三界の棲家

九影歌介

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「臭い。臭い。ああ、臭い」
 と拍子をとって唄う声が聞こえた。
 なんだか、ふわふわと浮いているような感覚がした。目を開けると、実際に浮いていた。
「わわっ、なにこれ」
 おどろいて手足をバタつかせると、彩を下から持ち上げていた風が止んで、地面に落
ちた。
「あーあ、勝手に動いちゃだめですれ。まだ洗浄がこれからなんですかられ」
 変な語尾をつけてしゃべる若い男がガラスの向こう側にいた。和装の白衣に、ヘッ
ドホンにサングラス、更に黒のキャップを被っているというアンバランスな恰好をしてい
た。
「はい、洗いますれー」
「洗うって、なにを、わわっ」
 男が何かのボタンを押した途端、彩の躰が浮かび上がった。
「動かないでくださいねー力抜いてないと溺れ死にますれ」
「は? え? ぐあーーーーーーーー」
 いきなり彩の躰が空中に浮かんだまま円を描くように回り出した。どうやら彩は透
明なガラスでできた円柱の中にいるらしい。
「おおおおお。ぐるぐる見るとテンションあがりますれ」
 男はいきなり立ち上がると、YO! YO! YO! と片手をヘッドフォン、片手を
水平に動かした。こきゅこきゅ音が聞こえてきそうである。男は見えないディスクをこき
ゅこきゅしているのだ。つまり、DJのつもりなのだ。何を勘違いしたのか、
「最近はド・ド・ドドドド・ドラム型が流行りですけどRE。ぼくはやっぱり昔ながらの
洗濯機のHOUが使いYASUKUTE好きですRE」
 ちぇけらっちょ。と男は今度はラップ調に唄い出したではないか。てゆうか、洗濯機っ
て……。
「うぎゃあああ」
 なんと回る彩の上からバケツを、いや、風呂桶をひっくり返したような大量の水が降
ってきた。と同時に洗剤も投入されたものか、ぶくぶくぶくぶくと泡がたってきている。
彩はその中をかき回されているのだ。完全に洗濯機で洗われている。
 しかし――不思議なことに息ができるのだ。が、目が回る。一通り現れた後、今度は水
が引いて強風が彩を襲う。
「うごのふーっ」
 恐ろしい威力で彩はあっという間に乾燥した。裂けたワンピースの裾が、ヒラヒラと
揺れているのを目にしていると、
 ピッピッピ―。
 という音が聞こえてきた。まるで「終わったよー」というように聞こえるその電子音の後洗濯機は停止して、急に止んだ風のせいで彩はまた地面に落っこちた。
「ぐへっ」
「はい終了~。きれいになりましたかね」
 と、先程の男がまた違うボタンを押すと、洗濯機の壁面部、彩を取り囲んでいたガラスの板が消えた。
 彩はきっと男を睨んでつかつかと歩み寄ると、サングラスを外して放り投げ、男の着ていた白衣の襟首をつかみあげた。
 よし。ソコソコではあるがそれほどイケメンではない。
「てめえ、何すんだよ。死ぬかと思ったじゃねえか」
「ひ、ひい。やめてくださいれ。ぼくはただあなたのピーッを落としていただけじゃないですかれ」
「人を洗濯機で洗うバカがいるか!」
 彩は力任せに男をふりたくってやった。
「や、や、や、やめ、やめれ。ぼくは、頼まれてやっただけですれ」
「頼まれたって誰に」
「半助さんですよ」
「半助、って、あのうぇ~!?」
「は? うぇ~?」
「いいから、半助様はどこにいるの」
「どこって、居間にいると思いますけどれ」
「連れてって」
「だ、ダメですよ。そんなことしたら紅さんに殺される」
「紅ってあの女か」
「そうですよ、あのひと怒らせたらタダじゃ済みませんれ。あなただって今痛い目に遭ったばかりでしょうれ」
「確かに……」思い出すと沸々と怒りが湧いてきた。
「あの女よくも私を肥溜めに突き落してくれたな。よし、仕返ししてやる」
「ええっ、だめですって」うろたえる男に追討ちをかけるように、彩は男のヘッドフォンを耳から外して、両頬をおたふくのごとくぎゅうううううっと潰してやった。
「いいから、場所教えなさい。こっそり行くよ」
 彩はいやがる男の腕を引っ張って、出口を探した。だが、どこにも扉がない。
「ここは研究室だから外部とのかかわりは遮断してあるんですれ」
 振り返ると、男が呆れたような顔をしていた。
「研究室?」
「ええ。中には危険な道具なんかもありますかられ、研究者の意思によってしか扉が開かないことになってるんですれ」
 部屋を見回してみると、確かにそこは理科室のようだった。ビーカーやら試験管など、名の知らぬ科学実験に使いそうな器具が棚に並んでいるし、今彩が洗濯された洗濯機の円形の台座の向こう側にも何に使うのかわからないような、機織り機のような形のものなど色々あった。
「研究って、何の研究してるの」
