三界の棲家

九影歌介

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 すっかり棘を削がれてしまったような気分だった。
 彩は軽くなった躰で布団の上に寝転んだ。この布団がまたふかふかとして気持ちが良い。畳のい草が香り、そこにお香の匂いが混じって、心を落ち着かせる。
 枕元の燭台の灯の橙色も、どこか心を穏やかにさせるものだった。
 なにより風呂が良かった。
 岩に囲まれた薬湯に浸かっていると、五分もしないで汗が噴き出した。用意されていたシャンプーやリンス、石鹸はすべて天然素材のもので、躰を洗うために用意されているのもヘチマを乾燥させたものだった。じっくり汗を流して、躰の汚れを落とし、白狐が云うように本当にまとわりついていた穢れがきれいにおちたような気がする。入浴が、こんなに大事なものだとは思わなかった。普段シャワーだけで済ませてしまっていたことを思い返すと、なんと怖いことをしていたのだろうと思う。その日の穢れを落としきらず、次の日に臨んでいたとは。一体どれだけの穢れを背負い込んで生活していたのだろうか。そんなことをしていたら、身も心も疲れ果てるはずだ。死にたくなったって、不思議はない。
 今はそんなこと微塵も思わない。死にたいだなんて。
 彩は布団に寝転んだまま、唯一晴翔の車から持ち出していた鞄を引き寄せた。いつのまにか失くしていたが、誰かがここまで運んでおいてくれたらしい。彩は鞄の中から煙草を取り出して口に銜えた。いつ始めたのかは覚えていない。吸い始めて味覚が変わった。食うもの飲むもの全部ヤニ臭くなって、食事に興味がなくなった。それでも習慣と中毒が、彩の指に白い毒を挟ませる。
 けれど、中指と人差し指の間に納まる筒に違和感を感じた。一時間に多い時で一箱。ヘビースモーカーだった彩にとって、こんなにも長い間煙草を吸わなかったのは久しぶりのことだ。
 煙草って、こんなに軽かったっけ。
 指の間で筒を転がせながら思う。そういえば、特に吸いたくもない。ただ、習慣で寝る前には一服やりたいのだ。
 元彼からパクッたジッポで火をつけた。煙を吸い込んで吐く。
 それだけのことだった。それだけのことが、躰には毒なのだ。だけどその毒に今までは、救われていた。
 こんなしょーもない人生にも、いつか終わりがくるのだと。
 吐きだされた煙が霧散していくさまを見ながらいつも想った。
 このまま終わってしまうのはひどく悔しくて、だが同時に、もういいや、と投げやりな気持ちになる。そちらの想いのほうが強かった。
 こんな腐敗した世の中で生きていくことには何の意味もない。
 さっさと終わってくれればいいのに。
 つまらない。毎日が、すごく退屈だった。
 だから数少ない嗜好品の一つである煙草は、彩の心のよりどころでもあったのだ。
 灰が落ちそうになって、彩は身を起こした。部屋を見回すが、灰皿になりそうなものはない。
 彩は膝をすって窓際に行って窓を開いた。途端、物凄い風が部屋の中に流れ込んできた。わずか六畳ほどの部屋がガタガタと震えるように鳴った。布団の他には何もない。鳴っているのは、部屋自体だ。
 窓枠に捨てようと思った灰は風のせいで床に落ちてしまった。
「あーもう」
 まあいいか、後で片付ければ。
 そんなことを考えていると、後ろから声がした。
「そんな毒を吸っていると、勘が鈍るよ」
 驚いて彩は飛び起き、煙草を腿の上に落としてしまった。
「うあっち!」
 慌てて煙草を手で払うと、その煙草は畳に落ちる前にジュッと音をたてて消えていた。いや消されていた。
 振り向くと、細めた眼でその煙草を見ている白狐がいた。その視線が彩に移る。窓際の彩に、白狐はゆっくりと、何かに警戒するかのように近づいてくる。
「大事なわたしらの家を燃やさないでくれるかい」
口調に緊張感はない。ならば彩の今肌にピリピリと感じている冷気は、気のせいか。
「またあなたですか」
「私の他に我が家が禁煙なのを知らせる者がいないからね」
 白狐は苦笑する。
「そんなの聞いてないですよ」
「聞いていたところで、あんたは守ったかい」
「守るし」
 と云いつつ、わずかな罪悪感。禁煙の場所で喫煙することなど当たり前のようにする。それを見抜かれているのだと思った。
「まあ、それはいいよ。そんなことより、時刻が問題だ」
「時刻?」
 彩ははっとした。スマホを出して時刻を確かめると、
「零時――」
 突然、白狐の眼が鋭くなる。
 途端、彩の肌があわだった。振り向くと、窓の向こうに鵺が何羽もこの部屋へ向かって飛んでくるところが見えた。彩は慌てて窓を閉めたが、「無駄だよ」と落ち着き払った声で白狐は云う。
「あんたが窓を開けたのは零時を回っていた。もうこの屋敷は気づかれたよ」
