蛇逃の滝

九影歌介

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「では、玉は東狐の下にあると言うのだな」
 日の光の届かぬ暗い密室で、半助は後ろ手に縛られてうなだれていた。
「恐らく……」
 答えると、半助を正面から見下ろしている羽水の厳しい追及が入る。
「何故、お前が東狐のために玉を持ちだしたのだ」
 半助はここで返答を拒む。そのやり取りが何回か続いていた。
「答えぬか」
 羽水は焦ったようにそう言った。その眼の前で、半助の座らされている床から肌を焼く業火が吹き出し、鞭となって半助の背を打つとまた床の中にそれは消えていく。
 半助は歯を食いしばって痛みに堪えた。
 羽水はしゃがみこんで、その半助の顔に手を添えた。
「いい加減答えぬと、死んでしまうぞ」 
 羽水の思いやりに、迂闊にも涙が出そうになった。半助はただ口を結んで首を振った。
 羽水は息を吐いた。
「私も問わぬ訳にはいかぬ。その問いに答えねば、鞭がお前を打つ。それが延々と繰り返されるのだ、この拷問部屋は。それを知っておるだろう。真のことを答えれば良いのだ」
 この部屋で、嘘は言えない。妖が露わとなる術が施されており、真実でないことを語れば鞭で打たれるようになっているのだ。同時に、答えを拒めば、やはり鞭で打たれる。容赦のない、取り調べだった。だが、その中で羽水の眼差しが半助を信じるものに変わってきていたことは、半助にとって大きな救いであった。
「お前のことだ。そのように頑なに口を閉ざしておるのは、誰かをかばってのことであろう。玉を取り戻せるようにと、お前は東狐のことは口にした。だが、その東狐がお前を直接動かしたとは考えにくい。だとすれば、他に協力した者がこの西にいるはずだ。その者の名を言えば、お前の刑は軽くなるのだぞ」
 羽水は知っているのだ、と思った。
 だが、自らその名を言わないのは、半助のためだ。
「お前がこの取り調べに協力をすれば、贖罪ともなり、妖力を残してやることができるやもしれん。悪いことは言わぬ。名を明かせ。お前を、誑かした者の名を明かすのだ」
 羽水の気持ちは嬉しかったが、半助は首を振った。
断じて、己が助かるために恩師を売ることはできぬ。
 羽水は溜息をついた。
「お前は間違っているのだと何故気づかない」
 間違っている?
 半助は顔をあげて羽水を見た。狐の顔が、憐れんだ眼で半助を見つめていた。
「いたずらに庇うことが、その者のためになるわけではなかろう。過ちを犯したら、如何なる者もそれを償うべきであり、そして償う場が与えられねばならぬのだ。罪を見逃しそのままにすることは、その者のためにはならぬ。逆に、その者を苦しめることなのだと、何故わからぬ」
 逆に、大事なひとを苦しめてしまう?
 半助は、羽水の言葉を聞いてどうしたらよいかわからなくなってしまった。
 せんがんむしさまを、苦しめたくない。その一心で、口を閉ざしていた。だが、それが間違っているのだと羽水は言う。決して、半助だけを助けたくて言っているわけではない。羽水は、せんがんむしも、半助も、正しい方向へ導きたいのだ。
「私は……」
 何を言おうと思ったのかわからない。ただ口が、そう開いたときだった。
「大変でございます」
 合図もなしに部屋へ飛び込んできた門番が慌てたように言った。「人間どもがここへ乗り込んで参りました」
「なに」
 羽水は目を見開き、半助を見下ろした。
 どういうことか。
 半助は咄嗟に判断できずに、戸惑った顔をした。
 羽水は半助は何も知らぬとわかったのか、即座に半助から目を離して三俣の槍を手に構えた。
 そこへ、部屋へ駆け込んできた門番の妖狐を蹴倒すようにして荒々しく権座衛門が現れた。
「半助、無事か!」
 その後に続いて入ってきた二人の人間がいる。色白の賢そうな男に、半助よりも背の低い男だ。宴に出ていた、確か清吉と小丸という名であったか。
「なにゆえ……」二の句が告げなかった。顔と名こそ覚えてはいたが、ろくに会話したこともない。それなのに、何故この三人が危険を冒して己を助けに来てくれたのか。
 権座衛門がニヤリとして言った。
「なにきょとんとしてやがる。俺たちは、おめえを信じることにしたんだよ」
 半助は胸を打たれた。信じられなかった。まさか、会ったばかりの人間が己の味方をしてくれるなんて。だが、思えば彩もそうであった。見ず知らずの怪妖を、しかも怪妖嫌いであるのに、助けてくれた。どころか、半助が芝居を打ったときも彩は半助のことを少しも疑わずに追いかけてきてくれた。
 人間とは……このようなものなのか。
「勝手なことをしてくれては困る。ここは、神聖なる場所なのだぞ」
 羽水が構えるのに、権座衛門は怯まずに前へ出た。
「何が神聖だ。ひとを脅しつけて、真実を暴こうなんざ都合がよすぎるんじゃねえのか。知りたいことがあるなら、てめえの足でさがして、その眼で見やがれ」
 権座衛門が「オイ」と目配せすると、清吉と小丸が同時に手に握っていた球状のものを床に投げつけた。煙幕だった。
「よし、逃げるぞ」
 権座衛門が煙に覆われた部屋の中で大声で叫び、三人が動く気配があった。
 だが――見えるのだろうか。
 半助は縛られていて、動けない。半妖の半助にも煙幕のはられた中のようすはわからないのだが、三人はその点打ち合わせてあるのだろうか。
 その疑問は、苦笑に変わった。
「ばか! なんで半助の縄を先に解いておかねえんだ」
「合図したら煙幕を張れって言ったのはごんざじゃないか」
「言い争っている場合じゃないよ。早く逃げないと」
「ぎゃっ」鈍い音と、三人の悲鳴が聞こえたかと思うと辺りは静かになり、やがて煙ははれてきた。
 見れば、床に三人が頭を突き合わせて伸びている。
