蛇逃の滝

九影歌介

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「もうここまでくれば大丈夫でしょう」
 半助が彩を下ろすと、彩はぐったりと岩にもたれかかって、その場に座りこんでしまった。
「大丈夫ですか。酔ってしまいましたか」
 急いでいるとはいえ、あまり乱暴に担ぎすぎたか。
 半助がしゃがんで彩の顔を覗きこむと、彩が大きな眼を半助に向けてきた。思わず顔を引いてしまう。目が合っただけなのに、心臓が大きく波打つような音をたてる。今担いできたときには平気だったのに、こうして改めて向かいあうとやはりどうしてか身が引ける。
 彩は半助を安心させるためなのか、微かに笑って言った。
「そうではありません。助けて頂き、感謝しております。ただ、動揺で力が抜けてしまって」
「さもありましょう。無理もございません。私も驚いています」
 半助はうつむいた。
まさか、東国の守り神のように思われていた東狐が、悪しき怪妖と手を組んでいたとは思いもしなかった。
「東狐さまは、初めから私を嫁にしたくて水を枯らせたのでしょうか」
 唐突な彩の言葉に、半助は戸惑った。東狐の企みに気づいたのは半助だけではなかったのだ。どう、答えたものか――。
彩は半助に真剣なまなざしを向けてくる。
求めているのは同意なのか、否定なのか。いや、違うと言ってほしいに決まっている。だが、真実はそうではない。
東狐は、彩を嫁にほしいばかりに、旱魃をもたらしたのかもしれないのだ。天狐とはいえ、狐とは元来そういうずるがしこい生き物だ。そういう灰汁抜きのできた者だけが天狐になれるという訳でもないのだ。 
けれど、ならば玉は何に使うのだろうか。
ふとその疑問が頭をよぎる。
旱魃をもたらし、彩にその解消を条件に「はい」と言わせることができるのなら、玉は彩を嫁にするために盗んだものではないであろう。
ものかたちの世を超える力を持つ宝生の玉。東狐は、その玉を奪い、一体何をするつもりなのか。天狐にできぬことで、玉の力においてはできることだ。だがそもそも天狐にできぬことなど、あるものか。ある。それは、命を奪うことだ。もしかしたら、本当に貉が言っていたようなことを東狐は考えているのか?
人間を滅ぼすなんて、そんな恐ろしいこと――。
想像できなかった。そんなことする理由がない。理解できない。やはり、そこまではないだろう。では、結局なんのために玉が必要なのか。となるとやはりわからない。己が考えても仕方のないことだとは思うが、考えずにはいられなかった。
己のしでかしたことの大きさを思うと、罪の重さに押しつぶされそうになる。だがそれから逃れようとしても、心はいつもそちらの方を向くし、罪の意識は着かず離れず側にある。
己にできることは何もないだろう。だからといって、このままでいいのだろうか。西狐さまと他の神官に任せておけば大丈夫と思っていたが、それでよいのか。己の不始末を人任せにしておいて、いいはずなどない。ただ――己に何ができるのかがわからない。
「また、考えこんでおられる」
 彩がくすりと笑うように言った。
「あ、すみません。悪い癖で」
「いえ。私が答えにくいことを訊いてしまったからですね」
 彩はうつむき、
 あなたはお優しいから。
 と言った。
 半助は、胸を打たれたような烈しい衝動を感じた。
己に何ができるのかがわからない。わからないが、この人の助けになりたい。
「私は、優しくなどありません。臆病なだけです」
 半助のふと視線を向けた先に、開き始めた梅の花があった。まだ六分ほどであろうか。その梅の花は、開ききらぬその蕾の中に何を思うのであろうか。期待か憂いか。
 半助が彩に視線を戻すと、その目が潤んでいる。薄闇にもわかるほど、大粒の涙を目に浮かべている。
 半助はそれを見てたまらなくなって言った。
「真実がたとえそうだとしても、彩どのが心病む必要はないですよ」
「ですが、」
「彩どのに何の罪があります」
「でも私がいなければこんなことにはならなかったのでしょう。私がいなければ、村の人が水に苦しむことはなかった。私がいなければ――」
「やめてください」
 半助は己の声に驚きつつも、泣き伏す彩の手を知らず握っていた。
「いなければ、などと言わないでください」
 遠慮のない瞳が半助を真正面から見つめてくる。今度は逃げなかった。今までその瞳が苦手だったのは、彩が人の内側へと入りこんでくるからだ。傷つくことを恐れず、ただ信じたままに進んでいく。その強さに、半助は気圧されていた。
「私は、彩どのがいなくては嫌です。彩どのがいなければ、私はあの時、命を落としていたかもしれない。私は、彩どのに感謝しています。彩どのには力をもらう。私にとってあなたは、いなければならない人です」
 彩が頬を染めるのを見て、半助もたちまち赤面した。私は、なんということを言っているのだ。
「あの、誤解なさらないでください。これは――」
「嬉しいです」
 彩は静かに言って、ほほ笑んだ。その笑顔に半助の胸が掴まれた気がした。
「あなたにそう言って頂くと、私のようなものでも、いていいのだと思えます」
「いていいに決まっています」
 半助は言って、彩の手を握りっぱなしだったことに気づいて慌てて離した。
「すみません。ご無礼を」
 彩はくすりと笑った。
「よいのに」
「そういうわけにはいきません」彩には、己之吉という己よりも遥かに立派な許嫁がいるのだ。義範は己之吉のことをあまりよくは思っていないようだが、それは可愛い妹を嫁に出したくないがための情であろう。
「とにかく、彩どのが今度のことで気に病む必要はないのです。悪いのは、」
