三界の棲家

九影歌介

文字の大きさ
上 下
7 / 15

6

しおりを挟む
***



 屋敷に戻ると、既に夕食の準備が整っていた。
 さっきの囲炉裏のある部屋の隣が畳敷きの部屋になっていて、壁に沿うようにして一人一人の箱膳が用意されている。膳は、五つあった。一番上座と思われる、奥の神棚の下の席には白狐が姿勢よく座っている。
 その手前に半助、更に手前一番下座側に半可が居た。あとの空いている席は紅と、たぶん、私のだ。と思うだけで、なぜだか涙が溢れた。
半可は二人に気づくと席を立って手際よくお櫃から茶碗に飯を盛り始める。
「お帰りなさい。半助さんがお待ちかねですれ」
 お帰りなさい。と、別に自分に向けられた言葉でもないはずなのに、どうにも胸が熱くて、鼻先がツンと痛んで、涙を我慢できなくなった。彩は、自分でもわけの分からないうちに、泣き出してしまっていた。
 だが急に嗚咽をもらして泣きはじめる彩の背を、紅は何も云わずに軽く叩いた。たったそれだけのことなのに、なんだか、とても嬉しいのだ。心が、温かくなる。そんな気持ちが懐かしい。いつからか、そういうふうに心にも温度があることを忘れてしまっていた。
 紅は、彩をさっさと座るように促してから、自分は半助の向かいの席に着いた。
「はやく呑もうよ~」
と、半助が彩ににこりと笑いかけた。
「おまえは呑むことばっかりだな」と、紅が皮肉る。さっき喧嘩していたのなど嘘のように、穏やかな空気が流れていた。彩は用意された箱膳の前に座りながら、そんな和やかな場所に自分がいることを不思議に思った。自分が、こんな空気の中にいられる日がくるなんて、思ってもみなかったのだ。どこかで、一生独りなのだと思っていた。孤独に生まれて孤独に生きて、孤独に死んでいくのだろうと。
 半可が紅と彩の分のごはんを盛ってから自分の席に戻ると、それを待っていたかのように「では、いただきます」
 と、白狐が合図した。ただの「いただきます」なのに、なにか大そうなことのように聞こえる。その場にいた皆が当然のように「いただきます」といって手を合わせてご飯を食べ始めた。
 彩も少し遅れてそれに倣う。
 いただきます。なんて、随分前から云ってなかったように思う。
 味噌汁に白米、焼き魚に付け合せのお新香などいたって普通の和食。普段なら定食屋にいっても頼まないようなメニューだが、なぜか妙に美味しそうに見える。またそれを見て、すごくお腹が減っていたのだと想い出した。
 味噌汁をすすると、懐かしい味がした。
 ここはなんだか、知らない場所のはずなのに、そこかしこに懐かしいものがある。
「さっきの、時界移動の話」
 また「のんべえ」だの「くいしんぼう」だの言い合っている紅と半助の話を割って彩は云った。
「あれ、本当? 私は、過去からきたのかな」
 どうしてか、その話がすごく気になる。
「過去とは限らないよ」半助は酒をちびりちびりと呑みつつ答えてくれた。「未来かもしれないし、過去かもしれない。それはまだわからないけれど、でも、十二歳より前をこの第三世界ではないところで生きていたのは確かじゃないかな」
「第三世界って?」
「私たちのいるこの世界のことだよ。世界はいくつもの層にわかれているんだ。さらにそこには過去と未来があって、世界は無限にあると考えている。その中の別の世界から、彩ちゃんはやってきたんじゃないかな」
 なんだか頭がこんがらがりそうな話だが、半助はそう確信しているような物言いだ。
「どうしてそうとわかるの」そう訊くと、半助は彩の足首を指差した。
「きみのしているアンクレット。その素材で使われているものは、この世界にはないものだよ」
「このアンクレットが?」