 どうやら、三人一斉に同じ方向へ動き、互いに頭をぶつけて伸びたらしい。仲がいいといおうか、なんといおうか。
「人間とはこうも愚かなものか」羽水は嘆息して、長柄をしまった。
「羽水様。この者たちは今度のこととは関係ありません。どうか、逃がしてやってください」
 半助が言うと、羽水は半助を見返し、やや考えるような間を置いてから言った。
「そうもいかぬ。どうやって入ったか知らぬが、人間が天上の敷地に足を踏み入れるなど言語道断」
「ならば、西狐さまに引き合わせてください。西狐さまが許せば、この者たちも罪には問われぬはずです」
 羽水は再び嘆息した。だがその瞳には裏腹に光が宿っている。一体、なにを思っての光なのか。
「さもあろうが、西狐さまは山王様が降臨なさる準備で忙しいのだ」
 半助は、息を呑んだ。
「山王様が、おこしになるのですか」
 羽水は肯く。
「婚姻だそうだ。東狐の下へ、嫁入りがある」
「そんな……」
 言葉を失う半助を、羽水がじっと見つめている気配があった。
 村には水が戻ったのだ。彩が婚姻を断れぬ理由はないはずなのに、東狐が既に次の手を討ってきたのだろうか。そうとしか考えられない。
「彩どのが東狐さまの嫁になってしまう」
 だが、己には何もできない。手かせをはめられ、身動きすらできない。
 うなだれる視界に、伸びた三人の人間の姿が映った。
 人間は寄りかたまることでしか生きられぬ弱小の生き物なのだと教えられてきた。だが、どうだろうこの勇気は。己には到底真似できないものだと思った。でも今、その人間の勇気に、半助もまた背中を押されている心持がした。
「羽水様、お願いです。どうか、私を逃がしてください」
「ならぬ」
「お願いします」
 半助は必死で羽水に訴えた。
「東狐さまは、もしかしたらとんでもないことをしでかすおつもりかもしれません。私は、己の犯した罪の責任をとりたいのです。お願いです。事が澄みましたら、必ずここへ戻って参りますから」
 羽水はじっと半助の目を見つめていた。妖狐の深く透き通るような瞳は玉のように美しい。その眼が憐れむように細められた。
「おまえは人間に恋をしたか」
 妖狐とて人の心は読めない。視線は、倒れている三人へ向けられた。
「この者どもと共に国の境まで来ていた女子がいたようだ」
 羽水は嘆息した。
「東狐の嫁はその女子だな。お前を連れ去る時、お前のことを必死でかばっていたあの女子だ」
 羽水が不意に指を鳴らすと、半助の腕の縄が外れた。
「羽水さま?」
 目を丸くする半助から顔を背け、羽水は言った。
「お前を逃がす訳ではない。世の理を曲げぬために、猶予を与える
だけだ」
「ことわり――」
 羽水は肯いて言った。
「三はいの儀はなんのためにある。力ある者が、その力を過つ方へ
と使えぬようにするためだ。東狐様は無理にそれを曲げようとして
なさる」
「それでは、」
半助は、羽水が密かに己へ寄せている期待を感じた。
「おまえはもはや西狐様の部下ではない。はぐれ者の半妖だ」
 羽水はまた一つ、指を鳴らした。今度は、伸びていた人間たちが目を覚ました。
「この人間どものせいで、この部屋の妖は均整が崩れ、その隙にお前は逃げ出したのだ」
 行け。と、羽水は言った。
 半助は、胸がいっぱいになった。
口が空を噛んで、やっと言葉が出てきた。
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはない。私はまたお前を追い、捕まえる。そ
れまで、しばしの猶予を与えるまでだ」
 半助はもう一度礼を言い、訳がわからずぎょとぎょととしていた
三人を連れて急いで部屋の外へ出た。
見張の者の姿が見えない。羽水の仕業であろう。半助たちは一気
に牢塔を抜け出した。
 だが、山の中に分け入ったあとは自力で何とかするしかない。三人は、竹爺にもらったという術の入った札を首から下げていた。それによって、普通の怪妖からは姿が見えなくなっている。
 問題は半助だ。
 東まで無事に抜けられるものか。谷を越えるには、空が飛べれば
一番よいのだが、神の使いである鳥が犯罪者である半助に力を貸し
てくれるわけがない。
 それでもあきらめきれずに空を見上げると、丁度木々の間を、鴉
が飛び交っていくところだった。そのうちの一羽が旋回して戻って
くる。半助は慌てて、身を隠した。
だが、遅かった。すでに姿を見られていたらしく、熊よりも大き
な妖鴉は半助の前に舞い降りてきたのだ。
 鴉はその黒々とした羽を畳んだが、目は鋭く半助を睨み据えてい
る。その視線に怯えながらも、半助は三人を庇うように前へ出た。
生唾が溢れ、それを呑みこんだとき、不意に鴉が言った。
「羽水様の命により、そなたを東国へとお送りいたす」
 しわがれた甲高い声だった。
「羽水様が――」まさかそこまでしてくれるとは思わなかった。厳
しいひとだ。問答無用で、半助を罰するものだと思っていた。だが、
羽水は心の底で半助を信じてくれている。裏切った己にここまで手
を貸してくれるとは。
 期待に、報いなければならない。
 だが、
「ありがたいですが、皆を置いていくわけには参りませぬ」半助は
顔をあげて言った。何かのために、別の何かを犠牲にすることがで
きぬ性格は、変われない。
 しかしその半助の背を権座衛門に乱暴に叩かれ、半助は目が覚めた
ような気がした。
「何言ってやがる。俺たちのことなんか気にしてる場合じゃねえ」
「ですが、」半助がまだためらっていると、清吉、小丸までも半助の
背中を押すように言った。
「言い争っている暇はありませんよ」
「そうです。早く行ってください」
 半助はほとんど強引に鴉のほうへ押しこくられ、鴉はそれを待っ
ていたかのように漆黒の大羽を広げた。その迫力に半助が怯んでい
ると、突然権座衛門が叫び声をあげた。振り返ると、驚いたような
