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2 財布に240円しかありません。

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「えっ、ダメだったの!?」
 優毅が単位を落としたことを告げると、彩羽さんは可愛い顔いっぱいに驚きを表し、慌てて口を押さえた。
「大きな声出しちゃった。ごめんね」
 彩羽さんは気まずそうに周囲を見渡すが、まだ開店直後とあって、いくつかあるボックス席もカウンターも、空っぽだった。
 ここ『新創作多国籍料理呑乃助Dining』は、居酒屋チェーンで、彩羽はその店の店長だ。
 優毅はここの常連客で、留年の傷を癒しに彩羽さんに会いに来たのだ。
 黒のハンチングにモノトーンの和風シャツ、紺のサロンエプロン。このユニフォームのすべてが完璧に彩羽に似合っている。
 家から近いこともあって、優毅はこの店に通い詰めている。食事も酒も美味しいのだが、なんといっても第一の目的は彩羽さんの笑顔に会う為だった。
「いえ、全然。留年なんて慣れてますから」
 優毅は、出されたビールにさっそく口を付ける。
 労働後のビールは美味しいらしいが、労働してなくてもビールは美味しい。
「いや、そこは慣れないほうがいいんじゃないの」
 苦笑いする彩羽さんも可愛いな。
 優毅は照れを隠すようにビールをもう一口飲む。
「まあでもジタバタしても仕方ありませんよ」
 彩羽は優毅より五つ年上だ。大人の男を演じたくて余裕をかましてみたが、実のところ内心はかなり焦っている。
「これからどうするの? 大学に残るならまた一年分学費を払わなきゃならないんでしょ?」
 そのことだ。
 彩羽は眉尻を下げ、自分のことのように心配してくれる。
「そうですね」学費はウン百万である。どうするのだ、自分。
「父は大学辞めて家業を継げと言うでしょうね」
 優毅はついため息まじりにそう言った。
「家業? 優毅くんちって、何やってるんだっけ?」
 彩羽は黒目がちな目をじっと優毅に向けてくる。
 止めてください。照れてしまいます。
 優毅はにやついた顔をごまかすように目を逸らし、ビールを飲んだ。
「昔からの地主です。大したことはしてません」
「地主って、家業なの?」
 首を傾げる彩羽に、優毅は笑ってごまかした。
「あっはっは」
 それ以上のことは言えない。断じて言えない。
「でも、優毅くんが地元に帰っちゃうともう会えなくなるんだね。それはちょっと寂しいな」
 彩羽のその言葉に、ズキューンと、優毅の心臓が大きく脈打った。
「帰りません」
 きっぱりと、優毅は言い放った。
「えっ。帰らないって、それじゃあやっぱりもう一年大学行くの?」
「はい」
「そうなんだ。良かった」
 彩羽の目が三日月になる。その女神のような笑顔に後光さえ見える。
 ああ、この笑顔に癒されぬ男子が果たしているだろうか。いや、いない。彩羽さんはまさにエンジェルである。
 優毅が彩羽さんの笑顔に見とれていると、
「店長、台堂(たいどう)さんって方がお見えですが」
アルバイトの青年が彩羽さんに近寄ってきてそう声をかけた。
「えっ。お嬢様が!?」
 彩羽さんが驚いて入口のほうを振り返る。優毅もつられてそちらを見ると、薄ピンクのフリフリワンピースに白いハイソ姿の女の子が立っていた。
 身長は150センチくらいだろうか。一瞬中学生のような見た目だが、それにしては妙に堂々としている。
「ごめん、優毅くん。私、行かなきゃ」
「あ、はい」
「それじゃ、ゆっくりしていってね」
 彩羽の余韻に浸りながら、優毅はビールを飲み、スマホの電源を点けた。
 途端に、親父から着信が入った。
 そのタイミングの良さに「まさか、見張ってるんじゃないだろうな」と慌てて辺りを見回したが、さっきの新規客意外にはまだお客はいない。
 さすが自営業。そのフレキシブルさを活かして優毅に一日中電話をかけまくっていたのだろう。
 深呼吸をして、通話ボタンを押すと
「ばかもん!」
 と、いきなり怒鳴り声が店内に響き渡った。
 間違ってスピーカーにしてしまったらしい。
 慌てて通常通話に切り替えるが、父の怒号を聞いた彩羽は驚いた顔で優毅を見ていた。
 ああ、穴があったら入りたい。
 優毅は苦笑いを浮かべ、受話器に耳を付けた。
「おい、聞いてるのか」
 相当怒った父の声が耳に響いた。そりゃコール音にも怒りが滲み出るわけだ。
「はい、聞いております」
「留年決定ってどういうことだ!」
「どういうこともなにも、つまり、そういうこと、です」
「単位あと一つ取れば卒業って言ってなかったか!?」
「その一つを落としましたです」
「ふざけるな! パチンコばっかりやってるからだ!」
「パチンコじゃなくて、パチスロです」
「どっちでも一緒だ! とにかく帰って来い」
「ええと、でもぼく家業を継ぐ気は……」
「いいから一度帰って来い! 話はそれからだ」
「しかしながら、今ぼくの財布には240円しかなく」
 本当は1000円あるが、税込み480円の生中と280円のチャンジャを頼んでしまったので、760円は財布から消える計算だ。
「何故それしかない! 一昨日仕送りしただろう」
「すいません、もう使いました」
「何に」
 ここでパチスロと正直に答える莫迦はいまい。
「参考書を買いました」
「嘘つけ! スロットに注ぎ込んだんだろうが!」
「……」御明察。しかも今度はちゃんとスロットと言っている。もう言い訳の仕様もございません。
「金は振り込んでやる。今すぐ帰って来い。他のことに使い込むなよ!」
 そこで通話は切れた。
 ラッキー。いや、ラッキーじゃないか。
 優毅はため息をついて、チャンジャを食んだ。
 ここでバックレれば父のほうから乗り込んでくるだろう。そもそも生活できない。でも、帰れば家を継げと言われるかもしれない。
 それは絶対に嫌だ。
 ここは言うことを聞いて一旦家に戻り、学費を出してもらえるように親父を説得するしかない。
 優毅はビールを飲み干し、残っていたチャンジャもたいらげると、伝票を持って立ち上がった。
 レジのところで彩羽を探したが、彩羽はいつの間にか埋まった客席の間を忙しそうに走り回っていた。他に店員はいない。
 さっきの“お嬢様”はどうやらもう帰ったようだ。彩羽さんがあんなに血相変えるなんて珍しい。一体、誰だったのだろう。
「彩羽さん、ここにお代置いておきますね」
 近くを通りかかった彩羽にそう告げると、優毅は760円をカウンターに置き、店を後にした。
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