三界の棲家

九影歌介

文字の大きさ
上 下
5 / 15

4

しおりを挟む
「くあっ。しっしっ」
 耳たぶに蚊が止まっているのに気付いて追い払うが時すでに遅し。
「かーくそっ。やられた」
 どうやって掻いたらいいんだかわからないような耳たぶの一番柔らかい部分の側面をくわれた。よりにもよってこんなところの血を吸うとは、蚊の嫌がらせとしか思えない。
 彩は悪態をつきながら耳たぶをかきかき辺りを見回した。
 目を覚ませば東京の自宅、なんていう素敵なことがあるはずもなく、彩はあいかわらずさびれたバス停のベンチにいた。ぼんやり時刻表を眺めてみるが、十四時以降の記載がない。ちなみにそれ以前も十時に一列時刻が表示されているだけで、あとはまっさら。まさかの十四時始発、最終バスだ。
「意味あんのか、このバス」
 とはいえ、駅前まで行くにはこのバスに乗るしかない。次は明日の十四時だ。
「なめてんなあ」
 彩は途方にくれて呟いた。今更後悔している。晴翔にせめて海まで連れて行かせればよかった。そうすれば誰かしらに送ってもらうよう頼めたものを。
 そういう器用さが彩にはない。だれかを利用するつもりで、結局バカ正直になって自分が困るのだ。それでも、やっぱりあんな男とあれ以上一秒たりとも共に過ごしたくはない。だからこれでよかったのだ。待てばいいのだ、バスなんて。明日までだって、待てばいつか来る。
 ただ、暇だ。おなかもすいたし、疲れた。
 彩はあくびをしつつ、道路の方に歩いて出てみた。
 二車線でそれなりの広さはあるのだが、通る車は皆無。
 見下ろすけしきも木々が生い茂るばかりで、家の一つも見えやしない。
「こりゃあ、まいったねえ。まいっちんぐだよー」
 彩は海まで歩いてみるかと、ぶらりとまた歩き出そうとした。ところへ、人が横切って行く。
 銀髪の、白地の着流し姿の男性である。脚には下駄、そのいでたちの割には、若げである。銀髪に見えるのは若白髪のようだ。
 どこかで見たような気がするが、それはきっとその男性がイケメンだったからだろう。
 しかもタイプだ。
「うぇ~」と、気づいたらその男性の後をつけていた。
 が、ふいに男性は舗装された道路をそれて薮中に入っていく。お近づきになりたいあまりに、彩は躊躇することも忘れて生脚のまま藪の中へ入って行った。マムシや蜂がいるかもしれないなんてことはまるで考えもしないのだ。ましてイケメンが千鳥足だなんてことには気づきもしない。
イケメンとは実にいいものである。あの男性、一瞬横顔が見えただけだが、美しい形の眉にくっきり二重の切れ長な眼、それが少し眠たげなのもいい。そして適度に高い鼻に、情深そうな唇、なかなか芸能人にも見られない高レベルのイケメンである。しかも、線の細いジャニーズ系でなく、上背もそこそこあって、大人の落ち着いた雰囲気を醸し出している(着流しのせいかもしれないが)イケメンであった。イケメンというより、男前というほうが似つかわしい。とにかく、彩の大好物のイイ男イロ男、略してであったのだ。
 しかし男狂いによる動力もそう長くはもたない。
 まして、イケメン君の歩いていくところが山林の道なき道とくれば、やぶ蚊に刺されまくった生脚の悲惨さに後悔が後を絶たない。そう、気づくのが遅すぎたのだ。
うぇ~は完全なる千鳥足だったのだ。おかげで後を追うのはたやすかったが、イケメン君は相当よっぱらっているらしく、時折樹木へにこやかに話しかけたりしているもんだから気味が悪くて仕方ない。
