あのとき、何の話をしていたんだろう)
胸の奥で渦巻くもやの正体は、自分でも掴みきれない。ロアークが誰と、何を話そうと自由なはずだ。でも、自分の知らない場所でロアークが変わってしまったのが——どうしようもなく気にかかる。
これまでロアークが変わるきっかけは、いつも自分だった。シュイが助言をして、それをロアークが聞き入れてくれることで、ゆっくりと前へ進んできた。
けれど今回は違う。ほんのわずかな変化とはいえ、ロアークが自ら変わりたいと思うような何かがあの日、グレイヴナー公爵との間で起きたのだ。
(気になるけど……聞けないなぁ)
シュイが踏み込む権利なんてどこにもない。正式な婚約者でもないし。ロアークが話そうとしないことを、無理に聞くのも違うだろう。
そんな理屈を頭の中で並べても、胸のざわつきは消えなかった。そもそも、なぜ自分はこんなにも気になっているのだろうか。
はぁ、と小さく息を吐いて気持ちを整えようとしていたところで、控えめなノックが響いた。扉の向こうには、使用人が一通の手紙を盆に乗せて立っていた。
「……初夏の舞踏会の案内だ」
手紙を開いたロアークが、紙面を見つめたまま静かに呟く。赤い封蝋に刻まれた王家の紋章が、いやでも格式の高さを想起させた。
王宮主催の大きな舞踏会は年に二度。新年の舞踏会と、初夏の舞踏会だ。後者は特に若い貴族たちの社交デビューも兼ねているため、注目度も高い。
王室の参加も必須だ。ロアークも逃げようがなく、出席をする立場のはずだった。
「……これは避けて通れないですね」
シュイがそう告げると、ロアークが一瞬間を置いてから頷いた。
「そうだね……去年は体調不良で休んだんだけど、今年はさすがに出ないと……」
シュイは手紙を読むロアークの横顔をじっと見つめる。
その瞳に宿る輝きの強さが違うのは、シュイの教育のたまものか。あるいは、グレイヴナー公爵に何か言われたのか。
「前回はソフィアおばさまに挨拶さえできなかったから、今回は綺麗な退場を目指したいな」
ロアークが苦笑交じり微笑む。先ほどの練習していたぎこちない笑みではなく、自然で柔らかい表情に、シュイも笑みを返す。
「そうですね。今のロアーク様なら、絶対にできますよ」
内心で渦巻く暗い感情は微塵も出さずに、シュイはロアークを励ました。
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