 言おうとして、やはり躊躇する。口にしてしまえば、それを本当に受け入れるしかない。だが、それが目をそらしてはいけない事実なのだ。
 半助は唾をゴクリと飲んでからきっぱりと言った。
「東狐さまの悪事を許してはなりません」
 だが、そのために己のできることはなんなのだ。やはり何もない、としか思えない。
 西狐さまに訴えれば、然るべき手段に出るであろう。しかし、西の宝が東の長に盗まれたとあっては、東西の戦にもなりかねない。そうなれば、人間にも被害が及ぶ。己の招いたことで、そんなことにはなってほしくなかった。
 どうすればいい。どうすれば、これ以上誰も傷つかずに済むのか。
 己は、本当になんてことをしてしまったのだろう……。
「悪いのは、東狐さまなのでしょう」
 不意に言われて振り向くと、彩が半助の心の中まで覗き込むような瞳で見つめていた。
「悪いのは、あなたではありません」
 見抜かれていたのだ。
「私は――」
「悪いのはあなたではなない」
 彩は半助の言葉も考えも制するように言った。
「でも、だからと言ってただ見ていていいという訳でもありませぬね」
 意味ありげな彩の言葉に、半助は首を傾げた。
「何をなさろうと言うのですか」
「水を探します。何か宛てはあるのでしょう」
 彩は決めつけてそう言ってきた。確かに、
「宛ては、ないことはございませんが……。ですが、水を探したところで、また東狐さまに奪われてしまいますよ」
「それでも、今は水を探すしかないのではありませぬか。水があれば、とりあえず今度の東狐の申し出は断れます」半助が考えていたこと同じことを彩は言った。だが、彩を巻き込むつもりはなかった。自分一人で向かおうと思っていたのだ。だが、彩はそんな半助の心づもりまで読んだように、ツンとして言い放った。
「私は狐の嫁になどなりたくないのです。また東狐がなにか仕掛けてきたらそのときはそのときでまた考えます。でも今は、水を探さないと。村のためにも。そして、あなたのためにも」
「私の、ためですか」躊躇うように訊き返すと、彩のほうは迷いなく肯いた。
 暗闇の中に彩の白い首筋が浮き立って見え、半助は知らず喉を鳴らしていた。彩はそれに気づかずに続けた。
「貉どもが話しているのを聞いたのです。あなたは、西狐さまの下から宝生の玉を持ちだして、それを貉どもに奪われたのでしょう。そんな大変なときに、私たちのことなど気にしてなんとお人よしな……」
 彩は嘆くように言って、首を振った。
「だから私もあなたのために何かできぬかと、穴倉に閉じ込められているときにずっと考えていたのです。そして、やっと思いつきました。あなたは、水を探すべきです。水を探して、雨が降れば東狐さまは私を嫁にする新たな手立てを考える。そのために旱魃を起こすような卑怯な真似までする東狐ならば、必ずなにかしてくるはずです。ですがその前に、あなたが交渉すればいい。私と、玉とを引き換えにすることを」
「そ、そんなことできません。できませんよ!」
 半助は慌てて首を振った。
「どうしてですか。確かに、乱暴な案だとは思います。うまくいくかどうかもわかりません。ですが、やってみる価値はあるでしょう。そのためにも、今はまず少しでも優位な立場に立たねばなりませぬ」
「待ってください。やってみるとあなたは言いますが、それをやってみたら、あなたは東狐さまの嫁になるのですよ」
「構いません」
 きっぱりと言い切る彩に、半助は一瞬言葉を失った。
「構わないって……そんなに嫌がっているのにですか」
「無論、ただではこの身体差し上げたくはありません。ですが、それがあなたを助けるのと引き換えになるのであれば、私は喜んで狐にだってこの身を捧げます」
「何をおっしゃっているのですか」半助はますます焦って言った。
男気にも程がある。まして、彩は女子だろうに。どうしてそう潔いことが言えるのか。
「そのようなことなさらずとも、玉のことは西狐さまが何とかして下さるはずです。もしかしたら、戦になるやもしれませぬが、西狐さまとてそうなることは望んでいない。きっと、最善の策でどうにかしてくださいますから。どうか、彩どのはそのようなことはお考えにならずに。無論、水のことが心配とあらば私が引き続き手立てを考えますゆえ。彩どのは、家へお帰りください。私が送ってゆきます」
「帰りません」
 言いきってそっぽを向く彩に、半助は困り果てた。いつの間にか月明かりが照っている。そういえば、頃合いというのに悪鬼が現れない。何故か、と思えば彩の懐から悪鬼避けの鈴の気配を感じた。
「その鈴は――」
 半助が問うと、「兄がくれました」と綾は答える。
「義範どのが」半助は愕然とした。てっきり、彩が勝手に家を出てきたものかと思ったが、義範が納得の上見送っていたとは。一体、どういうつもりなのか。兄が心配していると言おうとしたのに、その説得は無駄ではないか。
「兄は私のやりたいようにやれと申してくれました」
 彩は半助の考えに気づいたのか、勝ち誇ったように言った。
「あなたが水のために動くと言うのであれば、私は帰るわけにはいきません。これは私の村の問題でございますゆえ」
「困ります」
「困るのはこちらです!」怒鳴られて、半助は目を丸くした。彩がぽろぽろと大粒の涙を流し始めたのだ。
「勝手に、あのようなことされては困るのです」
「あのようなこと……」半助がなんのことやらわからないでいると、すっと彩の手が伸びて半助の額に触れた。
「もう跡もないのですね」
 不思議そうに己の額を見つめる彩を見て、なんのことを言っているのかやっとわかった。
「礫を受けた傷のことですか」
 彩は肯く。
「痛かったでしょう」
 半助は首を振った。