顔で、空を指差している。
 何事かと思えば、空を黒の長蛇の列が移動しているではないか。
 東の空だ。考えるまでもなくそれは狐の嫁入りの行列で、彩を
迎えに行くところなのだとわかった。
「早く行け! 彩が狐になっちまうぞ!」
「すみません」半助は皆に頭を下げ、鴉へ飛び乗った。
 妖鴉はそれを待つように両羽を広げ羽ばたいた。土埃が舞い、草
木は風に倒れ、半助は一気に空へと舞いあがっていた。
 袖で顔を庇っている三人が眼下に見えた。既に豆粒のように小さ
くなっている。
「ありがとう」
その声が聞こえないのはわかっている。けれど、きっと思いは届
く。三人とも笑っているようだった。そして、半助もまた三人の半助へかける期待と信頼を感じていた。
 だがその期待に応えることが己のような者にできるのか。
 自信など、あるわけない。だが、今はとにかく前へ進むしかない。
 妖鴉の一翼は、妖を羽ばたく。
 二度のそれで、そこはすでに東国だった。今、半助の目の前に見覚えのある景色が現れていた。村だ。
 まだ花嫁を迎えにきていた行列は着いていないようだ。半助は胸
をなでおろすも、何か村の様子のおかしいことに気が付いた。
 妙な臭いがする。煙があがっている。炭焼きかと思ったがどうや
ら違う。
「火の手があがっておりますぞ」
 半助の脳裏に掠めたことを鴉が言った。
「村へ、急いでください」
「御意」鴉は半助の命を受けて煙の上がるほうへと降下し始めた。
 しかし、煙は一筋ではない。小さな煙がいくつもあがっている。村の上空へきてみれば、村のあちこちから火の手があがっているではないか。逃げ惑う村人の姿が見えた。既に田の畔には家を捨てて逃げてきた者が数十名集まっていた。
「これは一体――」
 半助は絶句した。だが、ぼやぼやしている場合ではない。火を消さなければ。
「水瓶のところへ行ってもらえますか」
 御意。
 と、鴉は羽ばたき一瞬でその上空へつく。鴉は羽を広げて、ゆっくりと着地した。半助はすぐさま鴉の背を飛び降りて水瓶へと駆け寄った。
 だがそれは無惨にも壊されている。甕の半分を残して、もう半分は鈍器で叩き壊されたように崩れ落ちていた。
 水は、一滴も残っていない。
 すすり泣きの声が聞こえてきて振り向くと、岩の影に数人の村人が打ちひしがれたようにへたりこんでいた。
 半助が近づいて行って事情を訊くと、突然大きな音がして駆けつけてみたら、既に水瓶は壊されていたのだと言う。甕には番人をつけていたが、番人は側の藪で倒れていた。何者かに襲われ、気絶させられていたらしい。
「ひどい……」
 半助は唇を噛んだ。これも、東狐の仕業なのか。国の上に立つものが、どうして民を苦しめる。
「あなたたちは安全なところへ逃げてください」
半助は気を取り直して、村人へ言った。皆若くはないが、幸い怪我もないし自分たちで逃げられるだろう。
「あんたはどうするが」
村人の一人が心配そうな眼で半助を見て言った。
「私は、もう少し村の様子を見てまわります」
「そりゃ危ねえっけやめれ」
「そいが。もう村中火の海だっけ。じき、ここいらにも火が回ってくる」
次々に言う村人に半助は微笑んで見せた。
「大丈夫。私は半妖です。人間様よりは多少頑丈ですから。逃げ遅れた人がいるかもしれない。私はそれを探してきます」
「そいが。そんなら、任せるいや。気いつけろや」
「はい」
半助は、村人の心遣いが嬉しかった。己のような会ったばかりの半妖を心配してくれるとは。
半助は、村人を見送ると同時に村の奥へと足を踏み入れた。
火は、普通では考えられない燃え上がり方をしていた。
それは、民家のない街道までをも焼いている。
半助は奥歯を噛みながら、必死で炎の中を駆けずりまわった。
「彩どの、義範どの。一体、どこへ」
二人の姿は、家を覗いたけれども見当たらなかった。
半助はふと立ち止まって、煙のたちこめる空を見上げた。鼻を突き上げ、できるだけ微かな臭いも拾おうと神経を鼻へ集中させた。
すると、焦げ臭い中に微かに肝煎りの家のほうから人間の臭いがした気がした。だが、気のせいかもしれない。それでも、行ってみる価値はある。
 半助は前方に轟轟と燃え立つ巨大な炎を見て、思わず足を止めた。それがさっきまで人の住んでいた家なのだとは思えない。赤い炎が天をも焦がすような勢いで、家全体を喰っていた。
「これは――」いくら半妖といえど、とても中に入れそうもない。
 だが、中から匂いがする。人間の匂いがするのだ。
知っていて、放っておける半助ではない。
半助は、残りの距離を一気に走り抜けてそのまま屋敷へと飛び込んだ。
鼻をつくような焦げた匂い。その中に、人間の匂いと、それから狐の匂いが混じっている。
 狐火か――。
 それならばまだ打つ手はある。
 狐火ならば同じ狐火で、多少は防ぐことができるのだ。
「冷火」
半助は短く唱え、自ら出した狐火を身体にまとった。
「どなたか、どなたかおりませぬか」
 この中にまだ息のある人間がいるはずだ。半助は、かたっぱしから屋敷の中を探し回った。驚くことに、屋敷の中は外から見たほど燃え堕ちてはいない。柱や床がところどころ燃えているのが見えるが、まだ廊下の床板は普通に歩けるし、襖すらそのまま残っているところがあった。
 妙だ。
 半助は己が罠にはまったのだと気づいた。派手な炎は、半助をおびき出すための罠だったのだ。そしてこの人間の匂いも――。
 半助はつい先日、己のための宴が行われた広間へと出た。そこには無論招待客もいなければ、美味しそうな料理もない。代わりに、敵がいた。
障子を開き入口にたった半助は、急に足を掴まれ転がった。
「何者」
 術を放って手を離れてみれば、床から這い上がるように姿を現したのは黒貉であった。今日は、大きいほうは一緒でない。
「またお会いしましたな」
 貉はニヤリと笑った。
