三界の棲家

九影歌介

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「どんだけ広いんだよこの山!」
 彩は叫んだ。
 こだまさえしない。いけどもいけども、木々の生い茂った道なき道があるばかり。なんだか、同じところをぐるぐると回っているような気がする。目印になるようなものはない。太陽も動くのだ。さっき黎明を見たはずが、今は黄昏となっている。
 彩はもう森から抜けるのを諦めて、その場に寝転んだ。
 草が腕や首筋に刺さって痛かったがもう気にしない。足が何十本も生えた気色の悪い虫が顔を這おうが……いや、それは気にする。
「ぎゃあっ」
 彩はゲジゲジを手で払って起き上った。なんと気味の悪い虫だろうか。
「もう嫌だ」
 虫が嫌で立ちあがったものの、もう一歩も歩く気力はなかった。もたれるものが欲しくて、手近の木に抱き着いた。そのまま寝ろと云われたら眠れそうだった。
 本当に寝息をたて始めたとき、くいっくいっと、足をひかれるような感触があった。
「ん」
 と、ねぼけ眼で足下を見てみると、影が変な形で歪んでいる。影が引っ張られているような……。
 彩は引かれるがまま、足を運んでみた。すると、驚くことに数歩目にはあの祠へと戻ってきていたのだ。
「えええ、なんで!?」
 丸一日歩いたのは一体なんだったのか。
「また汚くなりやがって」
 待ち望んでいた声だった。振り返ると、紅が木の枝の上で胡坐をかいている。紅い着物の裾から脚が露わになることなど露ほども気にしていない。いつもの快活な紅に見えて、ものすごくほっとした。
「ちょっと、あんたの仕業!? 私がどんだけ歩いたと思ってんの」
 もっと素直になれたなら。と、いつも思ったものだった。結局、この期に及んで変われない。まず謝るべきなのに。憎まれ口をきいてしまう。
 紅は首をすくめた。
「知るかよそんなこと。云っただろう。出たいと思わなきゃ出られないんだって」
「出たいと思わなきゃ……」
 私は、出たくなかったんだ。この森から。紅や半助の下から、離れたくなかったんだ。
「だれが出て行けと云ったよ」
 紅が木から身軽に飛び降りた。半助が着地をしたときと少し違う。もっと軽いような。もしかして紅は――、と、このときようやく彩は紅の正体に気づき始めたのだ。もともと勘のいいほうだった。そして予感したことは、外れたことがない。
「心の弱い人間に森の中をうろちょろされちゃこっちが迷惑なんだよ」
「なにっ」聞き捨てならない。彩が云い返してやろうとしたときだった。
「おかえり」
 そう云われて彩ははっと息を呑んだ。
 もう、涙がこみあげてきて言葉にならなかった。
 だって、そこに半助と半可も現れて、彩を笑顔で迎えてくれているのだ。
「お帰り」
 そんなふうに、また云ってもらえるなんて思いもしなかった。 
「帰ってきて、よかったの。私は、疫病神なのに」
 しゃくりあげながら云う彩の肩を、紅が強く叩いた。
「厄病神とて神だぞ。自分を神だなんて、おこがましいにも程があるな」
勝手に決めんな、そんなこと。と、紅の荒い言葉が逆に嬉しい。
「でも、私のせいで、」どこまでも卑屈になる彩にも、紅は優しかった。
「その話は終いだ。寿命は決まってるもんだ。これもまた宿命だったんだ」
 それだけ云うと紅はにっと笑って伸びをして、
「さあ、飯だ飯だ」
 と、紅は穴蔵の入口に向かって歩いていく。
 悲しみが一日もたたぬうちに癒えるはずもないのに、紅は彩が気を病まぬように笑ってくれるのだ。
 彩はそれでもまだ、ついていっていいものか迷っていた。一緒にいたい。けれど、一緒にいればまた迷惑をかけることになってしまうかもしれない。
 彩が動けずにいると、いきなり背を押された。驚いて振り返ると、半鵺だ。
「私の仕事を増やさないでください」
 さっさと行けとばかりに彩を睨んで、半鵺は影の中に戻ってしまった。
 笑みが浮かんだ。
 いたずらに優しい言葉ばかりをかけられるより、何気なしに仲間に加えてくれるここの半妖たちが愛おしかった。
「ありがとう、みんな」
 彩はだれともなく呟いて、穴蔵に降りた。
 

 屋敷は無くなってしまったというのに、出される食事は昨日と遜色ないものだった。
 きくところによると、貉というのは穴を掘って生活する習性があるらしい。その習性のせいか半可は地下にリビングや台所、便所、寝室と、巨大な自分だけの屋敷を(内緒で)造り上げていたらしい。
 用心深い半可は、その屋敷を結界の強い研究所の下に造り、更には自分の屋敷にも結界を何重にも張り巡らせていたらしい。なるほど、鵺に襲われても半可の屋敷だけ無事なはずだ。
 半助と紅は体調も回復したようで、相変わらずのんべえだのくいしんぼうだの言い合っている。昨日と違うのは、その喧嘩を止める者がいないことだ。
