蛇逃の滝

九影歌介

文字の大きさ
上 下
8 / 17

8

しおりを挟む
半助はどうにか、橋へとたどり着いたものの、だがその前で立ちすくんでいた。
一体己はどうしてこの橋を渡ってきたというのであろうか。
東と西とを隔てる谷は底の見えぬほどに深く、かけられている吊り橋は、まるで渡る者を拒んででもいるかのように烈しくギシギシと音をたてて左右に揺れている。
軽い半助など、気を抜けば簡単に弾き飛ばされてしまいそうだ。まして、谷から吹き上げる風も強く、半助は今橋にそれ以上近づくことができないでいる。
羽をもつ怪妖が時折空を行き交っている。半助はその度、藪に身を潜めた。
彼らは神の使いだ。言うなれば、西狐の使い。今彼らに見つかるわけにはいかない。無論、玉を持ちだし、敵に奪われてしまったことの罰は受けるつもりだ。しかし、それは今ではない。半助にはやらねばならないことができた。
そうだ。約束したのだ。やらねばならない。
半助は、意を決して橋へと踏み出した。橋へかけこみ、かろうじて縄にしがみつくもそれいじょう進めない。動けば、そのまま吹き飛ばされてしまいそうだ。それでも、一歩一歩、橋にかじりつくように進んでいき、中程まではきた。そこが一番揺れが烈しい。轟轟と唸る風音に、ギシギシと音を立て今にも切れてしまいそうな橋に半助は怯えた。
早く渡ってしまわなければ。
半助が前へ進もうと足を滑らせたときだった。ゴオッと、耳をつんざくような音がしたかと思うと、橋が下から突き上げられたようにうねりあがり、半助は橋の外へと投げ出された。
悲鳴をあげて、半助の身体はまっさかさまに谷底へ落ちていく。猫とはいえこの高さから落ちれば助かるはずもない。もう、仕舞いだ。
半助が思い極めたとき、今度は滝のような音が聞こえてきたかと思うと落ちていたはずの半助の体が上へ持ち上げられた。何かと思って辺りを見渡せば、何と水柱が半助を乗せて西国の岸の方へと運んでくれていたのだ。
これは――。
半助の戸惑う間に、水柱は意思をもった生き物のような動きで半助をやさしく岸におろすと、崩れるようにして谷底へと戻っていった。
半助は岸にへたりこみ、しばらく耳を澄ませていた。すると、遠くの方から水のせせらぎの音が聞こえてくる。そうか。この谷底は川であったのだ。しかし、どうしてその川が半助を助けてくれたのだろうか。
半助はにやりとした。
考えるまでもない。あのように自在に水を操れるものは、あの者しかいない。半助は今からその者に会いにいくつもりだった。雨乞いをするために。
半助は勇気を得たように立ち上がって駆け出し、だがふと思った。
どうして、せんがんむしは己が危機にあることを知っていたのだろうか。橋を渡ろうとしていたと、知っていたのだろうか。見ていたとしか思えないような頃合いで助けてくれたようだが……。
首を捻っても答えは出てこなかった。
まあ、よい。それはこれから会ってきけばよいことだ。
西国に入ってしまえばこちらのもの。誰にも見つからずにせんがんむしの住む鮒が池に行くことなど目をつむっていてもできる。だって、昔からずっとそうしてきたのだから。