「あなたと話をしている暇はありません」
「そちらはなくともこちらにはあるのだ」
「火をつけたのはあなたか。どうしてこんなことをするんです」
「どうしてって、この地位を保つために決まっているだろうに。やっとこさ手に入れた身分なのだ」
「では、やはり東狐の命を受けて」
しかし、黒貉は半助の言葉に首を振った。
「今度のは別だ」たのま
「別?」
「雇い主はここの旦那の己之吉とかいう男だ」
「己之吉どのが、何故」半助は耳を疑った。だが貉に嘘をついていいころはない。どうやら本当の話しだ。一体、どうして自分の家に火などつけるのか。
「わからんのか。じじいを消すためだ。それも、自分がやったとわからんようにな」
「そんな――」実の親であろうに、どうしてそのようなことができるのか。半助にはまるで理解できなかった。
「そういうわけで、わしは火付けをしてほしいと頼まれたからやったまでのこと。ここの旦那は東狐様と通じとるらしいからな。己之吉の頼みも無下にはできぬ故な。まあ、その代わりに、人間を喰っていいというからな。悪くない仕事であった。焼けた人間もそれなりにうまい」舌なめずりをする黒貉を見て、半助は総毛だった。
「なんということを――」
 半助は動揺して術を緩めてしまった。たちまち煙を吸い込み、咳き込んだ。慌てて術をかけなおし、再び狐火で体を覆うが頭がくらくらとして目が霞む。
「既に気づいておろうがそれだけではない」
貉はにやりとしながら半助を見て言った。
「まんまと貴様は我が術中に飛びこんできてくれた」
 術――。
「あのときの礼を返さねばな」
 木の軋む音がして、半助と貉との間に炎をあげながら柱が倒れてきた。はからずもそれが合図になった。
 貉が半助に手を伸ばした。そこから放たれる矢の形を成した術を、半助は横跳びに躱した。柱がまた倒れてくる。今にも家が崩れそうだ。狐の動きに合わせて、急激に家に火が回り始めたのだ。だが、やはり妙だった。火は、半助の視界から何かを隠すように壁となって燃え広がっている。
 これは――。
 まだ人間の匂いはしている。源右衛門に違いない。源右衛門はまだ生きているのだ。
 半助は貉の攻撃から逃げ回りつつも神経を研ぎ澄まさせた。気を丹田へと集中させて、一気に解放した。
「解!」
 その声に反応したように、炎の壁が一気に左右へと開き、その隙間から源右衛門の姿が見えた。
「源右衛門殿、お逃げください!」
 半助は茫然としている源右衛門へ呼びかけた。その声に、源右衛門は夢から覚めたような顔をして半助を見た。目が合った。唇が、源右衛門の唇が「半助」と動いたように見えた。
 私の名を呼んだのですか――。
 それに気を取られたせいで、半助は一瞬貉の動きに出遅れた。
気づいたときには、貉の放った術の塊が半助のどてっぱらにもろに飛び込んできていた。
「うっ」呻きとともに弾き飛ばされた半助は、炎の中に頭から突っ込んで、気を失いかけた。全身が痺れて動かない。だが、指先を動かしてみれば感覚がないだけのことで、ちゃんと思ったようには動いている。ただ、悲鳴をあげたくなるような痛みを伴う。半助は歯を食いしばって、身を起こした。
源右衛門だけはここから逃がさなくては。
この炎は狐火だ。もっと妖力があれば、これを解くことができるはずなのだ。完全に消し止めることはできなくても、源右衛門をにがすことくらいはできるかもしれない。
 半助がやっと立ち上がったところに、激しく木の軋む音がした。
 振り向くと、燃え盛る柱がこちらへ向かって倒れてくる。
 半助は目を見開いた。
 よけられない――。
半助は思わず目を閉じ、次の瞬間後ろへ激しく倒された。だが、痛みはさほどない。全身が痺れているせいもあろうが、だが何かやわらかいものが半助を守ってくれたようだった。
目を開けると、なんと源右衛門が半助を庇って柱の下敷きになっていた。
「源右衛門どの」
 半助は源右衛門の背で燃える柱をどかし、源右衛門の体を支えた。
 苦痛に歪む源右衛門の顔は、悲しみに満ちていて、だがほほ笑んでいる。
「半助……」
 源右衛門の伸ばす手を、半助は思わず掴んだ。
「大丈夫ですか、源右衛門どの。気をしっかり」
「半助。すまない」
 源右衛門は半助の手を強く握り返して言った。
「お前は、花江の、」
「花江――」半助はその名を聞いて、一瞬息が止まった。
それは、母の名ではないか。源右衛門がどうして、母の名を知っているのだ。いや、やはり知っていたのかと言うべきなのか。半助は、とっくにそのことに気づいていたのかもしれない。
 花江が、どうしたと言うのだ。半助が訊ねようとしたその時、
「しぶといやつらだな」貉が妖気の矢を放ってきた。
半助は咄嗟に源右衛門の前に出てそれを打ち返し、それへ己の術をもかけた。
「源右衛門どのに手出しはさせない」
かつて、感じたことのない類の力が身体の底から湧いて出るのを感じた。なにをどうしたらよいかが、なぜかわかる。
半助は打ち返した貉の術へ、気を込めた。矢の先に、半助の懸けた術の塊が紫色に光っている。それはほとんど貉の妖力を利用したものだ。狐火すらまともに使えぬ半妖であるが、弱きを補うだけの工夫はできる。
「爆」半助は、矢が貉へ届くというところで気を解放させた。矢の先の術玉ははじけ飛び、
「な、に」
 と、貉は最期の言葉を残して消え去った。あとに、紫の光が溶けこむようにして床へと広がり消えて、同時に家屋を燃やしていた炎もウソのように鎮火していく。
 あとには、くすぶる臭いだけが残っていた。
 畳から、行く筋がたち昇る細い煙を見ていて、助かったのだと実感がわいた。
「よかっ……た」半助が安堵の息をもらしたとき。いきなり世界がぐるりと回った。また敵の襲来かと思ど、どうやら違うらしい。半助はその場にぶっ倒れたようだ。しかも、人の身体を保つことすらできず、猫の姿になっていた。