 やはり、空いた穴は大きいのだとこういうときに思い知らされる。
 知らず知らずのうちに暗くなって固まっていた彩の茶碗に、いきなりもっさりと白米が盛られた。
「え」
「たらふく食え」
 云ったのは紅で、自分も頬いっぱいに飯を含んでいる。
「食う寝る出すは基本だぞ」
「汚いですれ、紅様」
 半可は嫌な顔をしたが、半助は笑っていた。
「でも、基本は大事だよお。それができていないと、鵺にもつけいられやすいからね」
 と半助は当たり前のように酒を呑んでいる。
「そうなんだ」
 彩はよしとばかりに気合いを入れて、山盛りになった白米をかっこんだ。シソの実や青菜とじゃこの山椒和え、のりの佃煮、鱈の粕漬けやもずくに煮だこ、煮物など、普段なら食べないようなものばかり並んでいたが、食べてみるとごはんにあってとても美味しかった。
 そんなおかずのせいか、畳敷きの部屋で丸い円卓を囲んでいるとなんだか昭和の家庭に入り込んだような気分になる。それが嬉しいから、かえって、そこに白狐がいないことが哀しくてまた涙があふれてくる。
 彩は、溢れ出す涙を拭うこともせず、飯をかっこんだ。ひたすらかっこんだ。時折、「えーん」と泣きながら。そんな醜態さらすのは後にも先にも、このひとたちだけだろう。
 受け止めてもらえると思うから、安心していられるのだ。
 何か、返さなきゃいけない。この恩に。
 そう思ったときだった。柏手が聞こえた。
 紅がピクリと止まって耳を澄ます。
「また迷子か」
 紅は顔をしかめた。
「おかしいですれ」半可も険しい顔をする中、半助は相変わらず陽気に酒をちびりちびりとやっていた。
「昨日に今日に、続いて迷子が出るなんて」
「しかも昨日と同じ子どもだね」
 半助は陽気を装いながら、その顔に剣呑さが滲んでいるのが彩にはわかった。
「俺が行こうかな」半助が思い立ったように軽い調子でいうと、すぐさま紅が跳ね上げるような声で云った。
「ダメだ!」
「だって紅はまだ術が使えないだろお。だったら俺が行くしかないんじゃない?」 
「いい。だれも行かなくていい」紅はそう云うと、徳利のまま残りの酒を一気に煽ってしまった。
 これには半助も顔をしかめた。
「本気で云っているのか、紅」
 半助は真剣な表情で紅を見つめる。
「本気だ。出て行けば、また鵺にやられる」
「紅! それじゃあこどもはどうなってもいいのか」
「そうは云ってない。こどももここに連れてくればいい」
「なに云ってる、そんなこと、」
「人間一人いれちまったんだ。一人も二人も同じだろうが」
「でもあの子は……」
「わかってるよ。でももうここを離れたくないんだ。離れてまた何かあったら……」
「紅――」
 自分が離れたせいで棲家が失われた。大事な者の命が終わってしまった。やはり紅は、そうして自分を責めているのだ。でも彩のために笑ってくれた。それなのに、彩にはなにをしてやることもできないのだろうか。
「私じゃ、だめかな」
 彩は、御碗に残った最後の飯粒を口に入れてからそう云った。
「なに」
 半助も紅も、半可まで驚いたような顔をして彩のことを見つめた。
「迷子なんでしょ。家まで送ってくくらいなら、私にもできるよ」
「一人でも森から出られなかった奴が何を云う」
 彩はムッとして紅に喰ってかかった。
「それは、出たいと思わなかったからなんでしょ。今は迷子を送っていきたい気持ちがあるもん。だからきっと大丈夫だよ」
 私だってなにかの役に立ちたい。立てるんだ。
 しかし、
「ダメだ」
 紅はにべもない。
「どうして」
「どうしても」
「なんで」
「なんでもだ」
「それじゃわかんないでしょ!」
「だから! 夜になれば鵺が力を増す。おまえなんて一ひねりだぞ」
 そう云われると返す言葉がない。あんな怪鳥を前にすれば、彩にはなすすべがない。
 もどかしい。何の役にも立てない自分が。ただ居るだけで、世話になっているだけなんて。
 半助もきっとこんなふうにいつも思っているのだろう。紅にばかり仕事をさせて、優しい半助が心苦しく思っていないわけがないのだ。
「こどもはここに招く。日が昇ったら家に届けてくるよ」
 結局紅がそうまとめてしまった。
「俺は賛成できないな」
 珍しく半助も頑固だった。
「人間によってえり好みするのか、半助」
 紅は半助を兆発するように云った。そんなこと、思ってるわけないのに。
「可愛い子なら招いてもいいが、ただの鼻たれたガキは屋敷に入れちゃいけないってのか」
「そんなことは云っていないだろう。あの子には問題があると云ってるんだ」
「これ以上何の問題があるって云うんだよ。こいつだって鵺を引きつれてきたんだ。それでも家に入れた。あの子と何が違う」
「紅!」
 彩は息を呑んだ。躰が氷のように固まって、うまく動かせなかった。作り笑いも、哀しいくらいに不自然に歪んでいるのがわかった。
