三界の棲家

九影歌介

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「母上様あ。母上様あ」
 と、咽び泣く声で、彩は目を覚ました。
 穴の入口から光が洩れていた。彩はまだ半可の部屋の中にいた。顔を上げると、顔に張り付いていたむしろが、ペリッと剥がれた。
 階段が外に続いていて、そちらから声が聞こえる。部屋には誰もいない。皆外にいるようだ。
 彩は階段をのぼって、外へ出た。すると、黎明の暗がりにうなだれた人の影が一つ、しゃがみこんでいる者の影が一つ、地に膝をついて頽れている者の影が一つ。いずれも、小さな丸まった影を囲んでいた。
 それを見た瞬間、彩は取り返しのつかないことをしてしまったのだと悟った。
 そこにあったはずの屋敷は跡形もなく姿を消していて、あるのは小さな穴が一つと、草原に佇む四つの影だけ。空は晴れていて、雨はまだしとしとと降り続いている。
 かがみこんだ半助が、地面に躰を横たえている白狐の顔をじっと見つめていた。その側で半可は嗚咽を洩らし、紅は突っ立ったまま唇を噛みしめていた。
 なにが起きたのか。彩はわかろうとしなかった。わかりたくなかった。だが、嫌でも事実は目の前に突き付けられている。変えることのできない忌々しい過去をまた一つ、彩は作り出してしまったのだ。
 彩が重い足を引きずるように歩いていっても、誰も彩に気づく者はいなかった。
「あの、」
 恐る恐る声をかけると、紅が顔を上げて彩を睨んだ。またつかみかかられるぐらいのことはされるかと覚悟したが、紅は黙って顔を背けただけだった。
「私が悪いんだ。棲家を離れた私が」
「まあまあ、そんな自分を責めない責めないヒック」
 半助はこんなときまで酔っ払っているようで、ふらふらと躰を動かしていた。
「いや、私のせいだ。明月だというのに、迂闊だったんだ」
 半助が何か言おうと口を開きかけたとき、
「ひとの寿命を勝手に自分のせいにするんじゃないよ」
 弱弱しくも、まだ芯のある白狐の声だった。
「母上様」
 紅もしゃがんで、白狐に顔を近づける。
「申し訳ありません、母上様」
白狐はゼエゼエという苦しそうな息を洩らしながら云った。
「おまえのせいじゃないと云っているだろう。これは寿命なんだ」
「でも、」
「あの人が逝ってしまってから、私は残りの時をどうやっていきていったらよいのか、絶望していた。でも、おまえたちがいてくれたお陰で、こうしてやっと終われるんだよ」
「しかし今命を失えば、魂は」
「還れなくともいいさ。それでも私は、幸せだと感じているよ。この命をやり遂げられたこと」
 おまえたちに看取ってもらえて、幸せだ。
 白狐はそう消え入る声で呟いて、微笑みながら目を閉じた。
 一つの命が終わる瞬間を、彩は初めて見た。すっと、何かが抜けていくように白狐の躰は固まった。死んだように眠るというが、それは嘘だ。死んだようになんて人は眠れない。同じ微動だにしない肢体でも、死んでいるのと生きているのとは、決定的になにかが違う。死んでしまえばそれはもうただの肉の塊なのだ。今ここに横たわっている白狐は、もう白狐じゃない。そこに白狐はいないのだと感じた。その毛は、色が命だったかとでもいうように、一層白くなって見えた。
 白紙に、戻ってしまうとでもいうのか。
 ひとが死ねば、それは白紙に戻ってしまうのか。ならば、ひとはなんのために生きるのだ。
 広い草原の上で、一塊になっている五人。立っているこの場所だけが、現実なのだろうか。白狐がいなくなってしまったなんて、すぐには信じられなかった。
「どうして。どうしてですれ」
人目を気にせず咽び泣く半可の横で、半助は唇を噛んでいた。
そしてまた、酒を呑むのだ。
ぐびぐびぐびっと、喉を鳴らせて一升ほどの酒を顎や首筋にこぼしながら一気に飲んでしまう。酒に逃げる半助を、見ていられないかった。でも、白狐の言葉が不意に蘇る。
そのときはよろしく頼むよ。
と。それはこのことなのか。
「母上は寿命だったのらよ。だから仕方ないのさ」
 半助はそう自分に言い聞かせているのだ。酔いに逃げて、現実をごまかしているのだ。
