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第二部  1 ここは治外法権ですか?

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 次の日、優毅は午前十時に起きてコンビニに行った。
 ATMにキャッシュカードを突っ込んで残高確認すると、12652円入っていた。
 もともとの残高が652円だったから、父は12000円を振り込んでくれたようだ。
 コンビニのATMで小銭はおろせないから、優毅は12000円をおろした。残高が432円になっている。手数料をとられたのだ、220円も。
 ぼったくりめ。
 優毅はぼやきながらお金を財布にしまうと、何も買わずにコンビニを出て駅に向かった。
「もっとくれればいいのに。これじゃ、飯も食えないじゃないか」
 優毅の実家は三重県の四日市であった。駅で言うと、近鉄富田駅から徒歩圏内だ。
 ルートは、JR東海道新幹線のぞみの博多行で名古屋駅まで行き、それから近鉄名古屋駅で近鉄名古屋線急行松阪行に乗り換え、近鉄富田駅まで行くのが通常だ。
 しかし、これだと11130円料金がかかる。
 時間は1時間36分と高速で行けるが、12000円しかもらっていないところ、11130円かかるのは痛い。
 優毅は色々考えて、結局高速バスを利用することにした。
 これなら、近鉄富田駅まで5910円で行ける。
 その分7時間3分とかなり時間はかかるが、急ぐ旅ではない。金はないが時間は有り余っている。
 500缶のビール二本位飲んで、旨い弁当でも食ってのんびり行こう。彩羽さんに土産も買えるな。
 待てよ。帰りの交通費はもらえるのか?
 優毅はすぐ帰るつもりで財布とスマホしか持ってきていない。服装も黒のパーカーにジーパンといたって身軽である。
 まさかそのまま三重で暮らせってことにはならないだろうが、おいそれと交通費をくれるとは限らない。
 そうすると、東京に帰る分を考えて半分は残して置いたほうがいいだろうか。
 そんなことを悩みながら、高速バスのチケット売り場でチケットを買い終えた優毅はそのまま売店に向かい、結局缶ビールに500ml入りを二本と柿の種と幕之内歌舞伎を買った。
 
 7時間というと長く感じるが、実際眠ってしまえばあっという間だった。500ml入りの缶ビールは、良い睡眠薬がわりになった。
 近鉄富田駅に降り立ったときには、空はすっかり夕焼けに染まっていた。時刻は午後6時に差し掛かるところ。
 西口改札を抜けて、近いからという理由で選んだ母校である四日市高等学校を左手に見ながら線路沿いに進んでいく。そうして1㎞ほど行くと住宅街の中に突如森林が現れる。
 その草木の中に埋もれるように棟門が立っている。
 そこが優毅の実家であった。
 門をくぐり、コンクリート製のアーチを進んでいくと玄関がある。だが、優毅は玄関へは向かわず、中庭を右に逸れた。
 ダンッ。
 という音が聞こえてくる。向かった先は道場であった。
 そこには改めて開き戸の入口があり、向かって右側の柱には『隠賀流忍術道場』という看板が提げられていた。
 ダダンッ。と聞こえてくるのは受け身の音だろう。
 門下生が稽古をしているのだろうか。
 と思ったが、受け身らしき音の後に「キャア~♡」という女性たちの黄色い声が飛んでくる。
 なんだ?