 その姿を初めてみるはずの源右衛門は、だが驚きもせずに黒猫を愛おしそうに抱き上げた。意識が朦朧とする中で、半助は逆に源右衛門のその態度に驚かされていた。
「あの、あなたは――」
 半助が力なく訊ねると、源右衛門は穏やかな笑みを浮かべて言った。
「花江を心から想っていた男だよ」
 では、やはり――。半助が訊こうとしたところへ、邪魔者が入った。あわただしく部屋へ入ってきたのは、数人の男。火消し装束をきているところを見ると、どうやら救助に戻ってきたらしい。その影に隠れるようにして、相変わらずのすまし顔で義範が立っていた。そして、隣には己之吉が。
「なんだったんだ、この火事は。突然燃えたかと思ったら、突然消えやがった」火消の男たちは、口ぐちに言いながら部屋の検分を始めた。
「お父様、御無事でしたか」
 己之吉は源右衛門に駆け寄って手を伸ばしたが、源右衛門はその手を即座に振り払った。
「この期に及んで白々しい」その怒声に、場が一瞬にして静まり返った。耄碌したとばかり思っていたじじいが、このように大声をあげることがまず珍しかったのだろう。
 だが、源右衛門は構わずに言って、己之吉を睨みつけた。
「よくも親を殺そうとしておいて平然とした顔ができるものだ」
 それに狼狽えたのは己之吉のほうだ。
「いきなり、何を言いだすんですかお父様。そんなの、誤解ですよ。まさか私がお父様を殺そうとするはずなんてないでしょう」
「しらばっくれるのはもうよせ。わしは、初めから耄碌などしておらぬわ」
 源右衛門はおもむろに懐から薬籠を取り出すと、中の丸薬をにゃあと鳴いて嫌がる半助の口の中に無理やり入れて、飲みこませた。慣れた手つきだった。
 これは――。
 丸薬は、妖薬だった。怪妖の治癒の源は妖力で、それを回復させるという秘薬だ。どうしてこれを源右衛門が持っているのだろうか。
 半助はするりと源右衛門の腕から降りると、着物を身にまといつつ変化した。
 四つん這いのまま、源右衛門を見つめると、源右衛門は優しげな笑みをくれた。それから、哀しげに顔を歪めて言った。
「すまなかった半助。わしを、許してくれ」
 半助は、何と言っていいかわからなかった。源右衛門が何を謝っているのか、わからない。
「お父様。一体何を言っているのですか。何故このような怪妖に謝っているのです」
「花江を死なせた。わしのせいじゃ」
 源右衛門は己之吉の言葉を無視して言った。
「だからせめて、あの三味線だけは死ぬまで大事にしようと。愛し続けようと思うておったのに」
 源右衛門は、その場に泣き崩れた。
「すまぬ、半助。すまぬ。もう、何もなくなってしもうた。どうか、お前から母を奪ったわしを許してくれ」
 己之吉も言葉を失っている。元より部外者の男たちは、ただ茫然としていて、義範だけが冷静だった。
「懺悔は後にしてもらいたい。ぼやぼやしていると我が妹が狐になる」
 えっ。半助は義範を振り返った。義範の目は閉じているが、いつになく厳しい表情をしている。彩は、既にさらわれたのだ。
 反射的に、半助は立ち上がっていた。ふらりとする身体を、源右衛門が支えた。そのときに、確信した。
 猫になって抱かれたときも、今も。源右衛門の匂いを、半助は覚えていた。
 ――だが、己から名乗るようなことはできない。源右衛門を、困らせたくはなかった。
「すみません」半助は何とか自力で立ち、笑んだ。
 皆に背を向けて部屋を出ようとする半助を、源右衛門が呼び止めた。
「そのような身体でどこへ行く」
「勿論。彩どのをお救いに」
「ふざけるな!」今まで黙っていた己之吉が、突然半助の言葉を遮って怒鳴り散らした。「貴様にそのような権利のあるものか。彩は、自らの意思で狐の嫁となるのだぞ。貴様に彩の婚姻を止める権利はない! そもそもお前は我々には何の関係もないんだ。よそ者が首をつっこむんじゃないよ」
「関係ならばある」そう静かに言い返したのは、源右衛門だった。
「お、お父様。一体このような怪妖になんの関わりがあるというのですか」
己之吉は青ざめていた。既に彼も、答えを知っているものかもしれない。
「半助はよそ者なんかではない」
 源右衛門はゆっくりと瞬きをし、瞼の開いた目でしっかりとした声で言った。
「半助は、わしの息子じゃ」
 一瞬、その場が凍りついたかに思えた。
 私が、源右衛門さまの息子――。
 そう、源右衛門の口から言ってもらえたことが、半助は何よりうれしかった。自分を、子と認めてくれた人間が今目の前にいる。
 それだけで、己は無用な子ではなかったのだと思えるような気がした。
「な、何をおっしゃってるのですかお父様」
 うろたえる己之吉を源右衛門は冷ややかに見つめた。
「しらばっくれるのはよせ。お前はもう知っていたのだ。それで、厄介ばらいをしようと、屋敷に火を付けたのだ。当然、それ以上のものをもらえることが、狐との間に約束されておるのであろうな」
「ま、まさかそのようなこと」
 己之吉の額に汗が浮かんでいた。
 源右衛門は、半助をまっすぐに見つめた。
「半助。お前は、わしの息子じゃ」
 半助はくらりとした。もう一度言われて、やはり聞き間違いではなかったのだとわかる。
傾ぐ身体を支えてくれたのは、側にいた義範だった。相変わらず目が見えていないとは思えぬ動き。
 源右衛門はそれを見て、苦笑いを浮かべた。
「そのように気の小さいところは、わしにそっくりじゃ。じゃが」
 源右衛門は、目を閉じた。何かを、思い出すかのように。
「その勇気あるところは花江によく似ている」
 源右衛門は目を開けた。半助とよく似た漆黒の瞳で、半助を見つめた。
「半助という名は、わしが付けたのだ。わしと花江から半分ずつ、良いところを受け継いでいる。そういう意味だ」
 中途半端、ではなかったのか。半端、というよりもむしろ両方をもらっている。