「それは、いろいろですれ」
「いろいろって?」
「いろいろはいろいろです。一口には言えませんれ」
「ふうん」
 今更すぎるが、一体ここはどういうところなのだろうか。
 イケメン君に怖い女に小者臭のするこの男。三人はどういう関係なのだろうか。研究室ということは、研究所の仲間かなんかか。きっと、山奥で秘密の研究をしている仲間なのだ。とりあえずはそういうことにしておこう。ここに来るまでに見た、祠が屋敷に変わるだとかいう不思議な現象も、きっとこの人たちの研究の成果なのだろう。
 そんなことはどうでもよくて、
「で、この部屋から出たいんだけど?」
「だから、それはぼくが出ようと思わなきゃ出られないんですってばれ」
「じゃあ、出ようと思えばいいじゃない」
「いやですれ、紅さんに怒られますれ」
「だからこっそりいけばいいでしょ、ってわかんねえ奴だな。いいからさっさとここから出せ」
 彩は再びヘッドフォンで再度男の顔を潰した。
「く、くるしい。わかりましたれ、わかりましたから乱暴はやめてくださいれ」
 男が云ってからすぐ、二人の側に青く塗られた戸が現れた。襖ほどの大きさで、ノブがついているがドアというより、その青さはまるで空のようで、時折雲のようなものが戸の表面を流れている。
「ほら、行くならさっさと行ってくださいれ」
 男はさっさと彩をここから追い出して厄介払いしたいのだろう。そうは問屋が卸さない。
「あんたも行くの」
「え」
彩は有無を言わせず男の腕をひっぱって、戸を開けて外へ出た。すると、目の前には長い廊下が続いている。振り返るとそこには、古びた木戸があるばかり。その前に、男が困ったような顔をして立っている。そういう顔をすると、このソコソコな童顔も愛嬌があってかわいらしく見える。彩が男を見つめていると、ふいに恨めしそうな眼をして男が云った。
「あなた、小学生の頃いじめっ子だったでしょう」
 予期せぬ質問に、彩は一瞬たじろいだ。小学生の頃のことは覚えていないのだ。だからその時分の話しをされることに抵抗を感じるのはもう癖のようになっていた。
「小学校には行ってないよ」
 彩はその話題から逃れるかのように、視線を長い廊下の先へ流した。
「そんな訳ないじゃないですかれ。小学校は義務教育ですれ」
 男は彩のそんな機微には気づいていない。仕方なく、答えてしまった。今日はこれで二度目だ。どうかしている。
「生まれたときにはもう卒業の時期だったの。私は十二歳の時に生まれたから」
 そんなことを云えば、「はあ?」とか、「頭おかしくなった?」などと無下な反応をされるのが普通なのだ。しかし意外なことに、男は「そうなんですれ」とあっさり素直に納得したのだ。そのことに彩のほうが驚いて男を振り返ると、いたって真面目な顔つきをしている。バカにしたわけでも、からかったわけでもないようだ。
「信じるの、今の話」
 と、思わず彩のほうから訊いた。
「え、嘘だったんですれ」
「嘘じゃないけど」
「でも、生まれたってのは違うんじゃないですれ」
「ちがう?」
「あなたはどことなく変わった、それでいて強烈な霊感をおもちですれ」
「霊感って、そんなの感じたことないけど。しかも、霊感に変わってるとか変わってないとかあるの」
「もちろんありますれ。なんていうですかれ、なにかこう別の霊体と混じりあって得た霊感とでもいいましょうかれ。その力を感じたことないのは、うまくそれを抑え込めてるからですれ。それで、日常生活に支障はないのですれ。でもあなたには潜在的には強力な霊感がありますれ。だからこの敷地にも入れたんですしれ、半助さんもそう云ってましたれ」
「へえ」
 自分のことを云われているような気がしなかった。今まで霊の一つも見えたことがないのだ。霊感があるといわれても、いまいちピンとこない。ただまあ、ここに来て不思議なことが一気に身の回りに起こっている気はするが……。
「たぶん、十二歳までの記憶を喪失しているんですれ」
 男は確信めいた声でそう云った。
「でも、私は木の洞の中にいたんだよ。木から生まれたの」
「自分でそこに入りこんだのか、親に捨てられたのかだと思いますれ」
 彩の顔が凍りつくのがわかった。
 引き取ってもらった施設の職員たちも同じことを云っていた。オブラートに包むような云い方ではあったが、要するに彼らは私が木の洞の中に捨てられたのだと云っていたのだ。
 ちがうのに。
 私はその度そう思った。
 両親の顔を知らない。十二歳になるまでの記憶がない。気が付いたら木の洞の中にいた。
 そういうこどもが見つかれば、だれだって捨てられたショックで記憶を失ったものと思うであろう。
 でも、ちがうのだ。ほんとうに。それだけは、昔から強く思う。違う、と。だけどそれを信じてくれる者など、今まで一人もいなかった。
