蛇逃の滝

九影歌介

文字の大きさ
上 下
9 / 17

9

しおりを挟む
半助は音もなくブナ林を駆け抜けていた。時折獣が半助を見ているのに気が付いたが、構ってはいられない。それに、彼らが神官に告げ口するようなことはないだろう。だが時折飛び去っていく山鳥には気を付けねばならない。姿を見られぬように十分注意して、半助は林を抜け出た。隔ての谷は切り立った崖のようになっている。その崖沿いに橋の方へ向かって走り、辺りを見回した。見張られている気配はない。
 連なる山の向こうに、日が落ちかけている。東は曇っていたが、今西の空は茜色の空が広がっていた。
風は穏やかだ。頼りなく両岸に吊るされた橋は相変わらず揺れているが先程よりはいくらかましだった。
しかし、いつ下から突風が吹き上げるかがわからない。きっと、渡る者がいればそれを防ぐように天狐が風に頼んであるのだ。だがそうまでして東西の行き来を妨げるのは何故なのだろうか。
 半助は首を傾げたが今はそのことを考えている場合ではない。とにかく橋を渡らなければ。さっきは落ちそうになったときにせんがんむしが助けてくれたが、今度も助けてくれるだろうか……。
 半助は不意にある考えが浮かんだ。
 試してみようか。しようとすることを考えると、ゾッと背筋が冷たくなる半面、わくわくと胸の躍るような感じもする。それに、半助には自信があった。ためらっている時はない。
 半助は己を励ますように肯いた。
きっと、大丈夫だ。
半助は意を決して走りだした。穏やかだったはずの風が、半助が走り出すのを見計らったように強く唸りだした。耳元をギュンと風が吹き抜け、橋がガチャガチャギシギシ音をたてて大波のように揺れ出す。だが半助は橋には目もくれずに谷間へ飛び込んだのだ。力の限り跳躍しても、向こう岸へは十分の一ほども届いていない。
せんがんむしさま。
半助が心の中で祈ると、その声にこたえたように谷底から急激に水柱となって上がってきた川の水が半助の身体をとらえ、そのまま滑るように向こう岸へ運んでいく。
 ダダダダ。と、底へ落ちゆく水の音は、水量の多い川の流れのようで、滝のようで。轟音であるのに、わずらわしくはなくむしろ心地よい。その流れる音を聞きながら、半助はほっと胸をなでおろした。
「ありがとうございます、せんがんむしさま」
 返事はないものと思っていたが、意外なことにせんがんむしの声が返ってきた。
「無茶なことをしおる。わしを試したのか」
 言葉は怒っているが、声はどこか上機嫌だ。
「せんがんむしさまならきっと助けて下さると思ったから」
 せんがんむしは鼻を鳴らしたようだ。声はどこから聞こえてくるのだろう。谷底の水ではないようだ。それにその声は、水を通しているせいなのかいつもよりも少しくぐもって聞こえる。それはどこかで聞いたことのある響きであった。だが、それをどこで聞いたのかまでは思い出せない。
「ゴミダマムシの礼じゃ。普通ああいうものは先に渡して相手の機嫌をとるものじゃぞ」
 せんがんむしは呆れたように言った。
「そういうつもりではなかったので。私はただ、せんがんむしさまに喜んでもらいたくて」
 そう言ったとき丁度水の舟が岸へつき、半助はそこから滑り降りた。
 水が谷底へ去っていく。もうせんがんむしの声は聞けぬのかと淋しく思うと、さっきよりも鮮明な彼の声が聞こえた。
「半助。もう一度聞く。本当に良いのか。このままではお前は官職を奪われ、さらには罪人として扱われるのだぞ」
 半助は苦笑して、どこを見てよいのかわからないので空を見上げて答えた。
「もはや罪人です。だから急がねばならない。妖力のあるうちでなければ、何もできない」
 せんがんむしの声はしばらく返ってこなかった。もう帰ってしまったのかと思えば、その声はまた聞こえた。
「とにかく、赤の池へ行け。ただし、そこでなにが待ち受けていようとお前が受け入れる覚悟があるのならばな」