 彩は少なからず驚いた。酔っ払ってると思えば、そんな細かいところまで半助は見ていたのだ。彩は横に投げ出した自らの足首にはめてある虹色のアンクレットを見つめた。そこには、『坂神彩』と掘られているのだ。それは、気づいたら彩の足にはまっていた。育ってしまった彩の足からそれを外すことはできなくて、でも、切ることはもっとできなかった。
 だからずっとしたままになっている。それが何かだなんて、考えもしなかった。
「それたぶん生まれたときに付けられる名札だよね。そんなものがあるんだから、多分今よりは進んだ時からここへやってきたのかもね」
「そうなのかな。そうだとしたら、私はどうやったらそこへ帰れるの」
「まあまあ、そんな本気にならないで」半助は困ったように両手を目の前で上下させた。「まだ空想みたいな話だよ。千年かけても時界を移動できる方法を編み出せないんだもの。そんな簡単にはきみの謎も解明されないよ」
「そっか。って、千年って言いました今」普通なら冗談と思うが、このひとたちは普通でないので、今の話しも冗談ではないのだろう。
「うん。私は千云歳だからね。青春のほとんどを研究に捧げてしまったよ」
千歳を超えているというのもぶったまげた話しだ。そして、千歳の中の青春時代とは一体いつからいつまでを云うのだろうか。若白髪こそあるが、半助も半可も紅も、皆二十代前半くらいの若さに見える。
「でも、きみのお陰で少し研究が進みそうだよ。時界移動は紅の悲願だからね」
「半助」
 ぎろりと紅が半助を睨んだ。余計なことを云うなと云いたいのだろう。
「しゃべってないでさっさと食え」
 紅がそう云って、それからは他愛もない会話が進みながら食事が終わった。本当に他愛もない話だった。紫陽花の挿し木が根付いただとか、青物が虫に喰われてしまっただとか。
 とくに、食べ物とお酒の話をするときには、紅と半助はこどものように嬉しそうな顔を見せていた。
 楽しかった。食事がこんなに楽しいと思えたのは、初めてかもしれない。
 膳の片づけは、またもや驚くことに紙でできた人形がしてくれた。ぺらっぺらの人形をした半紙が、行進して器用に膳を下げていくのである。ちょっとした人形劇を見ているようで、それも楽しかった。
 それを操っているのは半可で、
「あいつは器用だからな」
 と、紅は自分のことのように自慢げに云っていた。みんななんだかんだ仲がいいようだ。
「飯のあとは風呂だ。来い」
 紅に連れられて廊下に出ると、もう外は真っ暗だった。明月の裏と云っていたが、確かに月はなく、空には何も浮かんでいなかった。そしてしとしとと雨が止むことを知らず降り続けているのである。
 中庭に面した廊下を歩きながら、彩は気になっていたことを紅に訊ねた。
「あの少年は一緒に食事しなくてよかったの」
「半鵺か」
 すぐにその名が出たわりには、紅がこたえるまでに少しの間があった。足は止めずに顔だけ振り返る。
「はんやっていうんだ、あの子」
 彩はなぜだかあの子のことが気にかかっている。あの漆黒の瞳はまっすぐに自分を捕えていて、わずかの間であったはずなのに強烈に彼の印象が残っているのだ。
「まあ、名ではないけどな」
「名がないの?」
「名をつけられるのを嫌がる。人間の食べるものにも手をつけない」
「どうして」
「半妖にはいろいろあってな。妖の血が強い者と、人の血が強い者、ちょうど半分ずつ混ざり合っている者、それからこれは稀だが、妖の霊体だけを練り上げてひとの姿を保っているもの。その性質によって当然生き方も違うのさ」
 それをきいてなんとなく、紅より半助のほうが人間の血がこいのだろうという気がした。
「じゃあ、半鵺は妖怪の血のほうが濃いの」
「逆だ。人間の血の方が濃いから、ひとの生活に慣れてしまわないようにしている」
「慣れちゃだめなの」