 口では同意していても、心の中ではただ同情して狂言に合わせてくれているだけに過ぎない。所詮こいつもそうかと、彩は落胆した。こんな変わったものを作り出すような者たちだ。彩の常識では考えられないような体験も受け入れると思ったのに。
「と、人間なら考えるでしょうね」
 その男の言葉が新鮮で、彩は顔をあげた。
「ですが我々は違う。それはもしかしたら時界を移ってしまったのかもしれないですれ」
「時界を移る?」
「ええ。それこそまさに我々の永遠の研究テーマですれ」
「なんなの、それ」と彩は訊いたが、男は聞いちゃいない。
「記憶がないというのも、時界移動をした者にありがちな症状。これは半助さんに早く報告しないと。さあ、いきましょう」
 今度は男のほうが彩の腕を引っ張って、歩き出した。黒光りしている廊下を、男はリズミカルに進んでいく。というのは決して文字だけのことではなく、男は本当に拍をとりながら、時折「YOYO」などと口ずさみながらヒップホップダンサーのように右へ左へステップを踏み踏み進んでいくのだ。しかし足にはいまどきと思うような足袋を履いている。白衣も医者の着ているようなものでなく、作務衣のようなのだ。その衣装にヘッドフォンとキャップとサングラスをしているので、奇妙なことこの上ない。というか、たぐいまれなるナンセンスさに逆に感心する。そんな男の観察をしているうちに、彩は中庭に面した部屋の障子の前に連れてこられていた。ここまでどこをどうきたのか、覚えられなかった。いくつか角を曲がったように思うが、もうあの研究所に戻れと云われてもきっと戻れないだろう。こんな広い屋敷に入ったのは初めてだった。寺だってこんなに広いところを彩は知らない。
 男が、障子に手をかけようとしたときだった。
「こんなことならさっさと始末しとくんだった」
 部屋の中から紅の大声が聞こえてきて、彩はドキリとした。始末――というと、自分のことだろうか。
「そんなに怒ることないじゃないか。たかが、食い物一つでヒック」
 こちらは半助の声だ。相変わらず酔っ払っているようで、しゃっくりが聞こえる。しかしそれよりも食い物、ということは自分のことではないのか。彩は手に汗が滲んでくるのを感じた。
「あんな旨い物は滅多に手に入らないんだぞ」
「またすぐ手に入るってヒック」
「すぐっていつだよ。私はいますぐあのアマたれを食いたいんだ」
 アマって、やっぱり私のことだ。なんということだ。このひとたちは人食い種族だったのだ。まさか現代の日本にそのようなものがいようとは。これは一大事。
 彩は青ざめて後退りした。
「しつこいなあヒックおまえもヒック。その食い意地なんとかしなよヒック」
「のんべえのおまえには云われたくないね!」
 紅が声を荒げ、口論が激化しようとしたそのとき、
「ネズミが一匹迷い込んでるよ」という、どこか呆れたような低く響く声が二人の喧嘩を阻んだ。
 次の瞬間、ガラリと障子が開いて逃げようと腰を曲げていた彩は、紅にあえなく後ろ襟をつかまれて、乱暴に部屋へ投げ込まれてしまった。
 部屋は火を焚いたように温かかった。実際、部屋の中央にある囲炉裏には火が灯っている。変わった炎だった。炭が爆ぜる度に火が虹色に光るのだ。しかし夏だというのに、何故火など焚いているのか。
「きさま、盗み聞きとはいい度胸じゃないか」
 また面を被っているのかと思うほど般若に近い形相で、紅が囲炉裏の前で仁王立ちになって彩を睨みつけてきた。
「ひいい、ごめんなさいごめんなさい」彩は奥にいた半助を見つけて、素早くその後ろに隠れた
「私を食べてもおいしくありませんよ。だから食べないでください」と彩が云うと、なぜか二人してきょとんとした顔。
「何の話だ」
 紅は眉をひそめていた。
「だって、今私を始末するとか、食い物だとか、旨い物だとか」
「ああ」
 と、半助が酒の入っているであろう徳利を傾けながら、急に笑い出した。
「それはぶりカツ丼の話だよ」
 今度はこっちがきょとんである。
「は? ぶりカツ丼ですか」
「そう。知ってる? 佐渡のB級グルメで有名なんだけど」
「はあ、」半助はにこやかに云う。大笑いしたせいか、しゃっくりは止まったらしい。
「私がこいつのとっておいたぶりカツ丼を食べてしまってね。そんなちっちゃいことで怒ってるんだよ」
「なに人が悪いみたいに言ってんだ」
 紅が噛みつくと、半助はうんざりというような顔をして紅を見上げた。
「だってしつこいんだよ。たかだか丼一つだろうに」
「ふざけんな! あれは佐渡ヶ島でしか食べられないんだぞ」
「だから佐渡なんてさ、紅様のおん風に乗って行けばすーぐに着いちゃうじゃないか」
「簡単に言うな。人間に見つからないようにいくのは結構骨が折れるんだよ」