だがそれがわからないはずもないのに、紅はきっと目を鋭くした。
「仕方ないだと。なんでそんなことが云える」
 半助も据わった眼で紅を見返した。
「だってそうじゃあないか。寿命は、この世に生まれる前から定められているものらろ」
「それじゃあ、どうしようもないって云うのかよ」
 紅は半助につかみかかったが、
「ああ、どうしようもないことさあ」
 半助は頭をゆらゆらとさせながら呂律怪しく答える。
 紅は舌打ちをして半助を乱暴に突き飛ばした。このときばかりは、紅を気の毒に思った。いくら顔が良くても、酒に逃げている半助は超かっこわるい。
紅は膝をついて白狐の躰を抱き上げた。いつのまにか、白狐の躰はこぶし大の玉と変わっていた。こげ茶色をした、歪むところのない綺麗な球体だった。
 紅はそれを愛おしそうに抱いてうつむくと、たまりかねたように走り出して、そのままどこかへ消えてしまった。
「焦っても仕方ないんら」
 半助は地面に胡坐をかいて座り込んだまま、うなだれてブツブツと独り言を云っていた。
「俺には待つしかできないんだ」
「だから焦ったって仕方ない」
 ふいに、半裸で跳び出してきた昨夜の半助の慌てぶりを想い出した。
 そうか。いつだって、半助はできることなら紅のもとに駆け付けたいのだろう。だがそれができなくて、もどかしいのだ。
 半助をじっと見つめていると、ふと半助もこちらを向いた。しばらく目が合っていて、半助はにへらと笑った。人懐っこい、柔和な笑みだった。
「ちょっと、いいかな」と、半助は彩を手招きする。
「なんですか」
 彩は戸惑いながらも、半助に近づいていった。
 すると半助は彩の手をとって、抱き寄せたのだ。
「え」
 半助の肩にあごがのっている。首筋が近い。きれいなうなじが見えた。
半助の匂いがする。半分狐だとは思えないほど、いい匂いがする。心臓が破裂しそうなほどバクバクいっているのに、その匂いでどこか落ち着く。お香だ。お香の匂いが沁みついているのだ。そういえば紅からも同じ匂いがしていた。それを嗅ぐと、それもまるで森林の中にいるような心持のする香り。ここに居る者たちは皆、ごくごく自然に近いところにいるのだと感じた。
 半助の手が彩の両腰を包むようにつかんでいた。
温かい。とても。
「どうしたんですか」
 彩はどぎまぎしてそう云ったが、半助の声は静かだった。
「ごめんね、少しこのままで」
「はい……」
 なんだろう。男の人に触られているのに、厭らしいと思わない。医者の診察を受けている感覚に似ている。それは、半助がイケメンだからとか、そういうことではなくて……。
 彩は急に眠くなって、目を閉じた。
 ぬくもりに包まれながら、彩は深い眠りへと落ちていくようだった。
「はい」
 その声に彩ははっと起こされた。
 半助はすでに躰を離して、ほほ笑んで彩のことを見ている。
「間に合ってよかったよ」
「間に合うって、なにがですか?」
 半助はちょっと眉をあげてから、「ああ、なんでもないよ」とごまかした。
 だがそれを問いただそうとしたところへ、半助の躰が大きく傾いだ。
「大丈夫ですか」
 咄嗟に躰を支えてやるが、半助の歪めた額には汗がにじんでいる。
「ごめん、大丈夫だよ。ちょっと飲みすぎちゃったかな、あはは」
 半助は笑って、そんなことを云っているくせにまた徳利を煽る。だがそれで元気を取り戻したようだった。
「半可、空っぽだよ」
 半助は半可に向かって徳利を逆さにして降ってみせた。
「悪いけど、いつもの頼むよ」
まだ言葉もなくうなだれていた半可は、顔を上げて目を丸くした。
「まさか、半助様――」
 半可は何故か驚いたように半助と彩の顔を交互に見た。だが構わず半助は駄々をこねるように云った。
「半可あ、早くう。力が出ないよお」
「わ、わかりましたれ」
 半可は急いで半助の徳利を取り上げると、穴の中に駆け込んでいった。それからいくらもしないうちに出てきて、徳利の中身をこぼしながら半助に駆け寄ってくる。
「ありがとう」半助はあくびまじりにそう云って、徳利を受け取るなりぐびぐびとまるで暑い日の生ビールを呑むかのように一気に飲んでしまう。