「ごめん、やっぱり私だったんだね。鵺を呼んだの」
 紅はバツの悪そうな顔をしてうなだれた。正直なのだ、嘘がつけない。違うと云えない。
 でも、もう自分が原因だなんてことはわかりきっているのだ。だったらここから、かれらのためにできる何かを探さなきゃいけない。
「とにかく、こどもはここに連れてくる。心配なら牢にでも閉じ込めておけばいいだろう」
 紅は立ち上がり、階段を昇って穴蔵を出て行ってしまった。
「まったく、ごちそうさまもしないで」
 半助はごちそうさま、と手を合わせると彩に微笑みかけた。
「ごはんの後はお風呂だよ」
「お風呂って、そんな悠長なことしてていいんですか。第一、風呂なんてあるの」
「ありますれ、失礼な」
 と、うなだれていた半可はプリプリ腰を上げた。
 傍らの引き出しから、紙の人形を取り出すと、器用に床に並べていき、それが行列となって動き出して昨日のように食べ終わった食器を片づけていく。
「案内しますれ。ここは母上様の御屋敷のように妖術が効いておりませんかられ。歩いていくしかありませんれ」
 そう云って半可が部屋の外に一歩出たときだった。
「風呂はこの子が先だよ」
 と、紅がもう戻ってきたのか、穴蔵の入口から降りてきた。
 後ろには半鵺がいて、人間のこどもをおぶっていた。やはりもうこどもを連れて戻ってきたのだ。しかしワガママそうなこどもである。
 半鵺におろされると、ツンと顎を立てて腕組みし、口は屁の字に曲げてあさっての方向を向いている。
「風呂なんかあんのかよ、こんな小汚ねえ穴に」
 彩の見立ては間違っていなかった。一言めがそれかと呆れる。挨拶ぐらいできないものか。
「無礼千万ですれ。私は綺麗好きですれ、風呂ぐらいありますれ」
「れ? なにそれ、ばっかじゃねーの」
 こどもはいきなり爆笑した。助けてもらった恩など、微塵も感じていないようだ。こんな小生意気なこどもを助けたせいで、紅が怪我を負ったのかと思うと不愉快極まりない。
 だが自分も似たようなものなのだ。こんなどうしようもない人間を、半助や紅たちは快く迎え入れてくれる。それで、どれだけ救われているか。
「うるさいガキだ。少し口を閉じろ」
 とはいえ紅もうんざりしたようすで、半鵺に風呂場へ連れていくよう命じていた。
 紅は部屋にあがると壁にもたれるように座って、息をついた。
「疲れてるね」
 半助が心配そうに云った。
「別に」
「鵺は」
「いたよ。でも、逃げてきた」
「紅様が闘わずに逃げて!?」
 半可が大げさに驚くのを眼力で制して、紅はまた息をつく。
「酩酊しただけだ。またあとで狩る」
 しばらくの沈黙ののち、半助が重そうに口を開いた。
「もういいんじゃないか」
「なに」
 紅が目だけで半助を見た。半助はうなだれたままだ。
「疲れたならもう、鵺を狩らなくても」
「何云ってる。鵺を狩らなきゃ、鵺は増える一方なんだぞ」
「わかってるよ、そんなことは。でも、どうして俺たちだけこんなつらい目に遭わなきゃけないんだよ」
「半助」
 紅はすわりなおして、笑顔を作った。だがその前に唇を噛むのを、彩は見てしまった。
「別に辛くないだろ。おもしろおかしく暮らしてるじゃないか。あ、おまえ自分がいなくなったら大変だなあなんて考えてるんだろ。おこがましい奴だな。一人んなったところで、今となんにも変わんないよ。鵺を狩って、楽しく暮らすさ。私は、鵺を狩るのは楽しいんだ。星屑も手に入るしな」
 一人になる、とはどういうことだろうか。星屑とはなんなのか。気にはなったが、紅を見てたらそんなことは聞けなかった。紅にしてはしゃべりすぎだ。何を強がって、そんなことを云っているのか。
「おやめなさい!」
 半鵺の大声が聞こえてきたのはそのときだった。
「なんですれ」
 すっと、階段のほうへ頭をのぞかせた半可の顔にさっきのこどもが激突してきた。手にはよく神主が持っている棒にヒラヒラの細い紙をつけたものを握っていた。
 服は与えられたものなのか、紺の浴衣を着ているが帯はつけていないので可愛い物がブラブラしているのが見える。
「あっぶねえな、おっさん」
「おっさんですと。私はまだ千歳にもなってないんですれ」
 十分ジジイだとは思うが、半妖の感覚では半可は若いらしい。
「千歳だって、うわ、キモ」
「キモくて結構。その棒を返すれ」
「やーだね。これは魔法のステッキなんだもん」
「それはそんなものじゃないですれ。やめれ。結界が破れてしまうですれ」
 半可は棒を取り返そうと躍起になってこどもともみ合っていた。
「なにが結界だ。オレのこと誘拐した誘拐魔の癖に」
 連れてくるなんて優しい物言いをしていたが、紅のすることだ。どうやら無理やりここまで運んできたらしい。そりゃ誤解も生む。