「大体、それを言うならおまえだって俺の『亀の王』を一人で一本飲んでしまったじゃあないか。亀の尾じゃないんだよ、亀の王だよ。あれを手に入れるのにどれだけ苦労したことか」
「一体いつの話してやがる」
「六百二十二日前」
「数えてやがんのか」
「冗談にきまってるだろ」半助はあっかんべーと紅に向かってベロを出す。
「てめえ、おちょくりやがって」それでキレる紅もどうかと思うが。
「俺はおまえほど食い意地張ってないからね」
「よくいうよ。日本中の銘酒集めて、瓶に名前書いてるくせに」
「美酒家なんだよ」
「のんべえって云うんだ」
「あ、そういう言い方するならおまえだってくいしんぼうって呼ぶぞ」
「勝手にしやがれ、こののんべえ」
「くいしんぼう」
「ああ、もういい加減におし!」
 二人の低レベルな口げんかにあ然としていた彩は、更にあ然とさせられた。
「まったくもうおまえたちはいつもいつも。喧嘩より前に片付けることがあるだろうに」
 と、大人な仲裁をしたのは、なんと部屋の隅で丸くなっていた白い狐だったのだ。
「き、狐がしゃべった。ていうか、屋内に狐がいる」彩は目を白黒させた。
「そうだ。こいつを忘れてたな」
 思い出させなくてもいいものを。紅は彩を振り向くと、その鋭い眼光でぎろりと睨んでくる。だがその視線がそれて、彩の背後に隠れるようにして立っている男の方に向けられた。
「おい、。なんでこいつを連れてきた」
 ビクッと男は躰を震わして、こそっと彩の後ろに隠れる。必然的に紅と向かい合って他の皆が縦一列に並んでいることになる。
「いや、あのその。ええ、と。あ、実は、この者は時界移動をしてきたようなんですれ。十二の頃に木の洞にいたって云うんですれ」
「なにっ。それは本当かい」
 ロケット弾のように反応したのは半助で、文字通り目にもとまらぬ速さで半助は彩を振り返るといきなりその両肩をつかんだ。物珍しそうなものを見るような目つきで、彩の顔を間近で見つめてくる。
 ちょっと首をもたげれば、唇と唇がくっつきそうだった。
 と思って唇をにゅっと出した瞬間、ただならぬ殺気が彩の横っ面に突き刺さってくる。恐る恐る目を向ければ、紅が般若の形相をして牙をむいていた。本当に牙があったのだ。
 本当に自分でも間の抜けたことだとは思うが、このとき、ようやく彩はこの屋敷の者たちがただの人間ではないと気づいたのだ。それで彩を喰うというのも冗談に聞こえない迫力があったのだ。
この紅の殺気に恐れを成したのか、半可と呼ばれた白衣の男がしゅんっと音をたてて縮んだかと思うと一匹の獣に姿を変えた。
「たぬき!」と彩が驚いて叫ぶと、「むじなですれ!」と獣は叫び返しつつ半助の後ろに隠れるようにして回り込んだ。
「あんな阿呆な獣と一緒にしないでくださいれ」
「どう違うの」
「全然違いますれ」
「そうだな。狸より貉のほうが脂がのっててうまいもんな」
 にたりと笑う紅に半可は震えあがった。
「怖いこと云わないでくださいれ!」
「冗談に決まってるだろうが」
「紅さんが云うと冗談にならないんですれ」
 そんなちょっとした騒動など目にも耳にも入らぬようすで、半助は彩を見つめ続けていた。その目は、彩を見ながら視線の先は虚空にある。どうやら、彩を見つめた姿勢のまま考え事を始めてしまったようだ。
 ためしに彩が横へずれてみても、半助は彩の肩をつかんだ格好のまま石像のように固まっている。
 なんと迷惑な。
「まあ、そんなことはいいんだ。それより、おい女。時界だかなんだか知らないが、この屋敷に立ち入った人間を生かして返すわけにはいかない。おい半可、この女を喰っちまえ」
「ひぇっ。冗談じゃありませんれ。いくら雑食だからって、人語を解するものなんか気色悪くて食えませんれ」
「なに贅沢云ってんだよ。うまそうな人間だろ」
「どこがですかれ。こんな消化不良起こしそうな人間。そんなに喰いたいなら自分で喰えばいいじゃないですかれ」
 なんだか悪口を云われたような気がしたが、喰われる危機を目の前にそんなことを考えている余裕はなかった。
「それもそうだな。きれいに洗ったし、天麩羅にでもするか」
 紅の鋭い眼が彩に向いた。天ぷらなんかにされたらかなわない。天ぷらは食べるものであって、自分がされて食べられるものではない。
 彩は唯一味方になってくれそうな半助をゆすって、何とか我に返そうとした。が、半助はされるがまま上の空だ。
「無駄だ。おまえは天麩羅になる運命なんだ。諦めろ」
 紅の手から白い煙が現れたかと思うと、紅はそれを鞭のように振るった。すると、伸びてきた細長い煙が網のようになって彩の躰を捕えてしまった。
「ぎゃーっ喰われるー!」
 必死に助けを求める彩の横で、半助はブツブツと独り言を繰り返している。イケメンだが変な奴だ!