「考え方だ。人の生活に染まろうと思えば、そのほうがいいだろう。だがあいつは、学校にも行きたがらない。鵺の性質を失うのを怖がっている」
 紅はどっちがいいと思っているのだろうか。その物言いはまるで、半鵺に人間の生活にそまってほしいと思っているようではあるが、人間嫌いの紅に限ってそんなことはないだろう。
「鵺の性質って、さっき消えたみたいな能力のこと?」
「そうだ。あいつは鵺の方から生まれた。だから肉体だけは鵺の性質に近いんだろう。それで影の中に棲んでいる」
「人間から生まれたら、同じ半鵺でも影には入れないの」
「そういう半鵺を見たことはないからわからんな。まあ、あいつが影に入るのは、私たちにも完全に心を開いてないからというのもある」
「どうして。よくなついているみたいだったけど」
 彩がそう云うと、紅は苦笑してまた歩き出した。
「それもまた鵺の性質だ。鵺にはすべての鵺を司る親がいるんだよ」
「その親に鵺は逆らえない?」
「そうだ。あいつらはそれを血の契約と呼んでいる。半鵺の場合は人の血が濃い分、鵺の親の影響はさほど受けていないがやはり親となるべき存在は必要で、」
「それが紅なんだ」
 つい呼び捨てにしてしまったが、紅は別に何も云わなかった。もっと怒るかと思ったのだが。それよりも、紅は彩の言葉に少し驚いているようだった。
「そんなふうに見えるのか」
「見えるよ。最初、半鵺は紅のこどもかと思ったもん」
「私はそんなに老けていない」
 紅がむすっとして云うのがおかしかった。半妖でも、老けを気にするものなのだろうか。
「それに私は、親になんかなれないよ。ああやって、都合よく使ってやることしかできない」
「そんなこと云ったら半鵺がかわいそうだよ」
 彩は小走りになって紅に並んだ。
「なに」
 紅が顔をしかめて彩を見た。
「だって、性質とはいえ、半鵺は紅のこと慕ってるんでしょう。あいつは心を開かないって云いながら、実際そうなのは紅のほうなんじゃないの」
「私が、半鵺に心を開いていないというのか」
「ちがう?」
「ちがうな。私はここにいる者は皆家族だと思っている。皆、大切な私の仲間だ」
「それと、心を開く開かないってのは少し違うよ。大事な仲間にでも、見せない心はあるもん。紅はシャイだし、そういうところ結構多いんじゃないの」
「きさま、調子に乗るなよ」
 ぎろりと睨む紅も、今となっては可愛く思える。やっぱり怖い顔するのは照れ隠しなのだ。
「とにかく、もっと半鵺のこと信じてあげればいいじゃん。こどもはみんな素直でいい子だよ。それが悪い人間に成長しちゃうのは、きっと大人のせいなんだよね」
 紅はやはり驚いたような顔でしばらく彩の顔を見つめていたが、やがてフッと笑う。その顔が可愛くて、彩も笑った。
「なにわかったようなこと云ってる。ほんの数年しか生きていないくせに」
「長く生きてりゃいいってもんじゃないでしょ。私は短いからこそ、精一杯詰め込んで生きて来たんです。あんたにわからないことだって、私にはわかるんだから」
「あつかましいやつだ」
 紅はそう云いつつ、柔らかな笑顔を見せている。紅はそういう顔をすると、驚くほど美しかった。
 
パンパンッ。と、手を打つような音が二つ聞こえたのはそのときだった。
 どこから聞こえてきたのだろう、と耳を澄ましている彩に紅が云った。
「だ。祠に拝んでいるやつがいるんだ」
 こんな時間に。と、紅は舌打ちをして袖から何か白い物を出して手の内で丸めた。葉脈のようなものが見える。真白いが、木の葉のようだった。
 紅は煙草のようになったそれを口に銜えて、彩に廊下の先を指差して云った。
「この廊下に沿って行け。そのうち湯殿に突き当たる」
「え、沿ってって。紅は」
「仕事だ」