「手荒なことをして悪かったよ。でも、それは返してくれないかな。その方が君のためだよ」
 半助も加わって、そう優しく云うがこどもはきかない。
「なにわけわかんないこと云ってんだよ。なんでおれのためなんだよ」
「とにかくその祓え棒は返すれ。それを置いておかないと、アーーーッ!」
 半可の悲鳴が響いたと思ったら、こどもととりあっていた棒がぽっきり丁度真ん中で折れてしまっていた。
「マズイですれ。結界が破れてしまったですれ。紅様、どうするですれ」
 半可が青ざめた顔で紅を振り返った。彩もつられてそちらを見たが、紅はその騒ぎに気づいていないようだった。今目を覚ましたとばかりに顔をあげて、だがすぐに凛とした表情に戻った。
「今何時だ」
「八時ですれ」
「じゃあ、結界を張り直せばいい。どのみちこの場所のことはもうわれてる」
「そんな簡単に言わないでほしいですれ。これ作るの結構な手間なんですれ」
「最優先してくれ。今はおまえの結界だけが頼りだからな」
 紅のその言葉に、半可は励まされたようだった。
「紅様にそこまで云われちゃ、やるしかないですれ。私は鍛冶場にこもりますれ。あとは頼みましたれ」
 半可は貉の姿になると、勢いいさんで部屋を出て行ってしまった。その変化を見て驚きの声をあげたのは、騒ぎの張本人である悪がきだった。
「な、なんだよ。手品なんだろ」
 こども特有の強がりをみせるが、顔はひきつっている。それが正常な反応だろう。目の前で人が動物になったら、誰だって気絶するぐらいは驚く。
「手品かどうかはおまえが判断すればいい」
 紅はこどもの襟をつかみあげて、持ち上げた。
「や、乱暴はやめろ。ママに言いつけるぞ」
 こどもは青ざめて、足をジタバタさせている。
 自分で助けたこどもの癖に、紅は容赦ない。
「好きにしろ。脅しにもなってない」
「ひっひっ」
 紅の顔がよほど怖いのか、子どもはおかしな呼吸をして泣き出してしまった。
「ママーっ!」
「ママの下に帰りたいなら、明日の朝まで大人しくしていろ。さもないと喰っちまうからな」
 紅はこどもを乱暴に離すと、再び穴蔵の外へ出ていこうとする。半鵺も後に続こうとすると、
「おまえは中を見張っていてくれ」
 と紅は命じる。「御意」と、半鵺は素直に応じたが、半助は立ち上がって紅を引きとめた。
「どこへ行くつもりだ。どこにも行かないんじゃなかったのか」
「どこにも行かないよ。ちょっと夜の空気を吸うだけさ」
「おい、待て」
 半助が追いかける前に、紅は穴蔵を出て出口を塞いでしまった。半助が天板を押しても、叩いてもビクともしない。
「あいつ」
 半助は唇を噛むように云うと、茫然としているこどもの肩につかみかかった。
「きみ、なぜこんなところに迷い込んだ」
「え、なぜって、わからないよ。気づいたら山の中を歩いてたんだよ」
 こどもは泣きべそをかきながら云った。
「そのまえに、考えていたことがあるはずだ。それを思い出せ」
「どうしてそんなこと、」
「いいから」
「思い出せないよ。なんでおれ、こんなところにいるの。ママに会いたいよ。うちに帰りたい」
 半助はやりすぎたと思ったのか、切なげに顔を歪めた。
「ごめん」
「ねえ、おれどうしたの。ちゃんと帰れるの? おれ、自分のなまえもわからないんだよ」
 半助は悲しみを押し隠したような笑みで、こどもの頭をそっと撫でた。
「大丈夫。きみは、大丈夫だよ」
 半助はしばらく、そうしていた。
 こどもは半助の優しい声と手の温もりに、落ち着きを取り戻したようだった。
「おれ、思い出した」
 ふいにこどもはそう云った。
「おれ、死にたかったんだ」
 その言葉に彩は目を見開いたが、半助はわかっていたようだった。
「そうだね」
「学校にいくと、友だちに無視されたり、悪口云われたり、物を隠されたりするんだ。鞄をとられて、筆箱の中身をマンションの屋上から落とされたこともあるし。いじめっていうんだって。おれ、いじめられてたんだ。でも、お母さんには云えなかった。お母さんは、塾のテストでいい点とれないとすごく怒るから。いつも、怒ってた。おれ、すごく悪い子で。だから、お父さんもいなくなっちゃったんだよね。おれは、いないほうがいいんだと思って……」
「黒い鳥を見たんだね」
 こどもはうつろな目のまま頷く。
「大きい鳥だったよ。怖かった。でも、その鳥が近づいてきて、その後はなんだか楽になった」
「それはまやかしだよ」
 半助はそうきっぱりと云った。
「逃げて楽なのは一時だ。いずれ後悔がくる。そして、犯してしまった過ちと、向き合わねばならないんだ」
「どういうこと」
 こどもは真ん丸の眼で半助を見つめた。無垢な眼だった。この穢れのない眼を汚していくのはいつだって大人なのだ。
「おれが答えを教えるわけにはいかない。よく考えて。ここにいれば鵺の魔手は届かないから。今のうちに向き合うんだ、己と」