「いただきまーす」
 と紅が彩の躰を鞭の網で持ち上げたときだった。
「そうか。きみがいたのは、御神木の洞のことだね。それできみは今日ここに引き寄せられたんだ。今宵から明月だもの。霊感の強いきみなら、呪力を感じとることができるだろうからね。そうかそうか、そういうことでしょ」
 と、半助はさっきまで彩がいた腕の中を見て、「あれ」とキョロキョロ。足下で蓑虫状態の彩を見つけると、にっこりと笑って、同じことを繰り返した。
「そういうことでしょ」
がっくりである。彩が縛られているのを見ても、半助はなんの感想ももたないらしい。というより、目に入っていないようだ。
「あの、私今天ぷらにされそうなんですけど」
「天麩羅? 美味しいよね。私はカツのほうが好きだけど」
 ダメだこりゃ! やっぱり酔っ払いは役に立たない。
「いや、そういう問題じゃなくて。助けてもらえませんか。私、天ぷらにもカツにもなりたくないんで」
「あれ、どうしたの。網がからまってるけど」
 今かよ! という叫びを呑みこんで、彩は目に涙を浮かべた。嘘泣きはお手の物である。
「あのひとにやられたんです。私を食べるって」
「紅に? 紅は食いしん坊だからね」だからそういう問題じゃないというに。
「美食家と云え」紅が彩の躰に巻きつく網を絞めつけた。お願いだから今は煽らないでほしい。
「人間の天麩羅なんておいしくないと思うよお」ようやく半助はそのように紅に云ってくれた。
「旨くなくても私はそいつを喰うと決めたんだ」
「可愛そうだよ、やめてあげて」
 ああ。この言葉にどれほど救われることか。彩には今半助が神様のように見えた。
「人間をかばうのか」
「そりゃ俺も半分人間だし」
 半分、ということはもう半分はなんなのだろうか。
「あたしだって半妖だ」
 紅の怒鳴り声と共に、網が更にきつく彩に絡みついた。
「いででででで」
 と悲鳴をあげる彩を紅は睨みつけてくる。だがその眼がこれまで見たものとどこか違う。攻撃的なまなざしの中に、なにか、淋しさみたいなものが覗えるような気がした。
「だけど人間は大嫌いだ。側にいるだけで虫唾が走る」
「でも、せっかくの研究材料なのに。手放したらもったいないよ」
「殺さずにここに置いておく気か」
 紅が半助の言葉に目を剥いた。
「研究室ならいいだろ。時界移動の方法が解明できれば、紅の願いも叶うんだよ。そのためには、このこが必要だと思うよ」
「ダメだ! いくら研究のためでも、人間なんか置いておけない」
「もう、わからずやだなあ」
「わからずやなのはどっちだ。今までどれだけ人間に痛い目に遭わされてきたか」
「『人間』ってひとくくりにするのはよくないよ。俺たちだって、『半妖』って一括りにされたら不愉快だろ。俺は俺だし、おまえはおまえだし、半可は半可だろう」
 紅はぐっと口をつぐんで、だが断固として首を振った。
「けど、こいつは信用できない」
「そんなことないよ。このひと、いい人だと思うよ。そういえば、お名前は」
 お酒飲む?
 と半助はいたってマイペースにで彩に訊いてくる。
「です。お酒は今はいらないです」
「彩ちゃんね。よろしく。残念だなあ、美味しいのに。だよ鶴齢」とっくりから手酌で酒を注いでは飲んでいく。そんな半助のご機嫌な笑顔とは逆に紅の形相はますます険しくなってゆく。
「おい、おまえ人の話きいてるのか。こいつをここに置いておくなんて、私は許さないぞ。御母上だってお許しにならない。ねえ」
 と紅が同意を求めたのは、知らんぷりを決め込んで丸まっているあの白狐だった。
 白狐は面倒そうに首をもたげて、薄目を開けて紅を見た。
「あたしゃどっちだっていいよ。人間なんか餌にしか見えないけどね。喰われても文句ないなら、置いてやりゃあいいんじゃないかい」
「そんな投げやりな、」
「ほうら」と、半助は形勢逆転とばかりに目を細めて紅を見た。
「そういうわけだから、好きなだけここにいなよ。彩ちゃん」
「いや、お断りです」彩は強張った顔で云った。
「え」と目をぱちくりさせる半助に「当たり前だろう」と怒鳴ってやりたかった。
 喋る奇怪な狐に餌にしか見えない。などと云われて止まる阿呆がいようか。
「早く帰らないと家族が心配するんで。私は、これで」
 彩はさっと立ち上がり、この隙にと部屋から逃げ出そうとした。半助のイケメンぶりは多少惜しいが、背に腹は代えられない。死ぬのと喰われるのは訳が違う。喰われてたまるか。「さいならっ」と駆けだして、部屋を出る彩を追ってくる者は誰もいなかった。
 どころか、廊下へ出たと思ったとたん、彩は山林の中に投げ出されていた。
「なんでやねん」と振り返ってみると、古ぼけた祠が建っているばかりだ。彩は鳥居の外に追い出されていたのだ。
戻ればまたあの屋敷が見えるようになろうが、彩は二度とあの鳥居の中に入る気はなかった。戻ればあの怖い狐や女に喰われるか、少なくとも殺される。生きて出られたのは奇跡だ。追っ手の来ぬうちに、と彩は一目散に駆けだした。
だがどちらからきたのか、どこへ行けばいいのか見当もつかない。見渡す限り木々が生い茂り、右も左も同じ景色ばかりが続いている。