「窓って、開けちゃいけないなんて云われてないんだけど」
「紅が云っていただろう。外界と関わるなと」
「関わるなってそういうことなの!? だったらそう云えっての」
「口論している間はないよ。死にたくないなら、研究室へおゆき。寄り道するんじゃないよ」
 そういうと白狐は彩を押しのけるようにして窓の前に立った。次の瞬間、窓が勢いよく全開。と思う間に黒い物が飛んできて、白狐の眼の前で破裂するように消えた。その白狐の躰は光を帯び、膨張したようにその躰が一回り大きく見えていた。すまして座っているようなのに、ただならぬ圧力を感じる。白狐が睨み据えている窓の外、たぶん、紅の云っていた外界というところに、鵺が飛び交い、時折後ろ向きに飛んできてはその嘴や爪やらで見えぬ壁を破ろうとしていた。その鵺の侵入を防いでいるのが白狐なのだ。
「早くお行き」
 茫然としている彩は白狐の鋭い声に我に返った。
 廊下へ飛び出すと、そこがもう研究室だった。
 駆け抜けていく何者かの背中が見えた。半可だ。半可は床に空いた穴の中に消えていく。彩は後を追った。階段が下へと続いている。暗い穴蔵に入って行くようだった。
 だがある程度までいくと、かすかに明かりが見えた。階段はまだ続いていたが、途中に部屋が別れていて、そちらへ進んでいくと、半可が貉の姿で丸まって震えていた。
「半可」
 呼ぶと、半可はビクリと躰を震わせて彩を見た。涙目だった。
「なんであなたがここに」
「白狐に研究室へ行けと云われて」
「母上様に」半可は人間の姿になって、青ざめた顔を見せた。腰の抜けたような格好で、この世の終わりのような顔をすると頭を抱えてまた丸まった。
「お、おしまいだれ。おしまいですれ~」
「おしまいって、なにが。どうしたの。ちょっと、落ち着いて」
 彩が半可の肩に手をかけようとしたときだった。
 雷鳴の轟くような音がしたかと思うと、バキバキバキッと、豪風に木がなぎ倒されるような音が続く。
「なに」
 台風でも来たかのような、荒々しい音が外で鳴り響いていた。音の正体を確かめようと、外に出ようとする彩の手を半可がつかんで止めた。
「出ちゃだめですれ」
「どうして」
「鵺に喰われますれ」
 彩が顔をしかめたときだった。部屋の隅の燭台の方がゆらりとうごめいた気がした。いや、動いたのは影だった。
 影中に――と半鵺が云っていたのを彩は思い出した。
 が、その時にはもう遅かった。影の中から伸びあがるように出てきた黒い鳥に、一瞬にして腹を貫かれていた。
 彩は悲鳴をあげて、四つん這いに倒れた。
 腹にえぐられるような痛みが走った。だがそれも一瞬で、冷や汗がたらりと床に落ちたときにはもう何ともなかった。
 だが何故だろう。この上なく酷い罪悪感が彩を襲っていた。 
 決して奪われてはならないものを、鵺に奪われたような気がした。
「あ、彩さん」
 半可が驚いて彩に駆け寄ってくる。鵺は狭い部屋の壁に沿うように飛び回りながら、ランプや積み上げられた本や机をなぎ倒しつつ再び彩たちに襲いかかろうとしていた。
 その跳び方の異様たるや。さきほどは見まごうたかと思ったが、鵺は後ろ向きに飛ぶのだ。まるで時間の逆回転を見ているようだった。
 鵺が吠えた。
 それが攻撃の合図だと、今ではわかる。わかったところで避けようがない。無駄に速い足は、こんなときにも役に立たない。磨き上げたところで、釣れるのは価値のない人間ばかりなのだ。
「危ないっ」
 半可が彩の頭に抱きついた。何をするのだと思えば、半可は身を挺して鵺から彩を守ろうとしていたのだ。
 心の中で何かが破れたような気がした。
 頑なに固持していたものが壊れてなくなり、なにやら爽快ともいえる気分だった。
 だが状況はそれほど呑気に構えていられるものではない。後ろ向きに飛んできた鵺がくるりと急激に反転して嘴を向けようとした。その遠心力を利用した嘴の威力はものすごい。目にもとまらぬ速さで半可を鵺の嘴が襲う。が、その鵺は次の瞬間地面に叩き落とされたように潰れて消えた。白い鞭がしなって、持ち主の下へ戻っていく。そちらを向けば、腕に包帯を巻いた紅が立っていた。包帯に滲む血が痛々しかったが、本人は平然としていた。
 けがを負っているのは鞭を振るう方の手であるにも関わらず、おぼつかなさの欠片もなかった。
 だが表情だけは険しい。痛みに耐えているというよりは、怒りを滲ませていた。その眼は彩に向けられている。
「きさま、関わるなと云っただろうが」
 紅は怒りにまかせて鞭を振るい、ほとんど同時に彩の側の地面が粉々に砕けている。
「ひいっ」紅の鞭は石まで叩き割り、その破片が散弾のごとく彩の顔に当たった。超おっかないのである。
「やめな、紅!」