「源右衛門どのは、母を愛しく思っておられたのですか」
 それは、いつか父親に会うことができたなら聞こうとずっと昔から決めていたことだった。ためらう前に、勢いで口にした。
 源右衛門はかすかに笑った。自嘲か、照れ笑いにも見えた。
「当たり前だ。誰よりも彼女を愛していた。わしにはかけがえのないひとであった」
「そうですか」
 それが聞ければ充分だという気がした。
「もう良いか。話はこれからいくらでもできる」
 義範が言った。すると源右衛門も肯いて、
「そうじゃな。まずはうちの大事な嫁を取り戻してきてもらわねばな」
 慌てて口を挟んだのは己之吉だ。
「ち、ちょっと勝手なことを言わないでください。彩はもううちの嫁ではないでしょう」
「嫁じゃ。半助のな」
 驚いたのは半助だけではない。己之吉は完全に冷静さを失っていた。今にも掴みかかりそうな勢いで、己之吉は言った。
「なっ。今の当主は私ですよ。隠居があつかましく口を出すのは、」
「勘当だ」
「え」
 火に水をかけ、一気に消し去るような物言いだった。青ざめていた己之吉の顔が、もはや土気色に変わっている。だがなおも源右衛門は厳しい目つきで己之吉を見ていた。
「ここはわしの家だ。それに火を放ち、そのままで済むと思うのか。お前の悪事は目に余る。息子といえど、村に災いを招く者を、わしは肝煎りとして放っておくわけにはいかぬ」
「だから、あんたみたいな老いぼれたじじいになんの権利があると言うんだ」
「忘れたのか。隠居は村の者の同意を得て肝煎りの当主を変えることができる。お前の今までしてきたことを村の者に明かせば、お前を村の長に置いておこうなどと思う者はおらぬであろうな」
 己之吉の口がぱくぱくと動いている。何か言おうにも、言葉が見つからないらしい。
「だが、最後の情けじゃ。お前はこの村から出て行け。どこへなりとも行くがよい」
「そ、そんな」
「村へ留まればお前は罪人として厳しい罰を受けるぞ。死罪は免れぬであろうな。それが嫌なのならば、さっさとこの村から出て行け」
「それはあまりにも気の毒では……」たまらず口を挟む半助だったが、義範に口を挟むなたしなめられた。仕方なく口をつぐむも、己のせいで、己之吉の身のやり場がなくなるのはいたたまれない。
「お前が気に病むことではない。腐っても息子。源右衛門どのは己之吉のために言っているのだ」
 そう、義範は言った。そうかもしれない。家を出ることが己之吉のためになるのかもしれない。だが、それに己之吉は気づけるのだろうか。
 己之吉は、憎悪の眼を半助に向けた。
「貴様のせいだ。覚えていろよ」己之吉は歯をむき出しにしてそう言うと、逃げるようにしてその場を駆け去っていった。
「よいのですか、本当に」
 半助は源右衛門に訊ねた。心配ではないのだろうか。
半助は疑問に思ったが、源右衛門の苦しげな笑みを見て、親心と言うものを垣間見た気がした。源右衛門どのは、立派なお方だ。
源右衛門は、決して己之吉を嫌いになったわけではないのだ。まさに心を鬼にして、己之吉の性根を叩きなおすために、家を追いだしたのだ。
「あやつは、まだ生きて学ばねばならぬことが山ほどある。このまま死ねば、大事なことに何一つ気づかずに終わってしまうからな」
 厳しくても、憎まれても、本当のところで息子のためになるように。それが、源右衛門の己之吉に対する愛情なのだろう。
 だがやはり半助は責任を感じずにはいられない。
己がこの村に現れなければ、皆、今までどおりの生活を送れたはずなのだ。源右衛門や村の皆が、家をうしなうことはなかった。
「今までどおりが良いということはない」
 半助は驚いたが、慣れてもきた。義範はいつも人の心が読めているとしか思えぬ頃合いで絶妙なことを言う。
「変わらねばならぬのだ、人間は」
「変わらねば、ならぬのですか」
「そうだ」義範は肯いて、ほほ笑んだ。
「お前は、何も心配しなくていい。ただ、彩のことはお前にどうにかしてもらわんとな」
半助ははっとした。己之吉に言われて、躊躇を覚えた。彼の言葉は最もだったのだ。彩が己の意思で狐の嫁入りを選んだのなら、半助には止められないではないか。
「また、つまらぬことを考えておるな」
義範が言った。
「己の自信のなさで、彩をも不幸にしてくれるな。さっさとお前は彩を取り戻して来い。俺は彩を狐に嫁にやる気は毛頭ないのだからな」
「は、はい」
 怒られているみたいで、半助は跳びあがるように言った。だが、義範の強い言葉は半助の背中を押してくれた。
「わかったであろうが。己の両親を見て、人と怪妖の間に、隔たりなどないことを」
そうだ。
もし壁があるのだとすれば、それは、自分らの作っているまやかしの壁だ。
もう、迷いはない。彩どのは、私がお救い致します。



「いい加減はいと言わぬか」
 彩は白無垢に身を包んでいた。無論己の意思ではない。 
いてもたってもいられぬところを耐えて、今の自分の役割は、皆の無事を祈り、そしてその帰りを待つことだと言い聞かして家路についた。だがその途中、何者かに背後から襲われ気を失い、気づいたらここでこの姿でこうしている。
 そして、今目の前には東狐がいた。
 顔は狐そのものだ。人間の男よりも少し大きい頭の下に、白の水干を身にまとっているが、覗く手足には狐の毛が生えている。尾もある。どこからどうみたって、狐が着物を身にまとっているようにしか見えない。豪奢な装飾の施された部屋にいても、この狐が目の前にいては何の感動も生まれなかった。
「嫁になれ、娘」
 声だって獣の鳴き声にしか聞こえない。だれが、はい、などと言うものか。
「強情な娘だな」
 狐が息を吐くと、獣の匂いがして吐気がした。狐は少し身を引いて、床几によりかかった。彩は少しほっとして座り直し、目だけは合わせぬようにずっと天井を斜めに見つめている。