おまけにさっきの雨がまだ降り続いていた。相変わらず空は晴れている。
お天気雨も、ここまで続くのは珍しい。
彩は木漏れ日の中、トボトボと歩いていた。
考えてみれば、行くところなどないのである。肩を打つ雨が優しく、慰められているようで余計に淋しさが募った。
ぬかるんだ土を踏んで滑るたび、行く方向を知らない自分の足が虚しく感じる。
こんなことなら、大人しく喰われればよかった。
彩はため息をついて近くの岩に腰かけた。
もう鳥居も祠も見えなくなっていた。道のない山奥で、もうあの場所に戻ることは不可能だろう。斜面を下っていけばきっと山からは出られるだろうが、町にでたところでそこは彩の故郷でもなんでもなく、知り合いもいなければ、まして心を安らげる場所などないのだ。この町でなくとも、どこにも、そんな場所は彩にはない。
東京に帰れば、誰もいないアパートの部屋はある。
でもどうせ家賃も滞納しているし、ガスも止められている。今頃は電気も止められているだろう。敷きっぱなしの布団はかび臭くなっているだろうし、洗い物のたまった炊事場はきっと見るに堪えない汚泥と化して悪臭を放っているに違いない。そんな場所に戻る気もなかった。
――死ぬつもりで、ここへ来たのだ。
「あなた追って出雲崎♪ 悲しみの日本海ィ~♪ 愛を見失い岸壁のうえ~」彩は口ずさんでみた。
 懐かしの名曲特集かなんかで流れたこの唄の歌詞が耳について、彩は「海が見たい」と呟いたのだ。そう考えると、脈絡はあった。
 別に、霊感がどうのという問題ではない。導かれたのなら、こんなところで独り雨にうたれて、ぬかるみに足をとられてなどいないはずだ。
 こんなの、私の人生じゃない。
 こんなはずじゃなかったという悔しさがこみあげる。
 こんなはずじゃなかったのだ。
 男がいないと淋しいと思っていた。でも、居てもいなくても、結局は同じだった。だれが隣にいても、心の中に空いた穴が塞がることはなかった。塞がったと思っても、次の瞬間には吐きたくなるほど嫌悪感にさいなまれる。
 ずっとその苦しみから救いを求めている。
 淋しくなくなるには、どうしたらいいのだろう。
 夕闇が迫ってきていた。
 早く山から出たほうがいいとは思うのだが、躰が思うように動かなかった。岩と一体化してしまったかのように、躰が重い。
 不意に、ジューッという水が蒸発するような音が響き渡ってきた。
 彩はびくりと躰を震わせる。次第にその音が近づいてきていた。
「な、なに」
 どうせ、風かなんかが木々を揺らしている音だろう。そうは思うが、何か胸騒ぎがする。これはまずいぞ、と、自分の中にある何かが告げている。
 たまらず彩が立ち上がったその時、いきなり目の前に怪鳥が舞い降りてきた。一瞬黒い壁かなにかかと見間違うほど巨大。嘴まで黒い鳥が、咆哮するように鳴いて両羽を広げた。
 鋭い嘴が彩めがけて振り下ろされてくる。
 ヤバい。やられる。と頭では考えながら、足は地面に張り付いてしまったように動かなかった。というか、いつからか履いたままだったあの草鞋が彩の足を地面に確かに貼りつけている。
「なんなのこれ」
 彩が身動きとれぬその頭上を黒鳥が掠める。
 嘴の先が彩の前髪に触れた。途端、ジュッという音をたてて焦げる臭いが立ち昇った。
 だが躰は無事だった。焦げたのは髪ではなく、草鞋だったのだ。
 なにがなんだかわからないが、黒い鳥の襲ってくる瞬間、履いていたはずの草鞋が解けて広がり、一枚布のようになって彩を包んで守ったのだ。
そして次の瞬間には彩の躰は宙を舞っていた。腰に何かが抱き着いている。
 風を切って地面に降り立ち、腰に組み付いていた者が離れた。しゃがみこんでいるそれは、まだ十五かそこらの少年だった。首筋が細くきれいだが、色は日焼けしたように黒い。今時日サロもないだろうが、南国で焼いてきたかのような色の黒さだった。
 少年は彩の眼を一瞬捕えてから、どこか動揺したようにくるりと背を向けた。
 何をしているのかと思えば、少年は何事かお経のようなものを早口で唱え、地面に人差し指を突きたてた。と同時に彩の周囲の空気が変わった。というより、風が遮断されたようだった。彩は、今見えない入れ物の中に入れられたのだ。現に手を伸ばしてみると、何かにぶつかる。けれどそこは目には何もないように見えるのだ。
「お暴れにならないでください。私の術は拙いですので」
 声変わりしきれてない、高いような低いような少し割れた声で少年は云った。
 少年は彩に顔を見せぬまま、背を向ける。
 その向こうに、先程彩に襲いかかってきた怪鳥がいて既に白い網の中に捕らわれていた。
「一丁上がり」と、上機嫌に云ったのは網をかけた主で、紅だった。
 着物を着崩したようないでたちで、彩に負けず劣らずきれいな脚が裂けた紅色の着物の裾から見える。着物というよりは、その部分はチャイナドレスに近い造りになっていた。羽織も紅。よほど紅が好きなのだろう。足下にも紅。紅は、紅い――あ、私のミュール!