 優毅は訝しがりながら、入口から道場の中を覗いてギョッとした。
 黒の道着袴姿の長身の男が中央に立っていて、門下生らしき男を投げ飛ばしているところだった。
 奴は、二つ年上のいとこ、藤林藤十郎だ。
 それはいいとして、道場の壁際に、場違いとも言える体操着姿の女性ばかり数十人が立ち並んでいたのだ。
 この道場には何故か門下生が居ついた試しがない。巷の忍術道場は外国人に大人気だというのに。
 藤十郎たちはどうやら乱取りをしているらしい。五人の門下生が次々に藤十郎にかかり、藤十郎はそれをちゃぶ台をひっくり返すよりも容易げにひょいひょいと投げ飛ばしていく。
 その度、女性陣から黄色い悲鳴があがっているのだ。
「キャア~藤十郎様カッコイイ~」
「いやぁ~イケメン~!」
「あん~藤くーん結婚してぇ~っ」
 若い女性ばかりでなく、最後の歓声は六十近いマダムである。
 だが藤十郎はそんな女性たちの熱烈な応援など全く耳に入らぬ素振りで淡々と稽古を続けている。
「あの、道場ではお静かに。応援は拍手だけにしてくださいっ」
 女性たちの声をなんとか沈めようとタジタジになっている国民的美少女レベルの美少女は芽生。その活発美に道着袴姿とボブヘアがよく似合っている。
 芽生は、藤十郎より十年下の妹だ。
「え、結婚!? 兄と結婚なんて許しませんよ!」
 何故か芽生はそこに引っかかり、マダムに詰め寄る。
「はぁ!? なんでよ。私は本気よ!」
「なお悪いです! 兄は世界を飛び回る優秀な商社マンなんですよ!? 兄のお嫁さんにはそんな兄をしっかり支えられる人でなければなりません」
「なによそれ。私じゃ役不足だって言いたいの!? 私だってトウくんを支えられるわよ」
 そのマダムの本気じみた反撃に、芽生はパンと柏手を打って、
「今日の一日体験稽古はここまでです。さあ皆さんお引き取りください。さあ、さあ!」
 マダムを押し出しにかかった。
 当の藤十郎はそちらを一切気にすることなく、まったく不意に、その手から何かを放った。
 その途端、優毅は身の危険を察知した。
「ぬあっ!?」
 優毅は咄嗟に身を捻った。
 すると、その目前を、優毅はそれをはっきりと見た、刃の磨かれた四方手裏剣が二つ続けざまに横切っていったのだ。
 なんてやつ!
 振り返ると、手裏剣二つは今の今優毅の頭があった場所を通り抜けて背後の樹の幹に深々と突き刺さっていたのだ。
「なにすんだ、藤十郎!」
「ちっ。いやすまん。曲者かと思ってな」
 藤十郎は涼しい顔で言った。
「いや、謝る前におまえ舌打ちしたろ! てゆうか、この時代にどんな曲者がいるっていうんだよ!」
 絶対にわざとだ。藤十郎は昔からいけ好かない奴なのだ。高身長でルックスも抜群に良く、女性にモテるのをいいことにいつもすかしてやがる。
天下の東京大学を卒業して大手商社に入社し、世界を飛び回っていると聞いていたが、「なんでここにいるんだよ」
「休暇だよ」
 藤十郎はそっけなく答える。
 優毅は鼻白んだが、女性たちを追い返し終わった芽生が道場に戻ってきて、屈託のない笑顔を向けてきたので怒りが削がれた。
「優毅、おかえり~」
「ただいま~」
 優毅もつられて笑顔になる。
 芽生は他の門下生たちを道場の端に並ぶよう指示を出しながら、優毅の元へ近寄ってきた。そのテキパキとした様子に優毅はしみじみと、
「成長したなあ、芽生」
 と呟いた。
 優毅が大学に入って実家を離れる頃、芽生は中学生だったが、まだまだあどけなさの残る子どものようだった。しかし、十八歳となる今はもう一人前の女性に見える。
「おい」
 藤十郎の隠そうともしない怒りの籠った声と共に木刀の切っ先が優毅の喉元を突く。
「ぼくの妹をイヤらしい目で見るな」
「は? いとこをイヤらしい目で見る訳ないだろ。なあ?」
 勢いで芽生に同意を求めると、芽生はぽっと赤くなって苦笑いをする。
「わたしは嬉しいけど」
 これに慌てたのは藤十郎だった。
「何を言っている芽生! そんなことではいかんぞ。男はみな狼なのだ。絶対に身も心も許してはいかん!」
 こいつのシスコンぶりは相変わらずだな。
そもそも、藤十郎と芽生の家とは昔から深い付き合いがあって、兄妹同然のように育っている。藤十郎と芽生の両親が八年前に事故で亡くなってからは、優毅の家で一緒に暮らしていたし、もはや家族だ。妙な気の起こりようがないというのに。
 優毅は胸の内で嘆息しながら、藤十郎の木刀を手で払う。
「おまえはちょっと心配しすぎだよ。芽生だってもう大人なんだぞ」