「どういうことですか」半助は、せんがんむしに気圧されて息を呑んだ。一体そこで何が待ち受けていると言うのか。
「行けばわかることよ」
せんがんむしはそれ以上のことを教えてくれそうにはなかった。ただ、「宿命には逆らえぬ、ということだ」と言って、彼は笑った。
「すまぬな。実のところわしにもよう見えんのだ。だが最後に一つだけ言っておく」せんがんむしの声が真面目に戻った。
何を言おうというのか。半助は気を引き締めた。
すると、せんがんむしは穏やかな顔でほほ笑んで言った。
「お前は無力などではないぞ。お前はそれをいつも否定するが、無力と思うておるのは、お前の心なのじゃ」
「私の、心ですか?」
「そうじゃ。今はわからずとも、わしがそう申していたこと、ゆめゆめ忘れるでない。わしは、ひとに世辞などは言わん。ありのまましか言わぬからな」
 それは、いつもせんがんむしが半助にかけてくれる励ましの言葉だった。
 半妖は無力などではないと。いつも言って聞かせてくれたが、半助が納得できたことは今まで一度もなかった。
せんがんむしの言葉で、信じられないのはそのことだけ。半妖が無力であることは、半助自身が痛いほど身体で知っている。いかに信頼している師にそうではないと言われようと、どうしてもその言葉を信じることはできなかった。
今も、己の無力を疑わぬ心のほうが強くて、せんがんむしの言葉が耳まで届いていないような気がした。
それでも、せんがんむしの半助を想う気持ちだけは伝わってきて、嬉しかった。
 それきりせんがんむしの声は聞こえなくなっていた。聞こえるのは、時折風に揺れてきしむ橋の音と、それから、遠くで流れる川のせせらぎの音。
 せんがんむしは見てくれているのだと思った。いつでも、見守ってくれている。そう思うと、心強かった。
「ありがとうございます。私は、必ずや雨を降らせてみせます。それが私の最後の望みです」
 半助は小さく笑って、その場を後にしようとした。その時だった。
 半助は耳をそばだてた。
 一瞬聞こえたその声はもう聞こえない。だが間違いない。
今のは、悲鳴だ。
 半助は声のした方へ走りだした。胸騒ぎがする。その悲鳴が誰のものともわからないのに。半助は急ぎそこへ駆けつけなければいけないような気がして仕方なかった。
 森の中の斜面を斜めに走り昇って行くと、急に左手が開けた場所に出た。半助は肩を震わせた。寒い。そこだけ雪が深い。半助は誘われるように、その広場へ入っていった。足が雪にとらわれ、身体が沈んだ。いちいち足を雪から引き抜きながら進まねばならない。斜面の上を見上げると、ところどころに岩の頭が突き出たようなものが見える。その一角に、半助は紅い色のものを見つけた。はっと息を呑んで急いで近づくと、それは布の切れ端で、掴みあげて匂いを嗅いでみれば新しい彩の匂いがする。
 どうしてこんなところに――。
 半助は鼻をきかせた。雪のせいで弱くはなっているが、そこから彩の匂いを辿れそうだ。半助は布を懐にしまって進もうとして、岩に躓いた。だが、振り返ると岩と思ったものに、文字が彫り込まれている。それで気づいた。これは墓石なのだ。とするとここは墓場。半助が初めに倒れていた場所かもしれない。 
 だがそうするとますます不思議なことがある。己は、一体どうやってこんなところまできたのだろうか。逃げるのならば、斜面を駆け降りたほうがよいであろうに。橋を渡ってここまでは斜面を登ってこなければならない。それに、橋が風に見張られているのだとしたら、玉を持ちだそうとして無事に通してもらえるはずもない。だとしたら、ここまでくるには空を飛んでくるしかないのだが。
 半助は空を見上げた。今鳥は飛んでいない。だが、空から半助を下ろすとしたら、この開けた場所が逃しやすい。
 己は、どうして記憶を失っていたのだろうか。
