三界の棲家

九影歌介

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 十二歳の時までの記憶がない。
 その怖さが誰にわかるだろう。誰がわかってくれるだろう。
 いつだって、何をしていたって、自分が本当にそこにいるのかわからなくなる。今いる現実が夢のような気がして、その夢さえもただの幻のような気がして、不確かな自分の存在に常に不安を感じていなければならなかった。
 淋しくもあった。
 その淋しさを埋めるために必ず誰かと一緒にいた。それが友だちから恋人に変わったとき、一時でも淋しさが埋められることを知った。
 麻薬のようなものだった。やり始めたらやめられず、そのうち、男がいないと不安で不安で死にたくなることもあった。だれでもいいわけじゃない。だけど、一緒にいてくれるのならだれでもよいという自分に成り下がっていた。
 彼に会ったのはそんなとき、一番暇を持て余している時期だった。
 就職はしたけれど、ろくな仕事をやらせてもらえない。やりたくもないし、と言い訳してやり過ごしていた。毎日が退屈だった。同じことを繰り返す日々に飽き飽きしていて、そんなときにあのひとが声をかけてくれて、私は一夜を過ごした。
 名も知らない。顔もよく思い出せない。ただ、タイミングと馬だけが合った。
 淋しい夜に、声をかけてくれた。退屈に埋もれて死にそうだったときに、そこから引き揚げてくれた。
 たった一夜のことだった。それだのに、私は彼に恋をしていた。
 仕事はバッくれた。
 彼といる時間のほうが、よほど大事だった。それ以外はどうでもよかった。たとえ眼の前で人が殺されそうになっていて助けを求めていようと、あのときはそれさえもどうでもいいと思ったはずだった。
使い道もない貯蓄はいくらかあった。それを切り崩せばなんとかなると思っていた。だけど確実に目減りしていく財産に、不安を感じないわけではなかった。ただ、感じないふりをしていた。そうして眼をそらしているほうが楽なことは、十二で生まれたときから知っていたし、もうそれ以外の生き方なんて忘れてしまっていた。
逃げ場がなくなれば、まだ死という逃げ場がある。そんなふうに漠然と思って過ごしていた。生きることなど、どうでもよかった。

 彼は学生だった。
 彼もまた授業をさぼって、毎日クーラーの効きすぎた部屋でゲームをしていた。彼が喜ぶので、彩もゲームを始めた。面白いと思えないゲームを、面白いふりをして毎日やった。
 引きっぱなしの布団の上で、日がなセックスに明け暮れた。最初は不潔だと思っていた布団も、慣れる。どうだっていい。彼がいれば、他のことなんてどうだって。過去も未来も、勝手にすればいい。セックスに飽きたらゲームをして、またセックスして、お腹がすいたらコンビニで弁当やスナック菓子を買って食べていた。それだけの生活でいいと思っていた。そこはぬるいお湯の中のように、居心地がよかったんだ。ただ、潜在的に焦燥感を感じることはあったし、このままでいいのだろうかと不安に思うこともあった。貯蓄は確実に目減りしているのだ。
 あれは、錯覚だったのだろうか。
 けれど、彼と一緒にいることで満たされていた。その気持ちを嘘だなんて、あの頃は疑う術がなかった。愛の種類なんて一つしかないんだと思っていた。表と裏があることなんて、知りたくもない。目の前にあるぬるい温度だけが現実であればいいと、そう願っていた。

 
 時が止まればいいのに。と、本気で思った。

 けれど、日は容赦なく暮れていく。
 
 避妊なんかしない。
 面倒くさい。
 と彼が云ってから、していない。私も面倒だった。
 できてもいいと思っていた。でもそれ以上にできないだろうと思っていた。
 自分が母親になることなどありえない。想像もできない。そんなことあるわけない。
 でももしできたら、彼と結婚できると、少し期待していた。そうしたらずっと一緒にいられると。
 けれどその彼は――あっさり死んでしまった。
 その日は、大学の試験だった。
 たるいけど、行くわ。単位ほしいし。
 そう云って彼は彩に背を向けたままジーパンを履いて、白のTシャツを着た。その背に、黒い靄のようなものがかかっているように見えて、彩は目をこすったものだった。
 今思えは、あれは鵺だったのかもしれない。
 彼が出て行ってからしばらくもせず、LINEでメッセージが入った。
「ごめん。いろいろ疲れた」
 彩は血の気が下がるのを感じた。それだけのメッセージだったのに、なにかそれが、とんでもないもののように感じられた。
 そして目の中に、いや頭の中に、彼がホームからふらりと落ちる姿が飛び込んできたのだった。
 彼は電車にひかれて即死だった。
 貧血による事故死と判断されたようだったが、本当は自殺だったのだ。
 意味がわからない。意味なんてなかったんだろう。ただ、だるくなった。生きているのが、面倒になっただけだ。その気持ちはよくわかる。自分の行く先に待っている膨大な時間を想像して、絶望するのだ。
 ごめん。いろいろ疲れた。
 そう告げて死ぬのは彩のほうだったかもしれない。四六時中一緒にいながら、死なずに済む理由には互いになりきれなかった。
 とにかく彼は死んだのだ。生に執着することなく、死んだ。
 それは彩がかっこいいと思っている生き方とはかけ離れたものだと、わかっていながらやはり執着することは恰好が悪いと思ってしまうのだ。
 結局のところ独りだから。執着していれば、独りが辛くなるのだ。
 だからもう、彼のことも忘れた。私は独り。一生独りだ。
 

 彩ははっと目を覚ました。
 こめかみが涙で濡れていた。白い天井が見える。
 そうだ。ここは病院だ。
 静かな時が流れていた。そうしていると、今までのことがすべて夢のように思える。思えばいつだって現実感のない道ばかりを歩いてきた。地に足がついていると感じたことなど、ただの一度もない。
 けれど、私はここにいるのだ。そしてこの腹の中には、もう一つの命が宿っているのだ。
 彩はそっと自分の腹に手を当ててみた。
 まだ六週間だという。いるのだと教えられれば、確かにそこになにかを感じる。
 いるのだ。もう一人、ここに。
 紅はこのことを知っていて、保険証を渡してくれたのだ。
 にしては、手荒な扱いではあったが。
 そのときドアが開いて、検診の先生が入ってきた。
「調子はどうですか」
 鼻の大きな、カバみたいな顔をした先生だったが、笑顔は愛嬌があって優しそうだった。
「激悪です」
「はは、激悪ですか」
 医者は彩の脈をとったり、聴診器を胸にあてたりとてきぱき診察をしながら云う。
「まあ、大事に至らなくてよかったです。赤ちゃんも元気に育ってますよ」
「あの、赤ちゃんって、胎児のことですよね」
 医師は一瞬怪訝な顔をしたがすぐに笑顔になり、「そうですよ」と云った。
 自分でも変な質問であることはわかっている。
「そうですか。ありがとうございました」
「いえ、ではお大事に」
 また独りになった部屋で、彩は茫然としていた。
 胎児――。
 今更そのことの重大さを感じている。腹の中が熱く、重いようだった。その重さは、まるで罪悪のようだった。
 ここに命をくれたのは……半助なのだ。
 ふいに涙が溢れてきた。
 自分以外の命が、自分の中に宿るなど、どうして想像できたろうか。
まして、誰かの命を分け与えてもらえるなどと。
半助が突然眠ってしまったのは、自分のせいだった。彩の胎児に命を与えてくれたからなのだ。きっと、それまで起きているのはやっとだったのだ。今思い返せば、思い当たる節はいくつもある。半可が穴から持ってきたのは酒ではなく、きっと起きているための気付け薬のようなものだったのだろう。
取り返しのつかないことをしたのだという思いが、沸々と湧いてくる。どう考えても、半助から奪ってしまった大切な寿命をもとに戻す方法など思い浮かばない。
そう、……奪ってしまったのだ。
また、奪ってしまった。
自分のせいで棲家を失わせ、白狐は命を落とし、更には半助の寿命まで……。
もはや償いきれるものじゃない。
自分が生まれてきたことで、こんなにも迷惑をかける。
自分と出会わなければ、彼らは今頃何事もなくあの祠の屋敷で暮らしていたのかもしれない。
……だけど、そんなの、自分のせいじゃない。
仕方なかったことだ。もう彼らのことは忘れて、自分は新しい道を歩もう。いや、それも面倒臭い。
一人で、子を育てていく自信など到底ない。無理だ。もう。死んでしまえば楽なのに。
もう、逃げたい、ここから。全部嘘だったらいいのに。
子もおろして、なにもかも忘れて、新しいところでまた男をあさって、頼って、生活をしていこうか。それも不可能じゃない。お金はある。だけど、そんなことを考えると、どうしようもなく胸が痛んで、涙があふれて止まらない。
腹が温かいのだ。
こんな自分の腹に、宿ってきてくれた命があるのだ。この命のために、自らの命を分けてくれた者がいるのだ。
それらを、すべて忘れるなんてことできない。

自ら死へ向かう歩みを、止めてくれるものなどないと思っていた。それは今ここにある言葉でもなく、ひとでもなく、彩が今まで受け取ってきた想いであった。
温かく、心のこもった想い。
過ごした時の長さなど関係ないのだ。彼らは、わずかな間に、彩を心から迎えいれてくれてたのだ。その俄にうまれた絆が、彩を繋ぎとめてくれた。