「そんなに飲んで大丈夫なの」
 半妖とはいえ、さすがに心配になる。だが半助は先程にもまして元気な様子で、
「大丈夫大丈夫。これが私にとっては命の源なのだよ」と冗談を飛ばした。
「しかし、これからどうしようねえ」
 半助は何気なく辺りを見回しながら云った。
 昨日まで、いや、つい数時間前までは当たり前にあったものが今はもうない。
 それが自分のせいなのだと思うと、彩は自責の念にたえきれなくなった。
「ごめんなさい」
 彩は勢いよく膝をつき、半助と半可に向かって頭を下げた。人に本気で謝ったのなど、初めてのことだった。土下座の仕方が合っているかもわからない。だがとにかく、頭を下げたかった。
「私が、窓を開けてしまったせいで、まさか、白狐さんを死なせてしまうなんて、」
 今云う言葉はなにもかもが言い訳になってしまいそうだった。だから口はつぐんで、ただ謝るしかない。
「ほんとうにごめんなさい」
 いくら半助でも、自分の母親を死なせた者を許してはくれないだろう。
 だが、半助の手は温かく、彩の肩を叩いてくれる。
「そんなに深刻にならないならない。誰のせいでもないんだって、本当にさ」
「でも、私が窓を開けなければ、鵺は入ってこなかった」
「そんなこと云わないでよ。それなら、屋敷に残っていたくせに何もしなかった俺のせいでもあるし、棲家を離れていた紅のせいでもある。でも、こんなのは誰のせいでもないんだ。起こるべくして起こったことなんだ。たらればはよそう。自分を責めないで、彩ちゃん。ねっ」
 顔をあげると、半助はにこにこと笑っている。
 自分を責めれば、周りにも気を遣わせてしまうのだ。けれど、窓を開けて鵺を招いてしまったのは自分なのだ。それは紛れもない事実だ。紅の云い方が悪かったとか、関係ない。原因を作ったのは、この私なのだ。
「わかった。でも、最後に紅にも謝りたい」
 彩が云うと、半助は困ったような顔をした。
「今はそっとしておいたほうがいいかもしれないよ」
「殴られても、鞭でぶたれても、構わない」
「ぶたれたら死ぬよ?」
「構わない。殺されても構わない。今謝らなきゃいけない気がするの」
 半助は半可と顔を見合わせてから、「ようしわかった」と肯いた。
「紅の行き場所はわかっている。私が案内するよ。半可は棲家の補強を頼んでいいかな」
「承知ですれ」半可は背を丸めた格好のまま、穴の中へ入っていった。大切な者を失っても、哀しみにくれるひまはない。時は待ってくれず、どんどん先へと進んでいってしまうのだ。すべきことをしていかなければ、そうやって、無情な時に置いていかれてしまう。
「おいで」
 半助は立ち上がって、森の方へ向かって歩き出した。その手には、やはり酒の徳利を持っている。
「ごめんね。私は風の術は使えないから、ちょっと歩くよ」
水のように酒を煽っている割には、半助の足取りはしっかりしていた。
「紅と半助様は同じ半妖なのに、随分能力が違うんですね」血の濃さだけで、こうも違うものなのだろうか。
「まあね。どの半妖も、大体術というのは一種類しか使えないものなんだ。紅は風を操るし、半可は手先が器用でね」
 手先が器用なのは術といえるのか疑問に思ったが、手の内で湯を沸かしていたところをみると、そういうのも妖術の一つなのだろう。
「半鵺は影に潜れるし、」
「そういえば、あの子はどこに」
 少年とはいえ、ただならぬ雰囲気を持つ子どもだった。あの子がいれば、また結果は変わっていたのではないだろうか。そんなことを考え、彩は直ちにそれを頭から追い払った。
 すぎてしまったことは取り返せないのだ。ひとのせいにするなど、最低だ。
「半鵺は半分鵺だからね。光が苦手なんだ」
「光が?」
「うん。だからいつも影の中にいる。そうしないと、母上が思い切り術を使えないからね。妖狐は光を持っている。だから鵺は妖狐には敵わないんだ。昨日も半鵺は影の中にいたはずだよ。今はもう朝だから出てこれないし、今度姿を現すのは夕暮れどきだろうね」