だがそうはいっても、四方八方見回してもあるのは木々ばかりで、後ろを向いても前を向いても景色は同じ、もはや引きかえすことは不可能である。どころか、イケメン君の背中を見失えば、確実にここで遭難するだろう。死ぬにしても、こんな誰にも見つからないような山奥で独りで死にたくない。しかももし後に誰かに発見されたときに、自慢の生脚が藪蚊に刺されてぼこぼこのままじゃあ、これまでこの脚で虜にしてきた男どもに対して立つ瀬ない。死ぬ時は睡眠薬で美しく、楽に死ぬと決めているのだ。こんなところでフンコロガシのように死んでたまるか。
 もはや男を追うのはイケメンを喰いたいというより、生への執着の他なかった。なんで彼がこんなところを行くのか、など脳裏を横切りもしない。晴翔に引っ張られた挙句、枝に引っ掛かってぼさぼさになった髪を振り乱し、縦に大きく引き裂いたボロボロのスカートを翻しながら鬼のような形相でゼイゼイハアハア呻きながら道なき道をいく彼女を見た者は皆「デター!」と云って一目散に逃げるであろう。
 それでも彼女は行く。もはやなんでだかわからないが、行くしかないという思いの元。
 そうして辿り着いたのは、なんとも古ぼけた神社だった。
 小川があって、丸太を渡しただけの粗末な橋がかかっている。その橋を渡ったところに、朱の剥げた鳥居が建っていて、その更に向こうにこれまた粗末な祠が建っている。高さは五歳児の背丈ほどしかない。その中には、狐の石彫り物が置いてあった。
そういえばさっき自分は「神様ー!」と叫ぼうとして「おみむめままー」と叫ばなかったろうか。あれはお狐様を、念じて出た言葉だった。しかし今考えてみれば、生まれてこのかた狐なんぞにものを頼んだことはないのである。そもそも狐などはただの獣であって、人間の願いごとなど叶えられるはずもないのだ。なぜあのとき咄嗟に狐に助けを求めてしまったのか。考えても考えても、わからないことだったし、まあいいか。と最後には思うに至る。
ただちっとばかし気味の悪いものを感じてきているのは確かで、だからこそ、「まあいいか」で片付けるのである。「まあいいか」は、彩の得意技だった。
「まあいいか」
彩は、辺りを見回した。他に社殿のようなものはない。はっとすると、イケメン君の姿が見えないのだ。一体どこに消えたのか。ここで今更はぐれるわけにはいかない。
 彩は急いで橋を渡って、鳥居をくぐってみた。
 すると、なんと驚くことに祠が消えて、代わりに立派な屋敷が建っているではないか。
「え」
 彩はもう一度橋を渡って、来た側に戻ってみた。するとやはり鳥居の向こうに見えるのは粗末な祠だけ。苔むした石の屋根に、傾きかけた本体。閉じた扉。とても立派な屋敷には見えないが、
 橋を再び渡ってみると、その祠の姿が消えて一見寺のような茅葺屋根の立派な建物が現れるのだ。
彩はどの瞬間から建物が変わって見えるのか、何度も鳥居の内と外とを行ったり来たりしてみたが、どうにもその瞬間がわからない。気づくと祠で、気づくと屋敷なのだ。
その謎を解明することは、朝日が昇って夜月が出る謎を素人が解明することに等しく難解を極めるもののように思われたので、あっさり諦めた。諦めて屋敷に近づいてみると、なまこ塀に囲まれているが茅葺の屋根がしっかり頭を出している。その屋根の向こう側に、巨大な木がそびえたっているのも見えた。
 また何か懐かしい想いが込み上げてくるようだった。彩の立っているところから石畳が続いていて、大名屋敷のような門がある。
 鳥居からそこに着くまでに、石灯籠や、岩、石碑のようなものが左右対称に並んでいた。
 彩が追ってきた男の背がふらふらと門のくぐり戸の中へ消えていくところだった。
「たらいまあ」という呂律の回らない声が聞こえたところをみると、どうやらここが男の自宅らしい。
 彩は男を追おうとして、ふと池に写った自分の姿を見て「ぎょっ」と悲鳴をあげた。さ
っきから轟轟と汗が流れ出るとは思っていたが、彩は実に醜い姿だった。
ワンピースはもはやぼろ雑巾のように土にまみれて黒ずんでいるし、髪は山姥のように