 玉を持ちだそうとしたところまでは覚えている。それから、鎮護の間を抜けて、城を出て、そこまではうろ覚えだが何となく記憶に残っている。だがそのあとからは深い闇にうずもれてしまったかのように何も頭に残されていない。そして、気が付いたら走っていたのだ。まだところどころに残雪の残る森の中を。あれは既に東国だった? 東国は西国よりも寒い。あの頃、東国に雪はもう残っていなかった。
 誰かが半助を空から東へ運んだのだ。そしてわざわざ逃がした。
 でも誰が、どうして、何の為に――。
 いけない。半助は首を振った。今はそんなことを考えている場合ではなかった。誰かが危急に陥っているのだ。そしてそれは彩かもしれないのだ。半助は拳を握った。
助けにゆかねば――。
 雪の中を泳ぐように抜けると、そこはもう普通に歩ける山道になっていた。不思議な山だ。雪の場所を離れれば、寒さもやわらいでゆく。
 人間も通ることのできるような開けた、だが曲がりくねった細い峠の道を登っていくと、前方に紅い葉をつけた木が何本か立っているのが見えた。
紅葉だろうか。だがまさかこんな時期に――。紅葉だとしたらあまりにも季節外れ。だが近づいていくとやはりそれは紅葉であった。
そしてそれは池を取り囲むようにして生えており、紅く色づいた葉が大量に池に落ちていて水が赤く見える。これが赤の池の名の由来か。
 半助はそんなことを考えながら辺りを見回した。確かにここまで彩の匂いは続いていたはずなのだが。そこに匂いも残っている。この赤の池のどこかにいるはずだ。三間四方の小さな池の向こう側に大きな尖った岩があった。もしかしたら敵に襲われて身を潜めているのかもしれない。他にも身を隠すところはたくさんある。
「彩どの」半助は呼びかけた。だが返事はない。風が吹いて、さわっと右手の草が揺れた。
「彩どの、私です。半助です。ここにおるのでしょう? 出てきてください」
 すると、思った通り大岩の裏から「半助さま?」というか弱い声が返ってきた。
「大事ありませんか。悲鳴が聞こえたようでしたが」
「お恥ずかしい。足を滑らせてしまったのです」
「怪我をなされたのですか」
「大したことはないのですが、足を挫いたようで」
「それはいけない。そちらへ行ってもよろしいですか」
 少し間があり、彩は「はい」と答えた。
 半助は池を回り込んで、岩の裏へ顔を覗かす。すると、紅梅の着物が見えた。襟から覗く白いうなじに、産毛が光っていた。半助は思わず唾を飲みこんだ。
彩は恥ずかしげに袖で顔を覆いうなだれている。妙にあでやかで彩らしくない。半助は平静を装って声をかけた。
「大丈夫ですか。痛みますか」
 半助がしゃがみこむと、彩は袖を下ろして半助の顔を見つめた。瞳が潤んで、己を見つめている。半助は妙な気が起こりそうになるのを感じて、慌てて目をそらした。だがその視線の先には、彩の両脚が投げ出されて、紅梅の着物の裾から艶めかしく肌が露わになっている。
 半助は不意に、眉をひそめた。
「看てもよろしいですか。私は薬草を持っておりますゆえ」
 半助が訊くと、
「お願い致します」
 恥じらうように答えた割には、彩は大胆に裾をめくって生肌を半助の前にさらした。
 半助は痛めたという足首に触れ、口の中で呪を唱えた。
「今のは何でございますか」
 彩が訊くので、半助は笑って「痛み避けのまじないでございますよ。未熟な術なので、効くかどうか」と答えた。
「そのようなことはありませぬ。本当に、痛みがひいたような心持がいたします」
 彩が半助を見つめて、ほほ笑んだ。半助もそれを見つめ返す。二人の間に会話が途切れた。
「半助さま」
 彩が突然濡れた声で言うと、半助の胸に身を寄せた。
「彩どの、何をなさいます」
 言う半助をそのまま彩が押し倒した。
「お会いしとうて、追ってきてしまいました。お慕い申し上げております」
 半助は戸惑って、何も答えられなかった。
「お、おやめください。彩どの」
「誰も見てはおりませぬ。さあ、抱いてくださいまし」
