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指で撫でる耳は、丸みを帯びている。
掌を眺め、軽く指を曲げてみる。意識せずとも出せた爪は、今どのようにしても伸びてこない。
半助は唇を噛んだ。牙さえなく、尾もなければ、匂いも音も遥か遠くにある。
人間になってしまった――。
半助は茫然としてしばらく動けなかった。
彩を失ったばかりか、妖力まで奪われて。己は、一体何をしているのだろうか。
思い出されるのは修行をした日々のことだった。
鮒が池の辺で、狐になりたくて必死だったあの頃。辛くはあったが、夢に向かって生きる日々は充実していて楽しくもあった。
そうして苦労してやっと手に入れた力だった。地位だった。名誉だった。
だが――その全てを失った。
もはや、半妖でもない。猫ですらない。
ただ、無力で無能だと言われている人間となってしまったのだ。
半助が絶望の中放心していると、後ろから聞き覚えのある声がした。
「いや。よい姿になったな」
振り返ると、義範が立っていた。
「どうやってここへ」
半助がいた場所は東狐の間だ。半助が大方倒したとはいえ、まだ城の警護にあたっている妖狐がいたはずだ。
「貉に案内してもらったのだ」
「貉、とはあの……」
「そうだ。俺には目を失った代わりに得たものがあってな」
義範が言うと、黒貉が獣の姿で現れた。見慣れぬ銀色の首輪をつけていた。
「俺は、怪妖が見える。いや、妖が見えるというのかな。そして、弱いものであればこうして支配できる」
黒貉はあれで老妖だ。年を取ればとるほど妖力は高くなる。弱い、といえる怪妖ではないはずだが。
半助の疑問を感じてか、義範は苦笑してだが答えてくれる気はなさそうだった。
「まあ、とにかくそういうことだ。こやつは使える」
貉は不満そうに鼻を鳴らした。
「とにかくここを出よう」
外へ出ると、しとしとと雨が降っていた。
思わず足を止めて空を見上げると、晴れている。
「狐の嫁入りが始まったのだな」
義範が言った。
「行くぞ」
義範は貉に前を歩かせ、堂々と正門へ向かって、そのまま誰にも見つからぬまま半助たちは城を出た。
門を背にして、義範は山の中を確かな足取りで歩いていく。
半助は小走りについていって、すぐに息を切らした。
「大丈夫か」
義範が立ち止まって振り返るなり苦笑した。
「人間の身体は歩きにくいか」
「……疲れます」半助は正直に答えた。
「では、少し休もう」
義範は大きな杉の木の根基に腰を下ろした。半助もその傍らに座り込む。呼吸が中々楽にならなかった。
こんなところで人間になってしまったことを実感する。涙があふれてきた。一度許すと、もう気持ちは納まらなかった。
悔しくて、哀しくて、情けなくて。半助はうなだれて泣き続けた。
その間義範はずっと黙って隣にいて、声をかけることはしなかった。
涙の枯れた頃、義範がおもむろに言った。
「人間は確かに無力だ」
半助はわずかに顔を上げた。
義範は目を閉じたまま、前を向いていた。
「だが無力だからこそ、力を得ようとする。それはまた怪妖も同じであろう」
半助は、己をずっと無力だと思っていたことを思い出した。
だが今人間になり、妖力を失い、それは間違いだったのだと思う。多少なりとも、人を救える力がそこにはあった。
「在るものを失うことは辛い」
義範は苦笑を浮かべて言った。
「当然のように見えていたものが、ある日突然全て暗闇に変わるのだ。俺はこの目玉を失ったとき、正直絶望してもう生きてゆけぬと思うた」
だがな、と義範はゆっくりと目を開いた。
そこには、やはり目玉はなかった。だが、何もないわけではなかった。不思議な感覚だった。穴倉のような義範の目の中に、義範の眼差しを感じる。
義範は再び目を閉じた。
「失うということは、得ることなのだ」
失うということは、得ること――。
「失うということを、お前は得たのだ」
半助は義範の顔を見つめた。
表情にからかいの色はない。
義範は瞼をとじながらにして、確かに半助を見つめ返している。何で見ているのか、妖だ。
妖とは、なにか。なんなのだろう。怪妖と、人間と。一体、何が違うのだろう。
半助は、人間になっても、半妖のままでも、たとえ怪妖になれたとしてもこの義範という人間を超えられないような気がした。
人は無力などではない。
せんがんむしが言っていた。無力と思う心こそが無力なのだと。
人も怪妖も関係ない。半助は、己自身で己のことを無力に貶めてしまっていたのだ。
