三界の棲家

九影歌介

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 突如大きく伸びあがった黒い巨大な影が、鵺となって襲い掛かってきたのだ。その巨大さは山かとおもうほど。
 どうしようもなかった。
 紅が皆の楯となるために両腕をひろげた。その躰が急激に光りだすのを見た。
 だが術は間に合わなかったのか、紅は闇の中に呑まれてしまったのだ。
「紅!」
 半助が叫ぶのと同時に、闇が霧散する。
 そこには何事もなかったかのように立つ紅がいて、だが髪が白い。そして次の瞬間、紅は頽れたのだった――。
 すんでのところで半助が紅の躰を支え、素早く紅の腹に手を当てていた。
「やめろ」
 半助の手から光が洩れていて、それが続くうちに半助の髪がどんどんと白くなっていく。
「いやだ、やめろ」
 紅が泣くような声で云った。
「やめない」
 半助は歯を食いしばりながら、紅と紅の腹に宿る二つの命へ寿命を注ぎこみ続ける。
「どうして。お願いだよ、やめて」
 紅が涙を流していた。それでも半助は首を振る。
「やめられるわけがない。だってこれが俺の役目なんだ。俺は、おまえたちを生かさなきゃいけない」
「いやだよ。私は半助がいないのに生きていたって意味がないんだ」
「いなくなどならない。ずっと側にいると約束した」
「嘘だ。先に死んでしまうくせに」
「死んだって、いなくなるわけじゃないだろ」
 半助の手から光が止み、色を取り戻した紅が起き上る。生が入れ替わったように、今度は半助が紅の腕の中に倒れこんだ。
 半助は清々しい顔で空を見つめていた。
「紅、雨が止んだよ」
 ならば半助の顔に滴るのは紅の涙だ。
「俺たちの婚姻が正式に認めてもらえたんだ。喜ぼうよ」
「喜べないよ」
「紅」半助はやわらかな笑みを見せ、目を閉じた。
「思えば、今というときは凄く良い時なんじゃないかな」
「良くなんかない。何云ってる。人間に棲家を奪われ住むところもないというのに」
「だけど戦はない」
「戦がなくても、人の心が腐ってる」
「ちがうよ。怠けているだけさ。きっとよくなる」
「ならないよ。人間なんて救いようがない」
「ほんとうにそう思ってるのなら、おまえは人間を助けたりしないだろ」
「もう助けない。もう役目も何もかもどうでもいい。半助といたい」
「いられるよ。俺もおまえといたいもの」
「でも、死ぬんじゃないか。半助は」
「死ぬだろう。生きているものはいずれかならず死ぬ。だが死の先に続きがある」
「でも見えなきゃいやだ。触れられなきゃやだ。話して、喧嘩して、一緒にごはんを食べたり酒を呑んだりできなきゃいやだ」
 目を閉じた半助の瞼の隙間から、雫がこぼれる。
「楽しかったな」
「うん」
「小袖を着て走り回っていたあの頃から、今この時まで。長い年月だったはずなのに、楽しかったことはすべて思いだせるよ」
「私だって、忘れたことはない。一緒に餅米を盗んできて餅をついたり、人間をばかして笑いあったり、風にのって海を渡ったり、一緒に食べた魚の味だって忘れてない」
「餅をついたらからまって大変なことになったよな。人間をからかうなと母上にこっぴどく叱られもした。おまえの風は最高だった。おまえがいなければ、俺は広い海を見ることもなかったろう。魚の味は忘れてしまったけれど、その魚を食べる嬉しそうなおまえの顔は覚えている。だって俺は、魚よりおまえのことばかり見ていた」
 半助が微かにほほ笑む。また雫が一つこぼれた。
「おまえが愛しくて愛しくて、困ったよ」
「半助。死なないで」
「死にたくない。こんなに生きてもまだ、死にたくないんだな」
 
――でも、これは寿命なんだ。

「ひとに与えて欲しくなかった。本当は、ずっと。自分のためだけに生きてほしかったよ。そうしたらもっと長く、一緒にいられたのに」
「それは慰みにはなるが、一緒にいることに長さは必要のないものだよ。たとえ短い時でも、たくさんこめればいいんだよ。でも紅に与えた愛は、まだ足りなかったかな」
 紅は首を振った。涙がキラキラと日の光に輝きながら散ってゆく。
「充分だ。だけど、淋しいんだよ」
「信じてくれ紅。俺は、約束を守るから」
「側にいてくれるのか」
「いる。ずっと一緒だ」
「私が死んだときにはまたこうして顔を合わせられるかな」
「もちろんだよ。だからもう泣くのはよそう。俺は、たとえ石になってもおまえのことを思い続ける。念ずる力はきっと何よりも強いはずだ」
「半助――」
 紅はそっと半助の唇に顔を寄せた。
 波が静かにひいていくように、周囲の世界が変わっていた。
 紅と半助は御神木の前にいて、その命を終えた半助の胸から光の玉が浮いて現れた。
 だがその玉は光を弱め、ついには灰色の石と化して紅の掌の上に落ちてきた。
 紅は驚きと悲しみに顔を歪めて御神木を見上げた。
「何故なのですか」
 紅は立ち上がり、御神木に額をつけて泣き叫んだ。
「何故、石になるんですか。鵺は去ったはずなのに――」
 紅は忘れてしまっているのだろうか。
 あの廃墟と化した場所からすでに魂の石化が始まっていたことを。
 鵺は消えても、鵺の種は消滅することなくまだ時流の中にはびこっているのだ。
 それが希望を絶望へと変えてしまっている。
「奪われた時を取り返さなきゃ」
 奪われた時を取り返さなくてはならないのだ。
「鵺はもういない。そんなの無理だ。半助の命は取り返さない。もう、無理だよ。おしまいだ」
 もう二度と、半助には会えないんだ……。

 
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