 紅がそう云うなり足下から風が巻き起こる。紅の羽織が翻ったと思うと、すでに紅の姿はそこから消えていた。
 一人ぼつねんと取り残された彩は紅の指差した廊下の先を見てみた。二十メートルもいかないうちに突当りがあるが、そこはただの壁でとても湯殿には見えない。それでも他に行き場もないので一歩廊下をそちらへ歩いてみると、彩は違う場所に立っているのである。
 両側を壁に挟まれた狭い廊下。もう一歩歩くと、今度は屋外に出た。太鼓橋が小川の上にかかっていて、その橋の向こうに『湯』とかかれた暖簾がさがっていた。まるで温泉のようだが、女と男と別れてはいない。まさかの混浴。先に風呂に立った半助が中にいるかと思うと胸が高鳴った。でへへと、ついよだれを垂らしてしまった。いかんいかん。と、妄想を終了して口を閉じ、よだれを拭い、彩は太鼓橋のほうへ歩き出した。もう景色はそこから変わらない。
 外はもう暗かったが、彩の行く道は狐火が優しく照らしてくれている。太鼓橋の中央へ差し掛かったところで、彩はふと立ち止まった。
 小川のせせらぎだと思ったが、それがどこか唄うような旋律を奏でているのだ。その歌声に誘われるように顔をあげると、湯殿の側に信じられないほど大きな木がたっていた。あまりに巨大で、それまでは壁だと思っていたのだ。
 見上げると、月光のような光を湛えた葉が空いっぱいに生い茂っている。
 まるで天の川がすぐ目の前にあるかのような、壮大な美しさだった。
 パンッパンッ。とまた柏手の音が聞こえた。
 なんなのだろうこれは。と、考えていると、そこへ湯殿の暖簾が勢いよく翻って、半裸の半助が飛び出してきた。
「うぇ~」彩は思わず呻いた。幸か不幸か、ぶら下がっているものは見えなかったが、半助は慌てたようすで、白の着流しをひっかけただけの恰好だ。髪からは水が滴っている。
 半助は彩を見つけるなり、
「紅は」と訊きつつ、口に銜えていた帯を腰に結んだ。
「なんか、仕事だって」
 そう答えると半助の顔が歪んだ。今までの頼りない雰囲気とどこか違う。いつものらりくらりとしている半助にしては、余裕のない感じを受けた。
「やっぱり二回目だったか」
「二回目って?」
「柏手だよ。ごめん、詳しく説明している暇はない。私も行かなきゃ」 
 半助は云うなり太鼓橋から飛び降りて小川の水を蹴散らしながら大木の方へと駆けて行く。が、その途中で半助の目の前に白い物が飛び込んできて行く手を阻んだ。
「母上」 
 白狐だった。
 白狐はすましたように座って、だが頑然としている。
「おまえにはもう時がないよ」
「しかし、仕事です」
「おまえのできないときは紅がするという決まりだろう」
「まだできる」
「あと五分で四つ時だ。それにおまえは酔ってるだろう」
「もう酔いは醒めました。二十三時までは大丈夫ですよ」
「それは屋敷内にいればの話だろう。外で眠くなったらどうする」
「それまでには戻ります」
「だめだ」
「お願いです、行かせてください」
「紅に任せておけばいい」
「いやです。これぐらいしか俺のできることはないんだ、行かせてくれ」
 白狐は半助の熱意に圧されたように口をつぐみ、目を細めた。そのときだった。
 いくつもの鈴が一斉に揺れたかのような音が鳴り響いた。
「紅に何かあったね」
 半助はその隙をついて白狐の横をすり抜け、大木の前で柏手を打った。と、一枚白い葉がひらひらと半助の上に落ちてくる。
「一枚だけなのか……」半助が唇を噛むように云うと、追討ちをかけるように白狐が云った。
「一枚で何ができる。もう夜だ。明日働きたいのなら大人しく眠りにつくことだな」
半助は白い葉を片手に握りしめ、白狐を振り返った。今まで見たことのない、悔しそうな表情を浮かべて何か云いかけたその口は、だが何も語りはせずに閉じられる。