 紅の振り上げた手を、後ろから誰かがつかんだ。見知らぬ、美しい女性だった。初めて会うのに、初めてという気がしない。容姿は若いのに、伏せがちな切れ長の目がどこかはかなげで、髪の毛は純白だった。
「しかし母上様」
 彩は紅がそういうのを聞き逃さなかった。母上、ということは、この女性はあの白狐なのだ。
「とにかく落ち着きな。こいつを痛めつけたところでもう過ぎた時の出来事は元には戻らないんだ」
 一体なんのことなのか。だが、白狐は彩の味方をしてくれているらしい。紅も白狐には頭があがらぬようであるし、これは心強いとばかりに彩は、
「てゆうか、意味わかんないし。関わるなって云い方が悪いんでしょ。窓開けるなっていえば、開けなかったし」強気になってしまった。
 素直に謝れないのは悪い癖だと思っている。でも言い返さないとどうしても気が済まないのだ。
「なんだと、」
 紅が凄むだけで、ビリビリビリと壁が震えた。雷鳴かよと思うほど、恐ろしいことこの上ないが、彩も意地っ張りだった。
「だってそうでしょ。こんな危険なモンが入ってくるなら最初から云ってよね。あんたのせいで死ぬとこだったじゃない」
「よくもそんなことをぬけぬけと、」
 紅は白狐の手を振り払った。怒りのせいなのか紅の瞳が赤く光る。その形相はまさに鬼。
 ヤバッ。と思ってももう遅い。紅をここまで怒らせたのは自分だ。だが私は間違っていない。――はずだ。
「およし、紅!」
 白狐が止める間もなく紅は鞭を振るった。ナタのような形をした白い煙が、鋭い牙をむいて彩に襲いかかってきた。脳天が割られる。そう思った瞬間、彩は脇へ弾き飛ばされていた。
「半可」
 半可が、必死の形相で紅の鞭を受け止めていたのだ。
 さっきに続いて、半可には二度も助けられてしまった。歯を食いしばる半可を斜め後ろから見て、少し勇ましいと思ってしまった。だがそれも一瞬。
 紅にギロリとねめつけられた半可は途端にしゅんと小さくなってしまった。
「どういうつもりだ、半可」
「い、いや、あの、やめませんかれ、紅様」
 半可は何かしらの術を施して紅の鞭を防いだらしいが、顔を覆っていたその手から肘にかけての間が真っ赤に腫れ上がっているのを、彩は見てしまった。
「味方同士で争っていても仕方ないですれ」
 味方。味方なのだろうか、自分は。
 彼らとはまだ出会って一日もたっていないのだ。普通、味方とも仲間とも言わない。知り合いといいうのでさえおこがましいような関係のはずだった。ただし、それは時間的なものであって、心の距離は、彩としてはもう彼らを仲間だと感じている。
 紅は舌打ちをした。
 やはり、否定される。そう覚悟したが、紅はくるりと背を向けただけだった。
「けじめはつけてもらうぞ」
 紅は吐き捨てるように云うと、その場から姿を消し。
ほっとしていた。思った以上に。
少なくとも、否定はされなかったのだ。だとしても、紅の機嫌を損ねてしまったことに変わりはない。
折角、仲良くなれそうだったのに。まただいなしにしてしまった。いっつもこうだ。
 素直に折れて謝ってしまえば、また結果は違ったかもしれないのに。どうして自分は相手を刺激するようなことしか云えないのだろうか。シュンとしていると、励ますように肩を叩かれた。
「まったく、あんたも命知らずだねえ」
 白狐は安堵の息を洩らしながらそう云って、なぜか嬉しそうに笑った。
「ほんとですれ。寿命が縮まるかと思いましたれ」
 半可はもっと大げさに安堵して、せこを入れるように動き出したかと思うと、ひっくり返った棚から茶器を取り出して、手際よく茶を淹れてくれた。
湯を沸かす火がないのにどうしたのかと思って見ていれば、半可は鉄瓶を両手で包むようにしてもち、やがて湯がその中で沸き始めたのだ。
 茶は旨かった。
 その香りは、深い緑の葉が生い茂る森林を思い浮かばせる。まるでその中に佇んでいるかのように、心を落ち着かせてくれた。だが、本当に落ち着いていていいのだろうか。
 この四畳ほどの部屋の外では、何かとんでもないことが起こっているのではないのだろうか。
「そういえば、半助様は」
「寝ているよ。日の出までは起きない」
「寝てる」
 この騒ぎの中よく眠っていられるもんだ。だがそれも、半助には必要なことなのかもしれない。
「朝起きて、また紅に守られたとわかったら荒れるだろうね」
 そのときはよろしく頼むよ。
 と、白狐は意味深な言葉を残し、彩が止める間もなくその場から姿を消してしまった。
「だからそれまではゆっくりと眠りな」
 声だけが聞こえた。と思ったときには、彩も半可も、薬に犯されたかのようにその場に身を横たえて眠りに落ちていた。
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