 彩は袖を脱ぎ、もろはだを見せる。さすがに目のやり場に困っていると、彩が半助の体をひくようにして地面へ倒れこむ。今度は半助が彩に覆いかぶさるような形になった。半助の首へ彩の腕が絡みついてくる。
「さあ、存分に」
「で、では――」
 半助は答え、彩の唇を吸おうと――するふりをした。そのときだった。
 半助の頭上から、大男が飛び降りてきたのだ。
 半助は既に気配を察して、横へ飛びのき地面に身を転がしていた。体勢を整え振り向くと、丁度変化を解いた大貉がドスンと彩のど
てっぱらの上に落ちるところだった。
「うげえっ」とたまらず呻いて。顔は既に変化が解けている。小貉は、
「馬鹿者! 何をするか!」
 と、大層怒って、大貉を叱咤した。牙を剥いた小貉に、大貉は小さくなって「すまねえ」と詫びた。
「いいからさっさとそこをどけ!」
 小貉に怒鳴られて大貉は慌てて腹の上からどいた。
 紛れもなく、半助から玉を奪ったあの二人組の黒貉だった。
「まったく、お前はなんでいつもいつもそうなんだ。兄を押しつぶす馬鹿がいるか!」
「ごめんよ。でも、だって、あやつが急にどくから」
「言い訳するでない! しかし、」
小貉は大貉を一睨みしてから、険の浮かぶ顔をこちらへ向けた。
「貴様、いつから気づいていた」
 半助は、悪いと思いつつも正直に答えた。
「初めからですよ。二度も騙されません」
 半助は言ったが、それに気づけたのは今懐にあるもののお陰だ。
それだけ貉の変化は見事であった。だが所詮は獣の頭。着物の裾までには気がまわらなかったようだ。
半助は墓場で彩の着物の切れ端を拾った。見たところ、それは裾の部分で、貉の化けた彩の着物の裾がきれいなままだったのでおかしいと、その正体に気づけたのだ。
「猫も賢くなるものなのだな」
「あなた方が変化を知らぬのです。変化するならば、変化する相手のことをよく知らねばなりません」
考えてみれば、彩があんな行動に出るはずがないのだ。兄と言い争いになっても添い遂げたいと思っている許嫁がおるというのに、己のような男に言い寄ってくるはずがないのだ。そう考えると、どうしてか気落ちする。
「猫に変化を指導されるとは思わなかった。しかし、きさまが生きていたとは驚きだ」
「あなたが化けていた人間の女子に助けてもらったのですよ」
「どうもそうらしいな」小貉はにやりと笑った。その横で、大貉のほうは腹を抱えるほど大笑いしている。
「怪妖が人間に助けられるなど、聞いたことがない。なんとみっともない話か」ということだ。
だが半助は笑われても気にならなかった。半妖とバカにされるのは慣れているし、助けられたことには感謝している。
 むしろ小貉のほうが鬱陶しげに大貉を横目でチラと見、それから半助に向き直って言った。
「それで、お前はその恩返しに雨を降らせようとしていると聞いたが、よもや真のことではあるまい」
「本当のことです」
 半助が答えると、小貉は口の片端をあげた。
「愚かな。怪妖が人を助けるなど。あの女が適当なことを抜かしておるのかと思えば本当だったとはな」
「彩どのはどこです」小貉の嘲りに、半助は構わずに言った。すると、
「喰った」
 一瞬怯んだが、そんなはずはないと首を振る。
「嘘です。まだ匂いがする。私の鼻はごまかせませんよ」
 小貉は忌々しげに舌打ちをしたが、半助はめげずに追及する。
「彩どのは私たちのいさかいには関係がない。家に帰してあげてください」
「そうはいかぬ。あれは我らの夕餉に致すのじゃ」
「そんなこと東狐さまがお許しになるはずがありません」
 大貉がまた笑う。
「お許しも何も、この池は我らが見張るように頼まれておるんだ」
 半助は大貉の言葉に眉をひそめた。
枯らずの池は神の領域だ。その番人と言えば、大役。そんな重要な役目を、この、言ってみればちんぴらのような連中に任すものだろうか。
「疑っておるな。だが、本当のことよ」
