蛇逃の滝

九影歌介

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目の不自由を理由に半助を先に行かせ、その背を見送ったあと、義範は背後へと声を掛けた。
「いつまでそこに隠れているおつもりか」
 しばらく間があって、苦笑する声が洩れた。
「お気づきでございましたか」
 振り向くと、羽水が弱り果てたようすで立っている。
 義範はこの世での視界を失った代わりに、妖の景色を見ることができるようになっていた。それは、恐らくすこしばかり記憶が戻っているからだ。大昔の、義範が人間ではなかった頃の。
「俺とお主はかつて関わりがあったのかな」
「あったも何も」羽水は言葉を濁らせて言った。「貴方様は、御前世で私めの師でございました」
「さぞかし優しい師であったろう」
 義範が言うと、羽水は苦笑して言った。
「ええ。大変優しくておいででしたよ」
 羽水の皮肉に義範が笑うと、羽水も同調して笑った。
 二人で笑うのは、なんとなし、懐かしい心持がする。
「ですがその厳しい指導のお陰で私は神官となれました」
「お主の努力によるものであろう」
「あなた様のお陰でもあります。今でも、感謝してやみません」
「恐れ入る。ではそれに免じて、一つ願いの儀があるが」
「半助のことでございましょう」
「わかるか」
「妖では隠し事ができませぬ。お忘れでございまするか」
「そうであったな。では、頼むぞ」
「御無体を」
「やはり罪は取り消せぬか」
「残念ながら」羽水は嘆息した。「私とて半助は我が弟のように愛しい子。ですが、珠を鎮護の間から盗み出したのは事実。たとえ、操られていたにしても、罪を問わぬわけには参りませぬ。しかし、」
 と、羽水は付け加えた。
「それは西国の怪妖が決めたことでございますれば。今の半助は人間。これは、西狐様の判断に委ねられましょうぞ」
「成程。すべきことをした後は、天に委ねるしかないということだな」
「そういうことでございます。天は、公平でございますゆえ」
 羽水は少し間を開けてから、訊ねた。
「人間として生きてみて、どうでございまするか」
「楽しい」義範は答えた。「苦難が多い故な、それだけ楽しい。一つ便利を失ってからは、見えるものも増え余計に愉しい」
「そうでございますか」
 羽水はどこか安堵したような表情を浮かべ、微かに笑い空を見上げた。

 義範と羽水が妙な会話をしていることなど知らず、半助は大滝へと向かっていた。
 後一歩間に合わずに止めることがかなわなかった。東狐が大おろちを寄越した場所だ。妖を飛び越え、そこへと辿り着くまでにはそう時間はかかっていない。
 人になっても、妖を自在に扱うことこそできないが感じることはできた。それで、竹爺に招いてもらうことができたのだ。
 途中、蜃気楼のような半透明の巨大な朱色の天守が山の稜線から突き出ているのが見えた。
 妖城だ。 
 そこに今、山王様が宿っている。
 すべてを見ておられるのなら、なぜ手助けしてくれぬのか。と、思わぬことはない。だが、それでは意味がないのだともどこかでわかっていた。
 己で、やるしかないのだ。
 霧靄が立ち込めている。
 轟轟という音が遠くで聞こえる。大滝までは距離があるのだ。石敷きの河原の上に、数人の人間たちと竹爺は居て、半助を見ても浮かぬ顔であった。
「すまんこって。おろちを止められんかったいや」
 半助は竹爺に笑いかけた。
「竹爺さまが謝ることではございませぬ。むしろ私が不甲斐ないばかりに」
「半助か」野太い声で呼ばれて振り向くと、霧の中から権座衛門が顔をのぞかせた。後ろにいる二人は清吉と小丸であろう。
「良かった。無事でしたか」
 言うと、「それはこっちの台詞だ」と大きな声が返ってきた。怒られているのかと思って、半助が肩をすくめると権座衛門はいきなり抱きついてきた。