 こどもは黙ってうつむいた。
 そのときだった。
 ざわりと、彩の肌が粟だった。
「なにかくる」そう直感した。その直後、円卓の影が盛り上がったと思うと、半鵺が飛び出してきて、続けて鵺が現れた。
「くそ、また影中からか」
「申し訳ありません。抑えきれませんでした」半鵺が構え直しながら云った。その硬い声に、彩はなにか違和感を感じた。
「仕方ない。影の中では分が悪い」半助は白い葉を銜え、またどこから出したものか刀を抜いていた。鞘は帯に差してある。
「鍛冶場へ行け。半可に結界を張ってもらうんだ」
 半助は半鵺に命じて、自分は前に出た。迫りくる鵺を身をかわしつつ切る。
「こちらへ」
 彩は半鵺に手を引かれて我に返った。見とれている場合ではないのである。
「ああ、はいはい」
 彩は半鵺の後に続いて走った。といっても穴蔵の天井は低い。彩の身長でも腰をかがめてゆかねばならないので、結構骨がおれる。だが泣き言は云っていられない。
 殿をつとめる半助がなんとかけん制してくれてはいるが、鵺がすぐそこまで迫ってきているのだった。彩は振り返って悲鳴を上げた。
「ひぎゃー!」
 鵺が穴蔵の道を破壊しながらロケット弾のごとくこちらへ跳んでくるところだったのだ。「ごめん。私では抑えきれなかった」
 云いつつ半助が彩の躰をさらっていった。半助は彩を小脇に抱えて、物凄い勢いで穴の中を駆け抜けていくのだ。どこをどういっているのか、彩にわかるはずもなかったが、どうやら下へ下へと降りているようではあった。
 やがてトッテンカンという音が聞こえてきた。
 その音が近づいてくる。半助はその音のする部屋に向かっているようだった。
 半助は入口にすだれのようなものが下がっている場所で止まり、中へ駆けこんだ。既に半鵺とこどもは着いていた。半鵺は半助が入ってくるのを待っていたかのようにすだれに御札のようなものをはりつけた。
 それから数秒もせず、すだれが大きくゆがんだ。
「くあーあ」咆哮のような鳴き声がすぐ側で聞こえて、彩は戦慄した。鵺がこのすだれ一枚挟んだ向こうにいるのだ。
「半可、結界はまだか」
「今やってるですれ。話しかけないでほしいですれ」
「急いでくれ。長くはもたない」
「わかってますれ」
 振り返ると、半可が部屋の奥で金槌を振るっていた。部屋というより、土間だ。床は土がむきだしになっていて、半可は虹色の炎の中に長い棒をつっこんでは出してそれを金槌で打ち、を繰り返している。
 半鵺はすだれのほうに向かって何事か呪文のようなものを繰り返し唱えている。半助も半鵺の隣に立ってそれにならった。
「ごめんなさい、ごめんなさい。ぼくのせいで、ごめんなさい」
 こどもは頭を抱えて震えていた。その気持ちが手に取るようにわかる。
 だれも悪者になどなりたくないのだ。疫病神になど、なりたくない。それでもなってしまったら、その役に徹するほうが楽なのだ。そのうち、正しい心を持っていたことなど忘れてしまう。
「半可、まだか。もうもたない」
 半助が苦しげな声を出したときだった。
「わかりましたれ。まだ途中だけど、これでも鵺の一匹くらい防げるはずですれ」
 半可は半助と半鵺の間を駆け抜けて、さっきこどもが折ったのに似た棒をすだれの前に突き刺した。
 すると、嘘のようにすだれが落ち着いた。
「よかった、成功ですれ」
 息をついて額の汗をぬぐう半可を、彩は気づけばじっと見つめていた。
 イケメンではないと思ったのに、仕事をするときや、彩を守ってくれるときの半可はすごくかっこよく見える。
 だが安心するのはまだ早かった。
「危ない!」
 半助が叫ぶのと同時に、急激にすだれが巻き上がり、鵺の姿が見えた。その一瞬で、鵺の口から何かが飛び出す。それはこどもを狙っていた。半助はその動きを読んでいたかのように素早く動き、刀を振った。
「だめだ、結界がきいてない」
 半助は鵺をけん制するためか、刀を大きく振るう。鵺はその風を嫌がるかのように後退した。だがすだれは開いたままだ。
「どうしてですれ。前はこれぐらいで、」
「鵺は力を増してるんだ。前と同じ妖力ではだめだ」
「そんな――」
「みんな固まれ、俺が楯になる」
 半助は刀を地につきさして呪文を唱え始めた。半鵺がその後ろにつく。半可に促されてこどもと彩も一緒に半助の背後に立った。
 鵺が再び咆哮をあげて襲い掛かってきた。
 半助はきつく目を閉じた。
 ダメかもしれない。
 そう思った瞬間、半助の前に矢が二本降ってきた。何かと思うと、それは鳥居の形となって、突進してきた鵺はその鳥居によって弾かれてそのまま霧散してしまった。
「これは」
 半助は目を瞠っていた。彩ばかりでなく、半助にもなにが起こったのかわからないようすだった。
 気づけば、圧迫感がある。彩たちは見えない壁にとりかこまれているようだった。これが結界というものなのかもしれない。