 鮒が池へ近づくと、いつも瑞々しい匂いが漂ってくる。半助はこの匂いが好きだった。森を抜けようとして、ふと白いモクレンが蕾をつけているのに気が付いた。前にここへ来たときにはまだ白い色は見えなかった。そういえば、見上げてみれば桜の蕾も膨らんできている。半助は思わず足を止めて、森の空気を思い切り吸い込んだ。
 春の香がする。
 匂いは季節のさきがけだ。西国にも、じきに春が広がる。
 半助は、鮒が池の辺へ出た。湿った草地へしゃがみこみ、池の中を覗きこむと己の顔が映った。漆黒の髪は、人間のものよりも濃いだろうか。耳の形も違う。だが、他は人間と変わりない容姿。狐狸や貉は人に化けるが、猫は化けられない。尾は人型のときもむき出しのままだ。人にもなれず、怪妖にもなれず。中途半端な己の姿が、半助は嫌いであった。
 半助は水面に映る己から目をそらし、池の中央を向いて「せんがんむしさま」と呼びかけた。
 それを待っていたように青緑色の水が白く泡立ち始め、ぬるりとした灰色の岩が現れた。だがそれは岩ではなく、せんがんむしの額であると半助は今知っている。初めて見たときにはそう思ったものだ。そのときは、驚く半助の横で手をつないでいた母が笑っていたように思う。
せんがんむしは、滑るようにして水面から浮き上がり、姿を見せつつ岸で待つ半助のほうへ近づいてきた。相変わらず変わった衣服を身に着けている。
せんがんむしは、あと一歩手の届かぬところで止まって半助を見た。いつもなら、もっと近くまできてくれるのに。彼は完全に水の中だ。これじゃあ、話もし辛い。だが彼にそれ以上近づく気はなさそうだった。
「何の用じゃ」
 せんがんむしは横に伸びた大きな口を微動させてそう言った。声に不機嫌さが滲んでいる。
「先程は危ないところを助けて頂き、ありがとうございました」
 半助はほほ笑んで言ったが、返事はなかった。慣れている。半助は構わずに続けた。
「実は、今日参ったのはお願いの儀がありまして」
「なんじゃ」せんがんむしはひげを曲げたり伸ばしたりしながら言った。
「雨を降らせて頂きたいのでございます」
「雨、じゃと」
 せんがんむしは眉をひそめた。
「なにゆえ雨を降らす」
「東国は今日照りが続いており、東狐さまの言ではそれが続くというのです。このままでは人間が皆死んでしまいます」
 せんがんむしは眉根の皺を一層濃くして唸るように言った。
「何を言っておる。この大変なときに」
 半助は一瞬言葉を失ってせんがんむしを見つめた。
せんがんむしは、半助が玉を持ちだして奪われたことを知っているのではないだろうかと思ったのだ。
しかしそれはないはずだ。玉を奪われたなどという国の大事が、神官以外の者に洩れるわけがない。
だがせんがんむしははっとして半助を見てから、すぐに目をそらした。明らかにいけないことを言ってしまったかのような顔をしている。存外、正直なひとだ。
「せんがんむしさま、」
 半助が訊こうとすると、せんがんむしはそれを遮るように言った。
「東国に雨を降らすことはできん」
「何故でございますか」
 半助は思いがけぬ返答に慌てて膝を進めた。
「神官ともあろうものが、盟約を忘れたのか」
 今度は半助のほうがはっと息を呑んだ。
 そうであった。
 盟約のある限り、西国の者が東国へ干渉することはできない。
「ですが、皆困っているのです」
 半助が諦めきれずに言うと、せんがんむしは深い溜息をついた。水面が揺れて、波紋を広げていく。あめんぼがその上にゆらゆらと揺れていた。
「いいかげんにせよ。人が良いにもほどがある。何故、無力で無能な低俗どもの味方をするのじゃ」
「お世話になったのです。私は行き倒れているところを人間に助けてもらいました。その恩を返したいのです」
「そんなことにかまけている場合ではなかろう」
 語気を強めるせんがんむしの顔を半助はぴたりと見た。せんがんむしも今度は目をそらさずに半助のことをまっすぐに見つめている。
 やはり――知っておられるのだと、半助は確信した。
「玉のこと、御存知なのですね」
 せんがんむしは言われて少しためらったふうを見せたが、すぐに肯いた。
「お前が心配でな。水を通して覗いておったのだ。東国にいたときのことも知っておる。お前は、あの娘の役に立ちたいのであろう」
「そうですが……」
 半助はせんがんむしの今の言葉の何かが引っ掛かるような気がした。だがそれが何かがわからない。
「半助。人間のことなど放っておけ。それよりも、お前は玉を取り返しにいくべきだ。玉を奪ったあの化け貉は、東国の怪妖の中でも昔から人を脅したり化かしたり、腹がすけば頭からかじりついて骨も残さぬ人間の天敵であった」
「そんなことまで、御存知なのですか」目を丸くする半助にせんがんむしは言い含めるようにゆっくりと肯いてみせる。
「水のあるところならばわしはなんでも覗くことができるからな」
せんがんむしはそう言うが、どこに水などあったのであろうか。それが引っ掛かっていることだった。日照りの続く東国で、せん
がんむしはどこの水から半助を見ていたのだ? 