 彩は叫んだが蒸発するような音に声はかき消されてしまった。
 紅が白の鞭を振るい、網にかかっていた怪鳥が煙を立ち昇らせて消え失せたのだ。
 と、そこにキラキラとしたものが舞っていた。埃が光に輝いて見えるのに似ていた。
「やった。星屑だ」
 紅は徐に上げた右手人差し指でくるりと空に円を描く。するとそのキラキラしていたものが渦を巻いて一塊となって、紅の掌の中に納まった。パチンコ玉程の光を放つ金塊といったところか。紅はそれを大事そうに見つめてから、腰の巾着にしまった。
「もういいぞ、半鵺」
 紅がちらと彩のほうを向いてそう云うと、少年は指を鳴らした。パチン。と、その音で弾けるように、彩を取り囲んでいた見えない入れ物が消えたようだった。。
「ご苦労だったな」
「いえ。紅様の草鞋がなければこの女の命、危ないところだったかもしれません」
「まあ、そのときはそのときだ」
「そうですね。しかしあれもまだ分身のようですね」
 少年が冷静な声でいった。少しくぐもって聞こえるのは、覆面をしているからだ。その覆面からなにから、着ているものも身に着けている脚絆や足袋や草履の鼻緒さえも黒いので、その少年はどこか異様な感じがする。
「まったく。こすい親だ。どんどん知恵をつけてきやがるな」紅が吐き捨てるように云った。
「明月ですからね。何か狙っているのかもしれません」
「今宵から七晩は重々気を付けたほうがいいな」
「はい」
「では下がっていいぞ」
「御意」
 紅に頭を下げるなり、少年の姿は溶けるようにして消えてしまった。
「ったく、世話かけやがって」
 吐き捨てるように言うのは癖なのだろうか。紅が驚きで目も口も見開いたままの彩を見て吹き出した。
「なんだその緩んだツラは」
「なっ。緩んだとはなんて失礼な」
「だって穴という穴全部が開いていたぞ」
「仕方ないでしょ。目の前に巨大な鳥は現れるわ、人が消えるわ。私は昨日まで東京で平凡な生活を送ってたんだよ。こんな夢みたいなことが次々起こるような現実目の当たりにして驚くなっていうほうが無理でしょ。ってゆか、ギャーっ。喰われるー!」
 逃げ出そうとした彩はあっさり紅に首根っこをつかまれた。
「なんかズレてんだよな、おまえ」
「うっさい。離せ、この妖怪めえ!」
「いかにも私は半分妖怪だが」
「やっぱり! っていうか、そのミュール私のだし。なんであんたが持ってんの」
「私の草鞋と交換してやったんだ、ありがたく思え」
「ありがたくなんかない! それ一万円もしたんだから。こんなヘンな縄編んだような草履と一緒にしないでよ」
「ばかもの。それはお狐様の妖力で編んだありがたい草鞋なんだぞ。神社で魔除けに効くと評判で、前なら一足五千円で売れたもんだ」
「こんな藁クズが?」
「藁は藁でも、念を紡いだもんなんだぞ。大体今だって、その草鞋のお陰で助かったんだろうが」
「え、そうなの」そういわれてみれば、確かに彩の身を守ったのは草鞋のようだった。しかもその草鞋の代わりに失くしたミュールを紅が履いているということは、あのとき彩を助けてくれたのは……。
「しっかし歩きにくい草履だ。いらんから返す」
 紅は無雑作にミュールを足で脱ぎ投げてきた。なんてお行儀の悪いこと。
「ちょっと高かったんだから大事にしてよね」
「そんなもん山ん中で履いてみろ。一々土に埋もれて一米も歩けやしないぞ」
「別にいいもん」
「よかないだろ。おまえは今鵺を惹きつけやすい状態なんだ」
「ぬえ?」うぇ~じゃなくて、ぬえだ。
「ああ、今の鳥のことだよ。私はあいつを狩ってをたててるんだよ」
「へえ」
 あんな化け物を平気で相手にしているなど、やはりこのひとたちはまともじゃない。そもそもあの化け物がまともじゃない。全然現実的じゃない。こんなリアリティのない世界がリアルな訳がない。だが、事実は小説よりも奇なりと云う。小説ではいまどきネタにもならないような奇妙奇天烈な出来事も、現実には起こったりするのかもしれない。とすると、これが現実だとするとだ、彩は踏み入れてはいけない場所に足を踏み入れてしまったのだ。
「ぎゃーっおたすけーっ」
 彩は両手を上げて逃げ出そうとするが、やっぱりあっさりと紅に引き戻されてしまう。