「紅か――」
 半助は唇を噛んでいた。見るつもりもなかったのに、その悔しそうな表情が眼にやきついてしまった。
 次の瞬間、彩の周りのものが全て吹き飛んだ。
 驚く間もなく、紅の後ろ姿と周りの景色が見えた刹那、視界は闇に覆われる。
「どういうつもりだ、半鵺」
 半助は半鵺につかみかかる勢いだった。
「紅様は闘っているところを見られるのを嫌うのです」
 どうやらその闇は半鵺の仕業で、それも紅ののようだった。 
「どうか夜明けまではこのままご辛抱を」
 半鵺が云う間に、半可の手にぼんやりとした灯が現れて中を薄明るく照らした。
「わかっている」
 半助は吐き捨てるように云ってその場に胡坐をかき、徳利を手に酒を煽った。
「あいつ、悪い奴だったんだね」
 青ざめた子どもが震えながら云った。
 半助はもとの優しい顔に戻り、うつむくこどもの手をとった。
「そうだ。あれは魔界からきたものなんだ。きみの心の隙間に入り込んでいたんだよ」
「おれの名前は学だよ」
 まったくふいに、こどもはそう云った。我に返ったように。自分を取り戻したかのように。半助はそれを待っていたのだと、その柔和な笑顔でわかる。
「まなぶか。よかったな、思い出せて」
 半助は酒を脇に置き、にこりとほほ笑んだ。
「おれ、死んだんだよね?」
 こどもはへたりこんで、半助の顔を見上げながら云った。半助は表情をかえなかった。笑顔のまま、
「大丈夫。もうきみは気づいたのだから、進んでいける」と云った。
「そっか……。そっか。ごめんね、ありがとう」
 こどもがそう繰り返すうち、その躰が透き通って行く。
 それを見送ったあと、半助が独りごちるように彩へ云った。
「あの子は、鵺に憑かれて自ら命を断ったのだ」彩はハッとした。
彩も同じ目に遭うかもしれなかったのだ。鵺に憑りつかれれば、死んでまで苦しまねばならないのか。
 もしここに来なければ、鵺に喰われていただろう。
 学が完全に消えると、半助は深い溜息をついた。
「やはり、紅は遠ざけられたんだな」
「え?」
 半助は力無くうなだれたまま、遠い眼をしていた。
「昨日と今日。鵺はこの社を崩すために一番強敵である紅を遠ざけたんだよ。罠だったんだ」
「罠――」
「今日はそれと気づいていて、だがあの子を救うために最後の棲家を捨てたんだ」
「そうなんですれ」半可は首を捻った。「もしかして、私らは囮ですれ?」
「そうだ。狐は狡賢いからな」半助は苦笑いを浮かべた。
「それじゃ紅様は」
 半可のほうは顔をしかめて見上げる。だがそこは闇に覆われていて、その壁の向こうがどのような状況なのかは、想像するしかない。それだけに、怖さが増す。
「鵺と闘っているさ。紅は親を誘ったようだが、どうやら外れだ」
「親はどこに隠れてるんですれ」
 半助は苦笑いを浮かべた。
「それがわかれば苦労しないだろう。力の強まる前に斬っておけた」
「それもそうですれ。厄介ですれ」
「ああ、でも半鵺を見ていると、悪いのは結局第三世界の者なのかもしれないという気がしてくる」
 それまで沈重にうつむいていた半鵺が、半助の言葉にはっとしたように顔をあげた。
 その視線に半助は悲しげな微笑みを返した。
「鵺とて生きたいだけなのだ。ただ、生きたいだけ。人間も半妖も妖怪も変わらない。皆、ただ生きたいだけなんだ」
 それは、生きるための本能――。
 半鵺は答えず、再びうつむき地面を見つめていた。いつものその冷淡な表情からは、彼が何を考えているのかわからなかった。
 だがやがて半鵺は云った。
「迷わないでください」
 今度はその言葉に半助が顔をあげる。半可も、半鵺に注目していた。
「正直な話をします」半鵺はそう前置きをして、地面を見つめたまま語り始めた。「私は鵺の子であり、鵺を否定されるのを快くは思わない。けれど、正しいこととそうでないことがあるのは事実。鵺は、正しくない。確かに、鵺を今のような魔物にしてしまったのは第三世界の者たちかもしれません。ただ魔物は魔物なのです。私に心があるのは、人間の血が半分流れているから。そうでなくば、鵺は心を持たない魔物です。知恵があっても、心はない。そういうものは、排除するしかないのです。助けようなどと思わないでください。鵺は、悪です。私も、悪の一部なのです」
「そんなことはない」半助は半鵺の言葉を遮るように云った。
「だとしたらそれはみな同じだよ、半鵺。私も悪だ」
「半助様は、悪ではありません」
 半助は首を振る。
「鵺はひとの中に眠る悪が寄り固まって生まれたものさ。誰の心も悪というものを飼っているものさ。それは善の裏側にあるものだからね。とりわけ善人は、とりわけ悪人でもあるのだよ」
 半助の云いたいことが、彩には少しだけわかるような気がした。どんな悪人でも、善人になろうと思えばなれるのだ。