 大貉は半助の表情を見て眉を上げると、得意気に語った。
「この池の水を盗もうとする奴は俺たちが何をしてもいいことになっているんだ。何しろ、俺たちは東狐さまの使いになったんじゃ。まあ、それも偶然お前が落ちてきてくれたお陰だからな。その点はお前にも感謝せねばならんなあ」
「偶然落ちてきた?」
 半助が眉をひそめて訊き返すと、大貉は大仰に肯く。
「そうさ。俺たちゃあの日人間の匂いを嗅ぎつけて雪原に向かったんだ。そうしたら青い光が空に走ったかと思うと、お前が空から落ちてきてよ。そんで変な鳥野郎がお前を捕まえろって命じてきたんだ。玉を奪えば、神官にしてくれるっていってな。お陰で鼻つまみ者だった俺たちも、はれて池の番人よ」
「そのへんにしておけ」
 小貉はそれをたしなめて言った。
「下手に口を開くな。余計なことをぬかせば舌をぬかれるぞ」
 大貉はそう言われると、ビクッと身体を震わせて口をそれきり閉じてしまった。何か聞き出すのなら、大貉のほうであったのだが根の臆病なこの大貉はこれ以上はしゃべらないだろう。半助は仕方なく小貉へ問うた。
「どういうことなのですか、一体」
 小貉は顔をそらしてしらばっくれるが、ここまで聞けばわかる。
 鳥、といえば神の使い。東狐に命ぜられた鳥が、この黒貉たちを動かし半助から玉を奪ったのだとしたら――。
「あなたがたは、東狐さまに命ぜられて玉を盗んだのですね」
 自分で言いながら愕然とした。
一体なんのためにだ。国を人間を守らねばならないはずの東狐がどうしてそんなことをするのか、半助にはまるでわからなかった。 
東狐様は一体どうしてしまったのだろう。
何か理由があるのだと思いたい。
だが、せんがんむしは言った。
「赤の池へ行け。ただし、そこでなにが待ち受けていようとお前が受け入れる覚悟があるのならばな」
 その覚悟とはこのことだったのか。天狐を信じる気持ちが裏切られることになろうとは思いもしなかった。成程確かに覚悟の必要なことだった。貉が現れたとき、こやつらを倒せば水が戻る、すべてが平和になると半助は一瞬ばかり考えた。だが甘かった。
「池を占領しているのも、東狐様の命によるもの――」
 だとしたら簡単にたてつけるものではない。貉を倒せばそれでよいというものではないではないか。
待てよ、
半助ははっとした。
旱魃――。
それは、雨ふらしの怪妖を排除すればできることである。そして、頼みの枯らずの池を人間が使えぬようにしているのは東狐自身だということは……。
自演自作ではないか。
「東から水を奪い、旱魃をもたらしているのは東狐様であったのか」
「今頃気づいたか。所詮猫だな」
 小貉は鼻で笑った。
「一体何が目的です」
 半助の問いに、小貉は肩をすくめた。
「そのようなこと我らが知る由もない。我らはただ言われた通りにしているまでだからな」
 さもあろう。俄に使いとなった彼らの知るところではない。だが、旱魃の解除を条件に東狐が望んだものを見てみればわかる。
 東狐は、彩を嫁にするため旱魃にしたのだ。それ以外考えられない。
 なんと勝手な。何と横暴な。
 半助は拳を握りしめていた。これほど怒りを覚えたことはない。
「水がなければ人間は生きていけぬからな。大方、人を皆殺しにでもしたいのではないか」
 小貉が言った。
「そんな――」悪党の考え方は悪党がよくわかるものなのであろうか。そんな恐ろしいこと、半助は思いつきもしなかった。だが、確かにない話ではない。彩が狐の嫁となれば、妖狐になる。東狐にとって人間はいらなくなる。
「案外、玉もそのことに使うのかもしれんな」
 貉にとっても、自分らの手柄である玉がどう使われるのかは興味があるのだろう。
 敵である半助を前にしながら、手で顎をなでるように考えにふけっている。隙だらけである。
 だが半助も攻撃する気にはならなかった。
 東狐は、本当に人間を滅ぼすために玉を奪ったのか?