 ぎょっとしていると、「よかったよかった」と権座衛門が背を叩くので、咳き込みながらも半助は己が心配されていたのだとこの時知った。だが、期待には応えられなかった。顔をあげることができずにいると、清吉がふと気づいたように言った。
「尻尾をどうしたのです。耳の形も違う」
 ドキリとした。ますます答えられなくなって、うつむいていると小丸が言った。
「その耳、半助に似合っているよ」
「え」と思わず顔を上げると、小丸は豆粒みたいな小さな顔に満面の笑みを浮かべていた。「丸い方が半助って感じがする」
「左様ですか」
 からかわれているわけではないとわかるが、なんと答えてよいのかわからなかった。どういう意味で言ったものだろうか。
「それは、変身?」
「いえ」半助は観念して白状した。隠しても仕方のないこと。「私は、妖力を失い人間になりました」
 言ってしまうと、皆を驚かせたがすっきりとはした。それに、そのことに意外にも皆の方は頓着していない。
「へえ。その方がいいじゃねえか」権座衛門は本気でそんなことを言った。
「半助は、半助に変わりないのだから」
 と、皆が口をそろえてそう言う。これには驚いた。怪妖だろうが人だろうが、そこにある繋がりにはそんなことは関係ない。いちいち気にしていたのは、怪妖ばかりであったのか。
 半助は、皆に幸樹をもらった気がした。きっと、うまくいく。
「みなさん、そんなことより手を貸してほしいのです。雨を降らせねばなりません。その為にはおろちにここからどいてもらわねばならぬのです」
 半助が言うのに、皆が肯いた。皆もやるべきことはわかっている。雨さえ降れば、水不足は解消し彩が東狐の言いなりになるいわれはない。
「だけど、どうやるが」竹爺が腕組みをして唸るように言った。「大おろちは、神獣だっけえ、わしの力も及ばんろ」
「幻術をかけようと思います」
 半助のその言葉に、竹爺は目を瞠った。
「幻術と言っても、おめえさはもう半妖でもねえろに。術は使えねえろ」
「術は使えずとも、幻を引き起こすことは恐らくできると思います。ですがそれには、魔草が必要でして」
「魔草か。どれくらいいる」
「……沢山」
 竹爺は難しい顔をして嘆息した。
「魔草を集めるのは容易なことじゃねえろ。場所までは連れていってやることはできるろも、魔草は暴れるっけ、人間の身体で行ったら怪我をするろに」
「そのぐらいどうってことはありませぬ。暴れると言うても、暴れ馬をなだめるようなものでござりましょう。できぬことはありませぬ」
「魔草を使えば、おろちを幻術にかけることができるのか」
 半助は迷わずに答えた。
「必ずや」
 竹爺はしばらく半助の目を覗きこんでいたが、やがて納得したように肯いた。
「せんかたねえっけ。手伝うてやる」
「ありがとうございます」
 半助が頭を下げ、竹爺が半助を魔草畑に送り込もうとしたときだった。
「待て」と、野太い声が呼び止めた。権座衛門、ではない。
「わしが行く」と、名乗り出たのはなんと、巨体の黒貉であった。
「なんだ、てめえは」
 権座衛門が睨みをきかすのへ、貉は人の姿となってそれを睨み返した。
「古来より西に住まう怪妖じゃ」
「話は聞いている。貉は怪妖の中でももっともタチが悪いっつう話じゃねえか」
 一触即発の気配に、半助は慌てて二人の間に割って入った。
「ちょっと待ってください」とはいえ、半助にも訳が分からない。己に敵対していたはずの貉が、何故半助のしようとしていることへ手助けしようというのか。
「貉どの、私は手伝ってくれるというのならばありがたくあなたの手を借りたい。ですが、」
「どういう風の吹き回しだってんだ」
 権座衛門が、半助を押しのけるようにして言った。
 貉は権座衛門を一睨みしてから忌々しげに事情を語った。