代わりに、突如手の中に現れたとっくりを、半助は物も言わずに一気に飲み干した。
どれだけの量を呑んだものかわからなかった。だが相当な量なのは確かだった。どう見てもヤケ酒だ。
白狐が溜息をついた。そのときにはもう半助はふらりふらりと始まって、
「わかりましたよ。寝ればいいんでしょう寝れば。ではおやみなしゃい」
呂律の回らぬ口でそう云うと、最初みたときのように千鳥足で湯殿とは反対のほうへと行ってしまった。
「あの子にも困ったもんだね」
 白狐が今度は深くため息をつき、
「やれやれ、私は疲れたよ」とその場に座り込んでしまった。
「あの、何かあったんですか」
「ああ、気にすることないよ。いつもの仕事だ」
「仕事、って、紅も同じこと云ってましたけど。仕事ってなんなんですか」
「仕事は仕事さ。あんただって、銭もらうために働くだろうが」
「それじゃあ、紅と半助もお金をもらうために働いているんですか」
「まあ、妖怪の場合、報酬は金銭の類じゃないんだけどね」
彩はピンと来た。
「さっきの白い葉っぱ?」
「そうさ」
「あの葉っぱ、なんなの?」
「白砂といってね、妖力の類だよ」
「妖力って?」
「妖力とはすなわち、妖怪の命だよ」
「命――」彩はごくりと唾を呑みこんだ。
「命って……どういうことですか」
 質問が多いね。と、白狐は苦笑しつつも答えてくれた。
「妖怪の血を持つ者は、神にそれぞれ役割を与えられていてね。その仕事をしなきゃ生きるために必要な力をもらえないのさ」
「そうなんだ」働かなければ生きていけないというのは人間にも当てはまることだが、白狐がいうのはそれともまた少し違うもののような気がした。妖怪は、人間よりもずっと厳しい世界で生きているのかもしれない。
 働いていなければ、生きていることを許してもらえないなんて。
「あの木が、神様なの?」
 彩は、星屑の集まったような枝を見上げながら云った。そんな厳しいことを課すほど、辛辣そうな姿ではない。むしろ、見ていると優しい気持ちになる。
「これは御神木だ。山神の意思を伝えるもの。おまえたちの言葉でいえば、『アンテナ』といったところかね」
 アンテナ、とは近代的だ。神とつながるアンテナだというなら、妖怪は人間よりもずっと進んでいる。
「紅と半助はどんな仕事をしているの」
「いろいろあるよ」と白狐はこちらへゆっくりと歩み寄ってきた。
「主だったものは、祠に祈りを捧げた人間の願いを計らうこと。悪しきに堕ちた鵺を退治すること」白狐は、彩の匂いを嗅いだようだった。
「あんたも、お狐様に祈ったことがあるだろう」
「お狐様――」
 つい、今日のことだ。晴翔に襲われて、助けて欲しくて、無我夢中でお狐様に祈った。
「でも、祠なんてなかったよ」
「祠はスピーカーさ。側にいなくとも、すがる想いが強ければ紅の耳には入るよ」
「紅の――。それじゃあ、あのとき助けてくれたのはやっぱり紅だったんだ」
 彩がそういうと、白狐はおどけるように両眉を吊り上げた。
「さてね。あの子がどこでどんな仕事をしているのかまで詳しくは知らないからね。けど、半助ではないだろうね」
「どうしてわかるの」
「柏手が祈りの合図だが、紅は耳がいいからね。半助よりもいつも先に音を聞きつけるんだ。それで置いていかれて半助はいつもスネるのさ」
「やっぱりヤケ酒だったんだ」
 彩が呟くと、白狐はまた苦笑いを浮かべた。
「でも、どうして紅は半助様には仕事をさせないの」
「半助の身を守るためさ。半助は人間の血が濃い。だから、夜の間は眠って躰を休めなければ次の日動けない。力を使ったあとも同じ。眠ることなしでは、半助は生きてゆけないのさ」
「そうなんだ、それでさっき寝ろって云ってたんですね」