それとも、他に何か理由があるのか。
初めから考えてみたかった。
そもそも、西狐の下から半助に玉を持ちださせたのは本当に東狐なのだろうか。
元々、東狐が受け取る手筈になっていたのなら、あのような手荒いことはせぬはずだ。
だとすれば、半助に玉を持ちださせたものから、東狐が玉を守ろうとしたとも考えられる。そこまで考えて半助はすぐに首を振った。
どうしても天狐を擁護するような考えに陥ってしまうが、やはりそれには無理がある。
東狐がわざわざ鳥を使って半助を東へ呼ぶ必要性がないのだ。
西狐へ警報すればよいこと。手出しは、もとより許されていない。
やはり、東狐が玉を奪うために画策したこととしか思えない。
鎮護の間を出て気を失った半助を鳥が運んでいた。青い光が何なのかわからないが、何かが起きて鳥は半助を落としたに違いない。
きっとそれが予想外の出来事だったのだ。
東狐は半助をそのまま鳥で城まで運ぶつもりだったに違いない。玉には必ず守護者がいる。玉だけを単独で持ち出すことはできない。常に命の温度に触れていなければ、効力を失うものである。だから、半助ごと運び、玉を奪うつもりだったのだ。
玉を落とした鳥は焦ったであろう。鳥は地上で戦う力を持たない。そこに都合よく現れた貉へ協力を要請したのだ。
そして、玉は奪われた。黒貉に。東狐に。
では、あの声は、半助が鎮護の間で聞いた声は、やはり東狐のものだったのだ。
そう考えるのが自然だが、半助はどうも腑に落ちなかった。
天狐の術には、離れた相手へ声を聞かす術がある。だが、それには相手を知っておく必要がある。だが、半助は東狐に会ったことがない。第一、何故半助が玉の守護者であることを知っていたのか。 
神官の中でも、誰がどの役目についたかは極力明かさぬ決まりとなっているものだ。半助が玉の守護者であったことを知る者は限られている。同僚は無論、それ以外では――ただ一人だけいる。
半助は激しくかぶりを振った。
まさか。彼が裏切るわけがない。
きっと、彼との会話を誰かに聞かれていたのだ。
そして、それが東狐の耳に入り、半助は利用されたのだ。相手を知らずとも声を飛ばせる術が東狐には使えたのかもしれないではないか。
半助は深い深い溜息をついた。
 結局、よくわからなくなってきた。
「わしは人間がいなくなると困るなあ」
 大貉が呟くように言って、小貉が答えた。
「わたしとてあまりそれは望んでおらぬ」貉は人間を食べる。人間がいなくなれば餌がなくなる。
「だが、それに変わるものを、東狐さまはきっと用意してくださるだろうよ」
「それもそうか」
 カラカラと笑う貉たちを見て、半助の胸には深い悲しみが湧いてきた。彼らにとって人間は餌でしかないのか。もっと大きな、国を動かすような危機が迫っているのを、この貉は全然感じていない。まるで他人事だと思っている。
「今に、あなた方には罰が当たりますよ」
 貉どもは半助のその言葉に顔を見合わせて笑った。
「罰が怖くて悪さができるか。そもそも、罰が当たるのは人間であろう」
「何故人間が」
「主を殺したからだ」
「え」
 半助は絶句した。
 そういえば、主の姿が見えない。
 西の鮒が池にせんがんむしがいるように、東の赤の池にも水を司る怪妖が住んでいるはずだ。雨を降らすのは彼らの役目。
「まさか、人間がそのようなことをするとは思えません」
半助は人間の優しさを知っている。彩も義範も己を助けてくれたではないか。
しかし、小貉は鼻で笑って言った。
「人間ほど残酷な生き物はない」
すると、大貉も大げさに肩を震わして言った。
「そうだそうだ。わしたちは、主をここから追いだしただけだ。村の見物にでも行けと言ってな。それから主は戻ってこん」
「怪妖を毛嫌いしておる村人たちが、主を見つけてどうしたのかは想像に難くなかろう。とにかくそういう訳で、主が帰ってこぬので、仕方なく我らだけでこうして池を守っておるのよ」
「時折雨乞いにやってくる人間は良い我らの餌じゃな」
 がははと大貉が笑い、くつくつと小貉が笑った。
半助は腹が煮え立つような思いだった。
「なんということを……」
