蛇逃の滝

九影歌介

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「おかしいな。行列がとまらない」
 竹爺の作ってくれた蓑と傘を被って、半助たちは山の頂からそれを見ていた。
 妖城へ向かって、空を横断していた黒の行列が、雨が降ってしばらくしても止まることなく進んでいるのだ。
「おい、半助。どういうことだよ」権座衛門が苛立ったように言った。
「彩は雨のことで脅されているんだろう。だったら雨が降った時点でいやといえるんじゃないのか」
 半助は困った。神官として知識にはあるものの、実際に狐の嫁入りを見たのは初めてなのだ。行列に行くかと訊かれてはいと答えた時点で、行列はもう止まらぬものなのかもしれない。ならば、最後、妖城にて彩が東狐に結婚を申し込まれて「はい」と答えるのを防ぐしかない。
 それを告げると、権座衛門たち三人は慌てだした。半助とて、焦ってはいるが、狼狽えたところで始まらない。
 どうしたらよいのか。無論、止めるしかない。
「妖城へ行きましょう」
 妖城へ。
 三人が息を呑む気配があった。半助にとっては馴染がないわけではない。それでも、畏怖がある。人間にとっては、そこは目に見えぬ境界にあるものであって、半助以上におそろしさを抱くことは無理もない。
 皆半助に手を貸してくれていたから、厚かましくも一緒に行くものと思ってしまっていた。
「申し訳ありません。私、一人で参りますゆえ、皆様方は村へ戻ってお待ちください」
 半助はそう言い置いて頭を下げるなり、駆け出した。
「あ、おい!」と呼び止める声があったが、半助はぬかるむ斜面を滑るように降りていて振り返る余裕はなかった。
 泥まみれになって、駆け降りつつ、半助は動きにくい袍を脱ぎ捨てた。小袖一つになって、裾をからげて山向こうにそびえたつ妖城を目指す。
 輪郭のおぼつかない、朱色の屋根だけが今は見える。
 時折、枝が刺さって足の裏が痛かった。人間とは、何と不便なものなのだろうか。走るにも遅く、皮膚も弱くてすぐに傷つく。だのに、己のように自分を卑下してなどいない。義範も彩も、いつも凛としていて半助を導いてくれていたように思う。
 己の憧れる人は皆そうだった。半助のない者を、皆持っていた。
 半助は、今すこしそんな憧れの姿に近づいている気がしていた。
 突如、雷が鳴った。
 半助のすぐ側でまばゆい閃光が走ったかと思うと、大木が真っ二つに割れて燃え始めた。
 雷が落ちたのだ。
 心臓が早鐘を打つ。半助は、気を取り直して再び走り始めた。しかし、雨脚は強さを増すばかりで、半助はぬかるみに足をとられて転がり、または滑らせて崖下へ落っこちて。思うように前に進めない。もどかしさにいら立ちながらも懸命に駆けた。
 

 お天気雨が突如雷雨に変わったのは、彩が輿に乗せられ天狐の城を出てからしばらくしてのことだった。
 丁度東を出ようとしていた頃だったように思う。
 陽光は、空を覆う雲に塞がれ、曇天の中に金色の光がしきりに走っていた。
 雨を望んではいたが、横で轟く雷は恐ろしかった。一つ、向こうの森へ落ちたときには肝を冷やした。人など到底太刀打ちできぬ、自然の力をそこに感じた。
 向かいに座っていた東狐は狼狽えているさまを見せながらも、平然を装い彩に言って聞かせた。
「この雷雨はわしの力じゃ。一刻も早く水が欲しかろうと思うて、雨を降らせてやったのよ。じゃが、主が『いや』といえばすぐに止めてしまうからの」
 それで脅しているつもりなのだろう。
 彩には、この雷雨の真意はわからなかった。もはや、どうでもよいと思っていた。
 とにかく自分が最後に「はい」といえばそれで間違いないのだ。
 そうでなければまた半助のように苦しむ人を出してしまう。
 半助――。
 彼を思うと、たまらなく胸が痛くなった。
 あれほどひとを愛しいと思ったことがない。ただ共にいるだけの時が、何より楽しかった。彼が目の前にいて、笑ってくれていると心が満たされた気がした。