「妖力で術を使うには、蓄えが必要だからね。理屈はわかるだろ。時間を置けば置くほど蓄えは増えるんだよ。眠れば更に増えるのさ。半助に限らず紅もだよ。時間を置かなきゃ、十分な術は使えないのさ」
「難儀なことですねえ」
「ははは。そうだね、難儀だね。でもそれも学びというものさ」
 白狐はふいに片眉をつりあげた。
「しかし意外だね。あんたがひとの心配するなんてな」
「そりゃ、まあ」
「どうしてだい。あんたにはあの子らのことなんか関係ないだろう」
「そう云われるとそうなんだけど。でも、」自分でも意外なのだ。だが何かが自分の中で変わりかけているような気がしている。
「紅にはさっき助けてもらったし。半助はイケメンだし」
 もっと二人と仲良くなりたい。もっと二人のことを知りたいと思うのだ。
 確かに、出会ったばかりの者をこんなに心配するなんておかしい。今までの彩だったら絶対になかったことだった。
 付き合った男どもが風邪をひいたり、お腹を壊したり、階段から落ちて脚を折ったときだって、「ダサイ」とは思えど心配も同情もしなかった。だって他人がどうなろうと知ったこっちゃない。それが普通だと思っていた。たまに他人のことを慮る人を見かけると、いつも気に入られるための演技なんじゃないかと思ったものだが、実際に他人のことが心配になるということもあるのだ。
 自分には関係ないはずなのに。どうしてなのか、彩にもわからなかった。
「イケメンかい。そうかい」
 白狐はケラケラと笑うと、太鼓橋に軽やかに飛び乗った。
「息子が褒められるのは悪い気しないね」
 息子という言葉に一瞬耳を疑った。母上と呼んでいたからまさかとは思っていたが、本当に二人が親子だとは。半助は半分、狐なのだ。それでも、イケメンはイケメンに違いないので何も問題はない。
「さあ、あんたはさっさと風呂に入っておいで」
 白狐も紅も、どうしてもそれが必要なことのように云う。風呂など、こんな場合に入るものだろうか。
「でも、紅が大変なんじゃないんですか」
「大丈夫さ。紅は迷子を送りに行っただけだ」
「迷子?」
「ああ。子どもが祠に迷い込んで、家に帰してくれと柏手を打ったのさ」
「でも、紅に何かあったって、さっき」
「大方、その子どもを送る道すがら、鵺にでも襲われたんだろう。あの鈴の音は、仲間が助けを求めたときか、傷を負ったときの合図なんだ」
「鵺って、さっきの黒い鳥のことですよね」
 思い出すだけでも背筋が寒くなる。おぞましい怪物だ。あんなのと直面して、紅は大丈夫なんだろうか。
「そうさ。だが心配ない。鵺はかねてより妖狐の力に敵うものではないとされている」
「でも、じゃあどうして鈴が鳴ったんですか」
「前の狩りから時間が充分に経っていないからね。術の威力が弱くて少しばかりてこずったんだろう」
「それじゃあ、紅が助けを求めてるってことじゃないですか。助けにいかなくていいの」
「あの子が助けを求めたことはないよ。この千云年の間、ただの一度もね。鈴は軽い傷でも負えば鳴ってしまうのさ」
 彩は首をかしげる思いだった。その事情を半助だって知らないはずがない。軽い傷だと思うのなら、あんなには慌てないのではないだろうか。
大丈夫なのだろうか、紅は――。
 御神木を見つめていると、頭がすっきりしてくるようだった。そうしていて、まったく不意に、前に見た夢のことを思い出した。
 黒い怪鳥を低い呪言で鎮めている、紅の髪を持った女。
 鮮烈なイメージが今脳裏に蘇ってみれば、あれは紅に間違いなかった。それから、共に闘っていた半鵺に、半可という名も出てきた。眠っていた半助も確かに見たのだ。
 どういうことだ。