半助が水鏡を覗かせてもらったときだって、東国のようすはよく見えなかった。それを、こんなに詳しく事情を知るほど一体どこから見ていたのか。
 暗い疑念が一瞬半助の胸をよぎるが、半助は慌ててそれを打ち消した。そんな半助のようすに気づかず、せんがんむしは続ける。
「考えてもみよ。人間の役に立ちたいのならば、その厄介な貉どもを倒せばいいのではないのか」
「貉を……」そうだろうか。悪さをする貉がいなくなれば確かに人間は喜ぶ。でも、雨は降らない。日照りが終わるわけじゃない。
「そうじゃ。さすれば玉もお前の手に戻り、人間の、ひいては娘の役にたてよう」
「そうかもしれませんが、」半助がうなだれた顔をあげて口を開くと、せんがんむしはその言葉を遮るように言った。
「雨は降らすことはできんぞ。盟約は盟約だ」
 きっぱり言われて、半助はまた肩を落とした。そんな半助にせんがんむしは優しい声をかける。
「気を落とす必要などないのだぞ。先程から申しておる通り、お前が今すべきことは玉を化け貉から取り返すことだ。奴らが持っていないにしても、行先をつきとめることはできよう。玉を取り戻すことができれば、お前の首も繋がるであろう」
半助は返事ができなかった。せんがんむしの言うことは、そうかもしれない。だが、彩と約束したのだ。水は任せてと請け負った。それなのに、こんなに簡単に諦めてよいものか。己の首よりも、今は彩との約束を果たすことのほうが大切なことになっている。
 再び水を請おうと口を開きかけた半助に、せんがんむしは言った。
「人間に関わるな、半助」
 せんがんむしの声に情愛の色を感じ取って、半助は顔を上げた。彼の眼差しから、己を心底心配してくれているのがわかる。だが、
どうしても肯けない。
「やはり、放ってはおけません」
「半助」たしなめるように呼ぶせんがんむしの声が空気を響かせ、森の枝にとまっていた小鳥が一斉に飛び立っていった。それでも半助は首を横に振った。
「ばかものめ。このまま官職を失ってもよいと言うのか。あれほど苦労して手に入れた地位であろうに」
半助は困って笑った。それは、苦笑だろうか。己が愚かなのは、百も承知だ。だけど、納得できないのだから仕方ない。
「でも、私は己の無力さを知っていますから」
 これは自嘲だ。口の端が歪む。
「私はその貉に敵いませんでした。とても、この手で玉を取り戻せるとは思えません」
「そのようなことはない。半妖とてお前は天狐の術を会得したのじゃぞ。妖力で劣るとも、お前にはお前の他は敵わぬ武器があるではないか」
「もうよいのです!」半助は己で己の声に驚きながら言った。
「私とて、神官でなくなるのは嫌にござります。けれど、仕方のないこと。もはやそれは逃れられぬことと覚悟を決めました。ですが、その前にどうしてもやりとげたいことがあるのです」
 せんがんむしはしばらく半助の顔を見つめていたが、やがて諦めたように目をそらすと「水か」と嘆息した。
「はい。何とか、なりませぬか。そのためなら何でも致しますから」
「わしにはどうにもならぬ。盟約を破れば、その咎でわしは妖力を奪われる」
 せんがんむしは言って、くるりと半助に背を向けた。今日は浅黄の羽織を着ている。去ろうとするせんがんむしの背中に、半助は前から不思議に思っていたことを訊いた。
「せんがんむしさまはどうして、人間の着物を身に着けておられるのです」
 ただ真似ただけの物ではない。今まで気づかなかったが、せんがんむしの衣からは、ごくごく微かだが人間の匂いがする。
 せんがんむしは動きを止めて、だが、振り返らずに言った。
「すべての水はつながっておる。わしはここへ流れてきたものをただ珍しく思い用いていただけじゃ」
「そうですか……」せんがんむしは言うほど人間を嫌ってはいないのではないか。そう思ったのは、ただの期待であったのか。気落ちする半助の前でせんがんむしは体を池の中へと鎮めていく。波紋がゆっくりと広がっていく。
 もうせんがんむしは呼んでも出てきてはくれぬであろう。別の手立てを考えるしかない。諦めて、別れを告げようと口を開いたところへ、
「赤の池へ行け」
 せんがんむしの頭が完全に沈んだあとにその声が聞こえたので、まるでそこに残した一つの雫がそう言ったように聞こえた。それは、ぽちゃりと音をたてて落ちれば、また鮒が池の一部に戻る。三味線と一緒だ。
 池を離れてどんな姿になったとしても、いずれはここに戻り、一つになり、混ざり合う。
 すべての水はつながっている――。
 半助はせんがんむしのその言葉を思い出してはっとした。
「そこが東の枯れずの池なんですね!」
 鮒が池に年中枯れずに水があるように、東にも水を司る怪妖の住む池があると以前せんがんむしから聞いたことがあった。それが赤の池なのだ。
「ありがとうございます。お師匠」
 師匠と呼べばまた怒られるかと思ったが、声は返ってこなかった。でも、それでいい。せんがんむしはやはり信頼できる半助の師匠なのだ。
「あ、そうだ」半助は立ち上がりざま思い出して袂に手を入れた。そこから、クマザサにくるんだものを取り出して池の辺に置いた。
「ゴミダマムシです。見つけたので拾っておきました。好物でしょう。食べてくださいね。それでは」