もう、自分は後ろを向いてはいけないのだ。
私は、この子を守らなきゃいけない。
それなら、自分はどうするべきなのか。
紅の恵んでくれた金と家で、しばらくは暮らしていく。百三十八万の金は、二百万にも三百万にも増える。数えたのだ。そうしたら、食料品店で確かに払ったはずの金が戻っているのだ。レシートをみて、店に電話をかけた。確かに代金は払っていたようだ。
紅のくれたお金は減らない。
こんなすごいものをもらったら、普通狂気する。今までだったらそうだった。けれど今は、それと引き換えに離れなければならない場所のほうが恋しくて、恋しくて、たまらなかった。
自分が行けば迷惑になる。だから戻れない。でも、半助や半可、紅、半鵺のことが頭からずっと離れないのだ。
どうしたらいいのだろう。
大人しく、引っ込むべきなのかもしれない。こうして、何事もなかったかのように、紅の施しを受けながら生活をしていく。
だけど――その先に何がある。
子が無事生まれれば、育児に忙しくなるのかもしれない。子を産んで育てる義務が私にはできたのだ。だけどそんなこと、簡単には受け入れられない。まだこの身は一つなのだ。
そしてこの身で、しなきゃいけないことがあるような気がした。
 自分に何ができるかなんてわからない。何もできないかもしれない。
 ただみんなといたいという我儘なのかもしれない。
 それでもいい。これまでわがままに生きてきたのだ。ここでそれを曲げたら、今までのわがままに意味がなくなる。
「決めた。我儘を極めてやる」
 私は私のやりたいようにやるのだ。
 彩は着替えると、荷物をまとめて病室を出た。
 玄関前にはタクシーが並んで停まっている。どうせ減らないなら好きに使えばいいのだ。
 彩はタクシーに乗り込み、ショッピングモールへ向かった。そこで紅に云われたものをすべて買い込み、みんなの待つあの棲家へと戻ろうとした。だが――。
「道がわからない?」
 運転手はあからさまに顔をしかめて振り返った。
「そうなんです。途中からぶっ飛んできちゃったから」
「は?」
「いや、なんでもないっす。とりあえず、『街のはずれ』っぽいところに、かたっぱしから行ってもらえますか」
「街のはずれっぽいって、そんな大ざっぱなことじゃいつ辿りつくかわかりませんよ」
「だってそれしかわかんないんですよ。お金は払いますから」
「仕方ないですねえ。それにしてももう少し情報ありませんかね」
「そうだな、海の見える通りから山にはいっていくと出るんです」
「海ねえ。海っていったら、このあたりだと寺泊か出雲崎ですかね」
「でも、棲家からは海は見えないんです。山に囲まれてて」
「じゃあ、海から峠越えたところですかね。とりあえずその辺から潰してみますか」
「お願いします」
 それから、二時間くらいタクシーで辺りを走り回ったが、あの半妖たちの棲家は見つかりそうになかった。
 タクシーじゃだめなのかもしれない。
 彩は、タクシーを降りて歩くことにした。
「お客さん、こんな大荷物一人で大丈夫ですか」
「大丈夫です」
 サンタクロースの背負うような巨大な袋に加えて、両腕にもビニール袋や紙袋をいくつもさげている。とても大丈夫ではないが、行くしかない。
 彩は果てしないような農道をトボトボと歩きはじめた。
 なんだか前にもこんなことがあったような気がする。あのときは、棲家から離れるつもりで歩いて、でも離れられなかったのだ。だのに今は近づきたいのに、それは全然近づいてきてくれない。
 見渡す限り田んぼだった。
 それでもその向こうに山が見えるのがまだ救いだった。その山の中に入れば、もしかしたら紅たちに会えるかもしれない。
 だが農道がやたら長かった。暑いのがいけないのかもしれない。随分歩いたような気がするのに、先行きは果てしなく長く、逆にいくらも歩いていないはずなのに躰はもう一歩も歩けないと思うほど疲れ切っていた。それでも歩かないわけにはいかない。
一歩でも、紅たちに近づけるなら。
その一歩を繰り返せば、きっと辿り着ける。
こんなに会いたいんだ。会えない訳がない。
彩はやっとのことで農道を抜け、山道に入った。生い茂る木々のお陰で日が遮られ、いくらか涼しいようだった。ただ虫が酷い。
彩は立ち止まり、街で買っておいた香取線香に火をつけようと、袋の中から取り出した。
と、「グルグル!」という聞き覚えのある声がどこからともなく聴こえてきた。
「半可!?」
 彩は立ちあがって辺りを見回した。すると、木陰にさっと隠れる小さな影がある。
「半可、隠れても無駄だよっ」
 彩は蚊取り線香を胸の前に出すと、高らかにこう云った。
「このグルグルが眼に入らぬか」
 すると一匹の獣がよたよたと木陰から出てきて、「ははーっ」と地にひざまずき、深々と頭を垂れた。
「あ、タヌキ」
「貉です!」
「半可討ち取ったりー!」
 彩は一番大きなビニール袋の中身をぶちまけ、半可を生け捕りにした。
「ぎゃあ、やめてくださいですれ」
「やめない。やめたら逃げるでしょ」
「逃げない。逃げないからやめてくださいですれ」
「ほんとに」
「ほんとに逃げませんですれ」
「私を棲家まで連れてってくれる?」
「それはちょっと……」
 彩は袋の上から半可の首を絞めた。
「ふぎゃあ。苦しいですれ。わかった。わかりました」
 彩が手を緩めると、半可は咳き込みつつ袋の中から顔を出し、人間の姿となった。
「まったく。あなたも紅様の乱暴が移ったのではないですかれ」
「私は前からこんなんだよ。そんなことより、さっさとこれ持って」
「なんなんですかれ、この大荷物は」
「なんでもいいでしょ。早く」
「早くったって、棲家に連れていくわけにはいきませんですれ」
「嘘ついたわね!」
つかみかかろうとする彩から、半可はしゅるりと貉の姿に化けて避け、反対に背中から彩の肩に飛び乗った。
「乱暴狼藉はよしてほしいですれ。連れていこうにも棲家はもうないんだから連れていきようがないんですれ」
「もうない?」
「私の穴も壊れてしまったではありませんですかれ」
「だけど、妖術かなんかでそんなのなんとかなるんでしょ」
「妖術をなんだと思ってるんですれ。そんな都合のいいことあるわけないですれ」
「だって、この巾着は。お金が無限に湧いてくるんだよ」
 彩がそういうと、半可が顔をしかめるので、実際に巾着を渡して見せた。すると半可は一層眉根の皺を深くする。
「紅様。こんなに妖力の無駄遣いを」
 彩は一瞬耳を疑った。
「なに。どういうこと」
「無限に湧いてくるわけではないですれ。これは今まで紅様が稼いだ妖力の報酬を、現金に変えているだけのことですれ。使っていればそのうち底をつきますれ」
「そうだったの」
 それなのに自分はなんという無駄遣いをしてしまったのだろうか。タクシーなど乗らずに歩けばよかった。
「じゃあ、これ返す」
 彩は半可から巾着をひったくって、肩にさげた。
「だから、紅に会わせてよ。ねえ」
「私だって会えるもんなら会いたいですれ。でも私も霊山から追いだされたんですれ」
「追いだされたって、それじゃあ半可も紅たちの居場所わからないの」
「わかりませんですれ」
「そんな」
 全身の力が抜けた。これ以上もうどうしようもないのか。やっとここまで歩いてきたのに。
「でも、半可はどうしてここに」
「私の隠れ家がすぐそこですれ。彩さんの匂いがして、つけてきたんですれ」
「それじゃあとりあえずそこに行こうか」
「相変らず厚かましいですれ。まあ、そのつもりでしたけど」
 と、半可は彩の肩から飛び降りて人間の姿となる。
「それにしても、荷物が多すぎますれ」
 云いつつ半可は周りに落ちていた木の枝を拾って、一本一本土に挿して並べていく。
「なにしてるの」
「挿し木も知らないんですかれ」
「挿し木くらいしっとるわボケ。挿し木なんかしてどうすんのかってきいてんの」
「相変らず口が悪いですれね。まあ、見ててくださいれ。あ、そのグルグル貸してもらえますかれ」
 彩は半可に蚊取り線香を渡した。
「術に必要なの?」
「いえ。テンションが上がるですれ。YO」
 と、半可は久々にヒップホップ風にダンスを始める。なんだかよくわからないダンスを見ているうちに、地面に挿した枝が揺れているような気がした。いや、実際揺れていた、というかむしろ踊っている。
「YOYO」
 と、へたくそなラップを唄うにつれて、枝が自ら土から脚をひっこぬき、彩の荷物を運び出した。
「さあ、いくですれ」
 半可は枝に指示を出すと、彩の方を振り返り、いきなりその躰を抱き上げた。
「ちょ、なにすんの」
「妊婦さんは大事に扱わないといけないですれ」
 貧弱な頼りない男だと思ってたが、半可は意外にも軽々と彩を抱いている。彩をお姫様抱っこしたまま、そのままラッパー気取りで軽やかに歩きだした。
「半可も知ってたんだ。私が妊娠してること」
「知らなかったのは彩さんぐらいなもんですれ」
「じゃあ、やっぱり紅も」
「もちろん。紅様は一番勘が鋭いですれ。すぐに気づいてたと思いますれ」
「にしては扱い荒かったよね。殴られたし」
「その辺は紅様のやることですれ、手加減してたんでしょうれ」
「そうだろうか」
「そうですれ。そういうひとですれ」
「そうだね」
 一見荒っぽく見えても、実は優しい。
「どうして紅は私たちを追いだしたのかな」
 半可は一寸間を置いてから答えた。
「そんなの、彩さんもわかってるでしょうれ」
 わかってる。私たちを、危険に巻き込まないためなんだ。
「じゃあ、戻らないほうがいいのかな」
「そうとわかってるならどうしてきたんですかれ」
「どうしてだろうね。どうしてだろう」
 彩は、半可の腕に揺られながら目を閉じた。
 半助とはまた違う。
 自然体でいられる。自分のまま、ありのままでいられる。そんなここちよさから、
「眠くなっちゃった」
「図々しいですれ。でも妊婦は眠いものですれ。いいですれ。眠っても。って、もう寝てるですれ。ほんと自由で呆れるですれ」
 彩は半可の子守歌を聴きながら、眠りに落ちた。