「あれくらいのことは平気です。怪妖ですゆえ」
「半妖なのでしょう」彩のその切り返しに、半助はドキリとした。
だが知られているのならもはや隠しても仕方のないこと。
「そうです。私の父は、人間でした」
 半助はうなだれて告げた。
「母は怪妖で、生まれた私は人間でも怪妖でもない、中途半端なものでした。だから、名前も半助などと言うのでしょうね」
 半端な己には、よく似合っている名だ。
「半端などと、どうしてそのようなことを言うのです」
 彩は怒ったように言った。己のために怒ってくれている気持ちは嬉しいが、事実は事実なのだ。
「己のことは己が一番よく知っておりますから」己の存在に意味のないことなど、十分すぎるほどわかっている。
「私はずっと、狐になりたかったんです」
 彩にこんなことを告げる気はなかった。だが、どうしてか彩を前にすると、その瞳に緊張してしまうくせに、一方では心の扉が軽くなるような気がして口が滑ってしまう。
「狐に?」
 促されると、半助は肯いて言っていた。
「天狐さまのようになりたくて、私は術を学んだ。だけど、猫が狐になれるわけがありません。それは、わかっているのですが、諦めきれないのです」 
 半助は密かに唇を噛んだ。
 術を会得して、憧れの天狐に近づくことはできた。
けれど、決して猫が狐になれることなどない。そんなことは、わかっていた。だけど、それでもなりたいのだ。狐に、なりたい。中途半端ではない己に、なりたい。だがもうそれは敵わぬ夢だ。
己は、このまま半端のままに終わる。
 半助は、こみあげる涙をごまかすようにして笑って言った。
「やっぱり、油揚げより肉のほうが好きですしね。彩さんが作ってくれた人間の食べる物も、すごくおいしかった。私はやっぱり、半分猫で半分人間なんです。それ以外の者にはなれない」
 半助は笑って見せた。だが彩は笑ってくれず、意外なことをきっぱりと言った。
「そんなの、当たり前です」
「当たり前……」
「人間は人間、怪妖は怪妖。それ以外にはなれません。半妖もまた半妖として、それ以外になれぬのは当たり前のことではありませんか。私には、半妖の何がいけないのかわかりませぬ」
「半妖は、禁忌の子と言われております。災いをもたらすのだと」
「そんなの迷信でしょう」彩は何者をも恐れぬ態度で言いきった。
「しかし、事実私は国を揺らがすようなことをしでかしてしまいました」
「別にそれは半妖のせいじゃない。私にはあなたの駄目なところがわかってきた気がします」
「ダメなところ……」
「ええ。あなたは、きっと色んなことを半妖のせいにしてきたのでしょう。ですが、半妖であることがあなたの力にもなっている。怪妖だからといって、皆が天狐になれるわけではないのでしょう。あなたは怪妖に負けたくなくて、人一倍の努力をしてそこに近づいた」
「そうかもしれませんが、」
「ならば、あなたは半妖を恥じることはない」
 半助は、何も言えず、彩の顔を見つめていた。揺らぎない信念がそこに見える気がする。
「自分を卑下することは、他人も卑下していることと同じことですよ。聞いていて本当に不愉快。私はあなたという人を評価しているのに、あなたはそれを否定しているのよ」
言われてみればそうだが。半助はすっかり肩をすぼめて小さくなっている。構わずに彩はどんどん言う。
「あなたは、もっとご自分を認めてあげたほうがよいと思います」
 彩は最後にそう言ってほほ笑んだ。その笑顔がズルイ。怖い人と思うのに、その笑顔が全部打ち消してしまうのだ。
「あなたは、憎めぬ怪妖です。私は、初めてあなたのようなひとに会いました。それは、やはり半分人間だからなのでしょうか」
 彩は、深いところまで、見ようとするかのように半助の瞳を覗きこんでくる。
「半分人間だから、あなたは人間の味方をしてくれるのですか」
 彩の問いに、半助は戸惑った。
「じつのところ、己でもよくわからないのです。ただ、困っている彩どのを見て、気づいたら己にできることは何かと考えておりました」
 彩はそれを聞いてくすりと笑った。彩の笑顔を見ると、花を見ているかのような和んだ心持になる。
「では、何とかしてください。私と一緒に、水を探してください」
「いけません。水は私に任せて彩どのは今すぐお帰りにならないと」
「帰らないと言っているでしょう」またふりだしに戻ってしまった。半助は困り果てて黙り込んだ。ここぞとばかりに彩は言う。
「私は、あなたを追ってここへきたのです。あなたと一緒に水を探そうと思って。そのあとのことはそのあとで考えればよいのです。うだうだと考えているのは好まぬのです。探すと決めた以上私は水を探し当てるまで帰らぬつもりです。それでもまだ帰れと言うのならば、あなた一人でお帰りになったらよいでしょう。私は帰りませぬ」
 理屈もなにもない。
 半助は呆気にとられて、仕方なく肯いた。
「わかりました。とにかく、夜も深くなってきておりますゆえ、どこか身を潜めるところを探しましょう。こんな山奥にいては、いつ怪妖に喰われるともわかりませぬゆえ」
 半助は彩を脅したつもりだったが、彩はけろりとしている。
「左様ですか。ならばさっさと行きませう」
 彩が立ち上がってさっさと歩きだしてしまうので、半助は慌てて後を追った。
「怖くはないのですか。悪鬼避けの鈴は、怪妖には利きませんよ」
「半助さまが守ってくださいますから」
「え」
 思わず足を止める半助を置いて、彩はすたすたと歩いていってしまう。
「ちょ、ちょっとお待ちください」
 半助は彩の斜め後ろに控えるようにして歩きながら言った。
「勿論彩どのに危険が及べば、全力でお助けしますが。あまり期待はしないでくださいよ。さっきも申しあげたとおり、私は半妖でして、力もないのです」