 半助は袍を翻し踵を返すと、その場を笑顔で走り去った。


 ――静けさが戻った。
 あの子の去った辺は、いつだって酷く空虚だ。
 せんがんむしは水面から顔をのぞかせ、半助の置いていった土産を手に取った。まだそこには彼のぬくもりが残っている。
せんがんむしはそれを胸に抱いた。彼が持てば、両手で抱くほどの大きさのそれは、せんがんむしが持てば石ころほどに小さい。だけど、詰まっているものは今のせんがんむしには酷く重かった。
見返りを求めぬ好意がそこにはある。いつだって、それを彼はせんがんむしに向けて来たのだ。

目の前には境界線。池と地とを隔てる絶対的な壁がそこにはある。
すべての水はつながっている。だが地とはつながっているようで、それは彼を拒んで受け入れない。
彼が地へおりたてば、土を溶かして身体は沈み、草木は枯れて、石ころまでもが腐り果てる。
何者にも拒まれ続けて生きてきた。この水の中で生きることだけを許されて、己はただたゆたう波のごとく永遠に、屈折した光ばかりを見続けるのであろうかと。
そこにあるのは、限りのない孤独。途方もない孤独。
絶望の中にいた。
進むことも戻ることも許されず、ただただ絶望の中をさまよう己の前に現れた一縷の光。
それが、半助だった。
見聞きして得たことを、無駄だと思っていた。けれど、それは彼を喜ばすことができる貴重な宝であった。しろかねもくかねもぎょくにも勝る、貴重な宝であると、せんがんむしは彼に出会って初めて気づいた。
それは、彼を喜ばすことができるから。笑顔を見ることができるから。
彼の笑顔は、何者にも代えがたい大事な大事な、せんがんむしの命そのものであったはずなのに。
その曲がらぬ光を、せんがんむしはゆがめようとしてしまった。どうしてあのようなことを。
所詮、己は孤独の檻へ閉じ込められた怪妖に過ぎぬのだと。
所詮、己は進退を許されぬ止まった時の中に捕らわれた囚人に過ぎぬのだと。
自虐して止まず、だがそれは何も動かせぬとわかっている。
ここより底はない。底に行きたくとも、行きようがない。ならば上を見上げて、あまりの遠さに途方にくれるが、そこにはちゃんと光が用意されている。今まで気づかなかった光が。
思いがあった。強い念いがあった。
己に光を穢すことなど許されない。
己でしたことの始末は、己でせねばなるまい。
せんがんむしは上を見上げた。
 空がある。空こそすべてとつながっていて、それを思えば一歩は踏み出せるだろうか。いや、踏み出さなければいけない。
 半助のために。今唯一、大切だと思えるもののために。


しおりを挟む

処理中です...