「妹を大事に思って何が悪い! こんなに可愛いのだぞ。芽生と付き合う男は強くなければならぬ。せめて某(それがし)を倒してからに――」
「おまえ、その興奮すると武士みたいなしゃべり方になるの治したほうがいいぞ。キショイ」
「きっきしょっ!?」
 藤十郎の鼻の穴が広がり、木刀が降ってきた。
「うわっ、ばか止めろ。防具も付けてないのに怪我するだろ」
「なにを生ぬるいことを! この無職のニートが!! ええええい、煩い蝿め!」
 藤十郎は木刀を容赦なく振り回しながら優毅を追いかけてくる。
 やめろと言っても聞かない。
 そういや昔からこいつはキレキャラだった。
「お兄ちゃん、止めて! どうせやるならちゃんと稽古しようよ!」
 芽生が間に入ってくれて藤十郎はようやく木刀を納めた。
「優毅、久しぶりに手合わせしよ」
 芽生がキラキラとした目を優毅に向けてきた。芽生も芽生で稽古が大好きだという、変わったところのある娘だ。
「いやあ、俺全然稽古なんてしてないし」
「いいじゃん。それじゃ、いくよっ」
 やるとは言ってないのに、芽生は藤十郎の木刀を奪って優毅に仕掛けてくる。これでは相手が変わっただけで、さっきと同じではないか。優毅は丸腰のしかも動きにくいジーパンのままだ。
 だが芽生は本気であった。
 鋭い突きが優毅の急所を狙って的確に繰り出される。防具も付けていないのに木刀で急所を突かれたら堪らない。
 想像するだけでもその痛みに冷や汗が出る。
 優毅は芽生の打ち出した虚をついて、後方へ宙返りして間合いを取った。
 逃がすまい、と芽生が素早く付いてくる。だが優毅はそのまま壁際まで回転して行き、
芽生を十分に引きつけたところで、壁を蹴っ
て飛び上がり、芽生の背後を取った。
「はい、一本」
 優毅は言いながら、芽生の首根を手刀で軽く打つ。
「参りました」
 芽生は振り返って礼をすると、脱力した。
「あ~もっと稽古しなきゃなあ」
「いや、もう十分じゃないの。女の子でそこまでできたら凄いよ」
「まだまだだよ。わたしもっと隠賀流忍術を極めたい!」
「好きだねー」
 感心するような呆れるような。本来の跡取りである優毅にはなんの感慨もない。嫌で嫌で仕方なかった稽古を楽しそうに行っている芽生が優毅に取っては稀有の存在に思えた。
「うん。優毅は、稽古好きじゃないの?」
「うん、まったく好きじゃないよ」
 優毅は清々しいくらいきっぱりと答えた。
「そう、なんだ」
 芽生がしおれた花のような顔になってうつむく。
「いや、そんなあからさまに落ち込まれると俺が落ち込むから」
「だって、優毅がそんなふうに思っているってお師匠様が知ったら悲しむと思って」
 芽生の言うお師匠様とは、優毅の父親のことである。
「親父? 親父なんかどうでもいいよ。それより芽生ももう高校卒業だろ。これからも隠賀流忍術の修行は続けるの?」
「もちろん! 出来れば一生続けていきたいと思ってるんだ」
 そう顔を赤らめて語る芽生を見て、何故か藤十郎が深く頷いていた。
「一生かあ……」
その感覚が優毅にはまるで理解できない。
「うん。だからこの道場が絶えないようにと思って、今勧誘頑張ってるんだ」
「あ、もしかしてさっきの女性たちも?」
「うん。一日体験稽古の人たち。たまたまお兄ちゃんが休暇で帰ってたから、駅前でビラ配ってもらったらすぐにたくさん集まって」
「ほう」
 その人たちはどうせ藤十郎が目当てなのだろう。むかしからそういう光景はよく見かけた。
「一人でも多く入会してくれるといいんだけど」
「偉いねえ、芽生は。ちゃんと道場の行く末を考えていて」
「そりゃ、そうだよ。ここは私にとってとても大事な場所だもの。優毅には違うの?」
「俺には――」
 そんな大げさな物じゃない。
 そう答えようとしたとき、俄かに殺気。
 優毅がひょいっと首を傾げると、耳の側を風を切って飛んでいくものがあった。
 カカッ。
 当たり前のように、背後の床に黒い鉄の棒が刺さっている。棒手裏剣である。
 恐る恐る、それが飛んできたほうを見ると、作務衣姿の長身の男が眉間に皺を寄せて立っている。口ひげ顎ひげを蓄えた、竹野内豊似のオヤジ。隠賀(おんが)流第22代目宗家加藤(かとう)紋(もん)次郎(じろう)、優毅の父親、その人であった。
「た、ただいま帰りました」
 優毅は言いながら、道場から門下生が誰も居なくなっていることに気が付いた。
 隠賀流忍術道場には人が集まらない。その訳は、つまりそういうことなのだろう。
 
 
 
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