 彩はアノ夢のことを思い出した。紅が鵺を倒そうと術を使おうとしたとき、半鵺が現れたのに気付いて使うのをやめたのだ。あれは、そういうことだったのか。光の術を使えば、半鵺が傷つくから、使えなかったのだ。
 あれ。
 と、彩は首を傾げた。
 術が一つならば、紅の使ったあの光の術はなんなのだろうか。風の術とはちがうように見えたが。
 それを聞こうと彩が口を開く前に、半助が立ち止まって「いたよ」と云った。
 前方を見ると、開けた場所に石灯籠がいくつも並んでいるのが見えた。灯籠は、丁度長方形をかたどるように置かれている。その隙間の向こう、長方形の内側に、紅が立っているのが見えた。
 胸の前で手を合わせて、何かを祈っているかのようだった。その手には、土のような汚れがついている。
「ここは畑って呼んでるんだ」
「畑?」
 半助は少し苦笑い気味に笑んだ。
「本当は墓場なんだけどね。紅はそう呼んでる」
 墓場なのに、畑。どういうことだろうか。
「ここには、今まで亡くなった仲間たちが眠っているんだよ」
 たち――。
 彩は唾を呑みこんでいた。そこに、暗い過去があるのを感じたからだ。
「妖怪や半妖は、亡くなると普通形を残さない。けど、いつからか魂が石化して残ってしまうようになったんだ」
 半助は悲しみに耐えるように、少し間を置いてから続けた。
「鵺のせいだよ。鵺がこの世にはびこるようになって、時を奪ってしまったんだ」
「時を――」
「人間のきみには、少し難しい話かもしれないね」
 半助はこんなときまで気を遣ってほほ笑んでくれる。
「寿命もまた時の一つさ。亡くなるときに、そのは界を超えて、未来へと続いていくはずなんだ。命は、肉体を失っても続いていくもののはずだった。けれど、を奪われた魂はこの世で石化して止まってしまう。鵺に浸食された魂は、ただの石ころになってしまうんだよ」
 半助は目を細めて、紅の後ろ姿を見つめた。
「だから、紅は仲間の魂をあの場に埋めて、再び時が動き出すのを祈り続けているんだ」
「埋めれば、時は動くの」
 半助はもどかしげに首を振った。
「わからない。でも、人も妖怪も皆、自然の神から力をもらっているから。それにかけたいんだろう。紅はああしてもう何十年も芽が出るのを待っているんだ」
こんなことは、藁にすがっているようなものなのだけどね。
冷めたような物言いではあったが、半助も紅と同じように、見えないなにかの力にすがってきたのだろう。そんな自分が、ばかばかしく思えて嫌になることがある。
祈ったって、願い事など敵わないのに。と。
彩には紅と半助の気持ちがわかる気がした。彩も同じだったからだ。
彩もずっと、何か見えないものの力に、すがり続けてきたのだ。
奇跡が。いつか起こるようにと。そして、起こったのだ。奇跡は起こった。
彩が今こうしてここにいることは、望んでいた奇跡なのだ。
「だから、半助は時界の研究をしてるんだね」
 半助と紅は、仲間を助けたいのだ。時界移動が紅の悲願だと、半助が云っていた。もしそれができるなら、紅は仲間が生きていた頃に戻りたいのかもしれない。
「そうだね。それもあるけど、一番の理由は紅を喜ばせたいからだよ。狐ってのは身勝手でね。大方自分のことしか考えないもんだからね」
「そうかな。半助も紅も、私のこと助けてくれたよ」
「それはなりゆきだよ。鵺を退治するのだって、自分たちのためだ。だれかのためじゃない」
「もうだれも、石にされないように?」
「うん。鵺の喰うは寿命なんだ。だから鵺は人の心の隙間に入り込んで、人を自殺に追い込もうとするんだよ。寿命を終えて亡くなった魂が石と化してしまうのは、その魂の残りの寿命を喰われてしまうからさ。これを防ぐ方法が私たちにはわからない。恐らく、違う界に潜んでいる鵺の親が、この世での命が終わった魂がふるさとの界へ還ろうとするところを捕えて喰ってしまうのだろう」
 彩は息を呑んだ。
 確かに、人間には想像もつかない話だ。だがその恐ろしさはなんとなくだがわかる。魂が在るべき場所へ還れなければ、そこには本当の死が待っているのだという気がした。本当の死とは、『無』になることだ。それを考えると、心がえぐられるように痛んだ。そんなこと、絶対にあってはならないのだ。だが、 