「義範どのには、今の私はどのように見えておるのですか」
義範はほほ笑んだ。
「変わらぬよ。お前は初めから澄んだ玉のような男。だが今は少々それを濁らせておるな」
半助はうつむいた。
「うつむくな」と、言われて顔をあげた。
「お前に足りぬものはお前自身で見つけねばならぬ。それをお前はもうわかっておろう」
半助にないもの。それは、自信だ。
「己を、信ずる心でございますか」
義範は肯いた。
「彩を助けられなかったとはいえ、お前は東狐に禁術を使わせるまでに追いつめた。あやつは数々の禁忌を犯しておる。それを山王さまはすべて見ておられる」
「では、山王さまが」
「山王は見守るだけだ」
半助の期待は一刀両断されて、またうつむきそうになる。
「言ったであろう。今お前は失ったことを得たのだ」
「失ったこと……」半助は、考えて言った。「つまり、経験ということでございましょうか」
「そうだ。怪妖も人も元は同じ魂。この世は修行の場で、言ってみればこれは仮の姿。ものかたちは故郷へは持って帰れず、大事なるは経験のみ。だとすれば、わかるであろう。失うものなと、何ひとつないのだ」
その言葉は、半助をおおいに勇気づけた。半ば投げやりになりかけていた心に、光が灯ったような気がした。
「失敗をしても、それも無駄にはならぬのですね」
「そうだ。過ちを犯したとしても、それも学び。それを生かそうと思えば無駄にはならぬ。だが、そこで向上を望まねば妖は悪に蝕まれやがて悪鬼となろう」
半助はゴクリと唾を呑みこんだ。
己は、紙一重のところにいる。そういう気がした。だが、皆同じなのだ。少しの間違いで、悪へ落ちる。だが、そこから這い上がれないわけではないのだ。
「こむつかしい話はやめようか」
義範はあっけらかんと言った。
半助は拍子抜けして、苦笑した。久々に笑ったような気がして、どこか心が晴れた。
「さて、これからお前に何ができようか」
半助は考えた。己に、何ができるのかと。
やはり、己は無力かもしれない。人間となって、できることはずっと減った。だけど、できると思えばできることもあるのかもしれない。
己の、すべきこととは何であろうか。
「私は、」半助は考えながらしゃべった。
「妖力も、神官職も失い、すべて失ったと思っておりました。これまでしてきた努力はすべて無駄だと思っておりました。それはとてつもなく悲しくて、だけど一番悔しく思うのは彩どのをお救いできなかったことでございます」
義範は無言で肯いた。
「私は初め村を離れるときに、彩どのたちのためと思い嘘をつきました。それと同じ思いで、きっと彩どのは私に嘘をつきました。辛い思いを、させてしまった」
彩の想いが、痛いほどわかるから。
「私は、彩どのに笑ってほしいです」
ただ今思えるのはそれだけだという気がした。
もう一度、彩の笑顔が見たい。
このままでは、彩はもう一生笑うことがないのではないか。それだけは、止めたい。彩を、救いたい。
かつて、狐になりたいと思っていた。
それが、今は滑稽に思える。愚かなことだと、心から思える。
己は己で、己以外の何ものでもないのだ。
己として生まれたからにはそれを受け入れて、生きてゆかねばならない。だから半助は、半妖として生まれたことを受け入れねばならなかった。だのにそれを否定し続けて、己も己の周りのひとまで傷つけてきてしまったのかもしれない。
半妖の一体何が悪かったのか。
今となってはそれが、わからなかった。
だから今度は人間になってしまったことを、半助はその宿命を受け入れねばならない。その上で、己の歩んでいく道を造り上げてゆけばよいのだ。
そう思うと、何でもできるような気がした。好きにやればよい。妖力のないことは、なにほどのことでもあるまい。むしろ、ユリを喰って死にかけて死ねない苦しみを味わうこともなくなるのだからよかったではないか。
半助は、失ったことを得たのだ、と思った。
「美しいな」義範が呟いた。
「お前は、強くて美しい」
半助は笑顔になった。
「ありがとうございます」
半助が本当になりたかったもの。それは、天狐ではなく、天狐のように強くて、美しいものだったのだ。
半助は立ち上がった。すでに体は人間に慣れている。当たり前だ、もう半助は人間なのだから。
無力であって、無力ではない人間だ。
「雨を、降らしましょう。大雨を――」
半助は天を見上げた。
青空から、雨がしとしと降ってきている。その雨を、本物にすることならば、半助にもできるかもしれない。
やってみよう――と、半助は思った。
宿命を受け入れれば、運命はいかようにもかえられるのだ。