ぐしゃぐしゃ、おまけに自慢の足は藪蚊に喰われてぼこぼこに腫れ上がって、熱を持っている。
 掻くと痛いので、叩いて気を紛らすしかない。
 バチバチ。と、ふくらはぎを叩きながら、考える。
 こんな目に遭ったのはあのイケメンのせいだ。責任をとってもらおう。
 彩は門に近づいていって、
「頼もう~」と大声で叫んだ。
 しかししばらくたっても返事がない。何か方法が違うのだろうか。
 時代劇では門を開けてもらうときにこんな感じだったはずだ。それとも、
「開門、開門―!」
 だったろうか。だがやはり門はうんともすんとも云わない。
「いやさかー! たまさかー! かぎやー! よっこらしょー!」
 彩はとにかく思いつくまま開門の願いを叫んでみたが、応答はなかった。
「無視しやがって。勝手に入るからいいもん」
 彩は「お邪魔しまーす」と云って、くぐり戸を押した。意外にも簡単に開く。
 敷居を跨いだ途端、顔すれすれに何かが飛んできた。
「ひいっ」
 またもやぎょっとして、その間にも次々と何かが彩に向けて飛んできていた。それは
彩の躰をかすめるようにしてカカカッと軽快な音をたてて後ろの門へと刺さる。
 それが止んだので、彩は恐る恐る辺りを見回してみたがだれもいない。一体なんだっ
たのか。後ろを振り返ってみると、門の木に突き刺さっていたのは、なんと葉っぱだった。
「ええ」彩はそれに手を伸ばして触れてみた。だが、くねりと曲がって、抜こうとする
とちぎれてしまった。なんの変哲もない葉っぱだった。こんなものが木を貫くなんて、ど
ういう飛ばし方をすればいいのだろう。
 彩はとった葉っぱを捨てて、前進した。途端、今度は足下に葉っぱがカカカカカカと
立て続けに跳んできて刺さる。彩はコサックダンスをしているかのように葉っぱを必死に
なって避けた。
「ひいいっ」
 やっぱり相手の姿は見えない。というか、これは神のお怒りなのか。ここはもしかした
ら人間の立ち入ってはいけない領域なのかもしれない。
 だが――。
「私に失うものは何もない!」
 と、彩は雄叫びを上げて強行突破を試みた。
「~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!」に責任とってもらうまでは帰らな
いと心に固く決心をして。
 が、
「うぇっ」
 額に衝撃を感じたかと思うと、彩は仰向けにひっくり返っていた。と、その顔の横に
またしても葉が霞めるようにしてきて飛んできては地に突き刺さる。
 そして今度はその鼻先に、鋭い刃物が突きつけられていた。刃渡りが長い、刀のようだ。それを持っているのは、「ぎゃーっ」と叫んでしまうほどおっかない形相をした者だった。が、よく見るとそれは面だ。般若の面を被った者が、彩に刀を突きつけているのだっ
た。
「ここから立ち去れ。さもないとおまえの命はないぞ」
 般若の面が云った。くぐもった声ではあったが、聞き覚えがあるような気がした。
「す、すす、すみません。すぐに立ち去りますので、お助け」
 彩がいうと、すっと刀が引かれる。見ると般若はだらりと刀を手に提げたまま気を抜
いている。
 その隙に彩は立ち上がり、「お邪魔しました」とぺこりと般若に向かって頭を下げ、出
口に向かう。と見せかけ、
「だれが去るか! 私はあのイケメン君に責任とってもらうまで帰らないと決めたんだい」
と叫びつつ屋敷の玄関に向かって彩は全力疾走をした。頑張ることは嫌いだが、頑張ら
なくても足は速い方だった。
 が、一陣の風が彩を追い越したかと思うと、般若の面が彩の目の前に立っているで
はないか。
「うわっ、ぶつかるぶつかる!」
 と、慌てる彩をよそに般若はさっと身をかわして、すっと足を出した。
「ゎぎゃっ」
 彩は見事にその足にひっかかってすっころび、豪快に地面を転がった。下が石だけに