「そのタイミングがわからん!」
「だって、なにゆえ私はこんな目に……なに、鵺を惹きつけやすいって」
 紅は不意に目を細めた。
「時には執着することも大切だということだ」
「え?」
 彩がなんのことかわからないでいる間に、紅は「大体」とため息交じりに云って話を進めてしまう。
「半助をつけてきたのはおまえだろうが」
「それは、そうだけど」いわば自業自得なのである。うぇ~に目のくらんだ自分が悪いのである。
「で、どうするんだ」
 と、紅が当たり前のように訊いてきた。こころなしか、彩を見る紅の眼から敵意が薄れているような気がした。いや、初めて会ったときから、本気で怖いなんて思っていなかったのかもしれない。喰うとか殺すとか云われても、それは口だけのような気がしていた。相手は本物の妖怪、なのかもしれない。でも、そんな突拍子もない話も、なぜかどこかで素直に受け入れている自分がいる。
「どうするって」
「おまえの記憶を消して町へ放り出したっていいんだがな。この山は帰りたいと思う者しか出られないことになってんだよ」
「そうなんだ」
 帰りたいと思ったところで、容易に出られるとも思わなかったが、帰りたいと思っていないというのは事実だった。
「帰る場所がないというなら、うちにいてもいい」
 紅はそっぽを向いて云った。少し、耳の後ろが赤くなっているように見えるのは気のせいか。冷たく接するのはもしかして、ただの照れ屋なのか? そう考えると、急に紅に親近感が湧いてくるから不思議だった。さっきまでの怖さはまったくなくなり、紅が可愛いひとに見える。
「いいの?」
「仕方ないだろ。獣に喰われて私のせいにされたんじゃ後味悪いからな」
 自分は散々喰ってやるとか云っていた癖に。さっきだって、紅はあんなふうに云っていたがきっと彩を助けにきてくれたのだ。じゃなきゃ、草鞋をくれたりしない。
 口は悪いが、根はいいやつなのだろう。
 相手はまともじゃない、妖怪変化の類だ。でも、私だってまともな人間じゃない。ならば同類じゃないか。そんなところで親近感を覚えた。
 だからなのか、一緒にいたいと思う。
「私のこと喰わない?」一応そこは確認しておかなければならない。
「腹が減ったらわかんないよ」紅はぶっきらぼうに云った。「けど、うちには旨い物が沢山あるからな。滅多に空腹にはならない」
 紅に彩を喰う気などはじめからなかったのだろう。
「なら遠慮なくお邪魔します」
 彩がにこやかに云うと、紅は苦笑いして「ああ」と肯いた。だがすぐに真顔で「ただし」と付け加える。何を云いだすのだろうか。紅のその真剣なようすに、彩もいささか緊張して構えた。
「屋敷に置いてやってもいいが、零時を一刹那でも過ぎたら外と関わるな」
 関わるな、とはつまり外に出るなということか。
「どうして?」
「どうしてもだ」
「あ、明月とか云っていたよね。そのせい?」
 彩の言葉に、紅は訊かれたくないことを訊かれたとまるわかりの表情をした。
「それもある」舌打ちまでしてしまっている。正直なひとなのだ。
「の割には、月が出ていないけど」
 このぐらいの時刻なら、白い月が出ていてもおかしくないはずだ。だが藍に染まり始めている空に、それらしきものは何もない。
「我らの云う明月とは、人間の云う明月とは少し違う。簡単に云えばその裏側のことだ」
「裏側?」
「つまり、月の無い夜のことを我らは明月と呼ぶんだ。ただし、それは朔とも違う。今宵から七日七晩続く明月は、妖の祝いでもあり、試練の明月でもある。雨と共に明月はこの世に降臨し続ける」
「そうなんだ。よくわかんないけど、なんで明月だと色々注意しなきゃいけないの」
「明月は闇の力が強まるからだ。とにかく外と関わるな。わかったか」
「はーい」要するに、外に出るなというのだろう。あんな怖い化け物がうろうろしているような場所で、外に出る気などさらさらない。
 ごはんもあるというし、家賃もかからずこれはしばらく楽ちん生活ができそうだ。
 意気揚々と、彩は再び二度と戻らぬと誓ったあの祠の屋敷に戻るのだった。


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