鵺がこちらに羽を広げて向かってくる。
彩はそこで目を覚ました。また鵺の夢だ。いい加減、いやになってくる。
気づくと躰は汗でぐっしょりと濡れていた。低い声で鳥が鳴いていた。
辺りは薄暗い。木の香りがする。
ここが半可の隠れ家なんだろうか。眼が慣れてくると、樵小屋みたいな、粗末な感じのする小屋だった。ただ彩はきれいなシーツの敷かれたベッドの上に寝かされていた。
半可も案外優しいのかもしれない。
ふと、外から話し声が聞こえた。
ベッドの上に立って、窓から外を覗いてみた。
夕闇の中に二つの影がある。一つは半可、もう一つは、半鵺だった。
「それでいいのですかれ」
 ふいに半可の大きな声が聞こえた。二人が何か云い合っているが、聞き取れない。
 緊迫した雰囲気が漂っているようだった。そのうち、半鵺は半可の持っている何かを無理やり奪うようにして、影の中に姿を消してしまった。
 半可はその場でうなだれていたがしばらくこちらを向いたので彩は慌てて隠れた。だが、隠れているのもばかばかしくなって、部屋を出ると玄関で半可を仁王立ちに待ち受けた。
 半可は顔をあげ、彩に気づくとはっとしたような表情をする。
「なにしてたの」
「い、いえ。なにも」
「半鵺がきてたよね」
「見てたですかれ」
「見てたし聞いてた」
「聞いてたって、どこまでですれ」
「全部」
「全部――」半可は息を吐いて、首を振った。
「それなら仕方ないですれ。そうですれ。実は薬は出来ていたんですれ」
 薬とはなんだろうか。だがそれを訊いてしまえば、話を聞いていなかったのだと思われてしまう。半可は鍛冶をする。結界の道具を作ったり、他にも人形を操ったりと手先が器用。その半可が作る薬とは。
「紅に頼まれてたものね」
 彩は慎重にかまをかけた。半可は肯く。
「でも、時界移動なんて本当はして欲しくないですれ」
 彩はその言葉に肯きながら、内心驚いていた。
 時界を移動できるクスリが本当にできたというのか。それを紅に仕えている半鵺に渡したということは、今頃そのクスリは紅の手の中だ。
「どうして、してほしくないの」
「だって、あのクスリで行けるところは、本当は――」
 半可は耐えきれなくなったように、いきなり彩の両手をつかんだ。
「彩さん、お願いですれ。力を貸してくださいですれ」
「力を?」
 半可は肯く。
「やっぱり、こんなことは間違ってるですれ。紅様は、」
 と、半可の云いかけたときだった。突然、彩と半可の立っている場所が崩れたかと思うと、二人はまっさかさまに暗い中へ堕ちていた。
「半可!」
 手を伸ばすが、その手は空を切るばかり。不安でたまらなかった。だが不意にその手をつかむ、頼もしい手。
「彩さん、大丈夫ですれ。私はここです」
 彩は無我夢中でその手を引き寄せる。だが引き寄せられているのは彩のほうで、次には彩は半可の胸の中に抱かれていた。
 そこには今まで知らなかった男の胸がある。痩せた男の胸にしか抱かれたことのない彩にとって、半可の意外にもたくましい胸板は刺激が強すぎた。
「ぶひっ」
「えっ!?」
 鼻血を噴射した彩に半可は驚きつつも、彩を抱いた手を離さなかった。
「な、なにが起こったんですかれ。大丈夫ですかれ、彩さん」
「ばびびょうぶでぶ」
「なんですかれ、このぬるぬるしたのは。なんか生臭いですれ」
「鼻血というものです」
「は、鼻血ぶーしたですかれ。何故ですれ」
「それはいささか恥であるので云えませぬ」
「なんかよくわからないけど、離れちゃダメですれ」
「ここはどこ私はだれ」
「ふざけてる場合じゃないですれ」
「いや。ふざけてるわけでは。ここはどこなんでしょうか」
「そんなことわかりませんですれ」
「落ち続けている気がしますが」
「間違いなく落ち続けているですれ」
「大丈夫なんでしょうか」
「わかりませんが、彩さんは私が守りますれ」
「ぶひっ」
「ぎゃっ。また鼻血ですかれ」
「隠れイケメンでございましたか」
「は?」
「いえ、なんでもないですれ」
「真似しないでくださいれ。この暗闇の中喋り方同じにしたらどっちがどっちだかわからんくなってしまいますれ」
「そうですれ」
「だから、」
 とそのときだった。ふわりと躰が浮き上がったかと思うと、地面を感じて彩たちは座り込んだ。辺りが明るくなる。朝日の昇りはじめのように、じんわりと景色が見えてくる。だが、盲てしまったかと一瞬錯覚するほど、そこは灰一色の世界だった。
 粉塵が舞い、透かすようにしてようやく見えるその向こうには、瓦礫の山。無数の死体。
 ここはなんだろうか。自分は、地獄へ墜ちてしまったのだろうか。
 彩は息を呑み、その場から一歩も動けなくなった。だが、気づけば手を引かれている。
「彩さん。あそこですれ」
 半可の指差したほうに、紅と半助の姿があった。だが彩の知っている彼らより幾分か若い。まだ半鵺くらいの躰つきだった。
「行ってみましょうれ」
 半可は云うが、彩の足は地面に張り付いてしまったかのように動かなかった。
「だめ、怖い」
「彩さん、行かないと。ここにずっと留まっているわけにはいかないですれ」
「ここはどこなの。なんでこんなに」
 想像を絶するような酷い光景があるのだろうか。
 でも、どこかで見覚えのあるものでもあった。遠い昔に、教科書で習ったようなものだ。だからか、現実感がない。目に見えているのは虚像のようで、そうであるのを望んでいるのかもしれない。
 ひとは、信じられないことを目の前にしたときに、それが嘘であればと願うものだ。
 そこで眼を開けるか閉じてしまうか。そこが、運命の分かれ目なのだろう。鵺に喰われるか喰われないかの、瀬戸際で、どれだけのひとが過ちをおかさずにいられようか。
「どこなのここは」
 彩は茫然としんがら惰性のように繰り返した。
「それを確かめるために、行かないと」半可の声はしっかりしていた。
 半可に手を引かれて、彩はようやく歩きだせた。そうでなければ、飽くこと知らずそこに植物化していたことだろう。
 なるべく、周りを見ないようにして歩いた。見たものを冷静に処理できるキャパが自分にはないとわかっていたから。人がいないわけではないのに、人気がしなかった。精根尽き果てた。という本当の姿が、きっとこれなのだ。
 彩と半可が紅たちの側にいっても、二人はこちらに気づかなかった。
「ここはやはりちがう時界ですれ」
 半可が顔をしかめて云った。
「過去?」
「だといいのですがれ」
 半可は微妙な表情をした。その機微に彩は気づけない。立っているのがようやくだった。
 紅と半助は手を繋ぎ、茫然と目の前の瓦礫の山を見つめていた。
 やがて紅は半助の手をほどき、瓦礫の山に登る。そしておもむろに、その場を掘り始めた。
「紅、やめなよ」
 まだ声変わりのしきれていない声で、半助が云った。
「やめない。だって、ここに畑があった。田んぼがあった。みんなの棲家があった」
 紅は涙を流しながらも、必死で瓦礫をどけつづけた。
 半助は何もせず、ただ唇を噛みしめてそれを見つめていた。
「隣には、三上さん。その隣には須賀さんが住んでた。一緒に釣りに行ったんだよ。須賀さんちの子はまだ三歳になったばかりだったんだ。まだ三歳だよ。これから生きようというのに、どうして。どうして――」
 半助が駆けだしたかと思うと、紅に飛びつくようにしてその躰をきつく抱きしめた。
「もうやめよう」
「半助――」
「俺たちは半妖だ。いずれ別れのくることだった」
「だけど、こんな奪われ方ってあるか。どうして、人はこんな無意味なことをする」
「この世に意味のないことなんてない。これもまた学びなんだ」
「そんなことどうして云える。人間同士で殺し合うことになんの意味があるっていうんだ」「紅」
「もうやだよ。もうやだ。こんなところにいたくない」
 彩ははっとした。
 今の台詞に胸がズキンと痛んだのだ。
 なぜだろう。自分も、同じように思ったことがある気がする。覚えてはいない。だが、記憶の奥底に残っているものが、胸を痛ませる。
「ここには、いちごが生えてた。赤くなったら食べようねって、みんなで楽しみにしてた。それなのに。そんなささやかな幸せまで、人間は奪っていくんだ」
「仕方ないよ」
「仕方なくなんかない」
「仕方ないって思うしかないだろ」
 半助と紅は睨み合い、だが半助がすぐに目をそらす。
 しゃがみこんで、なにかを手にとった。拳大の石のようだった。それを、いくつもいくつも拾い出した。
「ここは人間の支配する世だもの。俺たちはその流れの中に身を任せるしか仕方ないんだ」
「そんなのヤダ。人間なんか、いなくなればいいのに」
「紅!」
 半助はきっと紅を睨んだ。
「そんなことを云うもんじゃない」
「だって、」紅はしゃくりあげた。
「須賀さんも三上さんも人間だったろ。別に、人間全部が悪いわけじゃない」
「だって、」少女のように、しゃくりあげる。
 あとに言葉が続かない紅を、半助はいたわるような目で見つめていた。そして、拾っていた石をその場におくと、また紅を優しく抱きしめた。
「俺が、ついてるよ」
「半助」
「ずっと、おまえが死ぬまで俺はおまえの側にいる」
「――ほんとに」
「約束する」
「ほんとだよ」
「うん。だから、山神さまのところへ帰ろう。ここじゃ、皆がふるさとへ還れないよ」
 紅は半助が地面に置いた石を見た。
「ただの石ころみたいだ」
「ひとの悪しき想念が、死した妖狐の魂をあのようにしてしまうのだよ」
「――怖い」
「怖いね。ふるさとへ還れないなら、これは本当の死だものね」
「これから、もっと酷いことが起こるような気がする」
「そうかもしれない」
「なんとかしてあげたい。みんなをちゃんと死なせてあげたい」
 半助は静かに肯いた。
「山神様の下で働き、毎日祈りつづけよう。この命の続く限り、祈り続けよう」
「それでもまだ石のままだったら」
「それでも祈り続けるんだ。死んでしまってもきっと、祈ることはできるよ」
「そうかな」
「そうでなければ、どこにも救いなどない」
「信じることが力なんだね」
「そうだよ。だから紅。共に逃げよう。皆を守りながら、暮らしていけるところへ」
「うん」