「あの火事を見たであろう。甕も何者かに壊されておった。あれを助けられるのはわしだけじゃぞ」
 しらじらしい。全部己で仕組んだことのくせに。
「馬鹿にしないでください。人間とて、何もできぬわけではありません。妖力こそありませぬが、知恵はあります。仲間と力を合わせて事を成すこともできます。火事ぐらい、どうにかしてみせます」
「水はどうする」
「協力してくれる怪妖がおりますれば、心配ないかと存じます」
 東狐は舌打ちをした。
「竹蔵め、余計なことを」
 竹蔵、とそういえばせんがんむしもそう呼んでいた。それが、本当の名なのだろうか。彼ならきっと、また人間を助けてくれるはずだ。その代りに自分が今やれることとは何なのだろうか。幸か不幸か、東狐は彩との婚姻に執着している。ならば、「はい」と肯くことを条件に、皆が幸せに暮らせる方法を考えねばならない。
 半助は、大丈夫だったろうか。思うと、胸が痛む。
 あの三人は、うまくやってくれたであろうか。おっちょこちょいなところのある三人だから、いささか心配だ。だが、信じるしかない。そして、自分は自分の役割を果たすしかないのだ。
「まあ、強がっているのも今のうちじゃ」
 そこへ従者が来て、東狐に何事か耳打ちした。
「あいわかった」
 東狐が従者を下がらせると、徐に立ち上がった。
 彩も立つ。どうやったものか、東狐の術で立ち上がらせられたのだ。
「西狐が妖城の準備を整えたらしい」
 西の儀式のときには東がもてなしを、東の儀式のときには西がもてなすと天上では決まっているのだという。だから、今度婚姻の儀を執り行うと聞いて、西狐が山王様を呼び、その逗留先となる妖城を建てる手筈となっていた。それを待っていたのだが、ついに完成してしまったらしい。
「西狐はぬかりなくやっておろうな」
 東狐の旅支度の準備をしていた従者へ東狐が問うた。
「は。酒肴の準備を整えております」
「よい。久しぶりに東の酒が飲めるか」
 東狐は上機嫌だった。
「よいか、娘」
 東狐は両腕をひろげて、その両脇に従者がついて袖を何やらやっている。東狐の話は、退屈まぎれというものだった。
「狐の嫁入りの儀は、三はいと決まっている」何度も聞いた話だが、反論するのも面倒なので彩は聞き流した。
「まず、おぬしに嫁になるかと訊く、ここで主は『はい』と答える。これが一つめだ。二つめは、嫁入り行列にゆくかと問う。ここで『はい』じゃ。そうして、三つ目。これが重要ぞ」
 東狐は右の扇子で、左手の平をパンと打った。
「妖城にて、『怪妖になるか』と問う。ここで主がはいと答えれば、儀式は成立じゃ。はれて、主はわしの嫁となる。のじゃが、まずは嫁になるかとわしが訊いたところで『はい』と答えてもらわねば困る」
「絶対にお断りいたします。何故、私が怪妖の嫁にならねばならぬのですか」
「何を言うか。人間のような無能で無力な存在が、怪妖となり力を得られるのじゃぞ。このようなことは滅多に、いや、金輪際ないであろうな」
 東狐がそう含み笑いするのが、彩は気にかかった。何か、よからぬことを企んでいるのではないだろうか。
「とにかく、私は狐の嫁になどなりませぬ」
 東狐は嘆息した。
「では、仕方ないの。婚儀の前にあまり疲れることはしたくはなかったものだが」と両手を掲げた。
 人間の間では聞きなれぬ言葉が次々に東狐の口から連なって出てくる。呪文のようだ。そして、その高揚に反応するかのように東狐の身体が光りだし、目の前に水たまりのようなものができあがった。
 東狐が、蛇の鳴き声に似た音を発したかと思うと、その宙に浮いた不思議な水たまりの中から深緑色の何かが柱となって現れ立ち昇り、そしてまた一定の高さまで登るとそこでどこか別の空間へ吸い込まれでもしたかのように消えていく。
 一瞬にしてそれは終わり、東狐の身体から光が消えると、翻っていた衣装も落ち着き水たまりも消えた。
 東狐はにやりとして彩を見て、手の平を見せた。そこにはどこかの景色が映っていた。
 彩は目をこらして、はっと息を呑んだ。
 映っているのは、大滝だった。そこには、竹爺と人間がいた。人間は、見覚えがある。権座衛門、清吉、小丸だった。三人とも竹槍を手に、滝を背にして守っているような格好だった。
 そこへ突如、深緑色の塊が滝つぼに落ちてきたかと思うと、水しぶきを上げて三人はその水流に流されて溺れた。竹爺だけは宙に浮かび、それを免れていた。
 彩は思わず三人の名前を呼んでいた。
 三人は無事だった。起き上り、だが驚愕に顔を開ききっていた。顔の穴と言う穴が大きく開いている。だが無理もない。大滝の中に、巨大なおろちが牙を剥いて、伸びあがるようにして立っていたのだ。
 三人は、転がるように逃げ出した。
 竹爺も、おろちを気にしつつも三人をかばうようにその後を追って、視界から消えていった。
 東狐は手のひらを閉じた。
「朕が召喚した大おろちじゃ」
「なぜこのようなことをなさるのですか」
 大滝だけが、水を得られる望みであったのに。これでは村に水が――。そうか、それが狙いだ。
 もう、逃れる術はないのだ。
 こらえきれぬ涙が一筋頬を伝った。
「私がはいと言えば、人間を脅かすようなことはしないと誓ってくれますね」
 彩が念を押すと、東狐は肯いた。
「もちろんのこと。それが朕のお役目じゃからのう。主がはいといえば、雨は降るぞよ」
 ならば、もう道は一つしかないのだ。
「心を決めたようじゃな。では、訊くとしよう。主は朕の嫁になるか」
彩が、口を開きかけたその時だった。
「お待ちください!」
 どこから現れたものか、彩の頭上からひらりと飛び降りてきたその姿を見て、彩は息がとまりそうになった。
 半助さま。
 漆黒の袍はいつものごとく、彩の前に立ちわずかに顔を向けたその横顔はまぎれもなく半助で、彩は安堵のあまり膝を落とした。