 肌に触れれば、どうしてか心が響く。そんな感覚も初めてで、兄や親へ抱く想いとはまた別の、深くて強い愛情を半助に抱いていた。
 だがそれを告げることも許されず、叶うことはもはやない。
 この想いはこのまま消えてゆくのだ。
 もっとそれを早くに覚悟できていたら、半助を苦しめることもなかったのに。
 私は、半助から彼の一番大事なものを奪ってしまった。
 半助の、努力を見たわけではない。だが、好きでいればその人の懸けた想いの強さくらいはわかる。痛いほどわかるから、彼を人間にしてしまった自分の失態が死ぬほど憎くて許せなかった。
 もう、どうにでもなればいい。
 自分を不幸にすることで、彼に、半助に罪が償えるような気がしていた。そしてきっと、それは間違いじゃない。
 行列は止まった。雨は降り続いている。
 彩は言われて腰を降りた。白無垢は濡れもしないし、汚れもしない。彩は土の上を歩いていなかった。拳一つ分ほど浮いたところを、東狐に手を引かれて歩いている。
 自分はもう地を歩くことができぬのだと思って、心が塞がった。
 蜃気楼のように揺れている、大岩があった。背丈の倍ほどの高さで、横幅は両手を広げても余りある。そこにしめ縄が巻かれている。
「ついたぞ。ここが、妖城である」
 大岩の前には、小さな岩があって、その上に丸い鏡が置かれていた。
「あの神鏡に山王様は宿っておられる」
「鏡に、でございますか」
 どう見ても妖城には見えない。鏡も、古ぼけたただの鏡にしか見えない。が、東狐がそうだというのなら、東狐には彩の見えぬものが見えているのかもしれない。それも、狐になればきっとわかることだ。
「では、儀式を始めよう」
 思っていたのとはだいぶ違った。山王様をもてなす酒肴が用意されていると聞いたが、鏡の前にあるのは、数枚の落ち葉のみだ。
 どっか別のところに用意されているのかもしれない。
 彩はそんなことを考えながら東狐と並んで鏡の前に立った。
 東狐が彩を振り向いて、訊いた。
「主は、妖狐となるか」
 彩は目を閉じた。これで、もうおしまいだ。
 ごめんなさい、半助。さようなら――。
 彩は涙を呑みこんで、答えた。
「はい」
 これで、目を開ければ鏡に映っているのは狐になった己の姿だ。
 彩はしばらく勇気が出せずに目を開けられなかった。すると、「なに」と狼狽えた東狐の声がした。
「何故、狐にならぬ」
 両肩を掴まれ、驚いて目を開くと鋭い眼をして、口の端を歪ませた狐の顔があった。
 横目でちらりと鏡を見ると、確かに彩は人間のままだった。
「狐になるか」
 東狐は彩の肩を掴んだままもう一度訊いた。
 彩は、答えなかった。
 一度、助かったことで躊躇が生まれた。やはり、狐になどはなりたくない。
 そう思っていると、東狐が唸り声を出した。
「うぬれ、答えぬか!」
「痛いっ」肩を潰されそうになって、痛みに顔を歪めると東狐ははっとして手を離した。
「一体、どういうことじゃこれは」
 東狐は辺りを見回した。そして、たちまち青ざめていく。
 彩には何が起きているのかわからなかった。
「な、なんじゃここは。妖城ではないではないか」
 うろたえる東狐を嘲笑うように、あちこちから笑い声が聞こえてきた。
「狐も馬鹿じゃのう」
「ほんに。こんな簡単なまやかしにひっかるとはのう」
「道も妖城も偽物と気づかずに我らの巣に迷い込んで、人間に結婚を申し込んだわい」
「こりゃ滑稽滑稽」
 東狐は岩のしめ縄を引きちぎって、怒鳴り散らした。
「何奴じゃ! このような無礼が許されると思っておるのか!」
「わしじゃ」と、現れたのは竹爺だった。
「竹蔵めが。おいぼれが今更朕に何用じゃ。不自由のない生活は与えておったであろうが」
「与えられていたつもりはない。わしが望んでああして暮らしておっただけだこて」
 東狐は牙を覗かせた。だが竹爺はまるでひるんでいなかった。
「のう」竹爺がパンパンと手を叩くや、控えていた従者たちが一斉に気を失った。
「わしが本気を出せばおめえの地位なんざ簡単に奪えるこってね。面倒だっけやらんかっただけのこって。だろも、それじゃいかんと思わせられたっけえ、悪いがおめえには玉座を去ってもらわんといかんろーね」