 気づけば、彩は号泣していた。
 その頭ごしに、不機嫌そうな声が聞こえた。
「覗きとはいい趣味してやがるな」
 仰ぎ見ると、紅が宙に浮かんでいる。大人になった、いつもの紅だ。いつもの紅い衣装がひらひらと翻っていた。どうやら足の辺りに風を起こして飛んでいるらしい。
 彩はその姿を見てほっとした。
「なんだ、元気そうじゃん」
「元気で悪かったな」
「相変らずひねくれてるね」
「うるさいぞ。それより、半可」
「は、はははは、は、はい」半可はいつも以上に青ざめて紅に怯えているようだった。
「どうして私がここにいるんだって顔だな」
「だ、だって、ここは、あの」
「そうさ。ここは燦界だよ」
 ゴクリ。と、唾を呑みこむ音が聞こえてきそうなほど大きく、半可の喉仏が上下した。
「それじゃあ、半鵺は本当に紅様にあのクスリを」
「あのクスリ?」彩は訊き返した。
 さっきの、半鵺と半可の密談を思い出した。あのとき半鵺が半可から奪っていったクスリのことに違いなかった。
 半可が答えられずにいる横で、紅は苦笑して云った。
「そうさあのクスリさ。お陰でこうして燦界にこれた」
半可が目を見開いた。
「それじゃ、紅様は燦界に続くクスリと知っていて使われたのですかれ」
「そんなことはどうだっていい。それより、おまえはどうしていちいちこいつを連れ込むんだ」
 紅は有無を言わせず、その鋭い視線が今度は彩に向けられる。
「そ、そんな、私がつれこんだわけでは」
 半可はしゅんとして、だがはっとしたような表情のまま止まってしまった。
「私たちは、どうやってここに入ったんですれ」
 紅様、
 と、半可はどこかすがるように見える眼で紅を見た。紅は細めた眼でそれを見返し、そこに情が見えたような気がしたのに、紅の言葉はにべもなかった。
「とにかく帰れ。ここはおまえらがいていい場所じゃない」
 途端に空が黒々としてきた。もくもくもくと煙が湧きたち、空を完全に覆ってしまう。
 雷鳴がとどろいた。
 だが構わずに彩は云った。
「ここは、紅の過去なんでしょ。だったら私も過去を見てみたい」
 紅は無遠慮に顔をしかめる。
「野次馬根性でのぞくもんじゃない。第一、ここはただの過去の世界じゃないぞ」
 それをきいて、今度は彩のほうが眉をひそめる。
「どういうこと?」
「ここは、私の想念のなかさ」
「なに。そうめん?」
「そうめんじゃない。そうねんだ。冗談いっている場合じゃないだろ」
「ふざけたわけじゃないんですけど」
「そうだな。おまえの頭はゆるいからな」
「シャーラップ!」
「とにかく、ここから出て行け。急がないと間に合わないぞ」
 紅が見上げるのにつられて空を見ると、嘘みたいな渦を巻いた穴が空にぽっかりと空いていて、今まさに消えるところだった。
「グルグル」とラップを唄い出しそうな半可を制圧し、紅が云った。
「唄ってる場合じゃない。完全に入口が閉じてしまえば、燦界の主が現れるぞ」
「鵺がここにいるですれ。紅様も逃げるですれ」
 半可がひどく慌てたように云った。けれど紅は頑として動く様子がない。
「逃げたらここにきた意味がないだろう」
「どういうことですれ」
 半可は眉をひそめた。
 だが紅はただ黙って首を振るばかり。
「おまえたちはまだここから出て行ける。だが、半助には燦界のことは云うなよ。あいつは、私が時界移動をしたと思ってるんだ」
「そんなこと、約束できませんですれ。なんでここに残るんですかれ。まさか、やっぱり紅様ははじめから鵺をここにおびき寄せるつもりだったんですかれ」
 紅は答えなかった。半可はそのもらえない答えをせがむように云う。
「紅様。そんなこといけませんですれ。そんなことしたら半助様が悲しむですれ」
「だから云うなと云ってるんだ。時界を超えるのは私の悲願だった。それが叶ったと想ってくれていれば、あいつも心置きなくふるさとへ還れるはずだ。そして、そのふるさとへ還らせてやるためには、鵺がいたんじゃダメなんだ。あの、時を盗む魔物を根絶やしにしなきゃいけない。そのためには親を狩ることだ」
「その親がここにくるとは限らないですれ。そうしたら紅様はこんな閉ざされた場所で一生――」
「親は必ず来る。あいつが必要なものを、私が持っているからな」
「あいつが必要なものって、」半可の顔が凍りついた。「「まさか。ダメですれ!」
 気づいちまったか。というように、紅は苦笑いした。
「鵺は私が妖怪だってことを知っているからな。絶滅した妖怪の長い寿命を手に入れるのはもうここしかないはずさ。だから絶対に来る」
「紅様――そんな、そんなこと、」
 半可は狼狽えに狼狽えて、涙ぐみ、言葉にならないようすだった。
 紅はもうこちらを見ていなかった。
 彩も、頭の中を整理するので精いっぱいだった。
 紅は、妖怪と云った。自分のことを、妖怪、と。
 半妖ではなかったのだ。
 紅は、妖怪。
 薄々気づき始めていたことではあった。風以外の術を操るし、半助よりもずっと強い妖力をもつ。そして、紅は半助の余命が減っていくことをひどく恐れていた。それはすべて紅が妖怪であればつじつまがあうことなのだ。
「とにかく、全力でおまえたちをここから追い出すからな。半助を頼むぞ」
「え」
 またもやわけのわからないうちに、彩は竜巻のような風にのって空に飛ばされていた。
「ぎょえええええええええええっ」と彩が悲鳴をあげると、すぐ側で「ひいいいいいいいいいいいっ。でもグルグルううううううううううっ」と奇天烈な悲鳴をあげている半可がいた。
 次の瞬間には彩は尻もちをついていた。
 もとの山林だと思ったが、あるはずの半可の隠れ家はない。代わりに、あの巨大な木が背後にあった。それを見て御神木だと、彩はすぐにわかった。まるでそこに呼ばれたような気がした。御神木はそれ自体何もしてくれなくても、すべてを見ているのだ。
「大丈夫か二人とも」
 声が聞こえて振り向くと、半助が木々の間を縫って駆けてくるところだった。
「半助様――」半可はまずいものでも見たような顔をした。
「おまえたち、どこから来たんだ」
「どこからって、」半可は言葉を濁らし、助け舟を求めるように彩を見てきた。けれど、彩にも何と云っていいかわからない。
 燦界。というところに居たことは、紅には云うなといわれているのだ。
「今時界の歪みから現れただろう。それまでどこにいた」
 半助の必死さから、紅と会っていたことを期待しているのだとわかった。
 紅は、半助が紅は時界の移動をしたと思っている、と云っていたが果たしてそうだろうか。紅の幸を信じているなら、こんなに慌てなどしないのではないだろうか。
「燦界から戻ったのだろう、おまえたち」
 半可ははっと息を呑んだ。彩はやはりと肯いた。半助が、気づかないはずがないのだ。
「紅はどうした。まだ中なのか」
 こんなに必死な半助を見ていたら、嘘などもうつけない。
「紅は、燦界に残るって」
「彩さん!」彩の言葉を遮るように半可が叫んだがもう遅い。半助はすべてを確信してしまっている。
「だって、約束はできないってあんただって云ったでしょ」
「でも、紅様は――」
「いいんだ。わかってる。紅が云うなと云ったんだろう。それぐらいわかる」
 半助は感情を押し殺したような声で云い、最後に溜息をついてその場に座り込んだ。
 その横で独り青ざめていた半可が勢いよく半助に頭を下げた。膝をつき、手をつき、深々と詫びる。
「申し訳ありませんれ。燦界へゆくクスリを創ったのは私なんですれ」
 重大な告白であったろうが、半助はさほど驚いていないようだった。
「わかっていたよ。他にそのようなものを創れる者はいないからな」
「申し訳ありませんれ」
 半可はただただ頭を下げた。
「だがそれを飲んだのは紅だろう。おまえは、悪くない」
「ちがうのですれ」
 半可は顔をあげた。必死に訴えようとするが、半助は大木を背に胡坐をかいて、うなだれたままだ。それでも構わず半可は云った。
「紅様には、時界を移動するクスリとしてアレを渡したんですれ。私は、紅様を騙したんですれ」
「ちょっと待って」
 彩は黙ってきいているつもりだったが、その言葉に思わず半可につかみかかっていた。
「なんなの一体。どういうこと。あんたが紅をあんなおっかない世界に追いやったってことなの」
「そうですれ」
 彩は一瞬言葉を失った。薄々、そんなような気がしていたが、半可を信じたかった。だのに、半可は本当に紅を裏切っていたのだ。
半可は涙を浮かべた赤い瞳で彩をまっすぐに見た。
「私が、紅様を燦界へ追い込んだんですれ」
「半可――」半可を締め上げる手に、力が入らなくなった。
 したくはなかったこと。
 それでも、しなきゃいけなかったこと。
 そうして半可を、
「追い詰めたものはなんなの。あんたを、そこまで追い詰めたものって……」
 半可は目を見開き、しばらくしてから切なげに語った。
「人間の他になにがあるんですれ。人間が散々好き勝手やってきたせいで、私たち妖怪は皆死に絶えたんですれ。もう残っている仲間はここにいる者たちだけですれ。棲家も仲間も家族も奪われて、なんの権利も与えられない。戸籍だのなんだの、書類や形ばかりを重視して、私たち実際に生きている者たちのことなんか考えてくれていない。半妖だって妖怪だって、みんな一緒ですれ。ここに、生きているんですれ。それなのに――」
 半可はキッと彩を睨みつけた。
「人間なんか、みんないなくなってしまえばいんですれ。これからは、妖怪がこの第三世界を納めるんです。でも、そのことに半助様と紅様は反対で。だから……その……」
「邪魔者は消そうと思ったのか」
 半助が唸るような声で云った。
「俺はもうじき死ぬ。だが鵺に対抗しうる妖怪の紅がいる限り、おまえの想うような世にはできない。だから、紅を燦界へと陥れたのか」
「だって、今こそ好機なんですれ。鵺という人間の悪しき想念が具現化し、数は増え、力も増しましたれ。その人間が生みだした鵺の力で、この世界をまだ豊かな自然があった頃に戻せばいいのですれ」
「それは鵺がこの世を支配するということだぞ。わかっているのか」
「わかっているですれ。それのなにがいけないのですかれ」
「鵺の支配した世界は、すべての意味がなくなる」
「この世に意味のないことはないと半助様は常々、」
「それは山神さまの支配する世界であるからだ」
 半助が顔を上げて半可を睨んだ。半妖の血がそうさせるのか、半助の眼は銀色に光っている。
 半可は怯えたように躰を震わせた。
「鵺が支配すれば、その世界はただの魔界となるのだぞ」
「魔界――」
 半可が息を呑むのがわかった。魔界と訊けば、それがどんなものかわからなくとも怖さがある。
「魔界が増えれば、ほかの世界に及ぼす影響も増える。この世が魔界になるなど、絶対にあってはならないことだ。だが、」
 半助はまた顔を伏せた。
「もう遅い」
 と云う声は、あきらめきった音をしていた。
「紅は、燦界へ行ってしまったんだ」
 俺を置いて。
 と、囁きうなだれた半助は、すねたこどものようだ。
「半助様――」
沈黙が重い空気となって肩にのしかかってくるようだった。それでも、彩は云わずにはいられなかった。
「紅は、知っていたんじゃないの」
 半可は身じろぎをしたが、半助は顔すら上げなかった。
 構わず、彩は続ける。
「だって、紅が半可なんかの嘘を見抜けないわけないもの」
 半可は急に顔を歪めてうなだれた。半可だって、わかっているのだ。
 燦界で紅に出会ったときのあの態度。紅は自ら、燦界へ入ったのだ。同時に、それを半助がわからないはずもないんじゃないか。
「半助だって、嘘だとわかっていたんでしょ。紅が燦界へ行こうとしていたこと、わかってたんでしょ」
 反応はないが、半助は彩たちが戻ってきたときに燦界からだと口走ったのだ。知っていたに違いなかった。知っていて、紅を止めなかったのだ。
 みんな、おかしい。
 自分がおかしいのか、みんながおかしいのか。絶対、おかしいのはみんなのほうだ。
「どうして。半助になら、止められたでしょ。なのに、どうして止めなかったの」
「止められるわけないだろ!」
 半助は怒鳴りながら、地面を叩く。
 彩は一瞬言葉を呑んだ。
「ちょーかっこ悪いよ、半助。全然うぇ~じゃない」
「俺がかっこ良かったためしがあるか。俺はただののんだくれだ」
「ちがうよ、のんべえでしょ」
「なんだっていい」
 彩は唇を噛んだ。
 のんべえだのくいしんぼうだの言い合っている二人が好きだったのに。もうあの日常は二度と戻ってこないのか。
「よくない!」
 彩は叫んで、半助にかけよるなり思い余ってその襟をつかんだ。
「半助はそれでいいの。紅と二度と会えなくなっても、それでいいの」
「仕方ないだろ」
 半助はものすごい力で彩の手を振りほどいて立ち上がった。
「だって俺には何もできないんだ。あいつに、俺がしてやれることは何もないんだよ。だったら、あいつの思う通りにしてやるしかないだろ」
「は、何云ってんの。何云っちゃってんの」
 彩も立ち上がって、半助を睨みあげた。