「兄者は村の者に捕まった。わしは一人で赤池を守っておったが、誰も来ん。誰も来んので、退屈して池を離れようとすれば結界が張られておって出られない。池には必ず誰か番人がおらねばならんのだと、そのとき初めて気づいたのだ。そうしたら、結界の外で赤池の元の主が笑っていやがる。どうやらわしらは主を利用したつもりが利用されていたらしい。わしらは主を自由にする代わりに自由を奪われたんだ。それでわしは助けてくれと主に懇願した。そうしたら条件を出された。それが、お前らを助けることだ」
 半助は竹爺に目配せをした。
 真のことで、あろうか。だとしても、何故赤池の主がそのようなことを頼むのであろうか。
 竹爺はニヤリと笑った。それで、この話は信じてよいものとわかったが、疑問は残る。だがモタモタしている暇はない。
「てめえの助けなんざいらねえんだ。魔草は俺たちがとってくる。てめえは手だしするな」
「いや、」竹爺はおもむろに口を挟むなり、右手を挙げた。
「魔草をとるんには、怪妖がおったほうがありがたい。貉が吠えれば、奴らは大人しくなるっけね。半助はここで待ってれ」
 え――。と思う間に半助は取り残されていた。
 半助だけを残して、皆その場から姿を消してしまっていたのだ。
 何故。半助は、その場に座り込んだ。己は、必要とされていないのだろうか。
 置いていかれるとは、そういうことなのかもしれない。
 しかし下らないことに悩んでいても仕方ない。それが事実なのだから。頼りにされておらずとも、竹爺たちは己の作戦に協力してくれているのだ。ならば、半助は今半助のできることを精いっぱいやらねばならない。
 半助はあぐらをかいた。幻術をかけるために、まずは手筈を整えることが第一。あとは集中力。
 気をもって、おろちを幻の中へと引きずりこむのだ。魔草は、おろちの意識を緩める補助的な役割をするにすぎない。だが人間になてしまった今、それがなければ半助の幻術は効かないであろう。まして相手は大おろちだ。魔草のあったところで、術がうまくいくものか。そんな不安はぬぐいきれない。それでも、やるしかない。
 だが、半助は一人になることで十分に気を高めることができた。静かな、なにものもない妖の国の中で瞑想し、半助は幻術を成功させる自信に満ちていた。

 やがて、皆が戻ってきた。
 抱えるほどの竹かごに、山になるほど魔草をとってきてくれた。皆の顔や手足にには切傷や、痣がいくつもできていて、申し訳ない気持ちになるのと同時に、絶対に失敗できないという思いも込み上げてきた。
 半助は皆に心から礼を言って、おろちを倒す準備を始めた。
 これだけは己一人でやるつもりであったが、権座衛門も貉も張り合うように手伝うと言ってきかず、結局二人には槍を持たせた。
 無論、ただの槍ではない。
 大おろちは召喚された神獣であって、元の国とは臍の緒でつながっている。それを断ち切ることのできる刃を先に付けたものだ。
 清吉と小丸には矢を渡した。そういくつも容易できるものではない。刃は各自一つずつしか与えられていない。つまり、チャンスは一人一度きりだ。
 打ち合わせて、半助たちは大滝を囲むようにして散らばった。そして、徐々に距離をつめていく。
 半助は、囮の意味もこめて正面からおろちの下へ向かっていた。
 体勢を低くして、霧のたちこめる中を進んでいくにつれて滝の轟音が近くなってくる。その中に、木枯らしのような音が混じるようになった。息を凝らして更に近づくと、大おろちの姿が一瞬霧の晴れた先に見えて半助は思わず息を呑んだ。
 思った以上に巨大であった。
 高めていた自信が揺らぐ。己が、山のような存在に立ち向かおうとしていることを客観視して、無謀だと思った。
 己の拙い術など、この神獣に効くはずもない。だが、己が術をかけられねば、臍の緒を断ち切ることも不可能に近い。
 今更怖気づいてどうする。