「それでも助けてくれたではありませぬか」
 彩が急に立ち止まって振り返るので、半助は咄嗟に止まれず彩にぶつかりそうになった。
 小柄な半助の身長は彩とさほど変わらず、顔のぶつかる寸前で半助はなんとか思いとどまった。
彩の吐息を間近に感じて、半助の心臓は早鐘を打つように鳴りはじめていた。慌てて身を引こうとする半助の袖を、彩が掴み止めて身を寄せた。
 思わず呼吸を止める。彩の頬が半助の肩にのっている。吐息が熱をもって首筋に辺り、ほのかな香りは梅の芳香に似ていて半助は夢を見ているような心持になった。
 また貉に化かされているのではなかろうかと疑うほどの、想像だにしない状況に半助は戸惑いを隠せずにいた。
「あの、彩どの」
「嬉しかったのです。本当に」
 彩はそっと半助の胸に手を添えて言った。
「道に迷い心細くいたらあの貉に掴まって。もうだめかと思っていたら、あなたが助けにきてくれました。それが、どれだけ心強かったことか」
「彩どの」怖い思いをしたのだと思うと彩が気の毒で、うかつにもその肩を抱きそうになった。だがそれは半助の役目ではあるまい。 

己の役目は、無事彩を義範と己之吉の待つ村へ帰すことだ。――けれど。
 彩が望むのなら、もう少しそのままで。
 さわさわと、足下の草が風に囁いていた。どれほどの時が過ぎたであろう。半妖の目にも、暗さが沁みる刻限となっていた。半助の鼓動は依然はやいままだ。どうしたものかと思っていると、ふわりと彩が口を開いた。
「もっと自信をお持ちなってください」
 彩はそう言って、ゆっくりと身を半助から離した。
 答えられずにいると、彩は励ますようにほほ笑んだ。闇夜にもその笑顔は映えて見える。不思議だった。彩といると、闇が怖くない。
「あなたは、自分の思っているよりもずっと素敵な方ですよ」
 そんなことを言われたのは初めてで、半助はますますなんと答えてよいかわからずにいた。
「ありがとうございます」かろうじてそう返したものの、否定するのを忘れていた。
 素敵な方――。それはどういう意味なのだろうか。
 夜は深けて、辺りに姿を現し始めた怪妖たちが嘲笑っているような気がした。
 人間の娘に恋をするなど、何と愚かしいことよ。
 まして、許嫁のおる相手に。
 やはり半妖は所詮半妖なのだな。半端であって、何者でもなく、まともなことは何一つできぬ。愚かなことよ、愚かなことよ。
 聞きなれたはずの悪口に、半助は耳を覆いたくなった。
 己でも、許されぬ想いだとわかっている。だが、どうしようもないのだ。もう、それを自覚してしまった。必死でごまかしてきた想いが、もうとまらなくなっている。
 やり場のない慕情が、こんなにも苦しいものだとは。
 胸が積まる。だが、耐えるしかない。半助は息を吐き、明るい声で言った。
「行きましょう。怪妖が近づいてきています」
 半助は言って、彩の腕を掴んだ。
 せめて――守ることくらいは許されよう。
 だが不安は、拭いきれない。
迫りくる怪妖の気配は勘違いではなかった。しかも、それは測りしれないほどの妖力を持っている。俄に心臓が冷えた。
 その焦りを感じてか、早足に半助が先導するのへ、彩は懸命についてくる。
 だが、半助も夜目がきくわけではない。人間より見えはするものの、完全に闇となれば物を見ることは不可能だ。
 まずい。逃げても逃げても、それは追ってくる。しかも、つかず離れず、一定の距離を保っているのだ。
「あっ」
 彩が躓いたのか声をあげた。とっさに抱きかかえようとしたそのときだった。背筋に悪寒が走ったかと思うと、同時に両手足を縛り上げられていた。大の字にされて、左右から引きちぎられそうな力で引っ張られる。
 彩の悲鳴が耳へ入った。
「彩どの!」
 必死にもがくも、締め付ける蔓のようなものは余計にきつく締まってゆく。
「半助さま」彩の声が震えている。半助は叫んだ。
「何者かわかりませぬが、おやめください!」
 半助は辺りに響き渡る声で叫んだ。だが返事はない。代わりに、遠くからしわがれた翁の声が聞こえてきた。唄っている。
「旦那大黒だよァァァ
 おかみさんは恵比寿だよ
 入りくるお客は福の神だよ
 セリャァァ七間三尺その日のコマだよ
ズルコンズルコン」
 近づくように大きくなってきたその声は、妙な掛け声を残してピタリと止む。
 と、突然目の前にぼうっと白い火の玉のようなものが現れたかと思うと、それは辺りを照らし、徐々に大きさを増して丁度大の字になっている半助と同じほどの円になった。光は眩しいほどではなく、その後ろには竹林が続いて見える。その一本の竹がしなっている。はっとして上を見上げると、彩が両手を縛られ吊るされていた。
「彩どの!」
 半助は叫ぶも、もはやもがくことすらできない。だが、彩は縛られてはいるものの無事のようだ。
「あんげな娘っこの心配せんかてええがんに」
 しわがれた声が聞こえたかと思えば、目の前の白い炎のように揺れる淡い光が輪郭をもって翁の顔に変わった。細面で、眉もあごひげも長い。目は垂れて、開いているのか開いていないのかわからない。
「あなたは」
 半助の問いに、竹の裂けるような音が答える。
「他人はわしを竹爺と呼ぶ」
「竹爺……」
「樵だよ。こんげなよーさりに何しにわしんちよてついた」
 ひどくなまっていて何を言っているかわからなかった。
けれど、歓迎しているわけではなさそうだ。
「お願いします。彩どのを離してください」
「なにもーぞうかいとる。人間とめっとでもあるまいろ。半妖喰らえばもぎれるろも、人間の娘っこはうんめえろ。いっとこにと一緒にいなだくぃやあ」