「そういうところがイケメンなのに残念なんだって、まだわかんないの。惚れてんじゃないの? 惚れてる女におんぶにだっこで、最後は言い訳? 思う通りにって何。本当に紅が望んであんなところに行ったと思ってんの」
「あんなところとはなんだ。燦界は、夢の世界なんだぞ。そこに行けば、紅はずっと願った世界の中に浸れるんだ。悪くはないだろ」
「だからそれがバカじゃないのって云ってんの。あんなところが、あんなところに、紅が一人でいたいわけないじゃん。紅、泣いてたよ。失ったものを見つめて、泣いてた。そんなつらいところに自ら行くのはなぜ。それはあなたが大事すぎるからでしょ。どうしてそれがわかんないの。半助、約束したんでしょ。紅と、約束したんでしょ。紅は、その約束果たせないことなんて知ってたんだよ」
 半助は目を見開いた。
「自分より半助が先に死んじゃうって、わかってて。でも、半助の側を離れないで、一緒にいてくれたじゃない。守ろうとしてくれたじゃない。それが半助は嫌だったのかもしれないけど、だからって、なにもかも紅のせいにしちゃうのはかわいそうだよ。だって、情けないのはあなたでしょう。決めたんじゃないの。やりたいようにやるって。それなのにまだ、紅のご機嫌とりなの」
「じゃあ他に何ができるって云うんだ。そうだよ。君の云う通り、俺は半妖であいつは妖怪だ。俺が死んでも、あいつはまだ寿命が何百年も何千年も残っている。それなのに先に死んでいく俺があいつに指図できると思うのか」
「そんなの関係ない。今でしょ。今が大事なんじゃないの。もうあなたの寿命は終わったの。違うでしょ。だってまだ生きているじゃない。ここにいるじゃない、半助は」
「でも直に終わるんだ。そこにあいつは居たくないと望んだんだ」
「違う。そんなことじゃない。紅は、まだあなたを守りたいんだよ。最期まであなたを守りたいんだよ」
 半助は口をつぐんだ。その間が、云わせてしまった。
「紅のお腹には、胎児がいる」
 場の空気が凍りつくのを感じた。
 親は必ず来る。あいつが必要なものを、私が持っている。と、紅は云っていた。
鵺が妖怪の紅を狙う理由は、紅の命ではなく、紅の腹に宿った胎児の寿命だ。
「申し訳ありませんですれ」
 半可は地に這いつくばるようにして半助に頭を下げた。
「取り返しのつかないことをしたですれ。やっぱりこんなことは間違っていたですれ」
 半助が目だけで半可を見た。半可の言葉がきこえているのかいないのか、わからないような顔をしていた。
 それでも半可は頭を下げ続けた。
「迷っていたんですれ。そこでやめておけばよかったんですれ。でもこれが正しいことだと自分に言い聞かせていたんですれ。それがこんなことになるなんて。本当に申し訳なかったですれ。半助様と紅様の子を使って、妖怪や半妖たちの住みやすい世界にしようだなんて、なんて畏れ多いことを考えていたんでしょうかれ。ほんとうにどうかしてたですれ」
「おまえは紅が子を宿していたとは知らなかったのだろう」
 半助は遠い眼をしたまま、平坦な声で云った。
 半可は目を泳がせた末に、率直に答えた。
「さっき、燦界で紅様に会ったときに気づいたですれ……」
「そうだろう。だが俺はそのときから気づいていたよ」
「え」
 言葉を失う半可に、半助は諦めきったような苦笑をしてみせた。
「俺は、紅も子も、見捨てたんだ。俺やこの世界が、守られるために」
 半助は、力のない眼を彩に向けた。
「そうさ。知っていたよ。あいつは俺を守りたいんだよ。だからって、そのために俺を利用するようなこと。胎児を、利用するようなこと。俺はそれが許せなかった。でも、それがあいつの望んだことだったんだ。だったら仕方ないだろ。他に俺にできることなど何もないんだ。あいつの望むことがあるなら、そのようにさせてやるのがいいんだ」
 大きな破裂音が鳴った。
 と思えば、彩の手がジンジンと痛んでいる。
 彩は、半助の頬を思い切り叩いていたのだ。だけど謝る気などさらさらない。
「許せないなら、なんでそう云わないの。紅のしたいようにさせてやるって? それが愛だとでも思ってんの」
 半助は殴られた格好のまま、蚊の鳴くような声で呟く。
「俺は、紅を愛してるよ」
「そんなの、小さな声で云う事じゃない! 第一、本当に紅のこと愛してるなら止めるはずだよ。間違ったことをしようとしてると思ったら、止めるはずだよ」
「俺だって止めようとした。だけど、あいつに頼るほかないだろ。紅とこどもを守るためだけに、この世を危険にさらしてもいいのか」
「それなら、あんたやこの世界を守るために紅と紅の子が犠牲になってもいいっていうの」
半助はきつく唇を噛んだ。
「私はそんなの絶対許さないから。そんなことされても嬉しくない」
「なら鵺はどうする。放っておけば、鵺は増える一方だぞ」
「そんなのはみんなでどうにかするべきことでしょ。鵺が生まれたのは人間たちの責任なんだから。第一、目の前の大事なひとも守れないようだから、みんながそんなだから、この世界がそんなふうになってちゃうんだよ。鵺だって、生まれちゃうんだよ」
 云いながら心が痛いのはなんだろう。耐えきれぬほどの罪悪感。この言葉が向けられているのは、たぶん、自分なのだ。
 彩は痛みに耐えながら訴えた。
「ぜんぶ言い訳なんだよ。半助が云っているのは」
 私が、云っているのは……。
「『今』を大切にしなきゃ、未来なんてないんだよ。何もしないで、夢みたいな未来だけが
来ることなんてないんだ」
 かつての私は、それを望んで間違ったんだ。
「過去は変えられないんだよ。どうあがいたって変えられない。だから今、間違っちゃいけないんだよ。諦めていいの。諦められるの。紅と二度と会えなくなって、本当にそれでいいの」
 うなだれた半助の顔の下に、涙が水たまりをつくった。
 痛いのは、彩だけではないのだ。たぶん一番痛いのは、半助なのだ。その痛みは、大切なことを報せてくれているのだ。だからそれを無視しちゃいけない。
「一度、立ち上がったじゃん。半助、かっこよかったよあの時。超うぇ~だったよ」
 半助の手が、地面の土を握りしめていた。その拳は、小刻みに震えている。
 確かに届いている。こんな私の言葉でも、届くのだ。
「云ったよね、半助。守るべきものも守れずに続ける命に、なんの価値があろうかって。それに、約束は守らなきゃ。これじゃあ、紅の側にいることにはならないよ」
「けどもう遅いんだ!」
 半助は土を握りしめた手で地面を叩いた。
「もう、燦界へ続く入口は閉じてしまった。今更、どうしようもない」
 彩は言葉を失った。
「でもなにか、なにか方法が」
 半助は首を振る。
「燦界は時界の中でもどの時界ともつながっていない閉ざされた世界なんだ。行きようがない」
「そんな……」
 本当に何ももう手立てがないのだろうか。
 紅は燦界に行ってしまったまま、こちらの世界の後のことは紅にゆだねるしかないのか。
「半鵺は」
 彩は閃いたように云った。
「半鵺はまだこっちにいるんじゃないの」
 彩がそういうと、半可がピクリと躰を動かした。
「そうだ。そういえばどうして私たちは紅のいた燦界へ入ることができたの」
 彩が訊ねても半可はうつむいたままだった。なにか隠している。彩はそう直感した。
「半可、知っていることがあるなら教えてよ。あんただって紅を助けたいんでしょ」
 半可は怯えたような顔で彩を見上げ、首を振った。
「私にもはっきりとはわからないですれ。でも、半鵺が燦界へ私たちを落としたとしか思えないですれ。だって、他に紅様が燦界へ行ったことを知っている人はいなかった訳だし。でも、そうすると訳がわからないですれ」
「訳がわからないって、どうして。半鵺も紅を助けたくて私たちを送り込んだんじゃ、」
 そこまで云って彩ははっとした。
 半可の小屋の側でのあのときの二人のやりとりを思い出したのだ。
 半鵺は、半可から無理やり何かを奪っていったのだ。その何かが、燦界へと続くクスリだったのだ。
 だとしたら半鵺もはじめから紅を陥れるつもりだったのだ。
 確かに、それなら半鵺が今更紅を助けようとするのはおかしい。だが半可のようにずっと迷いがあったなら、急に心変わりしたとしても不思議はない。
「半鵺から出てくる気にならなければ、彼を探すのは難しい」
 半助が云った。云って、それから何やら考え事を始めたようだった。
 顎に手をあて、銅像のように固まったまま身じろぎもしない。彩も半可も、半助のそのようすに期待した。今は半助の知識と知恵が頼りなのだ。
 だが同時に彩も考えていた。
 紅が燦界へ行く前の時まで戻れれば、紅を止められるのではないだろうか。ただそれをどうやるか。
 時間を元に戻すことなど――、彩は目を見開いて半助を見た。
 彼なら、できるではないか。
「半助、」
 呼ぶと、丁度考え事が終わったところのようで長い睫をゆっくりと持ち上げながら半助が彩を見た。
「半助の妖の力は、時を戻せるんだよね。だったら、紅が燦界へ行く前に――」
「無理だ」
 半助は彩が云い終わる前に首を振ってしまった。
「どうして、だって半助は時を戻して私の傷を治してくれたじゃん」
「わかりやすいようにそう説明したろうが、私の能力は時を戻すのではなく、時を置き換えるのだよ」
「時を、置き換える??」
「そう。彩の傷を治したのは、傷を負う前の時間の状態に時を置き換えたんだよ。けれど、それはまた別の時界から引っ張ってきたものであって、元の時界から戻したわけじゃない」
「ええと……つまり?」
「時は常に一定に流れている。その時を元に戻すことなど絶対にできないということだ」
「でも、私は未来から来たって、前に半助が云ってなかった?」
「未来ではない。進んだ時、だがそれは別の時界のことだ。そして、彩がそのここより進んだ別の時界からここへ来たのだとしても、それこそがもはや過去のこと。未来からきたということ自体がもう過去のことなのだよ。つまり、彩のいた時界自体はここより進んでいたとしても、それはここでは過去の出来事として処理されるんだ」
 それでも彩がわからない顔をしていると、半助は地面に平行に並ぶ矢印を何本か書いた。
「このように時流、時の流れはいくつも存在する。その流れ一つ一つのことを、時界と呼んでいるんだ。一つの時間の流れが、一つの時界なんだよ」
 半助は矢印と矢印の間に円を一つ描いた。
「この円は燦界だよ。これを見てもらばわかるように、燦界はどこの時界とも普通触れあっていないんだ。燦界ができるときだけ、どこかの時界と道が通じるが、一度口を閉じてしまえば二度とそこには行けないといわれている」
確かに、半助の描いた円はどこの矢印とも密着せず、離れ小島のようにある。それから半助は、一本の矢印の真ん中あたりを指さした。
「これが私たちの時界だとしよう。紅はこの時点から、この円、つまり燦界へ入った。彩が云うのは、この時点よりも前に行き紅が燦界へ入るのを防ごうというのだろう」
 彩は大きく肯いた。だが半助は残念そうに首を振る。
「ところが俺の力では、」
 半助は、指差していたのとは別の矢印の始まりのほうを指差した。
「別の時界の時へ戻すことしかできないんだ。それも戻すというよりは、新しい未来を産んでいるという呼び方のほうが近い」
「つまり、別の時界へ時を戻せば、そこからまた別の時界が始まるってこと?」
「そう、時流は無限に派生するからね。だから、俺が戻した時の中に紅がいる保証はないし、もし紅がいて、同じような状況を助けたとしても、そこからはまた別の時流、つまり未来がつくりあげられてしまう。だから、この時界の紅は燦界に閉じ込められたままなのだよ」
「そうなんだ……」
 うなだれる彩に、半助はごめんと謝った。
「そもそも、俺が置き換えられるのは物の時だけだ。時界の時を戻せるわけじゃない。そこもまた難しいのさ」
「そうなの。でも胎児は」
「形があればそれは物質だから、同じことだよ。ただ寿命はまた別であって、他の時界から置き換えるわけにはいかず、俺の寿命を与えるほかないんだ」
「星屑でなんとかならないですかれ」
 半可がすがるように云った。
「それを何年も研究しているんだろう。だが星屑も同じこと。別の時界に行けるだけで、結局は時を戻すことなどできはしないんだ」
 半可は諦めきれぬようすで息を吐き、再び考え始める。
 もう紅を助けだすことはできないのか。絶望に満ちた重い空気の中、ふいに半助が口を開いた。
「一つだけ方法がある」
 半可と彩は一斉に半助に注目した。
「鵺を使うんだ」
「鵺を――」
 半可と彩は顔を見合わせた。半可のほうが先にわかったようだ。
「鵺が、後ろ向きに飛ぶのを利用するんですれ」
「そうだ」
 半助が肯くのを見ながら、彩は鵺が飛ぶ姿を思い出していた。まるで逆再生しているような飛び方、鵺は時を遡るように後ろ向きに飛ぶのだ。
「あいつらは胎児の寿命を盗み、時流を逆に飛んでゆくことができる。その習性を利用すれば、」
「紅を止められる!?」
 息せき切って云う彩に半助は静かに首を振った。
「時流と時界とはまた違うんだ。物質の中を元に戻る訳ではなく、時流、あくまで流れのなかを逆流するだけで、そのなかの時界に関与できるわけではない」
「もうワケガワカリマセン!」