 東狐の目は血走り、唇はめくりあがって、牙が覗いた。
「うぬれ!」 
 東狐は羽織を翻した。と、同時に彩は体を奪われていた。気づいたときには、風に乗っていた。東狐の出した雲の上に、東狐に抱かれて乗っていたのだ。おぞましさのあまり、東狐の手をのがれようとみもがくと何をされたものか急激に意識が遠ざかっていった。


「すまん! 逃げられたこって」
 半助は竹筒から耳を離した。それから、口を寄せて礼を述べた。
「いえ。少しでも時を稼いでくれたことに感謝しております」
 妖城は聖域であって、怪妖とて許された者しか入ることが許されない。当然そこへ飛ばしてもらうことはできず、半助が焦りつつ泥の中もがいていると鴉が「阿呆」と鳴きながら飛び過ぎていった。
 それに続いて、半助は様々な怪妖の気配を感じた。偶然にもそこは竹林で、雨に打たれる竹の囁きから竹爺の声が聞こえた。
 竹爺たちが迷い道をつくって東狐たちを惑わしてくれるというのだ。東狐のことをよく思っていない怪妖たちもそれに手を貸してくれるというのだ。
 ありがたかった。本当に、何が理由であっても己に手を貸してくれる者の存在は、心強い。
 半助はその間に妖城へと向かったのだが――間に合わなかった。
 人間となった今、門前にたってもそれは揺らめく蜉蝣のように定かではない。まるでそれこそが幻のように不確かな鉄の門がそこにある。
 手を触れようとすればそれは透けて、拒まれていることを痛感する。半助が駆けつけたとき、彩と東狐はもうこの中へ入ってしまった後だった。
 気が抜けて、膝が落ちた。
 彩どの――。
 もう、歩けぬ。足に力が入らない。だが諦めるわけにはいかないのだ。
 これは、ただの執着なのだろうか。己がただ、彩という人間に執着しているだけなのだろうか。
 わからない。だけど、今は己の信じた通りにしかできない。それが彩の為だと思うから。人々のためと思うから。半助はやり遂げねばならない。東狐に、玉の力を使わせてなるものか。
 半助は立ち上がった。だが、門は固く閉ざされている。
 だが、次の瞬間驚くべきことがおきた。
 門が、ひとりでに開いたのだ。唐突な出来事に半助は呆気にとられつつも、とにかく、と急いで中へ入った。入った途端に、そこにいた。
「半助さま」
 まるで、誰かに導いてもらったとしか思えない。
 山王のおわす坐を前にひれ伏す東狐と彩の後ろ姿がそこにはあった。朱で彩られた神殿の中に、二人の白だけが浮き立っていた。
 一段高いところに西狐が居て、無言で半助を見つめていた。
 慌てて膝を折ろうとするも、身体がいうことをきかなかった。
 西狐よりも更に一段高いところに、空の座がある。金のその座に今山王がいる、はずだ。
 半助にはそれを見ることはおろか感じることもできなかった。山王は形を持たぬときいていた。必要なとき、それはつくることができる。だが、普段は目に見えぬのだという。ただ、神官となればそれを感じることができるはずだった。
 半助はもう人間であって、何からも遠ざかってしまっているのだ。
 だが、そんなことはどうでもいい。
 折れぬ膝を前に進めようとすれば動く。
 半助が彩へ駆け寄ろうとすると、東狐が跳びあがって彩の首筋に爪を当てた。 
 また、同じ失態を――。 
 半助は唇を噛んだ。
 西狐は、高みの見物を決め込んだとばかりに無表情に半助たちを眺めていた。手助けする気も邪魔する気もないらしい。
 半助は足を半歩進めた。
「動くな」東狐が思いつめた声で言った。「儀式が終わるまで貴様は黙って見ておれ」
「そうはいきませぬ」半助は彩を見つめた。「彩どの。はいと言ってはなりませぬ。もうおろちはいません。雨が降っているのを見たでしょう。狐の嫁になどなる必要はないのです」
「黙らぬか!」
 東狐の跳ばした妖気は到底人間には避けられず、半助はもろに胸にそれを受けて後ろへ倒れた。信じられぬほどの痛みが全身を襲い、痺れさせる。
 しばらく声を出すこともままならず、半助は呻きながらも立ち上がった。