 半助は唾を呑みこんだ。顔をあげて、おろちを見た。
 やるしかないのだ。
 半助は進んだ。小枝を踏んだものか、足下でかすかにパキリと音がした。そんな音など滝の轟音に呑まれて聞こえるはずもないのに、ドキリとする。腰が引けている。
 半助は、意を決して背筋を伸ばした。
 木枯らしのような風の音は、どうやらおろちの寝息だ。半助は霧の中を一気に駆け進んだ。猫のときのようにはいかないが、足音をたてずに走るコツは身体が覚えていた。身の重さにも慣れた。
 おろちの姿がはっきりと半助の目に見えた。
 半身を滝つぼの中に沈ませ、頭だけをだらりと岸に出して目を閉じていた。臍は水の中だ。何とかして、首をあげさせなければならない。
 半助は槍を片手におろちの顔の側まで一気に駆け寄って、跳躍した。跳躍力の足りぬ分は、槍を軸にしてその反動で跳びあがる。だがそれでも半助の身体は巨大なおろちの口の上辺りまでしか届かなかった。
 半助は、爪をたてようとしてそれを失っていたことを思い出した。手掛かりがなく滑り落ちて、何とか止まったのはよりによって蛇の口の端。しかも、鼻の脇をくすぐったことで、おろちは目を覚ましてしまっていた。
 おろちは人間の匂いに気づいたものか、勢いよく口を開けた。上唇に必死にしがみついていた半助だが、足場を急に失い、落下した。そこが蛇の舌の上であったのは、幸か不幸か。落ちた衝撃こそ緩和されたものの、今度は突然地面が昇って行く。口が閉じられようとしているのだ。半助は寸でで、牙の間からすり抜け、顎の閉じられた勢いを利用して、おろちの顔の上へと乗った。 
 平衡感覚も鈍っている。揺れるおろちの頭の上で立っていることはできず、半助は這いつくばっておろちの目の辺りまでよじ登っていった。
 そしてそこで、気を整え幻術の呪を唱え始めた。覚えたものは失われていない。その力の大きさは比べ物にならないが、わずかな妖であっても幻術はかけられる。それは、半助が一番初めに覚えた術だった。せんがんむしが、これならば半助にもできると教えてくれたのだ。お陰で、何度その術で危機を逃れたことがあったかわからない。神官の術を覚えてからは、あまり使うこともなくなったが、身に着けておいたありがたさが身に沁みる。
 彩を助けたい、という思いが、半助を強くしているような気がした。半助の唱えに合わせて、四方から魔草が焚かれている。それを吸えば、当然半助にとっても毒となる。だが幼き頃より慣れているものであるから、多少であれば問題ない。
 次第に、おろちの頭が左右に大きく揺れ出した。ちょうど千鳥足の酔っ払いのような仕草に似ている。半助は必死にしがみつきながらも呪を続ける。幻術はうまくいっているようだった。あとはこのまま、仰向けに眠ってしまってもらえればよい。
 半助が、仕上げにとりかかろうとしたその時だった。
 うっかり、手を離してしまった。力がもう、限界にきていたのだ。あ、と思ったときには半助はおろちの頭を振る勢いによって宙に
ほうりだされていた。
 慣れているとはいえ、人間の身体で魔草の煙を吸うのは無理があったらしく、意識までもが突如朦朧としてきてしまった。
 その高さから落ちれば死ぬであろうに、落下しつつも風が気持ちよい、などと半助は考えていた。その視界に、半助を追ってくるおろちの開いた口が見えた。ヒュンヒュンと、そこに飛び交うのは矢と槍だ。
 いけない。矢を無駄にしないで。
 思ったが、口にすることもできない。
 グングン地面が近づいてきて、ぶつかる。と、思った直前に、半助は快い水の中に包まれていた。
 冷たくて、それは目を覚まさせる。弾けると、半助は水にまみれて咳き込んでいた。手には土がある。地面だ。
 半助は頭を振って、辺りを見回した。
「どこを見ておる。こっちじゃ」