「鵺の親だというものがどこかに潜んだままなのなら、いくら鵺を倒しても意味がないんじゃ……」
 半助は場にそぐわぬ笑顔でにこりと笑った。
「見かけによらず頭がいいんだね」
 見かけによらずは余計だ、と思ったが黙っていた。
「その通りだよ。でも、放っておけば鵺は増える一方だからね。親が子を増やすのだけど、子が得た糧で親は肥っていくようなんだ。だから鵺を狩ることは無意味ではない。それに――」
 と、半助が言いかけたときだった。
 急に風がざわついた。木々が大きくしなり、ガサガサと葉のこすれる音が響く。
 半助の見上げた顔に緊張が走る。彩の鼓動が早まっていた。なにか、ただならぬことが起きたのか。
「まさか、夜は明けたんだぞ」
 彩もつられて見上げると、空に陽炎のようなものが鳥の形をして飛んでいた。牛程の大きさ、時を遡るかのように後ろ向きに飛ぶそれはまさしく鵺だった。
「半助、下がれ。私がやる」
 紅がいつの間にか灯籠の中から出てきていて、手には白い鞭を握っていた。云いつつすでにそれを振るっている。
 ビュンッ。とうねる音がして、鳥の形を引き裂いた。しかしそれはすぐに再生してしまう。
「クソっ」
 紅が舌打ちをして上空の鵺に飛び掛かろうとした。それを半助が駆け寄って止める。
「待て、様子がおかしい」
「母上様をやった残党だ。放っておけない」
「なら俺が行く」
 紅が反論する前に半助が立て続けに云った。
「昼間だ。俺が行く」
「酔っ払いに任せられるか」
「俺は酔ってない」
「ならその酒はなんだ」
「これは――」
 半助が云い淀んだとき、上空を旋回していた鵺が、口論する二人に襲いかかってきた。
 二人は飛んで別れ、それぞれ武器を手に出した。紅は鞭を持ち、半助はどこから出したのか日本刀を持っていた。口には、たばこのように見えるあの白い葉の丸めたものを二人とも銜えている。
「下がれ、半助」
「いやだ」
 半助は地を蹴って跳んだ。その跳躍力はやはり人間のものではない。ビルの二階ほどの高さまで跳び上がった半助は、飛んできた鵺を抜き打ちにし、更に真っ二つになった鵺を今度は一太刀、二太刀と浴びせかけて粉々に引き裂いた。
 そこへ紅が鞭をふるい、放射される煙の中に鵺は消え去った。半助が着地した。
 刀を杖にして立ち、その顔はひどく苦しそうだった。
「くっ」
 半助が呻いたかと思うと、たまりかねたように地に崩れる。と同時に刀も消えた。
「大丈夫」
 彩は驚いて半助のもとに駆け寄る。
「大丈夫大丈夫」と半助はよろよろと胡坐をかくとまたグビリと酒を呑んだ。或いは、それは酒ではないのかもしれないと、彩は直感的に思った。
「バカ。だから云っただろうが」
 紅も鞭を消して、半助に駆け寄ってきた。半助の髪を見て、紅は一瞬立ち止まって顔をしかめる。その髪は、前よりも白さを増していた。
 紅が、泣きそうな顔をしていて、彩はここにいるべきじゃないんだと思った。
 すべて、自分のせいだ。
 鵺はきっと、彩を狙ってきたのだ。心の隙をついて、人を自殺に追い込むのだと半助は云っていた。ならば彩は既に、鵺に憑りつかれていたのだ。
 自分のせいで、半助や紅たちを苦しめることになってしまった。
 自分など、ここにくるべきじゃなかった。
 私なんて、いないほうがよかったんだ。
 彩は気づいたら走り出していた。宛てもなく、だが、その場をとにかく離れたくて。
 生きているだけで迷惑をかける。
 よく、そう思ったものだった。だれと付き合っても、どんな彼とも長くは続かなかった。心を許せる者なんて、一人もいなくて、願ったような未来がきたことなどなくて、幸せだと思えたこともない。
 ここに来て、みんなと会えて、なんだかそんな自分を卒業できそうだと思っていたのに。まさか、こんなことになるなんて。
 やっぱり、私はいちゃいけない人間なんだ。
 私なんて、いないほうがいい。
 彩は、森の中を独り、走りぬけた。




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