 彩はくしゃくしゃと髪をかきむしった。
 半助は苦笑し、だが俄に希望がみえてきた気がする。
「紅が燦界へ入ったときの時流へ鵺と共に移動し、その時点に開いている燦界へと入ればいいんだ」
 彩は顔を輝かせたが、半可が水を差すようなことを云う。
「そんなことできるんですかれ。燦界は、どこの時界ともつながっていないんだとさっき半助様が自らおっしゃってたではないですかれ」
 彩は苛立ったので半可のぽんこつ頭をグーで殴った。
「いったいですれ! なにするんですれ!」
「だから、つながってないのは時界なんでしょ。時流からいきゃあ、燦界に行けるってことなんじゃないの!? そうでしょ、半助!?」
 半助はケラケラ笑って、「そうだよ」と肯いた。
 胸が浮き上がるような感覚に満たされた。大丈夫だ。まだ、確かに希望はあるのだ。
「だが問題は――」と、半助はまたすぐに険しい顔をする。だがその表情は先程のように絶望が侵してはいない。
「どうやって鵺を捕まえるか。それも、胎児の寿命を喰ったばかりの鵺でなくてはならん」
 そうか。それを手に入れるのは、容易なことではないのだ。そもそも、半助としては胎児を守りたいのであろう。それをわざと見過ごして、利用するようなことはとてもできない。
「それなら、私のこの子を使って」
 彩がそう云うと、
「ダメだ」
 と、半助はこれまで見せたこともないような厳しい表情をして云った。
「そんなことを考えては絶対にダメだ」
「で、でも、みんなの役にたてるなら」
 半助は首を振って彩に近づき、腹に手をかざした。
「ここに宿っているのは命なんだ。一人の、もう人間なのだよ」
「わかってるけど……」
 紅を助けたいのだ。自分にできることなんて、これぐらいしか思い浮かばない。
「気持ちは嬉しい。けれど、この子は君を選らんで今ここにいるんだよ。それを、ただの物のように利用してはあまりにもかわいそうだと思わないか」
「思う……でも、」
「親が子を守らなくてどうするんだ。彩がさっき自分で云ったのだろう。目の前の大事なひとも守れないようだから鵺が生まれてしまうのだと。それに、」
 ひとはこんなにも優しい顔ができるのだろうか。そう思うほど、柔和な笑みをみせて半助は云った。
「この子は、この子の命を生きたがっているのだよ」
 ほんわりと、腹の中が温まった気がした。実感など持てないけれど、確かにここに自分以外の命が一つあって、それは、彩の中にいても彩のものではないのだ。奪う権利などない。まして、利用するなど――それを考えれば、紅のやろうとしていることは重大な過ちなのだとわかる。
「止めなきゃね、紅を」
「ああ」
 半助は彩の腹から手を放し、空を仰いだ。青空。雨はまだ降り続いている。
「まだ、大丈夫だ。俺たちは、夫婦でいられている」
 半助の独り言はあまりに悲しく胸に響く。
「まだ、じゃないよ。これからもずっと、夫婦だよ」
 狐の嫁入りというのだそうだ。
 晴れているのに雨が降ることを。この降り続いている雨は、紅と半助の結婚を祝福してくれているものなのだろうか。或いは――。
「試されているのかもしれないな」
 半助は天を見ながらそう云った。
「山神様に海神様、万物の神に、俺たちは試されているのかもしれない」
 半助や紅だけでなく、この世に生きるものたち。すべて、試されるためにこの世に生まれてきたのかもしれない。
「そうかもね。でも、それなら難しい試験だね。生きるってことは」
だれかのためにと思っても、それがすべて正しいわけではない。
「どうしたらいいんだろう」
 彩がそう云うと、半助はこちらをみて微笑んだ。
「辿り着く場所は一つでも、道はいくつもあるんだ。迷いながら進むしかないんだろう」
 半助の笑顔は人を安心させる。紅も、半助のそういうところが好きなんだろう。
「そっか」だが、そこで過ちを犯したらどうすればいいのか。過去は変えられない。それなら、今、からできることをしていくしかないのだ。
 たとえばそれは、だれかのために尽くすこと。
 甘えたり逃げたりしないで、自分にできることが何か、探すのだ。
「とにかく私は鵺を探す」半助が云った。
「まだおりますかれ」
半可が心配そうな顔を半助に向けた。
「いなければ鵺の親が消えたということだ。親が消えればその分身である子鵺もすべて消えるはずだからな」
「いてほしいと願うべきなのかれ、いてほしくないと願うべきなのかれ……」
「紅とてそう簡単には始末できまい。一度術を使えば、必ず回復の時間が必要なのだ。鵺といえども親だ。知恵も力もつけてきている。一筋縄ではいかんだろうな」
「そうですれ。それじゃあ、私も一緒に鵺を探しにいくですれ」
「いや」と、半助は首を振った。
「おまえと彩には他に仕事がある」
「なんですれ」
「命綱を頼みたい」
「命綱ですかれ?」
「燦界へ行くクスリを使わせてもらうよ」
「ああ成程」と、半可は手を打って、懐から薬籠を取り出した。蓋を開け、錠剤を二つ取り出す。こげ茶色をした真ん丸のクスリで、見た目からして苦そうだった。こんなもので、紅は別の世界へ行ってしまったというのだろうか。俄には信じられない話だった。だが現に紅はここにはいないのだ。鵺も姿を見せない。これは、現実なのだ。だから、何かに頼るのでは解決せず、自分たちで何とかしなければならないことなのだ。
「燦界は鵺の棲家ですかられ。そこに行けば絶対に鵺はいますれ」
「だが出られなくなっては困るからな」
 半助は手に刀を出し、その下げ緒を解いて半可に託した。
「口が完全に閉じてしまう前に出してくれよ」
「わかりましたですれ。思い切り引っ張るですれ」
「痛くない程度に頼むよ」
 半助はそう言い残すと、丸薬を手の中で割って、粉になったそれをフッと吹いた。粉塵の舞う中で、半助は真剣な眼差しで手に残ったクスリを見つめている。そしてさっと手を伸ばしたかと思うと、金の粒を取り出し口に入れて噛み砕き、地面に吐き捨てた。
 するとその金色は地面に落ちるなり朽ちたように黒くなって、すぐに蒸発するように消えていってしまった。
 半助は手にわずかにのこった白い粉だけを、懐から出した白い歯の上に乗せて巻き、口に銜えた。
 半助が息を吸う。それと同時だった。
 半助の姿は、目くらましにあったかのように跡形もなくその場から消えていた。
「いまの、なにしてるの」
 目を丸くしたまま、彩は半可に訊ねた。
「あの金色のものは鵺の巣に通じるのですれ。燦界とはもともと鵺の棲家であるですれ。その核に鵺はいて、あの金色のものは星屑を集めたものですれ」
「星屑って、鵺が消える時に出るものだよね」
「そうですれ。鵺の、命の源みたいなものですれ。それを砕けば、鵺の巣を壊せるですれ」
 半可は半助のいなくなった場所を凝視しながら喋っている。そこには、渦巻きのような穴が開いていた。グルグルを見ても、半可は唄い出すのを我慢してるようだった。躰が耐えきれず小刻みにビートを刻んでいるのはまあ、仕方ないだろう。
「半助様、うまく連れてきてくれるといいんですけれ」
「半助ならきっと大丈夫だよ」
「そうですれ」
 半可は急にしゃがみこむと、丸薬を地面に敷いた布の上にひろげてピンセットで何やらやりはじめた。
「なにしてるの」
「核を取り除けば、このクスリは時界内を移動することくらいならできるですれ」
「時界内をって、瞬間移動ってこと?」
「その云い方はいささか胡散臭いですけどれ、ようするにそういうことですれ」
 半可はてきぱきと、半助のやっていたのと同じ作業を繰り返した。
当たり前のように、そんなものすごいものを創ってしまうのだ。
「すごいね、みんな」
自然にそんな言葉をこぼすと、
「彩さんだってすごいですれ」
 なんて意外な言葉がかえってきた。
「は、なにが」
 半可は作業する手を止めて、彩を振り返った。だが不意に目が合って照れたのか、半可は顔を赤らめさっとまた向こうを向いてしまった。もう作業する手しかみていない。彩もその半可の手を見ていた。
 細身だと思ったのに、意外とたくましい胸に力。でも、指は綺麗だった。細く長くて、器用そうな指だ。作業に集中しながら半助のことも忘れていない。ちゃんと命綱となる下げ緒は握っていて、油断なく燦界の入口も見ているのだ。
「すごいですれ。自分を貫こうとするところとか」
 半可は作業を進めながら云った。
「ああ。我儘ってこと」
「そうは云ってないですれ。でも、同じことですれ」
「ばかにしてんの」
「ばかにしてないですれ。邪魔しないでほしいですれ」
 彩は半可の隣にしゃがみこんで、半可の作業する手を見つめた。
「見てるだけでも邪魔になる?」
「緊張するですれ」
「でも、私は見ていたい」
「そういうところが、」
「我儘なんでしょ。わかってるよ」
「あ、いやでもそれが悪いというわけでは、」
 半可の慌てぶりがなんだか可愛くて、彩は思わず半可に接吻をかましていた。
「キャアアアッ」
 こともあろうに、半可は女の子みたいな悲鳴をあげてものすごい速さで後退りしたのである。
「なな、な、ななななにをするですれ」
「そんなに怖がらなくてもいいんじゃないの!?」
 これはさすがに気分が悪い。キスをして男にそんな反応されたのは初めてだ。
「だだ、だだだ、だだだって、だって」
「もしかして、千云歳とかいいながらファーストキス?」
「ちがうですれ」
「へえ、ちがうんだ」
「ち、ちがうですれ。ち、ちがうって、ちがうですれ」
「まあ、どっちでもいいけど」
「どっちでもいいって。それはなんかおかしいですれ。なんでこんなことしたんですれ」
「なんでって、したかったから」
「したいって、したかったら誰とでもこういうことするもんなんですかれ」
「まあ、今まではそうだったけど」
 半可は開いていた口を閉じた。それきり何も云わない。
 半可との間にあいた二メートルほどの距離。それがなんだかものすごく遠いもののような気がした。
 だがそれも仕方ない。
 半妖たちは皆純粋だ。そんなひとたちから見たら、私なんてすごく汚れて見えるに違いない。
「私は、そんなのはいやですれ」
 半可の言葉に、うなだれていた彩は顔をあげた。
「いや?」
「人間はそうなのかもしれませんが、私は、軽々しく、その、接吻は……」
 半可は顔を真っ赤にしていた。でも、云わなきゃいけないと、振り絞るような声で云う。
「好き合っているひととしかしたくないですれ」
 そこで受けた痛手が予想外に大きくて、彩は一瞬言葉が出なかった。
「えー、いまどきダサくない?」とか、普段なら軽く流せるのに。
 ショックだった。
 傷ついて、今更半可のことが好きになっていた自分に気づくなんて。
「そだね。よくないよね」
 そんな小さな声しか出なかった。これじゃあ、傷ついたとわかってしまう。こんなこと、考えている場合じゃないのに。
 明るく、振る舞わなきゃ。
「ああ、悪かったって。ちょっと魔が差したの。それよりほら、作業進めないとでしょ」
 彩は無理に笑おうとしたが、顔がひきつってうまく笑えなかった。誤魔化すように丸薬を見下ろす。
「あと、何すればいいのコレ。へえ、中ってこんなふうになってるんだね。こんなので他の世界に行けるなんてすごいね。これがあれば、こんな世界にいなくて済むんだ」
 私を受け入れてくれることのない世界。絶望や悲しみばかりが充満する世界。無関心がはびこり、自分勝手な人間ばかりが支配する世界。争いばかりで愛を忘れた空間。そこから抜け出したくて私は――。
「彩さん!」
 彩ははっとした。
 気づけば丸薬を砕いた中に残っていた金の粒を手にとっていた。その手を半可が強くつかみ、金の粒を取り上げると噛み下いて吐き出した。
「だめですれ。これは夢を見させる魔草ですれ」
 彩は、まだぼんやりとしたまま半可を見つめた。
「夢? 夢をみることが、どうして悪いの」
「夢を見ることが悪いのではないですれ。夢の中に溺れてしまうのが怖いのですれ」
「溺れる……」
「溺れれば精気を根こそぎ鵺に奪われ、枯れて死んでいくですれ。夢とは理想であり、だけれどその理想をこの世で叶えることは容易なことではないですれ。だからひとは一足飛びに理想にたどり着けるこの夢の中に浸ってしまうのですれ」
「だけど、私の理想はこんなものじゃなかったはずなのに」
 半可が目を見開いて彩の肩をつかみ、正面から顔を見据えてきた。
「彩さん。燦界へ行ったのですかれ」
「行ってない。でも、行ったのかもしれない」
「いや、行ってないですれ。行けば肉体も共についてゆくものですれ。でも、彩さんはここにいるですれ」
「だけど私は――」ぼんやりとした頭の中に、うっすらと蘇ってくる記憶がある。
 十二より前の記憶。
 その中に、理想をひたすらに求めていた自分がいる。
 こんな世界に生まれてきたかった訳じゃない。人々が争い血を流し、かと思えば自分以外には無関心で『愛』など廃れてしまった世界。そこにいることが耐えられなくなって、どこか知らない世界へ逃れることばかりを考えていた。
 そうして、出会ったのだ。
 望んだのは白馬の王子様で、だが実際に出会ったのは、あの悍ましい黒い鳥だった。