 まるで何を言っているかわからない。
だが、竹爺はそんなことには構わず言うだけ言うとぱっと姿を消して、かと思えば彩を吊るしていた竹がメキメキと音をたてて裂け始めた。何が始まるのかと見ていると、裂けた竹は両手両足を持つ人の姿となって現れた。さっきの竹爺だ。彩はその手に吊るしたまま、竹爺は口を大きく開けた。
 彩を喰う気だと気づいて、半助の全身から血の気が引いた。
「彩どのっ」持てる限りの力を振り絞って、半助は竹爺に向かって妖気を飛ばした。それは矢をかたどって竹爺へ突き刺さる。竹爺は悲鳴を上げて、彩を取り落とした。
「こんの、うっせいいんごこめが」
「犬ではない、私は猫です」
 半助は緩んだ蔓から身を逃しながらそう叫び、竹爺の腿のあたりへ突き刺さった矢へ妖気を繋げた。それは、黄の光の紐のように見える。矢につながった紐をたぐるようにして半助は竹爺に近づいた。そうして、妖と妖の部分を繋げておけば言葉はわからずとも意思疎通を図れる。
 半助は彩を解放するように頼むが、竹爺は聞いてくれなかった。
「邪魔立てするな」そのようなことを口にして、竹爺は半助の妖気を弾き返した。肌の痺れるような竹爺の妖気に気圧されて、半助はうしろへにじり下がる。急に鉛を背負わされたかのような重みが身体を襲った。その場にへたり込みたくなるのを、半助はかろうじてこらえていた。彩を、助けなければ。だが、到底敵う相手でないことは、竹爺が二人の後を追ってきていたときからわかっていた。妖力の桁が違うのだ。
「すっぽけれ」
 不意に身体が軽くなったかと思うと、竹爺がそう言った。シャリシャリと言わせながら身体を縮め、半助と変わらぬ背丈になった竹爺が二三歩歩み出て「すっぽけれ」と繰り返した。
 半助がわからずにいると、「逃げれ」と竹爺は言い直した。
「半妖を殺すんはてまごいこて。わしはどーずるだて、んな、はーやくすっぽけれ」
 半助は首を振った。
「そういう訳にはいかないのです。私は、彩どのを見捨てるわけにはいかない」
「んな、へんなしだのー」
 竹爺はのんびりと言うが、ならば許さぬという厳しさが声の中にあった。今や小柄となった、笹色の一枚布をまとった白髪の老人がゆっくりと半助に近づいてくる。
「んな、死むぞ」
 竹爺が言ったときだった。半助の足下にうごめく気配を感じて、半助は咄嗟に跳びあがった。手近の木の枝に跳びあがり、地面から生え出た竹が追ってくるのを、次の木へ飛び移ってかわそうとした。だが、その目当ての木は半助の目の前で竹に変化したのだ。そしてそのまま半助を鞭のように地面へ叩き落した。
 着地もできず、背を強かに打った半助は呻いてしばらく息もできず地面をのたうった。彩は声を封じられているのか、口をぱくぱくしながら心配そうな顔を半助に向けていた。半助は無理に笑って見せてから、竹爺に向き直る。だが既に竹爺はその場から姿を消していた。そこに残っているのはただの竹。かと思えば、背後に殺気を感じ振り向くと同時に半助の足が掴まれ、急激に引っ張り上げられたかと思うとそのまままた地面に叩きつけられた。間を置かず、また半助の足を掴んだ竹は半助を天へ放り投げ、地面へ叩きつけようとした。
 ぎゅんと耳元で風が唸り、半助はもはやこれまでと観念した。
 地面が一瞬で近づいてきて、半助が目を閉じたそのとき。半助の耳が何かに塞がれたような感覚に陥った。はっとして目を開けてみれば、目の前が歪んでいる。呼吸ができずにもがいてみて、そこが初めて水の中だと気づく。急いで手を漕いで浮き出ようとしてみれば、水の外へ放り出されると同時に泡が弾けたように半助の身体の輪郭を伝って水が流れ落ちて、その場の地面に水たまりをつくった。
 半助の髪も衣もびしょ濡れとなっていた。
 何が起きたのかわからなかった。だが、どうやら助かったらしい。
 辺りを見回すと、竹爺が現れていた。あぐらをかいて腕組みをしている。
「あんまりもーぞうこいてるだっけえ、せしみしたてがんに」
 誰かと話しているようだが、相手の姿は見えない。
『この者に方言はわからぬ。わかるように話してやれ』
「仕方ねえのう。最近のわけえしゅは。わかったわかった。おめえのいとし子だっつんなら、いさけえしんようにしとかんとな」
『頼むぞ。竹蔵』
「心配すんなて」いけいけ、とばかりに竹爺が手を振ると声はしなくなった。
 代わりに竹爺がこちらへ顔を向ける。
「おめえ、楽はたしなむんかいのう」
「え、がく?」
「ああ。気ぃが変わった。楽を奏でてくれたら、喰わんでいてやるこって」
「が、楽ですか」何故急に、と思いながらも半助は必死で頭を回す。楽と言われても、半助にここでできることはない。
「三味線ならば少々たしなむのですが、あいにく今日は持ちあわせておらず……」
 言い訳がましく言うと、竹爺はあっさりと言った。
「そんなら唄いなっせ」
「う、唄でございますか。唄は」あまり得意ではない。
 半助が慌てていると、横から彩が言った。
「唄えば逃してくれるのですか」
「ん。おめえさ、唄えるんかいの」
「上手とは言えませぬが、幼き頃より習っておりました故」
竹爺は彩の方を向いて、肯くと彩を縛っていた蔦を解いた。
「えーもん聞かせてくらっしゃい」
 竹爺が言って指を一つ鳴らすと、竹が灯籠のように淡い光を放ち始め、彩を闇夜に照らし出した。
揺れる明りの中に佇む彩は、紅色の小袖が映えて竹林にさく一輪の花のように美しかった。
 彩は、立ち上がると裾をはらい、胸に手を当てまぶたを閉じた。白く細い首筋が、竹灯籠に照らされ白く光る。その喉元がころりと動き、その場の光によく似た淡く快い響きの声が聞こえてきた。


夕されば
千鳥も去りて、君の手離れ
入日さす長路を行く君の背は