 彩は、涙を流していた。そんな顔、見たくなかった。悲しませているのは、己なのかもしれない。半助は励ますように笑顔を作った。
 大丈夫だから――。
 そう言ってやりたかった。 
 それが伝わったものか、彩は泣きながらも微かに笑った。それが、思いのほか励みになった。
 不思議と痛みもひいていく。だが、東狐はたまりかねたように懐に手を伸ばすと、白銀の玉を取り出した。
 宝生の玉だ。
 西狐の目が見開かれたのがわかった。
 東狐も、そちらを気にしつつも素早く唱えた。
「宝生の玉よ、我の願いを聞き届けたまえ。我を山王に変わる神と――」
 半助はどうしたのか覚えていない。気が付いたら、東狐に当身をくらわしていた。東狐の手から離れた玉を、無我夢中で東狐の腰から引き抜いた刀で斬り捨てていた。
 山王様の目の前で、刀を抜くなど無礼の極み。しかも、宝生の玉を斬ってしまうなどとは、命と引き換えにしても償えぬ大罪であろう。だが、構わなかった。このように悪しき心を持った東狐が、王になってはいずれひとびとを苦しめる。そのような世の中をつくってはならない。だから、己一つの罪でそれがふせげるのならば、たやすいこと。
「おのれ、この化け猫が! なんということをしてくれる」
 東狐は震えながら言い半助を弾き飛ばした。半助は激しく壁に身体を打ち付け、床に崩れおちた。そこへ東狐が刀を振りおろしてくる。
 もう、動く力は残っていなかった。だが、できることならもう一度――。
 彩の笑顔が見たくて、視線をあげた。すると、彩は顔を覆っていた。
 半助ははっとさせられた。
 そうだ。己が死ねば、彩を悲しませる。
 どうして、今までそのことを認めなかったのだろうか。己は、今までなんと彩にむごいことをしてきたのだろうか。
 半助は渾身の力をこめて、東狐の刃を避けた。床を転がり、反動で起き上った。東狐が追い打ちにしてくる。
 半助は避けようとして、だが目の前が急激に白くなった。まずい。
 思った次の瞬間――梅の香がした。
 優しい、甘い香りだった。
 気づくと、彩が半助を庇うようにして、半助にすがりついていた。
「彩どの」
 彩はぎゅっと目をつむっている。
 彩を守ろうとその身体に手を回したとき、東狐は振り上げていた刀を振り下ろすことなくそのままに、斜めに崩れるようにして倒れた。そして次の瞬間彼の身体は急速に縮まっていったかと思うと、四足の狐の姿となった。
 コン、と鳴いてキョロキョロと辺りをみまわし、狼狽えたようにその場から走り去っていった。
 どうみても、ただの獣にしか見えなかった。
 半助はあ然として口がきけず、かろうじて顔だけを西狐に向けた。
 驚くことに、西狐は笑んでいた。
 ゆっくりと壇を降りてこちらへ向かってくるので、半助は彩へ耳打ちして一緒にその場に跪いた。
「よくやった、半助」
 半助は己の名が西狐の口から出たことがまず信じられなかった。恐れ入って、更に頭を深く下げた。そして、改めて褒められたことを不可思議に思う。
「いや、あれが宝生の玉を狙っておることは知っておったのだ」
 頭をあげよ、と西狐は親しげに半助の肩に手をかけながら言った。その場に正座し、半助たちと同じ目線で西狐は語った。
「わたしは全ての企みを見ておったが、あえて口は出さずにいた。見守ること、それがわたしの役目だからな。なんど、助けようと思ったことか。わたしが手を下せば、ものごとはすぐに解決する。だがそれではいかぬのだ。ここは、人と怪妖の世界であって、その行く末は彼らが決めねばならぬ。そうして、お前たちは一つの答えを出した。そうせねば、出なかった答えだ」
 西狐は、半助と彩の顔を順に見て微笑んだ。
「天上の望むは、ただ、ひとつになることよ」
「ひとつになること――」
 それが、半助たちにはわかっているのだと西狐は言った。
 半助は彩を見た。すると、彩もこちらを見ていた。
 何となく、そういうことかと……思いはした。
「人と怪妖の間に、そもそも垣根はない」
 西狐のその言葉は、これまで半助がきいてきたものとは真逆のものだった。人と怪妖とは相容れぬものだと。
 いつから、そう変わってしまったのであろうか。