「大丈夫でございますか」
 彩は、声なく何度も肯いた。半助はほほ笑んで、呆気にとられている東狐に向き直った。
「おのれ、何者じゃ」
 我に返った東狐の一喝に、茫然としていた東狐の従者たちが一斉に半助を取り囲んだ。
 半助は繰り出される槍をひらりはらりと躱して、その隙をつき手の平で彼らを突いていった。すると、半助に突かれた従者たちは気を失ったように倒れていく。
「その術――貴様、神官か」
 半助は最後の一人を倒して息一つ切らさず、凛々しい顔を東狐へ向けた。
「もはや私は神官ではありません。ただの半妖にすぎぬ」
「なんじゃと」東狐は眉を顰め、細い眼を半助に向けると俄に目を見開いた。
「貴様、まさかあの猫女の子か」
「そうです」半助が低い声で答えるのを聞いて、彩は半助がすべてを知ったのだとわかった。
 東狐は口の端を吊り上げた。
「成程のう。半妖ごときが生きておったとはな。しかも神官の術を身に着けておるとは驚いた」
 東狐は大仰に一度身を引いてから、その身を今度は斜めにして半助に近づけた。
「どうじゃ。うぬが望むならば、朕が東の神官として取り立ててやろうぞ。うぬとて利用されただけのことに罪を着せられてはかなわぬであろう。それなりの地位をやるぞ」
 東狐の持ちかけた話は、誰もが魅かれるものであろう。だが半助は迷いなく首を振った。
「そのようなものはいりませぬ。それよりも、彩どのを返して頂きたい」
 東狐は眉をひそめた。
「返せとは何事か。この娘は己之吉とかいう人間より買ったのじゃ」
「人間の売り買いなど許される道理がございませぬ。でなければ、三はいの決まりごともできることはなかった。貴方さまは、この世の理を破ろうとなさっておるのですよ」
 東狐はそれをせせら笑って言った。
「うるさい猫めが」
 東狐がすっと息を吸うのに、半助が身構えた。俄に緊張が走る。
 東狐の息が吐きだされる瞬前、半助は前へ踏み込んでいた。右手に鋭い爪を携えて跳びあがり、東狐の放った光の矢のような切り崩して東狐へ脳天から斬りかかった。しかし、東狐は微動だにせずにそれを避けていた。半助の斬ったのは陰影であったのだ。
「半助さま!」
 半助の背後に突如現れたもうひとりの東狐に彩は叫び声をあげた。半助は素早く反応し、その東狐も斬った。だが、それは囮であったのだ。
 彩は自分の首筋に冷たいものを感じた。と、同時に彩の横から飛び出た矢に半助は腕を貫かれていた。
「猫めが、さすがにすばしっこい」
 彩のすぐ横で唸るように言ったのは東狐だった。彩の首筋には、刃が当てられている。
「彩どの」半助は動きを止めた。
 東狐がニヤリとするのが分かった。
「そうじゃ、かしこいのう。動けばこの娘の首が跳ぶぞ」
「跳べば嫁にもできぬのではありませぬか」彩は気丈に言った。
「そうなればまた別の娘を選べばよいこと。うぬぼれるでないわ、娘」
 そう言われれば口をつぐむしかなかった。東狐が自分に惚れていると思えばこそ強く出られたものだが、その切り札が使えぬのであればもはや打つ手がない。
「嫁になります」
「彩どの!」
「私は東狐さまの嫁になります」
 彩は茫然としている半助に顔を向けた。頬が温かいのは、涙だろうか。
ごめんなさい。あなたをこのような辛い目にあわせて、本当にごめんなさい。半助さま――。
「今まで、ありがとうございました。心配しないでください。あなたのために選んだ道ではありません。私は、これで幸せです」
 彩は、涙でしゃべれなくなる前にと一気に言って口をつぐんだ。あとは、笑みを作ればいいだけ。なのに、それがとてつもなく難しい。頬が引き津って、まともに笑えない。
「彩どの――」半助の歪む顔が、そのまま鏡に映った自分の顔のように見えた。半助は、何か言おうと口を開いたが、その言葉を聞くことはできなかった。
「うっ」
 半助が、急に呻いて頽れたのだ。
 何事かと思っていると、横で含み笑いが聞こえる。気づくと、東狐は手に蒼く光る美しい珠を持っていた。
 そして不意にそれを握りつぶしたのだ。
 同時に、半助は耳を覆いたくなるような悲鳴を上げてその場に倒れ、動かなくなった。
「は、んすけさま……」
 彩の心臓は早鐘を打っていた。なにか、取り返しのつかぬことが起きたような気がする。
「一体、半助さまに何をなさったのです!」
 彩が東狐に詰め寄ると、東狐はさもおかしそうに笑って言った。
「大事な婚儀に水をさしおるから、少しばかりこらしめてやったのよ。見よ」
 彩はうつぶせに横たわる半助を見た。その眼の前で、半助の爪と尾が掻き消えていく。そして尖っていた耳は丸みを帯びて……。
「まさか」彩は言葉を失った。変わって、東狐が笑いながらに言う。
「そのまさかぞよ。きゃつの妖力を奪ってやったのよ」
「それでは約束が違います」
「そんなことはない。きゃつは半妖であったぞ。朕が脅かさぬと誓ったのは人間であったはずじゃ」
「そんな――」半助の下に駆け寄ろうとする彩を東狐が止めた。
「案ずることはない。奴は妖力を失い人間となっただけで、死んだわけではない」
 彩は、その言葉を聞いてほっとした。確かに、息はしているようだ。
「じゃが、朕の言うことをきかぬのならこのままきゃつを殺すぞよ」
「……なにを、すればよいのですか」
 彩に、もう逆らう気力は残っていなかった。自分があがけば、それだけ傷つけてしまう人がいる。初めから、大人しく東狐に従うほかなかったのだ。なのに、運命を変えようなどと奢ったことを考えたばかりに――。
 もう、他に道はないのだ。この道を行くことで、半助や他の人をたすけられるのなら、幸せなことだ。
「朕と共に嫁入りの行列に来るか」
 彩は、答えた。
「はい」と。
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