 怪妖といえど、森羅万象を司る怪妖は神に近く、天狐よりも時には位が高いとされている。それを、そのように無下に扱うとは畏れ多いもいいところ。なんと悪辣な怪妖どもなのであろうか。
「こんなことをしてよいとお思いですか」
「東狐さまがお許しになっておることだ。この世は東狐さまの支配下」
「違います。西には西狐さまが、更には山王さまがおりまする。このような悪事、見逃しておくわけがございませぬぞ」
「おぬしもわからんやつだ。これは悪事などではない」
 小貉はまた片口で笑う。
「我らは、行方知れずになってしまった主のためにこの赤池を守っておるだけよ。何の悪いことがあろうか。人を喰らうのはその目的のため。ここへくる人間は皆、水を盗もうという不届き者だ。そもそも我らの住処を先に奪うたのは人間のほうではないか。喰らうて何が悪い。」
 ぬけぬけと言った。半助はまた言葉を失いかけて、だが気を取り直して言った。
「悪いに決まっている。人には、必ずその人を愛する誰かがいるものです」彩と義範の絆を半助は感じた。彩を失えば義範が悲しむ。義範を失えば彩が悲しむ。悲しむ人の姿を、見たくなどない。
「あなた方だって、大切なものを失ったら、哀しいでしょう」それは、怪妖とて同じはずではないか。この心がわからぬはずがない。正しい正しくないは、人間も怪妖も同じことのはずだ。
呻くように大貉が言った。
「当たり前だ。だが、それを先にやったのは人間じゃ」
 顔はもう笑っていなかった。それを受けて小貉も、冷ややかに言った。
「その通り。人間は怪妖から大切なものを散々奪ってきた。それを、一人二人、餌にするぐらいのことで目くじらたてられては筋が通らないのではないか」
 半助は、口をつぐんだ。この二人は半助よりもずっと長く生きてきて、半助の知らないことを沢山知っている。
 人間から奪われた――それがどういうものなのか、半助にはわからず、どう考えてよいかわからなかった。
「だからといって、人間を傷つけていいことにはならない。彼らだって尊い命であることには変わりないのです。お願いです。もう、こんなことは止めてください」
 半助はその場に膝をついて、頭を下げた。
 神官は、無暗に頭を下げてはならない。だが、それは今守らずともよいきまりだ。
「どうか、彩どのと玉を、返してくださいませぬか」
 貉が玉を持っていないのは知っている。だが、力になってほしかった。貉は人間を恨んでいる。だが、根から悪いわけではないだろう。仕方なく、こういう方向にながれてきてしまった。それが罪にならぬとは言わない。己の弱さが招いたことだ。だが、正しいことを正しいと知っているからこそ、こやつらは悪さをするのだ。そう、信じたかった。
 しばらくの、間があった。その間、半助は土に額を付け続けた。
「これはよくばりな猫よ」
顔を上げると、小貉と大貉は顔を見合わせて笑っていた。
口を開いたのは、小貉のほうであった。
「どちらも返せぬな。玉はここにはない。あの女子は夕餉だと申しておる。故、一つもお前にくれてやるものなどはないわ」
 半助は唇を噛んだ。やはり、通じぬか――。
 玉がないと言うのは、本当であろう。それは恐らくもう既に東狐の手に渡っているのかもしれない。
これ以上考えても仕方ない。とにかく、今は彩を助け出さねば。考えるのはその後だ。次の手だ。
 半助は不意に不敵な表情を作ってみせた。うまくできているものか……。
「下手に出ていかぬのであれば、今度は上から参るしかありませんな」
「なんだと」
 小貉が、半助の表情の変化をいささか気にしたのか真顔に戻って言った。どうやらかかったらしい。
「良いのですか」半助はニヤリとして言った。
「何がじゃ」
「彩どのは、東狐さまの嫁になる身の上のお方ですよ。それを、あなた方が喰ってしまったと知ったら、さぞやお怒りになるでしょうね」
「なに」小貉は青ざめて、大貉を振り向いて訊いた。
「今の話はまことか」
 すると訊かれた大貉はもっと狼狽えて答えた。
「俺が知るはずなかろう」
 やはり、思った通り二人は東国内の動きなどには疎いようだ。
「おい。今の話は本当なのか」