 その声は頭上から。見上げると、せんがんむしが水泡の中に居ておろちとにらみ合っていた。おろちに比べたらせんがんむしは片目ほどしかないのに、なぜか襲い掛からない。
「せんがんむしさま、助けにきてくれたのですか」
「ずっと、己にできることは何かと考えておった。そうしたら遅くなってしまった。すまんかったな」
 せんがんむしはくるりとまわって、半助のほうを向いた。
 背をむけても、おろちは動かない。
「半助」半助はせんがんむしを見つめた。何故、あんなにも悲しそうな顔をしているのか。
「もう気づいておろうが、宝生の玉をお前に持ちださせたのはこのわしじゃ」
 半助は口を開いたが、言うべき言葉が見つからない。
 知っていました。とも、今気づいたふりもできなかった。
「お前が、羽水から取り調べを受けながらもわしをかばっておったことは知っておった。そのとき名乗りでようとも思うた。だが、わしも何か贖罪がしたくてな。ずっと機会を覗っておったのじゃ」
「なにゆえ、」半助は上ずった声で言った。「何故、せんがんむしさまは玉を欲したのでございますか。それほどの力がありながら、何故」
 半助から見ればせんがんむしは遠く及ばぬ存在であった。半助がどうひっくりかえったって、せんがんむしのような知識を持つことはできず、術や技を使えることもなく、力も追いつくことはできない。そのせんがんむしが、何故玉を盗まねばならなかったのか。
「わしはな、半助」せんがんむしは自嘲して言った。「人間になりたかったのよ」
 半助は目を瞠った。てっきり、せんがんむしは人間が嫌いなものかと思っていたが。だが、そう言われてみれば、今日もせんがんむしは人間の羽織を着ている。
「人間に、戻りたかったというほうが正しいかのう。わしは、かつて人間じゃった」
 半助は驚いたが、黙って先を聞くことにした。
「わしは元々人付き合いが大嫌いでのう。親兄弟といえど、共に暮らすのが苦痛で仕方なかったのじゃ。それである日鮒が池に行き、わしは身を投げた」
「身を――でございますか」
 せんがんむしは半助に苦笑を向けて肯く。
「わしも若かったのじゃ。そうすれば楽になれるものと思うてな。ところが、わしは死にきれずに鮒が池の主となった。初めはわしもそれを喜んでおった。わしの望んでおった孤独がそこにあった。だが、本当の孤独とはそんなに生易しいものではなかった。誰も来ぬのだ、あの池には。いつしかわしは、薄暗いあの池で誰か来るのを待つようになっていた。来る日も来る日も誰かを待った。だが、そうしてたまに来た者に喜んで姿を見せれば、皆わしの姿を見て逃げ帰って行く。何故かと思えば、わしはすっかり醜い怪妖になってしまっておったのじゃ。粘液にまみれ、触れたものを溶かしてしまうことさえある。誰かに逃げられるのは、誰かに出会わぬことよりも辛かった。わしは、ますます孤独になった。じゃが、そこから逃れられる術がない。人間をやめたときから、わしは死ぬことを失ったのじゃ。死へと、終わることができぬ。苦しみを終えることができぬのじゃ。そんな絶望の淵にいたとき、半助を連れた花江がやってきた。事情を訊き、驚いたが、わしは頼りにされるのが嬉しくてお前たちをかくまった。じゃが、花江は捕まってしまった。そのとき、わしはお前を育てようと決心し、同時にお前の成長を見るという生きがいをもった。お前はこんなわしを慕ってくれた」
「当たり前です! せんがんむしさまに私はとても感謝しておるのです」
 半助は涙に濡れる声で言った。
「じゃが、わしはお前を裏切ったのじゃ。東狐に、玉の話を持ちかけられて、わしは断らなかった。お前が神官を目指していることを利用して、玉を奪ったのじゃ。そしてそれを東狐に渡せば、東狐の力においてわしを人間に戻してくれるという約束じゃった」
「だけど、私を助けてくれた」