小さくなりゆく
我が衣手濡らす
露はいずこから降りけらむ
いさよう風の行方知らずも
君の想いよ忘れまじ
忘れまじ


ぬばたまの闇の深けゆけば
世間を憂しとおもへど信ずるは
相念はぬ人を思ふは苦しきものとて
うららかに照れる春日に似たものぞ思ふ
金も銀も玉も何せむにまされる愛し君に
及かめやも


 彩は口を閉じ、辺りへ響き渡っていた涼やかな声も終わりを遂げる。
 半助はだがその耳に残る余韻に、妙にせつなげなものを感じていた。そしてどこか懐かしい。
 私は、この唄を知っているような気がする。
 この胸の温かさはなんだろう。
 半助がぼうっとしていると、後ろから肩を叩かれた。竹爺がいつのまにかそこにいて、ほほ笑んでいた。その顔は好々爺そのもので、彩の唄は竹爺の気に召したのだと半助は安心した。
「えーもん聞かせてもらったってー」
 竹爺がそう言うと、不安げにこちらを見ていた彩の顔もほっとしてほころんだ。また、梅の芳香がした気がする。それは気のせいなのだろうが、彩はほんとうに場を彩る花のようだ。今の唄も、半助の心の奥深くへ沁みこむように入り込んでいて、まだ半助はうつろっている。
「夜も深いし、おらんちよってけいね」
「え、ええと」半助がとまどっていると、竹爺は笑って言った。
「よってけってこったて」
「い、いいんですか」
「なじょもなじょも」これはどうやら、どうぞどうぞ、という意味だ。
「ついてこいて。他の怪妖もおるっけえ、離れんでねえぞ」
 話し方がぎこちないのは、半助たちにわかるように無理に話してくれているからであろう。しかし、どうして突然態度が変わったものか。それが不思議であった。さっきまでは、絶対に逃してくれぬものと思っていたのに。
「半助さま」
 呼ばれて、半助は遅れをとっていることに気づき小走りで彩と竹爺に追いついた。
「大丈夫でございますか」
「え、あ、私ですか」
 半助が訊き返すと、彩は心配そうに半助を見つめて肯いた。
「先程打たれた背中が痛むのですか。何やらぼうっとしておられます」
「いえ、そういうわけでは」半助は慌てて首を振った。
「ただ、私には訳がわからなくて。あの水はなんだったのか、竹爺がどうして急に友好的になったのか」
 言うと彩はほほ笑んだ。
「あなたさまには御味方がいるのですよ」
「味方」半助は首をかしげる。
「ええ。そうだと思います。だって、半助さまが地面へ叩きつけられそうになったとき、突然まばゆい青き光がしたかと思うと大きな水の玉が現れて半助さまを受け止めたのです」
 半助ははっとした。
 青き光だと。その光を貉も見たと言っていた。それに、
「水の玉ですか」
「はい。その首飾りが光ったように、私には見えましたが」
 彩が半助の首飾りへと首を伸ばして覗きこんでくる。半助はそれを手にとって眺めてみた。
「あっ」思わず足を止めた。
「どうされました」
 彩も止まり、竹爺も気づいて立ち止まるとこちらを振り返った。
「青い玉がなくなっている」
 なぜ。と、半助が鎖を首から外して、掲げたり、手の平の上でころがしたりして見ていると、「なーした」と竹爺が近寄ってきた。
 半助が事情を説明すると、竹爺は訳知り顔で肯いて言った。
「めぇのなるのも当たり前だこって。ここには雀の涙晶が入ってたんろ。それはさっきおめえを助けるためにせんがんむしが使っちまたからのー」
「せんがんむしさまが?」
「そいが。東にはもねえだっけえ、それおめえに渡しておめえのことをずっと見守ってたんだろーのー。だっちもねえろも、じょんぎがいだて助けてやったこって」
 近づいて妖で聞きとれば、竹爺には何だかせんがんむしに義理があるのだと言う。半助は、再び歩きはじめた竹爺の後を追いながら訊いてみた。
「竹爺さまはせんがんむしさまとどういうお知り合いなのですか」
「どーいうもこーいうも、怪妖はみーんな知り合いよ。助け合った仲よ。昔は東も西もなかったっけえの。わけえしゅにはわからねえだろーがの」
「そうなんですか」
「そいが。昔は今みてえに、東と西は別れておらんかったこって。だども、人間どもの住むようになって、怪妖らどんどん山ン中追いやられて、戦だなんだ起こって今みてえになったこってね。西に渡ったもんはえーけど、東に残った怪妖はいいもんも悪いもんも、山ん中で暮らすしかねえ。住みやすいとこには人間がのさばっとるからのー」
 竹爺は言いつつ振り返ってじろりと彩を見つめた。竹爺が、半妖の半助に対しては寛容であったのに、人間の彩に対しては譲らなかった訳が分かった気がした。西もそうだが、東の怪妖は身近なだけに人間をよほど憎んでいると見える。気の毒に、彩は責任を感じているのかうつむいている。
 ふと、人間を憎んでいる竹爺にこのままついていってよいものかと思うが、他に行く宛もないのだから仕方ない。それに、半助は何となく竹爺はそんなに悪いではないような気がしていた。せんがんむしと知り合いだというし、きっと大丈夫だろう。
今だって、それきり会話はないものの、竹爺は彩の歩むはやさに合わせてくれているし、竹爺の丁度竹を土に突いたような丸い足跡を淡く光らせているのも、夜目の弱い彩の足下を照らしてやるためではなかろうか。
半助も怪妖であるから、竹爺が持つ一つの竹灯籠の灯りがあれば充分だ。せんがんむしと共にいた昔を語るほど長く生きてきた竹爺がそのことを知らぬはずがない。物言いとは裏腹に、きっと竹爺は優しい妖なのだ。
 竹林をしばらく進むと、川のせせらぎが聞こえてきた。瑞々しい匂いも感じる。
「川があるのですか」
 半助は驚いて言った。
「谷底に川があることはおめえも知っとるろ」
「谷底」半助は息を呑んだ。「では、ここは」