 半鵺は一瞬救われたような顔をして、だがすぐに目を背けた。
「紅も同じように思っているだろうね。だから、きみが鵺だと知っても側に置いているんだ」
「紅様はああ見えてひとがよいですかられ」半可が感心したように云うと、半助は笑った。
「そういうと、猛烈に怒るけどね」
「照れやですかられ」
 二人して声をたてて笑う。みんな、お互いのことをよく知っているのだ。信頼し合っている。きっとそうやってみんなで、数々の苦難を乗り越えてきたのだろう。
 とそのとき、どこからともなく鈴の鳴り響く音が聞こえた。
 半助の顔に緊張が走る。鈴は紅がケガを負った報せの音なのだ。
「紅様」
 半可も心配そうに呟く。
 半助が立ち上がると、すかさずその手を半鵺が引いた。
「まだ夜明け前です」
半助は立ち上がったまま、懐から銀の懐中時計のようなものを取り出した。彩が覗きこむと、それは羅針盤のようなもので十二支の漢字が書かれている。コンパスにも見えるが、どうやら時計だ。
 半助はしばらくその時計の針を見つめていたが、やがて溜息をついてまた座り込む。
「わかってるよ。どうせ俺には、待つことしか――」
 半助はまた酒を煽ろうとした。だがその手を、彩が反射的に止めていたのだ。
「なんだい、彩ちゃん」
 いつもの柔和な笑み。だがその優しさの影には、計り知れないほどの哀しみがある。
「それでいいの」
 彩は云った。
「半助様はイケメンなのに、もったいない」
「もったいないって、」
「イケメンは中身からだよ。酒に逃げてばかりいる半助は、全然かっこよくない。だからお願い。やらなきゃいけないと思うことがあるなら、そこから逃げないで。闘ってください」
「余計なことを云わないでほしいですれ」
 半可が慌てたように彩の手を後ろから引いた。
「半助様は、」半可がそう云いかけたときだった。
「半可。ごめん、もう待てない」
「なにを、」
 半可が焦るその横で半助は白い葉巻をくわえた。
「彩ちゃんの言葉に背中を押された。俺は行く」
半助は半可が止めるのもきかずに、胸の前でパンと手を合わせた。半鵺はそのようすを黙って見ているだけだった。
 半助の手を打つのと同時に、闇が消え去っていた。外はまだ薄暗かったが、それよりももっと濃い闇の塊があちらこちらに飛んでいた。
 彩はその大量の鵺に息を呑んだ。その鵺たちが旋回をする中央に、紅が身をかがめていた。地に片手をついて、肩で息をしている。その足下には血だまりができていた。
 それを見て飛び出そうとする半助の腰に、半可が必死で組みついた。
「半助様、ダメですれ」
「離せ、半可!」
「紅様の足手まといになりますれ」
 半助は一瞬止まって、唇を噛む。
 半可は、云ってはいけないことを云ってしまったと青ざめて、跳び上がるように半助から離れるとすぐに頭を下げた。
「も、申し訳ありませんですれ」
 半助は首を振った。
「いいんだ、本当のことだ。情けないな、俺は」
 半助は自嘲しながら、自分の掌を見つめた。
「なんのために数えきれないほどの豆を潰してきたんだか」
 半助の手に刀が現れた。
「守るべきものも守れずに続ける命に、なんの価値があろうか」
 半助は刀を鞘ごと腰に差し、鳥居を出た。今度は、半可も止めなかった。うなだれる半可を置いて、半鵺も同様に鳥居から飛び出していく。
 半可は、ここで自分は役に立てないことを知っているのだ。足手まといになるとは、己にも向けた言葉だったのだろう。
 大事な人の力になれないのは、辛いことだ。
 
 半助は紅の下まで駆けて行き、向かってくる鵺を斬り払った。
 彩は目を瞠った。次々襲い掛かる鵺を、半助は文字通り目にもとまらぬ速さで切り倒していく。半助の刃に裂かれた鵺は再生することはなく、そのまま煙のように消えていく。地にうずくまったままの紅から着かず離れず、半助はあっという間に鵺をすべて消してしまった。頼りなげな半助にこのようなことができるとは思いもしなかった。また、できるのに、どうして今まで半助は鵺と闘おうとしなかったのか。紅は、闘わせようとしなかったのか。
 夜明けが来ていた。
 黎明の光が大地を照らすと、半可はよろめくようにして姿を消してしまった。
「半助様、紅様」 
 半可が鳥居の外へ飛び出していったので、彩もそれに続いた。 
 紅は半助の腕にもたれて、荒い呼吸を繰り返していた。腿に負った傷から、血が溢れていた。
 半助がそこに手をかざすと、「やめろ」と絞り出すような声で紅が云った。だが半助はやめなかった。
 かざした手から光が洩れて、紅の傷ばかりか、裂けていた服まで元に戻る。
「力を使うな」紅が蚊の鳴くような声で云った。傷は塞がったはずなのに、紅はどんどん衰弱していくようだった。
「使うよ。おまえがこんな目に遭っているというのに、もう見ているだけなんてごめんだ」「半助、」