 ――思い出した。全てを――。

 突如、何もないところから半助が現れて彩は目を瞠った。
 半助は勢いよく背中から地面に激突し、痛みに呻きながらも立ち上がる。彩たちを見つけるなり、「ごめん」と云った。
 何が。と思う間もなく、半助を追うようにしてたった今思い出したばかりのあの姿をした黒い鳥が現れたのだ。
 鳥、といっても、胴は獣のようだった。
 頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎、そこに黒い大きな羽が生えている。
「ひっ、まさかこれは親ですかれ」
 半可が震えながら云った。
「いや、親の姿に進化をした子の鵺だ」
「ひぇえ、分身までもこんな姿に」
「厄介だが、少なくともまだ紅たちは無事ということだ」
「そうですけど、狩れるですかれ」
「やるしかないだろう」
 半助の眼が俄かに銀色に光る。手の刀まで光ったような気がした。それは気のせいではないだろう。
 鵺が半助めがけて跳びかかってきた。半助は鵺の躰を飛び越え、背後に回ってその背を斬った。しかし鵺はその瞬間に再生する。
「まずい、斬れば時を使われてしまうな」
「再生させないように狩らないとダメですれ」
「俺は浄化できんぞ」
「私だってできないですれ」
「やってみるしかない。時を無駄にしたくない。半可、手伝え」
「わかりましたですれ」
 半助と半可は白葉を銜えて、鵺を避けつつ呪文を唱え始めた。
 わずかな金と白の混じりあったような光が、網の形となって鵺をとらえようとする。だが鵺が一つ羽ばたけば、それは容易に破られてしまった。
 そのうち半助が膝を落としてしまった。激しく肩で息をし、刀を杖に躰を支えてはいるものの立ち上がることすらできないようすだ。
 だが鵺はすぐに半助にとどめを刺そうとはしなかった。動けるようになるのを待っているかのように見えるのは、気のせいか。
「半助様」
 半可が半助に駆け寄って守ろうとした。
 鵺が二人に迫っていた。後ろ向きに飛んできた鵺は、二人の直前で一回転し、その鋭い嘴で二人を――。
「待て」
 彩は叫んだ。
 思わず、叫んでいた。
 そしてその声で鵺はピタリと止まるのだ。
 半助と半可が目を瞠って彩のことを見た。
 消えてしまいたかった……。
 足がガクガクと震えた。私の思い出した記憶は、紛れもない、事実だったのだ。
 だが今はまだそれは云えない。
「紅のいる燦界へ行きたい」
 彩は、空に止まったままの鵺に向かって云った。
 鵺は肯くようにして首をうなだれ、背にのれと合図した。
 驚いている半助と半可をうながし、彩も共に鵺の背に乗った。そして、「行け」と云えば鵺は命ぜられた通りに時流を進んで燦界への扉まで導いてくれる。
 その、星空を駆け抜けるような時流の中の旅を、彩は前にも経験したことがあったのだ。
 それは一瞬のことで、だが、その一瞬の後には取り返しのつかないこともある。
 鵺は、開いた燦界の入口から彩たち三人を投げ込んでまたどこかへ飛んで行ってしまった。もともとは気ままなただの鳥だった。魔物なんかではない。
 なんだって、生まれたときから『悪』なものなどないのかもしれない。
 二人は事情を知りたいようだったが、彩に訊ねる間もなかった。
 そこはすでに鵺に覆われた世界と化していたのだ。
「ここが、本当にさっき紅のいた場所?」
 自分で命じてきたにも関わらず、彩は見ているものを信じることができなかった。
「そうですれ、間違いないですれ」
 半可は顔をしかめてその惨状を見ていた。
 空を黒に染めるほどの鵺が飛び交い、地上は地上で鴉の大群のように田畑や建築物までもを食い散らかしていた。
 そこにただ一つ紅い色がある。
 紅は独りで、泣き叫んでいた。
「やめろ。これ以上、私の世界を荒らすな」
 彩もかつて、同じようなことを叫んでいた。
「これ以上、私の棲家を奪わないでよ。私の大切なものを」
 泣き崩れる紅に、半助がたまらぬようすで駆けだした。
 肩を抱くも、紅は半助のいることにさえ気づかないようすだった。うつろな目をして、うわごとのように「やめて、やめて」と繰り返している。
「紅、しっかりしろ紅。ここは燦界だ。身を委ねるな。鵺に喰われるぞ」
 紅――。
 半可はそこから一歩たりとも動けないようだった。彩も同じだ。身がすくんでしまって、自分の躰が自分のものでないようだった。だが行かなきゃいけない。助けなきゃいけない。
 だってこれはすべて自分の責任だ。
 鵺を、連れてきたのはこの私だから……。
「紅。ごめん」
 彩はようやく歩きながら、紅に近づいていった。
「紅、ごめんね」
 彩は紅の側にひざまずき、その手をとった。驚くほど冷たい手をしていた。とても、紅の手とは思えなかった。こんなに紅を辛いめにあわせてしまっているのは、すべて、すべてじぶんのせいなのだ。
「私が――」
 声が震える。思うように口がまわらない。喉が開かない。でも、云わなきゃいけない。
「私が、鵺を連れてきたんだ」
 半助は驚いたようだったが、どこか、勘づいていたように落ち着いていた。
「どういうことだ、彩」
 彩は目を伏せ、意を決して語り始めた。思い出したことを。
「私は別の時界から来たの」
「それは知っているが、それがどうして鵺と関わりがある。鵺は、この世界の悪念が生んだ魔物だぞ」
「その鵺は、私のいた時界ではじめ生まれたんだよ。私のいた世界は、希望などなにも持てない世界で、絶望に満ちていた。鵺が、こんなふうにたくさんいた。でも、それでも人間は他人に無関心で、鵺のいることにだって気づきはしない。人間には、鵺の姿が見えないんだよ」
「彩には見えたのか」
 彩はこくりとうなずいた。
「それはどうしてだかわからないけど、でも、鵺の言葉もわかった。そして、まだ幼かった私は、よく考えもせずに鵺の口車に乗ってしまったんだ」
「それはおかしい。鵺が知恵をつけてきたのは最近だ。鵺は本能で生きている魔物だ。ひとを陥れるような知恵など、そのときに持っていたとは考えられない」
「或いは、私が望んだことだったのかもしれない」
 半助は息を呑んだ。
「――それなら、ありえない話ではないが、」
 彩は、少し苦笑いをした。
「私は、強く望んでいたの。ここから出してって。こんな世界から出してって。だから、契約をした」
「契約――。まさか、血の契約」
 彩は肯く。
「鵺が契約を交わしたのは私。私をこの時界へ送るのと引き換えに、鵺は私の知恵を得たの」
 半助は、顔をしかめた。
「鵺と交わりをもったのか」
 彩は、ためらいながらも肯いた。
「霊体の交わりだった。子が、産まれるなんて思ってもみなかった」
「まさか……半鵺」
「え」
「そうだ。それしか考えられない」
 半助は時折向かってくる鵺を刀でけん制しながらも、深く考え込んでいるようだった。
「霊体が先に鵺のほうから生み出され、肉体は今になって彩の躰に宿ったというのか」
 半助は云って、鵺を斬りさきながら首を振る。
「いや、違うな。その時から宿っていたのだ、半鵺は。だが、魂が霊体と共にいるから、肉体の時が止まったままなのだ」
 彩は驚いていた。そこまではわからなかった。
 まさか、あの半鵺が自分の子だというのか。それも、鵺との間に生まれた、自分の子だと。
「俺は鵺を斬るぞ」
 しばらく黙っていた半助が、決心したように云った。
「すまぬが、鵺は斬らねばならない」
 すぐには肯けなかった。鵺をどのように捉えたらいいのかがわからなかった。
 鵺に初めてあったとき、期待で胸が膨らんだ。一体どんな素晴らしい世界へ連れて行ってくれるのだろうと。ところが生まれ出た場所は、同じように腐敗した世界だった。そうだと思っていた。けれど違ったのだ。それは自分の眼こそが腐っていたからで、本当は、綺麗なものなど探せばあちらこちらに落ちているのだ。だけど、誰もそれに気づけなくなってしまっているから、世界は腐敗したように見えるのだ。
 この世界に来たかったのは、鵺自身だったのかもしれない。それは、知恵ではなくて、本能で。
 だから、善悪でいえば、それは惡ではないのかもしれない。けれど、善でもないのだ。
 鵺が知恵をもった今、それは確実に悪なのだ。
 鵺を放っておけば、この世を魔界にされてしまう。
 半助が学んできたことは、間違っていなかったのだ。
「斬って。鵺の親を斬って」
 彩はすがるように半助に云った。半助は力強く肯く。
「だが親が見当たらない」
 半助は倒れこんだままの紅を守るようにしながら辺りを見回した。確かに、先程のような妙な形をした鳥はいなかった。
 記憶を取り戻しても、鵺の考えがわかるわけではない。
 半鵺が何を考えているかだってわからないのだ。そう都合よくはいかない。
「紅の胎児は、」
「まだ無事だ」
 本当にあの紅なのかと思うほど、紅は弱り切ってしまっていた。とても見ていられない。でも、そんなふうにしてしまったのは自分なのだ。だからしっかり向き合わねばならない。
 彩は紅の両肩をつかんだ。
「紅。ねえ、鵺の親はどこにいったの。まだ現れていないの」
 紅は力無くうなだれたまま答えない。まるで人形にでも話しかけているみたいだ。
「ちょっと、無視すんなよ。ねえ、紅」
 反応はない。
「ドブス」
 彩がそう云うと、半助はぎょっとしたようだったが、構わず彩は続ける。
「このドブス。あばずれ。でべそ。すっとこどこい。おたんこなす。オヤジ。足くさ。まきづめ」思いつく限りの悪口を並べ立てると、紅の耳がヒクリと動いたような気がした。
「ほら、半助」
 促すと、合点がいったような顔で半助は「くいしんぼう」と云った。
「だれがくしんぼうだ」
 ギロリと、光の宿った眼で紅が半助を睨みつけた。
「紅! ふぎゃっ」
 折角喜んでだきついたのに、彩はその脳天にゲンコツを落とされてしまった。だがその痛みも嬉しい。
「いつもの紅だ」
「だれがあばずれだ。私はでべそじゃないし、足も臭くない!」
「ふぎゃあっ」挙句蹴られた。私は妊婦ではなかったろうか。
「ったく、みんなしてこんなところで何してやがる」
「なにって、助けにきたに決まってんだろ」
「余計なお世話だ。これじゃあ私の計画がだいなしじゃないか」
「計画ってなんだよ。燦界に完全に呑まれていた癖に」
「うるさいぞ。鵺が来ればそれでいいんだ」
「けど、親もおびき寄せられてないじゃないか」
「おまえらの眼は節穴か。そこいらにいるじゃないか」
「そこいらって」
 彩は半助につられてごくりと唾を呑みこんだ。
 鴉のように見えたあの小さい鵺どもがすべて親だというのか。
「よほど私に恨みがあるらしい。イイ夢も見させないってよ」
「それで、燦界を食い荒らしているのか」
「お陰で悪夢だ」
 紅は苦笑いした。そんな表情一つもなんだか嬉しい。
「大きいの一つと小さいの沢山と、どっちがやりやすいか考えてみろ」
「大きくても一つのほうが楽だね。ただし、それは独りで相手をするならだろ」
「まあな。私だってみすみすこの子の命を渡す気はないんだ」
 紅がそういうと、半助は少し戸惑うような表情を見せた。それに気づいて、紅が照れ隠しのように笑う。
「もう知ってんだろ」
 半助は憮然として答えた。
「知ってるよ。我が子を囮に使おうだなんてな、最低だよ」
「だからとられる気はないっつってんだろ。おまえもしつこいな」
「その保障はないだろ。さっきだって危なかったじゃないか」
「危なくない!」
「危なかった!」
「大丈夫だっていってんだろ」
「なにいってんだ。こんな眼して」
 半助はさっきの紅のうつろな目を真似てみせる。
「ふざけんな。だれがそんな顔してたか」
「してました。ばっちりしてました」
「るせえっ」
「ちょっと!!」
 と、二人の喧嘩を止めに入ったのは意外にも半可だった。
「喧嘩してる場合じゃないですれ。いいかげんにするですれ」
 気づけば、鵺の全てがこちらへ注目していた。
「ほら、バレちまったじゃないか」
「バレたってなにが」
「まだ力が戻ってないんだよ」
「それじゃあ、」
「燦界に染まったふりして、力を蓄えてたんだ」
「へえ」
「ほんとだ!」
「ふりをしようとして、ほんとに染まってしまってたんだろ」
「ほんとにしつこい!」
「じゃあ違うのか」
「ぐ」
 さすがに呆れる。
「喧嘩なんてしてる場合じゃないでしょう。もうどっちでもいいから、なんとかしないと」
 彩が云うと、半可は青ざめたような声を出した。
「そういえば、どうやってここから出るんですれ。鵺を倒せたとしても、そうしたら時流にはもう乗れないですれ」
「さて、それは鵺を倒してから考えようか」
 半助は刀を構えて云った。顔には真剣なものが戻っている。
「紅が充分に術を使えないんじゃ、 かなり苦戦するよ」
「おまえらはひっこんでろ。これは私の仕事だ」
「いやだ」
「半助!」
「いやだと云ってるんだ」
 半助は紅を振り向くなりいきなり接吻をかました。
 紅は目を見開き、顔を赤らめた。普段の言動からは想像もつかないような少女の顔をして、目を白黒させて半助を見つめている。
「おまえはバカじゃないのか」
 半助は再び刀を構え直しながらそう云った。
「妻と子を守るのは男の役目と、昔から決まってるんだよ」