掌を眺め、軽く指を曲げてみる。意識せずとも出せた爪は、今どのようにしても伸びてこない。
半助は唇を噛んだ。牙さえなく、尾もなければ、匂いも音も遥か遠くにある。
人間になってしまった――。
半助は茫然としてしばらく動けなかった。
彩を失ったばかりか、妖力まで奪われて。己は、一体何をしているのだろうか。
思い出されるのは修行をした日々のことだった。
鮒が池の辺で、狐になりたくて必死だったあの頃。辛くはあったが、夢に向かって生きる日々は充実していて楽しくもあった。
そうして苦労してやっと手に入れた力だった。地位だった。名誉だった。
だが――その全てを失った。
もはや、半妖でもない。猫ですらない。
ただ、無力で無能だと言われている人間となってしまったのだ。
半助が絶望の中放心していると、後ろから聞き覚えのある声がした。
「いや。よい姿になったな」
振り返ると、義範が立っていた。
「どうやってここへ」
半助がいた場所は東狐の間だ。半助が大方倒したとはいえ、まだ城の警護にあたっている妖狐がいたはずだ。
「貉に案内してもらったのだ」
「貉、とはあの……」
「そうだ。俺には目を失った代わりに得たものがあってな」
義範が言うと、黒貉が獣の姿で現れた。見慣れぬ銀色の首輪をつけていた。
「俺は、怪妖が見える。いや、妖が見えるというのかな。そして、弱いものであればこうして支配できる」
黒貉はあれで老妖だ。年を取ればとるほど妖力は高くなる。弱い、といえる怪妖ではないはずだが。
半助の疑問を感じてか、義範は苦笑してだが答えてくれる気はなさそうだった。
「まあ、とにかくそういうことだ。こやつは使える」
貉は不満そうに鼻を鳴らした。
「とにかくここを出よう」
外へ出ると、しとしとと雨が降っていた。
思わず足を止めて空を見上げると、晴れている。
「狐の嫁入りが始まったのだな」
義範が言った。
「行くぞ」
義範は貉に前を歩かせ、堂々と正門へ向かって、そのまま誰にも見つからぬまま半助たちは城を出た。
門を背にして、義範は山の中を確かな足取りで歩いていく。
半助は小走りについていって、すぐに息を切らした。
「大丈夫か」
義範が立ち止まって振り返るなり苦笑した。
「人間の身体は歩きにくいか」
「……疲れます」半助は正直に答えた。
「では、少し休もう」
義範は大きな杉の木の根基に腰を下ろした。半助もその傍らに座り込む。呼吸が中々楽にならなかった。
こんなところで人間になってしまったことを実感する。涙があふれてきた。一度許すと、もう気持ちは納まらなかった。
悔しくて、哀しくて、情けなくて。半助はうなだれて泣き続けた。
その間義範はずっと黙って隣にいて、声をかけることはしなかった。
涙の枯れた頃、義範がおもむろに言った。
「人間は確かに無力だ」
半助はわずかに顔を上げた。
義範は目を閉じたまま、前を向いていた。
「だが無力だからこそ、力を得ようとする。それはまた怪妖も同じであろう」
半助は、己をずっと無力だと思っていたことを思い出した。
だが今人間になり、妖力を失い、それは間違いだったのだと思う。多少なりとも、人を救える力がそこにはあった。
「在るものを失うことは辛い」
義範は苦笑を浮かべて言った。
「当然のように見えていたものが、ある日突然全て暗闇に変わるのだ。俺はこの目玉を失ったとき、正直絶望してもう生きてゆけぬと思うた」
だがな、と義範はゆっくりと目を開いた。
そこには、やはり目玉はなかった。だが、何もないわけではなかった。不思議な感覚だった。穴倉のような義範の目の中に、義範の眼差しを感じる。
義範は再び目を閉じた。
「失うということは、得ることなのだ」
失うということは、得ること――。
「失うということを、お前は得たのだ」
半助は義範の顔を見つめた。
表情にからかいの色はない。
義範は瞼をとじながらにして、確かに半助を見つめ返している。何で見ているのか、妖だ。
妖とは、なにか。なんなのだろう。怪妖と、人間と。一体、何が違うのだろう。
半助は、人間になっても、半妖のままでも、たとえ怪妖になれたとしてもこの義範という人間を超えられないような気がした。
人は無力などではない。
せんがんむしが言っていた。無力と思う心こそが無力なのだと。
人も怪妖も関係ない。半助は、己自身で己のことを無力に貶めてしまっていたのだ。
「義範どのには、今の私はどのように見えておるのですか」
義範はほほ笑んだ。
「変わらぬよ。お前は初めから澄んだ玉のような男。だが今は少々それを濁らせておるな」