 青い光はせんがんむしのくれた雀の涙晶が光りを放ったものだった。せんがんむしは、半助をずっと見守っていて、助けてくれようとしていたのだ。その代りに、己の望みを失うことになろうとも。
「わしは愚かじゃったよ」せんがんむしは悲しげに笑ってみせた。
「わしはお前がいるだけでよかった。お前が、喜んで笑っていることがわしの一番の幸せであったことを、見失っておった。すまなかったな。こんなわしを、許してくれるか半助」
「許すもなにも、せんがんむしさまは初めから私のかけがえのない師でございます! 誰にだって、心に隙が生まれることはございます。だから、贖罪などと言わないでください。……悲しくなります」情けないと思いつつ、涙をこらえきれずに一筋流すと、せんがんむしは困ったように笑った。
「泣くでない」
 昔もそうよく言われた。
「わしが、お前にしてやりたいことなのだ。だから、泣くなよ。わしは、お前と会えて幸せじゃった。今まで、ありがとう」
 まるで、最期の別れのような言葉ではないか。
 半助が身じろぎするとせんがんむしは身にまとっていた水泡を消して大おろちに向き直った。
「わしを喰うがよい。おろちよ」
「せんがんむしさま!」叫んで近づこうとする半助を、譲らぬ強さで竹爺が引き留めた。
「腕を、放してください」
 だが竹爺はビクともせず、そうこうしているうちにせんがんむしは躊躇なく大口を開けたおろちの腹へと呑みこまれてしまった。
 せんがんむしさま――。
 半助はその場に崩れ落ちた。涙がとめどなく溢れた。
「泣くなと言われてたろに」竹爺がしわがれた声で言った。そう言われたって、いつも泣き止めなかった。
 大事なひとを失って、悲しむなと言うほうが無理だ。
 しかし、「おい、見ろ!」誰かが叫んだのを聞いて、半助は顔を上げた。
 するとおろちが顔を大きく上へ振り上げたかと思うと、水が蒸発するような音をたてながら煙を上げ始めたのだ。それは、腹のあたりから出ていたようだが、すぐに煙に全身が包まれてしまったために定かにはわからなかった。
 何が起こっているのだろうか。
 あ然とする半助の前で、やがてけむりははれてゆき、霧も同時になくなっていた。
 そして、そこにいたはずのおろちの姿さえも消えていて、一人はれまに佇んでいたのはせんがんむしだった。だが、それは半助の知っているせんがんむしの姿ではない。四足で立つ、巨大なサンショウウオといったところか。それが、せんがんむしの真の姿なのだ。
 半助は駆け出していた。
「せんがんむしさま」
 夢中で彼を抱き上げた。
「よかった、御無事だったのですね」
「よさぬか。粘液がつくぞ」
 そうか。せんがんむしは己の粘液を持っておろちを溶かしてしまったのだ。それで妖力を使いすぎて、この姿に。
「そんなこと構いません。よかった、本当に。私はせんがんむし様が死ぬつもりではないかと、はらはら致しました」
せんがんむしは答えなかった。もしかしたら、そうと考えていたのかもしれない。
「ありがとうございます、せんがんむしさま」
「まだ、終わっておらぬだろう」
 せんがんむしはそう言って、竹爺を振り返った。
「竹蔵。雨乞いをしてくれ」
 竹爺はニヤリと笑って「いいろも。これで世の均衡は崩れるのう」
 せんがんむしほどの怪妖が盟約を破れば、国の規律が乱れる。だが、もはやこの世は既に今までどおりにはいかぬであろうところにきているのだ。
「何ほどのことはない」
 せんがんむしは言った。言って、大滝へ入っていく。
 竹爺がそれを見送って、皆を集めた。雨乞いだ。
 皆で輪になって、その中心に火をもやした。天まで焦がすような火を囲んで、人々は竹を打ち鳴らした。
 それは、雨がザアザアと降る音に、よく似ていた。

 東国の地に、大雨が降りだしたのはそれから間もなくのことであった。
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