「隔ての谷の底だこって」
 半助は俄には信じられなかった。確かに道は下っているような気がしたが、気づかぬほど緩やかなものだったし、そんなに歩いたとも思えない。上からは底の見えぬほどに深かった谷の底に、こんなに簡単にこられる訳がない。だが、竹爺が嘘をついているとも思えなかった。すると竹爺は含んだように笑って、
「これだっけ、わけえしゅは」と言うと、立ち止まって腕で一文字を書く様に手を振った。
 すると、目の前の竹がすべて左右に倒れて、その開けた先に金の川が流れていた。
 半助はしばらく開いた口を閉じるのを忘れていた。
 そのようすを竹爺は見て、おかしそうに笑った。
「おめえは本当に怪妖ねがか。妖の国へ入ったことはねえんかいの」
「妖の国――」
 聞いたことはある。それは、夜の最も深くなる一刻にだけ門の開く場所。
 金の川はさらさらと音をたてて、河原の草までも金色に淡く光っている。飛び交っているのは蛍だろうか。天は薄青く、果てがないように思われた。もう明りはいらない。
「ここが、妖の国なのですか」
 半助が呻くように言うと、竹爺はその河原へ出て言った。
「国と言うほどのものでもねえけどの。ただ、そこにあるだけのものだこって」
「妖の国へは、人間は入れぬものだと聞きましたが」
 半助は彩を振り返った。彩の目にも同じものが映っているのだと、金色に輝く彩の瞳を見て半助はわかった。
「入れんことはねえこって。人間は物形ばかりにとらわれるこて、妖の国が見えんことになるんろーのー。おめえも、なしてここまできたかわからんかったろ」
 半助が肯くと、竹爺は笑った。
「おめえも人間と同じだいや。この世がすべてだと思うとるから何もわからんこって。ま、らくらくしていってくれいや」
 竹爺はそう言うと川へ近づいて行くかと思ったのだが、途中で横を向き突然現れた小屋の中に入っていってしまった。
 どうしたものかとためらっていると、「行きましょう、半助さん」と鈴を転がしたような声が耳元でささやいたかと思うと半助の手が握られた。
 あ。と思ううちに半助はひきずられるようにして河原へ出た。すると、背後の竹林がたちまちに消え去り、そこには草原が続いている。ところどころには青や黄の花が咲き、蝶が舞っている。そこは昼間のように明るい場所で、なのに天を仰げば夜のような薄青が続くばかりで日は昇っていない。不思議なところだった。
「美しいところでございますね」
 彩がうっとりしたように言った。振り向くと、目を輝かせて景色に見入っている。確かに、美しい場所だった。目に見えるものだけでなく、何か、心が浄化されていくような沁み入る美しさがそこにはある。
 耳を澄ますと、川のせせらぎと、小鳥のさえずりと、それから囁くような音は風の声であろうか。その中に、半助は水の落ちゆく音を聞いた。
 これはもしや――。
 気づくと半助は彩の手を引いて、駆け出していた。河岸へ寄って、川沿いへ数歩進むと半助はその場所にたどり着いていた。
「大滝――」 
 轟轟と音を立てて、白い水のうねりが遥か頭上の岩場から落ちてきて、滝つぼの中へ飛び込んでいく。一瞬、半助はそこには白い龍を見たような気がした。だがそれは気のせいだったものか。次に見たときには、それはやはり白い水の塊であった。だが、その迫力はまさに龍の飛ぶ様のようで、半助はしばらく声を失っていた。
「半助さま、ここは」
 滝の音に負けじと声を張り上げる彩に突かれて、半助は我に返って応えた。
「大滝でございます。東と西の水は全てここから流れてきているのだと、昔せんがんむしさまに聞いたことがあるんです」
「では、この水を東へもたらすことも可能なのですか」
「はい」半助は笑顔で肯いて、だがすぐに問題に気づく。
「ですが赤の池が占領されているのでは……」
 東狐によって、東の水源は塞がれてしまっている。ここは妖の国だ。水源を用いずに、村までどうやってこの水を運んだら良いのか、いい案が浮かばない。
 と、後ろで声が聞こえた。
「こんげなところでなーしてる。怪妖は喰いもんに飢えとるっけ、人間がうろちょろしとったら危ねえぃや。戻れ」
 竹爺だった。言われて、仕方なく半助たちはその場を後にしたが、竹爺の小屋へ戻っても半助は大滝の水をうまく使う方法ばかり考えていた。だがふと半助は足を止めた。竹爺の小屋の土間へ入ったときだった。小屋の中で水の音がする。音のほうを振り向くと、台所にちろちろと水が流れている。
「水」半助はそこへ駆け寄った。竹筒から、透明な水がちろちろと絶え間なく流れているのだ。
「これは、川の水でございますか」
 訊くと竹爺は、板の間の円座にあぐらをかき、どこから出したのか欠けた茶碗で茶をすすりつつ言った。
「いんや。滝の水だこて」
「滝の」半助は小屋の外へ飛び出して裏へまわる。台所の裏にあたるところだ。しかし、竹はどこにもない。どうやって、大滝から水をひいているのかわからないが、物形にとらわれぬ方法で水を引くことができるのなら、遥かに離れた彩の村までも水を運ぶことは可能なのではないだろうか。
 半助は急いで小屋へ戻るなり、竹爺の前に膝をついた。
「竹爺どの。お願いがあります」
「どのはいらんこて。なーした。言ってみれぃや」
「水を、大滝の水を村まで引いて頂けませぬでしょうか。お願い致します」
 半助の意図がわかると、彩も半助の隣に跪いて一緒に頭を下げた。美しい衣に、泥がつくのも厭わずに、彩は懸命に頭を下げる。
「お願い致します」
 だが、竹爺の返答はにべもない。
「なーして、わしが人間の力になんぞならんといけんこって。人間が今までおらんしょに何してくれたてがんに」
「御礼は致します」彩は必死になって言った。