半助はうつむいた。
「うつむくな」と、言われて顔をあげた。
「お前に足りぬものはお前自身で見つけねばならぬ。それをお前はもうわかっておろう」
半助にないもの。それは、自信だ。
「己を、信ずる心でございますか」
義範は肯いた。
「彩を助けられなかったとはいえ、お前は東狐に禁術を使わせるまでに追いつめた。あやつは数々の禁忌を犯しておる。それを山王さまはすべて見ておられる」
「では、山王さまが」
「山王は見守るだけだ」
半助の期待は一刀両断されて、またうつむきそうになる。
「言ったであろう。今お前は失ったことを得たのだ」
「失ったこと……」半助は、考えて言った。「つまり、経験ということでございましょうか」
「そうだ。怪妖も人も元は同じ魂。この世は修行の場で、言ってみればこれは仮の姿。ものかたちは故郷へは持って帰れず、大事なるは経験のみ。だとすれば、わかるであろう。失うものなと、何ひとつないのだ」
その言葉は、半助をおおいに勇気づけた。半ば投げやりになりかけていた心に、光が灯ったような気がした。
「失敗をしても、それも無駄にはならぬのですね」
「そうだ。過ちを犯したとしても、それも学び。それを生かそうと思えば無駄にはならぬ。だが、そこで向上を望まねば妖は悪に蝕まれやがて悪鬼となろう」
半助はゴクリと唾を呑みこんだ。
己は、紙一重のところにいる。そういう気がした。だが、皆同じなのだ。少しの間違いで、悪へ落ちる。だが、そこから這い上がれないわけではないのだ。
「こむつかしい話はやめようか」
義範はあっけらかんと言った。
半助は拍子抜けして、苦笑した。久々に笑ったような気がして、どこか心が晴れた。
「さて、これからお前に何ができようか」
半助は考えた。己に、何ができるのかと。
やはり、己は無力かもしれない。人間となって、できることはずっと減った。だけど、できると思えばできることもあるのかもしれない。
己の、すべきこととは何であろうか。
「私は、」半助は考えながらしゃべった。
「妖力も、神官職も失い、すべて失ったと思っておりました。これまでしてきた努力はすべて無駄だと思っておりました。それはとてつもなく悲しくて、だけど一番悔しく思うのは彩どのをお救いできなかったことでございます」
義範は無言で肯いた。
「私は初め村を離れるときに、彩どのたちのためと思い嘘をつきました。それと同じ思いで、きっと彩どのは私に嘘をつきました。辛い思いを、させてしまった」
彩の想いが、痛いほどわかるから。
「私は、彩どのに笑ってほしいです」
ただ今思えるのはそれだけだという気がした。
もう一度、彩の笑顔が見たい。
このままでは、彩はもう一生笑うことがないのではないか。それだけは、止めたい。彩を、救いたい。
かつて、狐になりたいと思っていた。
それが、今は滑稽に思える。愚かなことだと、心から思える。
己は己で、己以外の何ものでもないのだ。
己として生まれたからにはそれを受け入れて、生きてゆかねばならない。だから半助は、半妖として生まれたことを受け入れねばならなかった。だのにそれを否定し続けて、己も己の周りのひとまで傷つけてきてしまったのかもしれない。
半妖の一体何が悪かったのか。
今となってはそれが、わからなかった。
だから今度は人間になってしまったことを、半助はその宿命を受け入れねばならない。その上で、己の歩んでいく道を造り上げてゆけばよいのだ。
そう思うと、何でもできるような気がした。好きにやればよい。妖力のないことは、なにほどのことでもあるまい。むしろ、ユリを喰って死にかけて死ねない苦しみを味わうこともなくなるのだからよかったではないか。
半助は、失ったことを得たのだ、と思った。
「美しいな」義範が呟いた。
「お前は、強くて美しい」
半助は笑顔になった。
「ありがとうございます」
半助が本当になりたかったもの。それは、天狐ではなく、天狐のように強くて、美しいものだったのだ。
半助は立ち上がった。すでに体は人間に慣れている。当たり前だ、もう半助は人間なのだから。
無力であって、無力ではない人間だ。
「雨を、降らしましょう。大雨を――」
半助は天を見上げた。
青空から、雨がしとしと降ってきている。その雨を、本物にすることならば、半助にもできるかもしれない。
やってみよう――と、半助は思った。
宿命を受け入れれば、運命はいかようにもかえられるのだ。
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