痛いことったらない。膝小僧はすりむけるし、肘からは血が出てるし、
「何すんだよ、このボケ」
 思わず噛みつくように云った彩の鼻先にまたしても刀が突きつけられた。
「大した度胸だな、これだけ脅してるのに逃げないとは」
 声色を戻した自然の声もまた低いが、よく通る響きのある声。やはり、聞き覚えがある
とは思ったが、思い出せない。
「だがその糞度胸が命取りだったな。我が屋敷に立ち入ったからには、死んでもらう」
 般若は刀を八相に構えた。顔の横で切っ先を天に向けて、唾は口元。小学生のときにか
じった剣道の知識では確かこの構えを八相の構えというのだ。だが構えの名称などどうで
もよい。
「覚悟」
 般若が頭上に刀を振り上げた。
「お、お、お、おたすけえええええええええっ」
 彩の必死の叫びが辺りにこだまする。そのときだった。
「何してるのらい」
 という、間延びした声に彩は助けられた。般若の刀は彩の鼻先一寸のところでぴた
りと止まっている。
「弱い者いじめはいけないよーう」
 と、ふらりよろりと屋敷の方から近づいてくるのは、さっきの着流し姿の男だった。
「このふてぶてしい面のどこが弱いもんだ」
 彩はムッとして般若を睨んで、だが咄嗟にこの状況を利用する手立てを考える。酔っ
払いとはいえ、イケメン君だ。
「助けてください。この怪物がいきなり斬りかかってきたんです」
 彩は素早く刀の下を潜り抜けて着流し男の後ろに隠れた。それをみて般若は呆れたよ
うな声を出す。
「そらみろ。ただでは転ばないこのしたたかさ。よくも余計なもん連れ込んでくれたな、
酔っ払い」
「え、俺知らないよ」
 と、着流しはふらふらしながら、大げさに眉を上げた顔で彩を振り返った。
 彩は顔が熱くなるのを感じた。酔っ払っていても、やっぱりまれにみるイケメンぶり
だった。というより、彩のドストライクだ。ドタイプだ。
 イケメンを前に、俄然やる気が出てくる。彩は速やかにおっさんを封印した。
「このアマはおまえをつけてきたんだよ。ったく、このとんま」
「あらま、そうなの。どうしてよ。どうして、私の後をつけてきたのらい」
 と、男はにこやかに訊いてきた。息が少し酒臭いがイケメンなので深呼吸したっていい。
 それにしてもなんと柔和な笑みだろうか。今までこんな穏やかな笑い方をする男性が他
にいただろうか。いや、いない。私の周りにいる男ときたら皆鼻の下を伸ばして、でへへ
と笑うような男ばかりだった。そういう奴らにも、中にはいい奴もいた。だが、ここまで
のWEはいなかった。これは絶対にゲッツせねばならない。ああ、なんという美しい首筋
から顎にかけてのライン。やわらかそうな唇。たべてしまいたいようだ。食べたい、食べ
たい……。
「……あなたを、食べたくて」
「はあ!?」
 素っ頓狂な声を出したのは、般若の方だった。
「てめえ、殺してやる」
 般若は提げていた刀を再び振り上げる。と、それは頭上で白い鞭に変わった。その武器
をどこかで見たことあるが、思い出せないし、思い出している場合じゃないし。
「きゃあっ、怖い」と、彩は男の背にしがみつく。男は慌てるようすもなくへべれけに云
った。
「おやおや御嬢さん。そんなに怖がらなくてもだいじょうぶ。このひとは口も悪いし、す
ぐ手は出るし乱暴らし、怒りん坊らし、挙句一度キレるとそりゃあああああまるで嵐のよ
うに森林破壊しちゃうようなひとだけれどね、そんなに悪人じゃないお」
「全然フォローになってません(ない)!」
彩は思わず叫んだ。その声がはからずも般若と揃った。
やっぱり超うぇ~でも、よっぱらいはよっぱらいだったか。目の前でふらふらしているイケメン君はなんとも頼りない。
「まあまあまあまあまあまあまあまあ、とにかくそんな物騒なもの振り回さないれ、紅」
 くれない?