「さて、」西狐は膝を叩いた。
「わしらはそろそろ行かねばならぬな」
 立ち上がろうとする西狐に、思いがけず彩がすがった。
「お待ちくださいませ。半助さまはどうなるのでございますか。どうか、なにとぞ、怪妖に戻してくださいませぬか」
「彩どの、それは――」
「できぬな」西狐はきっぱりと言った。まだ、どこかで少し期待をしていた半助は、それで気持ちにけじめがついた。
「どうしてでございますか。半助さまは何も、」
「よいのですよ、彩どの」
 半助は彩の言葉を遮って言った。
 怪訝な顔をする彩に半助は笑いかけた。
「私は、人間として生きていくと決めました。それに、私は山王様の御前にて刀を抜き、更には宝を斬ってしまったのです。この罪からはにげられませぬゆえ」
「ああ、それだが」西狐は立ち上がり裾を払って、パチンと指を鳴らした。たちまち、妖城であったはずの神殿が消え、そこはただの草原となっていた。
「山王はここにはおらぬ」
 半助はわが耳を疑った。
「いない……? え、ですが婚姻の儀には山王様がお越しになると」
 東狐もああしてひれ伏していたではないか。
「嘘の儀に呼ぶ必要もなかろう。東狐め、『老いぼれて見えなくなったか』と脅せば慌ててわたしに向かって頭を下げおった。愉快なことよ」
 なんだか――半助と彩は顔を見合わせた。どことなく義範に似ている。それがおかしくて、二人して笑った。
「まあ、そういうことである」西狐は半助を見た。
「これよりは主が人間の世を治めるのだ」
「はい」半助は答えて、だが、言葉の意味を知ると度肝を抜かれた。
「えっ。ちょっと、お待ちください」人間の世を治めると今言ったか? 「私には、そのようなことは到底」
「できぬということはなかろう。むしろ、お主でなければできぬ」
「まさか、私にはとてもそのような――」
「力がないとは言わせぬぞ」
 半助は言葉を呑みこんだ。そうだ、そう思うのはもうやめにしたのだ。
 西狐はよろしい、と笑んだ。
「案ずるな。玉の力によりこの世は怪妖と人とが供に暮らせる地となっておったが、玉の亡くなった今、それらはすみわけをせねばならぬ。でなければ世がうまくまわらぬでな」
「では、ここは人間だけの世界となるのですか」
 半助の声は上ずっていた。
「その通りよ。だが、妖の国はいつでもそこにある。皆そこへ帰るだけのことじゃ。何も変わらん。会いたければいつでも会える」
「せんがんむし様や、羽水様にも……」
「無論、会える」
半助は安堵した。だが、罪を犯した己がのうのうと生きていてもよいものだろうか。
「よい」と、西狐はあからさまに半助の頭の中を読んで言った。「人間の世で生きることは、楽しきことばかりではない。半妖であったお前が、人間として生きることはさぞかし辛かろう。だがそれはお前が選らんだ道だ。だから、それを生き抜くことがお前にとっては罪を償うこととなる」
「はい」半助は、まだ少し後ろめたさを感じつつも肯いた。
「またすぐに会えよう。記憶を継ぐのだ。過ちを繰り返さぬように、お前は良き国を造れよ」
 はい。
 半助は肯いた。
 西狐の姿はあっという間に消えてしまった。
 だが、見えなくても妖はそこにあるのだと感じた。
 いつの間にか、空ははれている。これから、旱魃が起きたら誰に頼めばよいのだろうか。やっぱり、せんがんむし様に向かって雨乞いするしかないのだろう。
 見えないものを、人間は敬わなければならないのだ。
「半助さま、見て」
 彩が無邪気な声でいって指をさした先には、一つの水たまりがあった。草原のくぼみに水が集まりキラキラと光っている。そこには日と青空に浮かぶ雲が映っていて、覗き込むと彩と人間の己がいた。
 水面の中で互いに目が合って、何となくおかしくて笑い合った。
 彩の手が触れて、半助はそれを握った。
 強く、幸せを感じた。
 これから、乗り越えねばならぬことが山ほどある。だが、この手があればなんとかやっていけよう。
 
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