「俺はもう好きなようにやる」
 紅が何か言おうとしたが、声は擦れて言葉にならなかった。それが合図になったかのように、紅の紅かった髪が見る見る間に白くなっていった。
「妖力が――」半助は絶句して焦りだした。
「なぜだ。紅、どうした」
 まるで紅の躰から命が流れ出しているかのようだった。
「どうしてこんなに妖力を失っている」
 半助の問いに紅は答えず、その顔はもう死を受け入れているかのようであった。
 そのとき、突然半鵺が半助の向かいに現れたかと思うと、半助と挟む形で横たわっている紅の懐へ手を差しいれた。
「半鵺、なにを」
 半鵺はすでに額に大量の汗を浮かべている。陽が苦手なのだ。そのまま溶けてしまうのではないかと心配されるほど苦しそうだった。
半鵺は紅の懐から、茶色の巾着を取り出した。
「やめろ!」
 紅が俄かに声を荒げるが半鵺は必死で首を振って巾着の中身をつかみだした。半鵺のその眼には涙が浮かび、つかんでいるそれは白い葉の束だった。
「これは」
 半助は巾着を引き寄せて中身をのぞいた。
「どうしてこんなに白砂があるんだ」
「紅様は鵺を狩るときしかこの葉を使わなかったのです」
「なんだと」
 半助の顔が一瞬青くなって云った。
「どうしてそんなこと」
 半鵺は答えず、巻いた白い葉を紅の口元に近づけていた。
「紅様、お願いです。妖力をお吸いください」
 紅はうっすらあけた眼で半鵺を睨み、「余計なことを」と呟いた。
 彩も半可も、そこに立ちすくむだけでどうしたらいいのかわからない。ただ必死で、白狐にきいた話を思い出していた。あの白い葉は妖力で、仕事と引き換えにもらえるものなのだ。今それが大量に見つかって、紅は弱りきっている。それが示すことは、
「吸ってください。このままでは死んでしまいますよ」
 半鵺が涙をこぼしながら云った。だが半鵺が口元に押し付ける白い葉は、吸おうとしない。
「ここで死ぬならそれが寿命だ」
 もう聞き取るのが困難なほど小さな声だった。
「それは諦めているだけではないのですか。逃げているのではないのですか。鵺につけこまれますよ、紅様」
 紅は黙って目を閉じた。 
「紅様!」「紅!」
 紅はそのまま動かなくなってしまった。だがまだ死んではいない。
「半助様。これまで秘密にしていたこと、申し訳ありません。ですがお願いです。紅様をどうかお救いください」
 半鵺はぱっと後ろへ下がって、半助に深く頭を下げた。お願い致します。と、泣き叫ぶような割れた声で繰り返しながら。ひたすら頭を下げる。
 半助は微笑んでその肩に手をかけ、半鵺に顔を上げさせた。
「秘密はお互い様さ」
 半助は紅の口元につけていた白い葉巻を自ら吸った。
 そして、紅の唇に自らの唇を寄せた。
 重なりあう二人の唇の間から、わずかに白い煙のようなものが洩れる。
 二本、三本、四本と、次から次へと葉を吸っては、紅にその妖力を与えていく。とうとう紅は大きく息を吸いこんで目を覚ました。とたんに髪に紅の色が戻ってゆく。
 開いた眼が半助を捕えると、紅は半助を突き飛ばして立ち上がった。
「何故余計なことをする」
「余計なことじゃないだろ。死ぬとこだったんだぞ。それとも死んでもいいとでも思っていたのか」
 紅は口をつぐんで半助から目をそらした。
「別に、そういうわけじゃない」
「なら半鵺にも礼を云うんだな。半鵺がおまえの白葉を出してくれなければ、為す術がなかった」
 紅が半鵺を見ると、半鵺は弾かれたように頭を下げた。
「申し訳ありません紅様」
「よくも命に逆らったな」紅の鋭い眼光が半鵺に向けられる。
「紅」
 たしなめる半助の声を無視して紅は半鵺の後ろ襟をつかんだ。
「おまえの判断か」
 その言葉に、半鵺ははっとしたように顔をあげる。
 顔を歪め、また泣きそうな顔をして半鵺は肯いた。
「紅様に、死んでほしくなかったのです」
 半鵺がそういうと、紅は軽く息を吐き、乱暴に半鵺を地に降ろした。
 紅は苦笑いのように、だが嬉しそうに笑っていた。
「さっさと影に戻れ。朝日はきついだろう」
「紅様、」
「もういい、さっさと下がれ」
「申し訳ありません」
 頭を下げて影へ戻りつつある半鵺に、紅はあるかなきかの声で云った。
「助かった」
 照れ屋の紅らしい。だがそんなぶっきらぼうな物言いにも、半鵺は嬉しそうだった。
「いえ」
 そのまま半鵺は影に入ってしまったが、そのとき彩ははじめて半鵺の笑顔を見たのだった。
 あんな嬉しそうな顔をできる半鵺が、悪の一部なんかであるわけがない。
 鵺とは一体、なんなのだろうか。
 どこからきて、どうして人を苦しめるようなことをするのだろう。
 半助が、倒れたのはそのときだった――。
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