 彩はその名をどこかで聞いたような気がする。恐る恐る男の背から顔を出してみると、
丁度般若がその面をかなぐり捨てた。正体は女だった。しかも、癪に障ることにつり目がちではあるが色の白い、モデルにいそうな美人ではないか。紅色の着物もよく似合っている。その濃い色を着こなしてしまう整ったこの顔、どこかで見たことがある気がした。
「まあまあって。おまえ、海神様への報告はちゃんと済んでいるんだろうな!?」
 紅がギロリと鋭い視線を半助に向ける。半助は睨まれてるのに気付かぬようすで、にこ
りと笑う。
「澄んだよ。だから雨が降ってるんだろお」
「まさかおまえ酔っ払ったまま海神様のところへ行ったのか」
紅が俄かに青ざめた。
「いいやあ。ちゃんと道中はしらふだったよお。でも、海神様が飲んでけ飲んでけっていうからさあ。エンガワとマグロの刺身を肴に、〆張り鶴をちょっとだけ」
「ちょっとってどれくらいだ」
「さて、四升ほどかぬ」
「どこがちょっとだ!」
「だって神様にすすめられちゃあ断れないでしょお。そういえば、君ノ伊と吉乃川も呑んだな。美味しかったなあ、エンガワとよく合うんだよねえ。やっぱ酒には刺身だお。あ、紅にもお土産があるんだったよお」
半助はふらりと懐から巾着を取り出し、更にその中から岩の欠片のようなものをとりだした。
ゴクリと唾を呑みこむような音がしたかと思うと、それは気のせいでなく、顔をあげると紅がよだれを垂らしてそれを見ていた。
「佐渡近海で採れた生ガキだよお。ちゃんと檸檬ともみじおろしとポン酢もあるよお」
「そ、そんなもんで誤魔化されないからな」
 紅は云いつつ、だがその手は既に半助からカキを奪っていた。器用に長い爪で貝を割り、半助から檸檬ともみじおろしとポン酢をかけてもらい、立て続けに百個は平らげた。まるでわんこそばのように、半助は巾着からカキを出しては割って、紅の手にのせていくのである。紅がようやく食べるのをやめたとき、というか、カキをすべて食べ尽くしたとき、地面はカキの貝殻で海岸の岩場のようになっていた。要するにカキの貝殻で埋め尽くされてしまっていたのである。大食いファイターも驚きの食べっぷりだ。
「こんなもんで、誤魔化されないからな」
 紅はカキを平らげる前と同じ台詞を堂々と吐いた。
「おいしかったでしょ」
「うん。美味しかった。でもそれとこれとは関係ない。こいつを今すぐ排除しろ」
 紅はビシリと彩を指差して云った。
「排除ってそんな殺生な」
 半助の呂律はもとに戻ってきていたが、のんびりした物言いは酔っているときとかわりない。
「人間をかばうのか。この場所が知れれば、また棲家を奪われるぞ」
「大丈夫だよ。結界も貼ってあるし、人間にはこの場所はただの古ぼけた祠にしか――っ
て、あれ? どうして人間が入ってこれたんだろうね」
 男はマイペースに首を傾げて彩を見つめた。その深い漆黒の瞳に吸い込まれそうであ
る。と、気づけば彩は胸の前で手を組んで、接吻をせがむように唇を男に近づけていた。
「このアマ!」
「ぎゃひんっ」
 何が起こったのかわからず、地面に倒れた躰を起こしてみると、胸のあたりには足の痕
がついている。よくも蹴ったな、と飛び掛かりたい衝動を抑えて、彩は泣き出した。ふ
りをする。
「ひどいっ。私、何もしてないのに」
「今けしからんことをしようとしていたのはどこのどいつだ」すかさず紅の睨みが飛んで
くる。怖いったらありゃしない。
「誤解です。私はただお顔についたゴミをとってあげようと」
「口をすぼめてゴミをとろうとする奴がどこにいる。タコみたいな顔しやがって」
「タコだなんて、ひどい」と、助けを求めて男を振り返って彩はがっかりした。男はこ
っちの方をてんで見ちゃあいないのだ。
「ふっ」と鼻で笑う声がした。見ると、紅が勝ち誇ったような眼で彩を見下ろしている。
「半助は考え事を始めると一切他のものが目に入らなくなるんだよ。残念だったな」
「ええっ」
 彩は半助の目の前で手を振ってみた。
 確かに、半助は口を半開き、虚空を見つめたまま瞬きもせずに止まっている。
「ちっ」
 彩は舌打ちをして、紅をねめつけるなり猛ダッシュした。
 ならばこっちにもやりようがある。
「てめえ、さっきはよくもやりやがったな!」
彩はダッシュの勢いで跳び上がって、両脚蹴り! をかまそうとしたのだが、あっさ
り避けられてしまった。しかも、地面に着地する前に強風が彩の躰をさらって遠くへと吹っ飛ばされる。
「ぎゃあああああっごびひゃあっ」さっきからあげている変な悲鳴の真骨頂ともいえる「ご
びひゃあっ」は、くっさい馬糞の中に消えた。
 あまりの臭さに、彩は気を失った。

しおりを挟む

処理中です...