 大貉が半助に訊いてきた。
「信じられぬと申すなら、本人に聞けばよろしいのではないですか」
半助が言うと、「よし。そうだな」とでくのぼうは、踵を返すなり制する小貉の声も聞かずに藪の方へ向かっていった。
「よさぬか!」
 小貉は叫んだが、そのとき既に大貉は一本の杉の木を押し倒すところであった。その剛力ぶりに驚きつつも、半助はその木の根元に彩が猿轡をはめられ、身体を蔓で縛られて横たえているのを見つけた。
「彩どの!」
 素早く地を蹴り、大貉に当身を食らわした。けれど体格差がありすぎて、半助のほうが反対に弾かれてしまった。めげずに起き上ろうとすると、大貉の半助を掴もうとする腕が伸びてくる。それを躱して、伸びてきた腕にとびあがるや半助はたてた爪で大貉の顔を引掻いた。
「ぎゃっ。こいつまたひっかきやがった!」
 半助は大貉の怯む間に着地するや彩の手をひっぱりあげ、身体を肩に担いだ。
「すみません。少し揺れますが」
 半助は跳躍して、手近の木の枝へ乗る。
「待たぬか」
 後ろを振り返ると小貉が追いかけてこようとしている。そちらを向いて、「発」と呪を唱えるなり小貉が悲鳴をあげてすっころんだ。
「うわあああ。呑みこまれる。助けてくれええ」
「ど、どうしたのじゃ兄者」
 大貉は半助と小貉を順に眺め、ためらったようすだったが小貉の方へ身体を向けた。
「覚えてろよ、半妖野郎が」
 地面でじたばたともがく小貉を見て、半助は気の毒にも思うが、小気味よくも思った。彼が苦しんでいるのはただの幻に過ぎない。
半助は、貉が化けた彩の足に触れたときに幻術の種を仕込んでおいたのだ。
そうとは知らぬ小貉は今頃自分が地面の中に呑みこまれていく恐怖を味わっているに違いない。大貉はただじたばたとしながら苦しんでいる小貉を見てわけがわからない。
 まともにぶつかっては勝ち目はない。だがこうすれば、逃げる時間くらいは稼げる。幻術は怪猫の得意とするところだ。
 一瞬、戻って彼らに問いただそうかとも考えた。
 もしかしたら彼らが嘘をついているのかもしれない。玉を奪ったのも、池を乗っ取ったのも、彼らが勝手にやったことかもしれない。  
だが、だとすればこんなところにとどまっている理由がない。彼らのことだ、玉の力で好きなことをしているに違いない。
認めるしかないのだ、事実を。受け入れると、せんがんむしに約束した。
玉を持ちだした半助を西から出すのに鳥を使ったのが何よりの証拠だ。彼らを使えるのは、この現世で天狐しかいない。
しかし貉の話によれば、鳥が半助を取り落として貉に追わせたらしいが。どうして鳥は半助を落としてしまったのか。最初は広い場所へ鳥がわざと落としたものかと思ったが、どうもそうではないらしい。
普通に考えれば恐らくそのまま東狐の下まで運ぶ手筈だったはずだ。うっかり、ということも考えにくい。東の目立たぬ場で口封じのために半助を始末しようと考えたのであろうか? そして代わりに貉を守護者にしようと? それならその役目のものを用意しておくであろう。急に貉を使うことになったいきさつを考えれば、やはり何か異変が起きたのだ。半助を取り落とすような何か。
貉が青い光を見たと言っていた。それが手掛かりだろう。青い光。青い?
半助は、首に下げている首飾りが、急にヒヤリとしたような気がした。そういえばそれは、いつぞやは急に重くなった。
あれは、錯覚だったのか、真に起こったことだったのか。どちらにしろ、この首飾りの青水晶はもしかしたら……。
 半助は首を振った。それ以上は考えたくなかった。
とにかく、彩は助け出した。あとは、雨を降らすだけだ。
彩と、約束したのだ。
その約束だけは果たしたい。東狐の陰謀をまず阻止するためには、雨を降らすことだ。
池が駄目なら、あとはあそこしかない。東狐の手も及ばぬ、あそこ。
直に西国からの追っ手が半助を見つけるであろう。操られていた、とはいえ半助が玉を盗み出したことには変わりない。
半助は犯罪者だ。
時がない。急がねば。
 半助は木の枝を跳び移りながら森の奥へと入っていった。
しおりを挟む

処理中です...