彩はここにきてみんなに出会う前から、彼らの夢を見ていたことになる。予知夢、というものだろうか。少し違う気がする。だがなにがどう違うのかなど、彩にわかるはずもない。あのとき、紅が助けてくれたのと何か関係があるのだろうか。だけどあれは昼間のことで、夢に見たのは夜のことだった。前の晩の出来事だったんだろうか。ふとそんな気がした。だとしたら、自分は、時を遡って二人のことを見ていたのだ。でも、どうして……。
思い出してみると、あの先が見たかったのにと思う。
だがあの先からはぷっつりと、何か繋がりでも切れてしまったかのように何もわからなくなった。テレビを見ていたら、その線を急に抜かれてしまったかのような感じに似ていた。
「とにかく」
考え込んでいる彩は白狐の声で我に返った。
「あんたは湯に入ってくるんだ。湯に入れば穢れが落ちる。ここにいるなら大事なことだよ。鵺は心の隙をついてくるからね」
 口調は穏やかだが、有無を言わせぬ迫力が白狐にはあった。さすが妖狐といったところか。穢れが落ちるとはなんだろう、よくわからないが、彩も風呂にゆっくりと入りたいとは思った。洗濯機で無雑作に洗われて汚れは落ちたが、疲れまではとれていない。ほっと、落ちつきたかった。色んなことが一気にあり過ぎて、疲れ切っていた。休むということは、半妖に限らず、人間にも必要なものだ。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
 彩がそう云うと、白狐は満足そうにうなずいた。
「ああ。あがったら零時までに部屋に入るんだよ」
「部屋?」
「廊下を歩けば着くよ」
 そうか。また同じ原理なのだ。歩けば行きたいところにたどり着く廊下は、成功者の人生に似ているという気がした。そんな廊下を、自分が歩いていいものか。何一つ、自分の想いどおりになどならなかった人生を歩んできた自分のようなものが。
「わかりました」彩が背を向けると、白狐が呼び止めた。
「人間」
 振り向くと、白狐は思いがけず優しい眼をしていた。
「道の長さは初めから決まってるもんなんだよ」
「え」
「行先も大方決まっている。けど、大方さ。辿り着きたい場所にどう行くかは、自由なんだよ」
「廊下のことですか」
「ああ、廊下のことさ」
ゆっくりしてきな。
「風呂のことだよ」
 私は皮肉が好きでね。
と白狐は、云って笑った。
彩は、胸の中がじんわりと熱くなるのを感じた。どうしてだろう。いつまでもここに居ていいのだと云われたような気がしたのだ。
「ありがとう」
 素直にその言葉を云えたのは一体いつぶりか。
 思えば、見ず知らずの、しかも嫌いなはずの人間にここまでよくしてくれる。そんな優しさを持つ人間には会ったことがない。
 暖簾をくぐると。湯気の匂いがした。
 脱衣場の床にはすのこが敷いてあり、棚があって籠が置いてある。銭湯のようだと思ったが、実際風呂屋に行ったことはなかった。マンガやテレビの知識だ。彩は公衆浴場というものが大嫌いだったのだ。
 人前で裸になることなど、今までだったら絶対に考えられなかった。今は一人だが、紅と入ろうとしていたのだ。抵抗がなかった。よく知りもしない相手のはずなのに、裸になれる。
 ここにいる者たちは皆、自分を受け入れてくれそうな気がするのだ。だから、気を張らずに自然でいられるような気がした。
 だから人前で流したことのない涙をも流してしまったのだ。
 なにか、縁があったのかもしれない。いや、ここで会ったのがもう既に縁なのだ。いつか、東京に帰らなければいけないだろうか。だが、そこは故郷じゃない。そんなはずもないのに、こここそが自分の故郷なのだという気がしてしまう。
 そうでなくともいい。彩は、ここが好きになったのだ。ここにいるひとたちが。
自分にもなにかできることはないだろうか。このひとたちのために。
 

しおりを挟む

処理中です...