「礼、のう」竹爺は考える素振りを見せた。
「何でも致します」半助が言うと、彩も「私も」と頭を下げる。すると竹爺はにやりと笑って言った。
「そんなら喰わせてもろていいろか」
「え」彩は一瞬青ざめたが、すぐに毅然とした表情に戻って「わかりました」と言った。
「いけませぬ!」慌てたのは半助のほうだ。それならば、狐の嫁になったほうがまだいいではないか。
「そんなに喰いたいのなら私を喰ってください」半助は彩をかばうように身を乗り出して言った。
「私はおわかりの通り、半妖でございますゆえ、少しは人の味もすることかと存じますが」
 すると竹爺は何がおかしいのか、大きな口を開けて笑いだした。きょとんとする二人を置いて、竹爺は一通り笑うと、「冗談だこて」と言った。
 半助は肩の力が抜けて、思わず崩れそうになった。
「悪い、御冗談を……」
「だども、水がねえんは東狐さまの仕業だこて。手を貸せば、わしも何されるかわからんろ。今更面倒なことは御免だて」
 そうか。半助はうなだれた。己のことばかり考えていて気づかなかったが、確かに竹爺に力を借りれば東狐さまの恨みを買ってしまうかもしれない。そうなれば、竹爺には迷惑がかかる。でも、今頼めるのは竹爺しかいない。どうしたらよいのだろうか。
 彩を振り向くが、彩も黙ってしまって思案している。困り果てていると、
「そんなら、わしから言わせてもろおか」
 竹爺が言って、半助と彩は同時に顔を上げた。
「わしはもういっけえ楽が聞きてぃや」
「楽、でございますか」半助と彩は顔を見合わせた。
「また、唄えばよろしいのですか」彩の問いに、竹爺は首を振った。
「あの唄はわしも知っとるがんに。ええ声だっけえ、あれは三味線の音色と合わせんと本物にはならんこて。おめえは、弾けるろ」
 竹爺に射抜くように見られ、半助は背筋を正した。
「少々たしなむ程度ではございますが……」
「そんなら、明日の妖の国の開く刻限に二人で奏でてもろかの」
「ですが、肝心の三味線がございませねば」
「そんげなもん、作ったらええろに」
「作る……」半助は言葉を失った。たしかに、作れぬことはないが……。
「必要なもんならこの国で手に入るろ。猫だて、探せばおるろや。ねければ、なんだてそれらしいもんはできるこってね。わしは、あん唄をちゃんと最後まで聞きて。それは、おめえにとってもええことだと思うこって。がんばれいや」
 竹爺は言うだけ言って、板の間に寝転ぶといびきをかきはじめてしまった。
 なんとなく、二人は連れ立って小屋の外へ出た。
「三味線を作れるのですか」
 敷居をまたぐなり彩が聞いてきた。
 座りたい、と思っていると丸太を切ったようなイスが現れて、二人は驚きつつもそこへ腰かけた。半助は、この国のやりようがなんとなくわかってきた。
「私は、力比べとなるとてんでだめなのですが、幸い手先は器用なほうでして、何度か西でも作らされたことがございます」
「そうなのですか」彩は感心したように笑った。
「作るのには何がいるのですか」
「木や弦や……皮でしょうか」
「では早速集めに参りましょう」
 腰を浮かしかける彩を、半助は止めた。彩は知らぬのであろう。三味線の皮は、猫の腹の皮を使っていることを。考えると己の腹
がきりきりと痛むような心持がした。気のせいなのだろうが。
「集めるのはたやすいことでございます」ここが妖の国であるのなら、物形にとらわれず、妖を辿ってゆけばよいのなら行きたい場所へは一瞬で行けよう。会いたいものにも会えよう。だが、猫に会ったところで、三味線にするから皮をくれなどと言えるはずもない。ただの猫ならば当然死んでしまうし、怪妖であれば治癒するものの皮をはがれれば気絶するぐらいの痛みが伴うに決まっている。そんなことを、諾と肯いてくれる猫はいないだろうし、半助も頼むつもりがなかった。
 正直なところ、怖いのだが……仕方あるまい。やるしかない。
 半助は心を決めると、彩に微笑んで言った。
「後は私に任せて、彩どのは明日まで休んでいてください」
「何を言っているのですか。これは、私の村の問題です。あなたさまだけにお任せはできぬと申し上げているではありませぬか」
「妖の国で動くとあらば、私一人のほうが気楽なのです。また襲われれば、私はあなたを守れぬ。これ以上危険な目に彩どのをあわせたくはありませぬし、」
 彩に三味線を作るところを決して見られてはならない。
「どうか、ここは曲げて私を信じて待っていてはくださいませぬか」
 半助が請うように言って頭を下げると、小屋から竹爺の声が伸びてきた。
「そうしたほうがよかろうの。人間は体力もねえがんに。足手まといになるろや」
 言い終わると、二人の傍らに竹爺の小屋と同じような格好の粗末な小屋が現れた。半助は一度茅葺の屋根に目を向けてから、彩を振り向いて励ますようにほほ笑んだ。
「良い寝小屋を用意してもらいましたね。ここで休んでいてください」
「ですが、それではあまりに申し訳なくて」
「申し訳なくなど思う必要はないのですよ」半助はできるだけ明るく言った。
「逆に、任せてもらえないとあれば私は恩を返せず困ってしまいます。ですからどうか気兼ねなく」
「……わかりました」彩はしぶしぶ肯いた。
 半助はそれにもう一度ほほ笑んでから、「では」と彩に背を向けて数歩歩くなり姿を消してしまった。
 彩はその小さな後ろ姿をまだ目に焼き付けていた。
 いなくなってしまうと、こんなにも心許無い。あんなに頼みにできる人なのに、半助はなぜ己を卑下するのか。彩はそのことが哀しかった。
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