 紅は、顔を赤らめたまま嬉しそうにちょっと笑った。
「古臭いな」
「古き良き風習だ」
「大丈夫なのか――」
「あといくばくもない命だ。おまえぐらい守れなくてどうする」
 紅はその言葉を噛みしめるように聞いて、肯いた。
「気を付けろよ。鵺の親はまだ本体をどこかに隠していやがる。力を削いで、おびき出すしかない」
「わかった」
 半助は鵺に向き合う。
「俺は小さいほうがやりやすいな」
 そう云って笑みを浮かべると、半助は鵺の中に飛び込んでいった。飛び込みつつ、人間ではありえない速さで次々と鵺を斬っていった。
「ほら、あんたも行きなさいよ」
 彩は震えて立ち止まったままの半可の背を蹴飛ばした。
「ひ、ひいい。こ、こわいですれー」
 半可は悲鳴をあげつつも、周りの瓦礫やら石やらを利用して鵺を退けていった。
 蠅の横切るような音がしたかと思うと、一瞬彩と紅の周りに薄い膜が見えた。
「結界を張った。私は少し休む」
 そういうなり、紅がもたれかかってきたので彩は驚かされた。
 その重みは、今まで感じたことのないものだった。彩の両腕には今、支えなければいけないものがあるのだ。彩が口を開こうとすると、それを察したように紅が云った。
「おまえの責任ではないからな」
 鵺をここへ呼んだことだ。
「でも、」
「出会いは宿命だ。おまえは来るべくしてここに来たんだよ」
「まさか。だって私はこの世界のことなんて何も知らなかったんだよ」
「だが神は一つだ」
 神は、一つ。
「万物の神あれど、大元の神は一つさ。その神が、すべての時流を支配してるのさ。そして、鵺の正体は神さ」
 彩は耳を疑った。鵺が神だのと、紅は何を云いだすのだろうか。だが紅は正気だった。冗談を云っているわけでもない。
「どういうこと」
「すべてに光と影がある。表と裏だ。鵺は、神の影の部分であり裏なんだよ」
「裏……」一瞬それがどういうことなのか。どう考えてよいのかわからなかった。だが鵺がすべての時流を支配する神そのものであるのだとすれば、どの時流へも行き来できる鵺の性質はつじつまがあう。
「だからさ、」
 と、紅は顔を歪めながら身を起こし、云った。
「鵺はどの時界にもいるものなんだ。それが育つか育たないかは、その時界の波長次第さ。波長はそこに住む知恵を持った者たちが作る。私たちの時界でいえば、妖怪や人間だ。そして神は、影を濃くしたいとは思っていない。むしろ、影を消したいと願っているんだ。そうでなければ、山神様を通して、私たちにこのような任を与えはしないだろう」
「私の、せいじゃないのかな。こんなふうになってしまったのは。紅たちを、こんなに苦しめてしまっているのは」
 彩がそう云うと、紅はそれを笑い飛ばした。
「そんなふうに考えるほど妖怪は落ちぶれちゃいないよ。そもそも、長い寿命を与えられているのは、それだけ未熟ってことさ。それを克服するために、こうしていくつも試練が与えられる。生きているうちにそれらを乗り越えて成長しなきゃならないんだ。けど、その試練から私は逃げてばかりいた。だから、同じような辛い目に遭うんだろうな」
 でも、
 と、紅は彩の顔を見て朗らかに笑った。
 それを見て、やはり妖怪と人間とは違うと感じさせられる。心の広さは、池か海かほどちがう。
「やっと立ち向かわなきゃいけないんだと覚悟が決まったよ。おまえのおかげだ」
「私の? 私、なにもしてない」
「よく云うよ。散々ズケズケもの云いやがったくせに」
「それが、役に立ったの」彩は目を丸くした。
「あいつらは私に遠慮するからな。半助も結局は折れる。だから面と向かって物を云われたことは新鮮だった。それに、ひとのふりみてわがふり直せってな、人間がよく云うだろ」
「なにそれ、どういう意味よ」
「類は友を呼ぶってことさ。私はおまえを見て、自分の欠点がよく見えた。だから、糞生意気なおまえにも感謝してるのさ」
「なんか嬉しくないんですけど」
「嫌味が半分混じってるからな」
「感謝してるなら素直に礼くらい云えばいいでしょ!」
「それじゃあつまらないだろ。折角心は見えないんだ。探りあったほうが面白い」
「変なやつ」
「おまえほどじゃない」
「ああいえばこういう!」
「さあ、休憩は終わりだ。そろそろ交代だ」
 紅はそういうと立ち上がる。
 パリンと音がすると、風が吹いてきて紅の着物を翻した。風になびく、紅く長い髪がまるで夕焼け空のように輝いて見えた。そういえば、ここには日がない。
「私のはきかないのかな」
 訊かずとも無理だと感覚が教えてくれていた。
 案の定、紅は「無理だな」と答えた。
「おまえが交わした契約の内容は、この時界にくるところまでだろう」
「でも、さっきは鵺にここまで連れてきてもらえた」
 紅は眉をひそめて少し考えてから、フッと笑った。
「そりゃラッキーだったな」
 彩は顔をしかめる。
「ラッキーって」
 そこに、貉姿の半可が必死の形相で逃げてきた。
「紅様、もうもたないですれ」
 紅は足で半可をひょいと蹴り上げた。それが彩のほうに飛んでくる。
「落とすなよ」
「えっ」
 彩は慌てて半可を抱きとめようとしたが、ぼうっとしていたので反応が遅れた。
「ひぎゃあっ」なんとか尻尾をつかんだが、結局半可は顔面を地面に強打した。
「ひどいですれ、二人とも」人間の姿になった半可は鼻血を垂らしていた。
「悪い。目を離すわけにいかないんでな」
 紅は真剣な表情で前を見ていた。その向こうでは、鵺の群れが一塊の黒い小山のようになって、中心へ向かって渦を巻いているように見えた。そこに半助がいるのだろう。鵺は半助に襲いかかっては次々に斬られているのだ。だが一瞬その渦の動きが速くなったような気がした。と同時に、紅が飛び出していた。
 あ、と思うときには既に紅は鵺を蹴散らしていた。
 鵺は紅から距離をとるように道を開けていく。そして、開けた視界の先に、息を切らして座り込む半助の姿があった。
 紅は半助の前に立つと、いつか見たように白葉を撒いたものを口に銜え、目を閉じ呪文を唱える。
 光の術だとわかった。辺りがまばゆい金色の光に包まれたかと思うと、そこにいたすべての鵺が蒸発するようにして消えていった。
 朝靄のような黒い霧が徐々にはれていく。その中で紅は意識を失ったように崩れた。
「紅」
 半助が呼びかけた。彩も半可もほとんど無意識に紅のもとに駆けつけている。
「まだ終わってないぞ」
 紅は無事だった。その姿を見て彩はほっとするが、だがまだ終わっていないとは不穏な言葉。
 半助に抱きかかえられた紅の視線が半可と彩の間を抜けて、その背後のものに向けられた。
「ようやくお出ましか」
 紅はそう云って笑うが、彩は振り返ってその姿を見るなり表情が強張るのを感じた。
「半鵺――」
「光の術を使われては困りますからね。紅様が力を使い切るときをずっと待っていたのです」
「どういうつもりれ、半鵺。この期に及んで、紅様を裏切るのれ」
 半鵺は冷ややかな目で半可を見た。
「裏切るも何も、私ははじめからあなた方の味方をした覚えはありません。私の半分は、鵺なのですから」
「そんな――」
 半鵺は突然消えた。
 と思うと、目の前にいて半可は蹴り飛ばされ、半助は何某かの術で弾き飛ばされた。
 半鵺は側にいる彩の方は見向きもしなかった。或いはわざと見ないのか。
「あなたは害にならない」
 言い訳のように云って、半鵺は姿を変えた。頭は猿、胴はたぬ、手足は虎、尾は蛇という姿だった。その背からは黒い羽が生えている。
「胎児の命をもらいます」
 擦れたような声はまだ声変わりしきれぬせいなのか。違う気がした。
 紅は、動けないのか動かないのか、身じろぎもせず、ただうっすらと笑みを浮かべたまま半鵺を見ていた。
 半鵺が大きく息を吸った。
 同時に紅の顔が大きく歪む。
「紅!」
 彩は紅を守ろうとその躰に抱き着いたが、紅の胎児の命はすでに半鵺に吸い取られはじめているのだとわかった。
 どうすることもできず、気づいたときには半鵺の手に、光の玉が握られていた。
 紅はその場に力を失ったように倒れ、そのまま動かなくなってしまった。
「頂きました」
半鵺はその光の玉を掲げた。
「親鵺様。ここにあなたの欲しい物があります。もう用心はいりません。出てこられてはいかがですか」
 半鵺の呼びかけに答えるように、闇が辺りを覆い始めた。彩は身震いして、一瞬にしてその場の空気が真冬並みに冷えていることに気づいた。
「それをよこせ」
 風の唸るような声だった。それが聞こえたかと思うと、黒い空が動いて、半鵺の掲げた光の玉をさらっていこうとした。
 が、そのときだった。
「闇明中清還以我焔」
 紅の低くもよく通る声が響いたかと思うと、親鵺がとりこもうとしていた光の玉が弾けたのだ。
 目を開けていられないほどに強い光に辺りが包まれ、次に見た光景は息を呑むほど――美しいものだった。
 青々とした山裾が広がり、目の前には小川がさらさらと音をたてながら流れている。水は清く、透明で、彩の座っている河原の石も白く清らかだった。日の光は神々しく辺りを照らし、水のせせらぎはまるで目に見えぬ精霊たちの歌声のように響いていた。
 ふと、水際に岩にひっかかるようにして川に流されている半鵺の姿が見えた。彩が気付く前に、半助が半鵺を抱き上げていた。
 紅も近づいて行き、心配そうにその顔を覗きこむ。
「耐えきれなかったか」
 紅が呟くのとほとんど同時に、半鵺の躰は蒸発するように消えてしまった。
 人一人消える瞬間のあまりのあっけなさに、彩は茫然としていた。しかもそれが自分の子であると、頭では理解していても心のほうがついていかなかった。
 けれどこれが現実なのだ。ひとは案外あっさり死ぬ。それは誰でも一緒で、どうでもよい者も愛しいひとも皆、死を隣に置いている。その死がいつ手を伸ばしてくるのか、せめて分かればよいのに。そうしたらこんな、いきなり心の一部が抜け落ちたような虚しさを味わわなくてすむ。
「死んじゃったの」
 声から先に出ていた。頭の理解がそう云わせて、心は少しずつその現実においついてきていた。
 半鵺は、死んでしまったのか。
 半助が振り返って首を振った。その顔は、彩を励ますようにほほ笑んでいた。
「半鵺は、宿るべき場所に帰ったんだよ」
「宿るべき場所」
 彩の手は自然と自分の腹にあてられている。トクントクンと、だれのものなのか鼓動が聞こえる。それは気のせいではなく、ほんものの生きるために必要な営みの音だった。
「半鵺が親鵺に掲げて見せたのは、自分の魂だよ」
 紅は痛みに耐えているかのように、うつむいたまま云った。
「あいつは、自分の魂を出しておいて私に術を使えと云ったんだ。そんなことすれば消えてしまうのに」
「それじゃあ」と、半可が顔を歪め、近寄ってきた。「半鵺はやっぱり紅様を助けようとしてたんですれ」
「ああ」紅は彩を見た。「おまえたちをここへ運んだ鵺は半鵺だ」
「え」
「半鵺は、鵺だ。鵺には血の契約がある。それには、どうしたって逆らえない。けど半鵺は意思を持っていた。だから必死で潜在の意識と闘っていたんだ」
 半可が鼻をすすった。
「私が悪かったんですれ。燦界へ逝くクスリなんて創ったから」
「半鵺にたのまれたことだろう。半鵺も心が鵺に支配されているときには私と私の子の命を狙っていたさ」
「そうだったんですかれ」
「影中に鵺がいると云い、鵺を狩っている最中に地上にあいつが出てくることがあった。そうなっては私は光の術を使えないからな。かと思えば、私たちを命がけで助けてくれることもある。今度だって、あいつは私に時界を超えられるクスリだと偽りあの燦界へのクスリを呑ませようとした。だが、いざ私が飲もうとすればあいつはそれを取り上げようとする。でも、私は無理やりそれを飲んだんだ。私は、初めから鵺を燦界へおびき寄せてそこにとじこめてしまうつもりだった。そうすれば、万一子の命が奪われても、時界は守られる。けど、まさか皆ここにきてしまうとはな。誤算だったよ」
 紅は苦笑した。
「半鵺も途中で気づいたんだろう。私がしようとしていることを。だからおまえらを寄越し、止めようとした。だが私は親鵺を狩るまでは諦めないつもりだった。半鵺はそれを知って、一芝居うったんだ。自分を犠牲にしてな」
 紅は深い、ため息をついた。
 伏せた瞼に、長い睫が下を向いていた。
「大切にしてやってくれ。その子を」
 紅はこちらを向かなかった。
「彩の腹に宿る子が、息吹を始めるのを楽しみにしているよ」
 だけどその子は、半鵺であって半鵺ではないのかもしれない。
 確かに魂は半鵺のものであるのかもしれないが、彩の肉体を借りて生まれてきた子は、霊体だけで生きていた半鵺と同じになりようがない。
 時は二度と元には戻らないのだ。
 でもだからこそ救いもある。
 積み重ねてきたものはすべて、無駄にはならない。だから時は守らねばならないのだ。
 
 それはあまりに突然のことで、彩にはしばらく何が起こったのかわからなかった。
「危ない!」
 そう紅が叫んで、気づいたときにはすべてが終わっていた……。
 

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